「シズコさん」2012年09月08日 10時40分00秒

この8月は、スイカと枝豆を毎日山ほど食べながら、母親の話相手・テレビメイト(テレビをいっしょに見る人)をつとめ、できるだけ母の関心のある話と活動をいっしょに楽しんだ(料理、時代劇、昔話など)。私はテレビドラマの登場人物の関係や粗筋を読み取るのはあまり得意ではないのだが、それでも、水戸黄門や鬼平犯科帳はなんとかこなすことができ、耳が少し遠くなった母に時々ストーリーの補足的解説をした。テレビドラマは、老人の認知症防止に案外役立つようである(テレビ業界には、耳の遠くなった老人たちのために、水戸黄門や鬼平犯科帳などの昔の時代劇に、字幕をつけていただきたいと要望したいものである)。

母親と私(たち娘たちは)はひどく親しい。子供の頃から今までずっと。だからいっしょにいるときは、親しいゆえの苦痛、親しすぎるゆえの苦痛、もっと親しくなろうとするゆえの苦痛が時々お互いをおそう。

娘にとって、母とは何なのか? 母にとって、娘とは何なのか?

最近は、娘の立場から母親との葛藤・確執を告白したような母娘ジャンルの本がよく出版されるようになったが、そんなジャンルの本である「シズコさん」(佐野洋子著 新潮社)を紹介してみよう。

「シズコさん」は、著名な絵本作家が、自分の母親との確執と和解に、自分の生い立ちをおりまぜて語ったような本だ。著者の母であるシズコさんは、戦争の頃に子供を亡くし、さらに中年の頃に夫を亡くし、そのあと残された4人の子供たちを一人で育て上げ、しかも家事全般に有能で、晩年は習い事に励み、まあ、いってみれば、「スーパーかあさん」のような人だった。

ところが、そんな母親を著者は長い間、嫌い、しかも、母親を嫌っている自分に罪悪感を感じて、二重に苦しんでいた。「シズコさん」の中に、何度も何度も、母親への嫌悪感と自分の罪悪感が告白されている。

世の中には、いろいろなタイプの母親がいる。一人一人の母親がユニークで、その母親から生まれてくる娘も一人一人ユニークで、したがって、世の中には無数の母娘関係の組み合わせがある。

共通していることは、どんな母娘もお互いを愛し合い、同時にお互いを嫌い合うこと(時期)もあるということだ。
それはなぜかといえば――娘と母親の間には、ある種の微妙なライバル心があり、それはいわゆる「女友達の原型」のようなものである。

娘にとっては、母親は、「女として生きるとはどういうことか」を最初に教えてくれる人であり、娘は、母親の中に自分の将来を無意識のうちに重ね合わせる――お母さんのように生きたいとか、お母さんのようには生きたくないとか、お母さんのように○○ができるようになりたいとか、お母さんと同じくらい幸福になりたいとか、お母さんよりも幸福になりたいとか、お母さんのように不幸になりたくないとか。娘というのは、子供の頃から母親を基準に、自分の将来の幸福について考えるものであり、娘ほど自分の母親を真剣に愛情深く、かつ辛らつに観察する人はいない。

では一方母親にとっては、娘は何かといえば、やはり自分の幸福と不幸を投影する対象であり、娘には自分のように生きてほしいとか、自分は○○だったから、娘には○○に生きてほしいとか、○○のような結婚をしてほしいとか、○○のような結婚はしてほしくないとか、まるで娘が第二の自分自身であるかのように、娘の将来をコントロールしようとするのである。

かくして、お互いに家庭の外では誉められるような、よい母親、よい娘であっても、家庭の中では、愛情とコントロール願望とライバル心がせめぎあって、母親と娘の間にはある種の戦争が起こる場合がしばしばである。

母娘だけでなく、親子は他の誰よりもお互いに愛し合いたいという切ないほどの願いがある。それにもかかわらず、その願いがなかなか実現せずに、確執があちらこちらで起こるのは、それは、「親は、○○であってほしい」「子供は、○○であってほしい」というテンコモリの期待や投影や観念を通じて、お互いを眺めるからである。
自分の狭い観念から見たお互いのある面が「好きだ」とか「嫌いだ」とか思うことは、自分が相手に投影したイメージを「好きだ」とか「嫌いだ」と言っているにすぎず、そのときは相手の多面的なありのままの姿を見ていないことになる。

娘の立場である人たちは、「母親が好きだ」とか「母親が嫌いだ」という話をよくするわけであるが、その実際は「好きだ」と思っている人でさえ、母親を嫌いなときはあるものだし、反対に「嫌い」だと思っている人でさえ、母親が好きなときはあるというのが、正確なところだ。嫌いな母親、好きな母親という多面的な母親を見ていくとき、それは同時に娘である自分自身をも多面的に見ることにもなり、「母親が好きだ」と思っているにしろ、「母親が嫌いだ」だと思っているにしろ、自分の中にひどく母親に似ている面を発見し、驚くことになる。

