IT 時代の憂鬱2014年07月15日 09時02分07秒

先日、はじめてタブレット・パソコンを購入した。十五年ほど前、最初にノート・パソコンを買ったときに比べて、五分の一以下の値段で、しかも高性能。値段と性能は反比例するというIT業界の法則を思い出した。
 
買ってまず最初にやったことは、タブレットにたくさん入っているショッピング・サイトの広告を削除することだ。新しいOSになってから、やたらショッピングサイトの広告がパソコンやタブレットにたくさん入っている。うっとうしいけれど、こうやってパソコン・メーカーは広告費を稼いで、機械本体の安さを補うんだなあと理解した。

私が今回驚愕したことは、ネットに最初に接続したときのこと――真新しいタブレットだというのに、なぜか私の別のパソコンの「お気に入り」情報が「すでに」タブレットに入っている。わけがわからず、しばらく考えてそのからくりを推測した。

頼んだ覚えもないのに(いや、私はどこかで知らずに同意ボタンをクリックしてしまったのだろうか?)M社のどこかに保存されていたらしい私の別のパソコンの「お気に入り」情報が、タブレットに自動的にダウンロードされてきたということらしい。手作業でやる仕事をやってくれたという意味では、M社からしてみれば、親切なのだろうけど、個人のパソコン内の情報を勝手に集められるのは気分のいいことではない。IT機器をネットにつないだとたん、機械と機械内の情報はもはや個人が管理するものではなく、IT産業の管理化に置かれる時代となりつつある。

現代では、巨大IT企業の個人情報収集への意欲というか情熱は、もはや「強欲」と呼べるレベルに達していると感じることがよくある。彼らがそこまで個人情報を欲望するのは、彼らが個人一人一人に関心があるからではなく、「ビッグデータ」と呼ばれている、人々の好み、関心、消費傾向などの個人情報の大量の蓄積が、お金になることをよく知っているからだ。それに加えて、これからの時代は情報を集め分析するパワーが、世界を支配するパワーであることもよく知っている。私が感じるに、最近のIT機器の仕様自体が、いかにそういった特定の巨大IT企業に「個人情報を献上する」かという観点と意志で造られているようである。
 
アメリカの刑事ドラマを見ていると、警察が関係者の個人情報に簡単にアクセスできることがわかる。顔写真、家族関係、就職履歴、クレジット情報、ローン情報、そして銀行でのお金の出し入れ、送金先、入金先など。個人情報保護など全く無関係で、(アメリカの)権力の側の人たちは国民を情報的に丸裸にできることがわかる。少し前に、そのアメリカの国家権力の情報収集の実態が暴露されて、ネット上で話題になったけれど、高度の監視社会という点では、アメリカと北朝鮮はソウルメイト同士である――違いは、監視の方法がアメリカはハイテクで洗練されていて、北朝鮮はローテクで古くさいというだけである。

IT(情報技術)は確かに便利である。が、便利さの裏側にはいつも多くのリスクと憂鬱がある。最先端IT技術によって個人情報を大量に収集する社会のリスクと憂鬱とは、それは必然的に、高度の管理&監視社会になる可能性が高いということである。おそらくそれは今読んでいるSF小説「ハーモニー」(伊藤計劃著 早川書房)に描かれる近未来のようになるだろうと予想される。

その社会では、生府(この社会は「政府」ではなく、「生府」と呼ばれている)のサーバーとつながっているWatchMe(私を監視して)というソフトを全員が体内に入れることで、病気がほとんどなく、肥満の問題もなく、人々はほぼ全員健康的な体をしている。人々はお互いに親切で人を気遣い前向きで、社会は優しさに満ちている。体はもはや個人のものではなく、生府が完全に管理し、タバコ、お酒など体に有害なものはすべて禁じられている超健康志向でハーモニー(調和)な社会。物語は、そんな社会に反逆して、自分の体への権利とそれを傷つけたり、殺したりする権利を主張する少女たちが主人公である。「ハーモニー」はなかなか予言的な小説である。(著者は日本SF界に彗星のごとく出現し、わずかな作品 を残して、三十代で病気で亡くなられたそうである)。

