今年読んだ本から ― 2014年09月06日 09時29分47秒
1「反省させると犯罪者になります」岡本茂樹著 新潮社
なかなか刺激的なタイトルと革新的な内容の本である。なぜ反省させると犯罪者になるのか? たとえば、子供が他人にイタズラをしたり、万引きしたりしたとき、大人はたいてい子供にしっかりと反省させる。そのとき心では納得できないまま、子供が状況を早く切り抜けるために見かけ反省したふりをしたり、立派な反省文を書いたりすると、その子供はあとでもっと重大な犯罪を犯すことが多いという。あるいは、刑務所で「反省がうまい」人は再犯を繰り返すという。
なぜかと言えば、筆者の考えによれば、どれだけ反省したふりをしても、加害者(犯罪者)の心が満たされないかぎり、彼らは再び犯罪への道を歩いてしまうからだ。加害者は自分が幸福になって初めて罪の重さを感じ、被害者の苦しみを思うことができると、筆者は述べている。そのためには、誰かが加害者の心によりそい、彼らの話を聞き、彼らとのつがなりを築くというような更生メソッドが効果的だという。
教育関係者、親には非常にお勧めな本であるが、ただ「加害者(犯罪者)が幸福にならなければ、更正はない」というレベルの高い話は多くの人には理解が困難かもしれない。
この夏、女子高校生 が親しい同級生の女友達を殺したという事件を聞いたとき、本書に書いてあることを改めて思い起こしたものだ。報道によれば、その女子高校生 は小学校のときに同級生へのイタズラを繰り返したという。想像するに、その子もそのつどしっかりと反省させられたのだろ。そして、もっと重大な犯罪を犯す犯罪者への道を歩いてしまった……
2「重力とは何か」大栗博司著 幻冬舎
アインシュタインも含めて重力の謎に取りつかれた科学者は多い。アインシュタインの発見によれば、重力は「時-空のゆがみ」によって生じる。であれば、手にもっている物を落として、物が自然に床に向かって落下するときだって、そこに「時-空のゆがみ」が生じているわけである。私が時々ペンや消しゴムを床に落として、「時空のゆがみ」について実験をするとき、そこには人間の理性ではとうてい理解できないことが起こっていると思うと、不思議感がわくものである。
本書では、重力研究の最前線を素人にもわかるように説明している。なかでも私の興味をひいたのは、「三次元の空間のある領域で起こる重力現象は、すべてその空間の果てにに設置されているスクリーンに投影されて、スクリーン上の二次元の現象として理解することができる」という「重力のホログラフィー原理」である。著者は、それをさらに次にように説明する。「私たちは縦・横・高さという三つの情報で決まる三次元空間を現実のものだと感じていますが、ホログラフィー原理の立場から見れば、それはホログラムを立体だと感じるのと同じことにすぎません。空間の果てにある二次元の平面で起きていることを三次元空間で起きているように幻想しているのです」。
この説明は、空間に関するダグラス・ハーディングの説明に似ているところがある。ラメッシが「意識が語る」(仮称)の本の中で言っているように、「最近、科学はかなりいい線をいっている」。
3「帰ってきたヒトラー(上・下)」ティムール・ヴェルメシュ著 河出書房新社
3「帰ってきたヒトラー(上・下)」ティムール・ヴェルメシュ著 河出書房新社
2011年8月にヒトラーが突然ベルリンで目覚める。彼は自殺したことを覚えていず、ヒトラーとして振る舞うが、まわりはヒトラーのそっくりさんが出現したと思い、テレビ局に新しいお笑い芸人として売り込むことを思いつく。西洋では、ヒトラーは20世紀の悪の代名詞である。しかし、本書を読めば、ヒトラーは強烈な使命感に取り付かれた人であったかもしれないが、悪の怪物ではないことがわかるし、また彼が現代のドイツ社会に向ける言葉に共感できるところもある。本書は映画化されるという話を聞いたが、すぐれた監督による良質なユーモア映画を期待したいところだ。
4「わかっちゃった人たち――悟りについて普通の7人の人が語ったこと」サリー・ボンジャース著
ブイツーソリューション
悟りは自然で普通であることを、普通の市民たちが自分の飾らない言葉で語った本。「悟りは何か崇高なこと」という思い込み(幻想)が捨てられず、「崇高なこと」やハイな境地を探し求めて疲れている探求者の皆様にお勧めしたい。
本書の内容とは全然関係ない話であるが、本書の訳者の方がブログで、本書の翻訳で「金儲けしている」と批判された話について書かれていた。彼が反論しているとおり、マイナーな分野の本の翻訳の仕事は、厳密に時給で計算すれば、日本の平均的アルバイトの平均的時給くらいである。でもそれに従事しているほとんどの人たちは、それでも別にかまわないから、やっているわけである。もちろん私にしても、そしておそらく本書の翻訳者の方にしても、「翻訳で金儲けすることが嫌い」、なわけではない--もしその金儲けが自然に可能ならば。翻訳した本が数十万部も売れて、「翻訳で金儲けしていますね」って言われる日が来ることをI hope(笑)
[イベント]
ラメッシの教え――自由意志と運命 ― 2014年09月27日 09時31分53秒
ラメッシのConsciousness Speaks の本も、ようやく編集・校正がほぼ終わり、あとは出版を待つだけとなった――現時点ではまだ、正式な出版期日、定価、正式タイトルが未定です。
5月に「ラメッシと親鸞(1)」を書いて、本当は続きを書く予定だったのだが、親鸞との関連で何を書こうと思っていたのか、よく思い出せないので、「ラメッシと親鸞(2)」は中止し、代わりにラメッシの教えの中で、よく質問される「自由意志と運命」の問題について、本日は書いてみたい