シズコさんの娘である著者は、「嫌い」という感情に執着し続け、老いて心が壊れていく母親を、自分の老後のために貯めたお金をつぎ込んで高級介護施設に入れて、自分の罪悪感を慰めようとするのだが、それでもなかなか心が晴れない。

最後になってやっと、「強い母親」ではない別の母親の面を見ることができて、今まで、自分が母親の一面しか見ていないことに気づき、母親との確執が消え、和解が起こったのである。推測するに和解が起こったからこそ、著者は本書を母親のためにも書いたのであろうと思う。

和解が起きて、双方が年齢を重ねてまるくなっていけば、母娘は、お互いに足りないところを助けあえる最強&最愛の友人となることができる。そしてそのときの母娘関係の苦痛とは、最強&最愛ゆえの代償である。

その他参考図書

「母が重くてたまらない」信田さよ子著(春秋社)
長年、母親のことで悩む娘たちの相談にのってきた臨床心理士が、どこまでも娘を追いかけてくる母(笑)の傾向と対策を語った本



「結婚」40年目の日中夫婦関係2012年09月25日 13時27分30秒

日本と中国の国交化40周年の節目の時期に、両国の関係が大荒れしている。人間に例えれば、結婚40周年に、夫婦が大ゲンカをしているようなものだ。

日中夫婦は価値観や文化・感性が非常に異なる者同士の「結婚」で、普段もとりわけ仲がいいわけではないが、それでも過去40年間、経済的にはお互いを支え合い、お互いの経済的繁栄に寄与し、今では相手なくしてはほとんど生活できないほど密接な夫婦となっている。

その証拠が日本にあふれる中国製品と中国にあふれる日本製品である。つまり、経済的には非常に深くお互いが相手国へ浸透してしまったということである。

ところが、それ自身一つのシステムである国家は、本当は他国の文化や製品が自国システムに侵入というか浸透することは、システムの独自性を維持するという観点から見れば、あまり好ましいことではない。過度に影響を受け続けると、自国システムが分解・崩壊する危機があり、だから、国家間は親しくなりすぎないように、時々、問題が起きるようになっているのである。

問題が起きると両国の国家主義的意識が目覚め、「私たちは本当は、絶対的に違う存在であり、私たちは絶対にあなた色には染まりませんから」と、お互いの分離と独自性を相手に宣言せざるをえないのである。

これは恋人や夫婦、親子のような人間関係にもよくある話で、お互いが親しくなって、もっと親しくなろうとするときに、何かの問題や不和や諍いが起きて、「自分と相手は本当は全然違う存在であり、お互いに理解しがたい」ということをイヤというほど知らされることがよくある。それも人間システムが自己システムを守るためのある種の免疫機能のようなもので、だから親しい関係には「苦痛」がともなうのである。

システムは絶対に他のシステムとは一つにならないというか、なれないのであり、私たちのまわりにある机、椅子、パソコン、プリンターなどの物システムや様々な人間システムが決して現象的には一つにはなれず、一つになれないゆえに、システムとして独自に機能しているように、人間システムも国家システムも他人や他国とは決して一つにはなれないのである。

それを無理やりやろうとすれれば、その時に起こるのは「衝突」であり、人間マシンが机にぶつかれば、苦痛を感じるように、国家間システムもあまりに近づきすぎ、浸透しすぎれば、それは「苦痛」となる。

二国間の関係においては、経済的に貧しく不自由な国のほうが、経済的に豊かで自由な国の影響をより大きく受けるのが原則である。日本と中国の場合、中国が日本に与えてきた影響よりも、日本が中国に与えてきた影響のほうがはるかに大きいゆえに、二国間に何か問題が起きれば、中国の人たちのほうがその苦痛に過剰に反応するのは当然のことである。今回の中国での反日暴動は、「まだ日本が中国よりも経済的にはるかに豊かで有利な立場にいる」ことを、はからずも証明したというわけである(今から数十年後には、立場逆転ということもありえるかもしれないが)。

そしてパソコンのシステム同様に、国家システムは何らかの脆弱性を抱えるのが常である。現在の中国システムの脆弱さは、システム内部に経済的繁栄に見合う活動・表現の自由がないことと、途方もない経済的格差が存在することであり、日本システムの脆弱さは、システムの老朽化、つまり「老い」である。

日本と中国の軋轢は、「相手のシステムが浸透しすぎました」という免疫機能からの警告のようなものであり、お互いのシステムが自らの脆弱さを認識したということである。しかしどれだけケンカしても、日中夫婦は、離婚は無理だろうから、「仲良し」の時期と免疫機能による疑似「戦争」期を繰り返しながら、これからも末永く経済的結婚を続けることであろう。

日本ではまた政治スポーツの季節が始まろうとしているが、こういう時期にふさわしい指導者は、軍人系で日本の国家免疫部長のような石破さん(自民党総裁候補)あたりだろうか……