これから普及が予想される眼鏡型や時計型のIT端末の出現は、まさに個人体内情報をIT企業と政府が管理する社会の始まりであろう。まあ私は、本質的には「個人」はいないという教えの信者だし、「好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる人、あらゆるものがこの波動する虚空からできている。読者の思考プロセスはひろがってすべての創造物に作用する。そこではプライバシーなどというものはないし、この時点でもう不平を鳴らしてもおそすぎる」(イツアク・ベントフ著「超意識界探訪」日本教文社)ということらしいので、最終的には個人情報もどうでもいいけど、それでも、IT利用の便利さとその裏側のリスクと憂鬱のバランスはいつも考えさせられることである。
 
 [イベント]

*2014年7月21日(月曜日─祝日)午後「私とは本当に何かを見る会」(東京)
*2014年7月27日(日曜日)午後「私とは本当に何かを見る会」(東京) 




グル(先生)-弟子(生徒)関係の苦痛2014年07月30日 07時10分19秒

暑中お見舞い申し上げます。

スピリチュアルな探求において、グル(先生)がほしいと思っている人たちはけっこう多くいるように感じる。それは逆から言えば、誰かの弟子(生徒)になりたいという願望である。インドの霊的伝統などでは、 グル-弟子の美しい関係はよく語られるところだが、私が見てきたところによれば、実際はスピリチュアルな場において、グル(先生)-弟子(生徒)の関係は苦痛な結末のほうがはるかに多い。

今回、なぜグル(先生)-弟子(生徒)関係について突然書こうと思いたったのかというと、先日、私の会でバイロン・ケイティのワークについて話をするにあたって、ネットで彼女の活動の最新情報を調べていたとき、奇妙な記事に出会ったからだ。それは「Byron Katie & Janaki」 というタイトルの90ページあまりにわたるPDF版の記事(英語)で、Janakiという女性が、自分とバイロン・ケイティとの12年にわたる個人的関係を報告というか暴露した記事である。

Janakiという女性はバイロン・ケイティに出会い、彼女に「恋に落ちて」、彼女の活動の無給スタッフになり、やがて有給スタッフになり、さらには会社まで立ち上げて、彼女のセミナーを販売する活動に奔走する。その一方、関係の当初からバイロン・ケイティの言葉に時々疑問を感じたり、傷ついたりすることも多々起こり、さらには自分の夫が作曲した音楽をバイロン・ケイティがセミナーで使ったり、そのCDを販売したりしても、印税を払ってもらえず、印税を要求したら、「強欲」と非難された話、さらにはバイロン・ケイティは「1986年の目覚め以来、私は一度も怒ったことがない」と公言しているにもかかわらず、彼女は時々バイロン・ケイティが苛立ったり、怒ったりしているのを目撃した話、あるいはバイロン・ケイティは「自分はスピリチュアルな本を一度も読んだことがなく、ワークはまったくのオリジナルである」 と言っているにもかかわらず、実際は彼女は「奇跡のコース」 やその他のスピリチュアルな本を読んだことがあるはずだという昔の友人や元夫の言葉の引用などなど、そういった12年にわたって自分とバイロン・ケイティとの間に起こった出来事の詳細が書き連ねられている。

結末は、彼女とバイロン・ケイティとの間の齟齬が広がり、2008年に突然彼女はバイロン・ケイティの団体から名前の登録をはずされ、そのせいで、彼女はお客の85%を失う羽目になったということである。

この記事は、芸能週刊誌でたまに見かける暴露記事のレベルであるのだが、同時にスピリチュアル系グルが有名になり、その組織が拡大し、人とお金がたくさん入ってくるときに、どういう問題が起こりうるのか、そして、人間のマインドがグルをアイドル(偶像)化し、その称賛と非難を繰り返すこと、そして、グル-弟子関係の苦痛についても多くを報告している。

しかし、そういったことよりも、私がこの記事を読んで一番驚いたことは、この女性が長年、バイロン・ケイティのかたわらで仕事をし、自分でもワークを教え、セミナーを販売したりしていたにもかかわらず、二人の関係の問題に関して、ワークがまったく役立っていないようだということだ。この記事を書いた時点で、彼女はまだ関係の傷を抱えたままである。彼女は最初から自分はグル(この場合はバイロン・ケイティ)の愛情や承認が欲しくて、それが活動に奔走する動機だったと正直に認めてはいるが、そいういった承認欲求がこの記事を書いた時点でさえ、まだ手放せていないのも驚きである。こういう形で世間に自分の思いを公表することで、バイロン・ケイティとの関係に求めて満たされなかったその承認を世間に求めているような感じする。(承認欲求を手放すためには、バイロン・ケイティのワークよりも、セドナ・メソッドのほうがJanakiさんには向いているのでは? と思ったものだ)。

想像するに、二人は人間的にお互いを非常に好きだった、つまり、非常に気が合う女友達のようであったことも読み取れ、だからなおさら、この記事は少々切ない。彼女は自分はバイロン・ケイティを今でも愛しているし、感謝もしていると書いているが、もし本当にスピリチュアル的な意味での愛と感謝が起こっているなら、こんな記事を書いてはいないだろうというのが私の率直な感想である。

私自身は、バイロン・ケイティにはいい印象をもっているし(一度だけセミナーに参加して、ほんの数分お話したことがある)、ワークについても高く評価しているし、こういう記事を読んだあとでも、彼女とワークについての私の評価は変わることはない。ただ、バイロン・ケイティも含めて、スピリチュアルなグル、先生、賢者でさえ、時には愚かしく、たくさんの間違いを犯すこともこの記事は教えてくれ、そして、スピリチュアルな組織が大きくなるとき、共通して抱える問題も描写している。つまり、本質的なことがどうでもよくなって、些末なこと(お金、名声、組織の拡大、グルの愛情)が重要になり、組織内部はその些末なことを防衛しようとしたり、それをめぐって争うようになってくるということである。
 
それから、私がもう一つ驚いたことは、このJanaki という女性が、バイロン・ケイティとの関係のかなり初めの頃から、 バイロン・ケイティの言葉に傷つき、色々と疑問を感じているにもかかわらず、12年も関係を続けたことだ。疑問があるということは、信頼がないということであり、信頼がなければ、どんなワークも仕事も苦痛であり、うまくはいかないのは当然であろう。

スピリチュアル系の団体や人(たち)と関わるときに、私がしだいに学んだことは、仮にどれほどワークがいいものでも、その人(たち)が言っていることが素晴らしいことであっても、その人や組織に疑問を感じたら、さっさと縁を切ったほうがトラブルを招かないということである。そのとき、自分の疑問、考えや感じが正しいのか間違っているのかはどうでもいいことで、疑問を感じる(つまり、信頼がない)こと自体、いかなる理由でも、自分とそこ(その人)が合っていないという意味だと理解した。この考えはおおむねうまくいったと思っている。

私に関して言えば、特定の誰かの弟子(生徒)には絶対にならない(なれない)と思っていたにもかかわらず、いつのまにか「非二元系の教えの弟子」のようになってしまったのは不思議なことである。そして、「弟子である」ということについて感じることは、「非二元系の教えの弟子」であることさえも、特定のグルの弟子であるほどではないとしても、ある意味では困難や苦痛はたくさんあるということである。それはたぶん、前にも書いたことがあるけれど、非二元系の教えは、マインドの傾向と願望に反してるからだ。ダグラス・ハーディング自身、常々こう言っていた。「私とは何かを見ることは簡単である。しかし、それを生きることは非常に難しい。だからそれを生きることが『修行』である
 
そのダグラスの言葉どおり、バイロン・ケイティと Janakiにしても、自分たちの教えを生きることが時には難しかったようだし、そういった困難は非二元の教えに本気で突き進もうとするほとんどの人に待受けているものである――でも、誰がかまうもんか!?…… ですかね。

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