多くの人たちは、ラメッシの言う「個人の自由意志がない」という考えに抵抗感を感じるようで、その気持ちは私にもよくわかる。なぜなら、二十代、三十代、私は自分の自由意志を何よりも信仰していたからだ。「誰かの意志ではなく、私の自由な意志」――それが私の人生のモットーだった。私は、親も含めて他人の意志の押しつけを何より嫌ったし、自分が納得できないかぎり、誰の言うことも一切信じなかった――そういうプログラミング自体は、今もそれほど変わっていない。
最初にラメッシの本を読んだとき(最初に読んだ本が今回出版される本です)、私が衝撃を受け、そして理解したことは、「自分の自由意志を信じるかぎり、結果への心配が増し、それゆえ、責任から来るストレスも増す」ということだった。さらに、もし自分の自由意志による選択の結果が好ましいものなら、プライドが増し、結果が好ましくないなら、罪悪感が増すということでもある。それから、自分の自由意志を信じれば、当然、自分以外のすべての人間にも自由意志があるという想定が成り立ち、もし誰かが「私の意志に反した」ことをしたり、自分から見たら愚かしいことをしたとすれば、当然そこに憎しみや怒りや軽蔑が生まれるということである。
だから、すぐに私は、もし自分が現象的に求める究極のものが、「心の平和」であるなら、「起こるすべては神の意志」、これを受け入れるしかないということを確信した。
しかし、ラメッシの「起こるすべては神の意志」についての重要なポイントは、「個人の自由意志はなく、起こるすべては神の意志」を受け入れたからといって、見かけの自由意志を行使できないわけではない、ということである。つまり、私たちが何かをすることを禁じられるわけでも、何かをやめるように強制されるわけでもなく、反対に何もしないで生きることが許されるわけでもなく、日常生活はまったく変わらない、ということだ――仕事がある人は仕事をし、家庭や家族がある人は家庭生活を営み、家族の面倒を見、独身の人は独身を楽しみ、趣味がある人は趣味を楽しみ、瞑想などの霊的修行をしている人は霊的修行を継続し、読書が好きな人は読書をし、テレビが好きな人はテレビを見、酒・タバコが好きな人はそれらを楽しむといった平凡で平和な日々。
今の生活で特に深刻な問題がない人たちは、たいていこの説明に少なくとも知的には納得するものだが、現在自分か自分の身近な人が大変な問題や苦境を抱えている人の中で、「ラメッシはすべては神の意志で、あらかじめ決められていると言うが、現在の状況を改善するために、自分の運命を変えるために、私が何かをやってはいけないのでしょうか?何かやることはできないのでしょうか?」と尋ねる方がいる。
もちろん、その答えは、「何でも自分がやりたいと思うことをすればいいけど、結果は誰の手中にもない」ということだ。もし人が「私は自分の運命を変えることができる」と信じて、それにもとづいて何かを変えようとするなら、そういった信仰だって、神の意志によって起こっているわけで、それさえもOKということである。だから、状況に対して何かをやろうと思い、実際に実行するなら、それも神の意志、しかし、状況改善のためにやることは、うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれないが、結果は「神のみぞ知る」である。
大変な苦境とかそういう重大なレベルではなく、ごく日常的なことで、誰にでも「もし私が――すれば、――に役立つだろう」と信じていることはたくさんあるはずだ。たとえば、何か体調がすぐれなくて、健康のために何かをやろうと思いたち、「もしこれをやれば(食べれば)、これは私の健康に役立つだろう」という思考がわき、それを信じて、実践するとしよう。ラメッシの教えで言えば、「体調が悪いのも、神の意志」「それに対して何かをやろうという思考がわくのも、神の意志」「その思考を信じて、実践するのも、神の意志」「結果が良くても、神の意志」「結果がでなくても、神の意志」、とこういうことになる。
シンプル堂と呼ばれている肉体精神機構も、心身に関しては、「もし――すれば、それは――に役立つだろう」という思考をたくさん信じていて、実践していることはたくさんある。たとえば、甘酒入りヨーグルトを毎日食べるとか、語学の勉強のために、海外の子供向けアニメを毎日数十分間見るとか、朝晩5分間運動するとか、そんなたわいもないことだ。つまり、シンプル堂と呼ばれている肉体精神機構がそういう思考を信じることが、神の意志で、実践していることが実際に役立つかどうかも神の意志である。経験から言えば、実践してきたことは、今までは役立ってきた事実があるが、将来にわたってずっと役立つのかどうか、あるいはそれを実践しつづけられるのかどうかは、誰にもわからない。
ということで、「すべては神の意志である」からといって、私たちが見かけの自由意志を行使できないわけでもなく、何を信じることも禁じられているわけでもない。「すべては神の意志である」を受け入れることによる唯一の違いは、未来を自分がコントロールできないという理解があれば、明日への心配が減り、今ここにより集中して生きることができるようになる、というだけのことである。ラメッシは、「明日のことを心配するな」(キリストの言葉)と「額に汗して働く」が合体されて生きることの重要性を、よく強調する。
考えてみると、ラメッシの教えのたどり着くところは、驚くほどシンプルで、ある意味で平凡だ。
「何でも好きなことをしなさい。その結果起こることは、あるときはよいことで、あるときは悪いことであるが、誰も結果をコントロールすることはできない。すべては神の意志に従っている」とか、
「明日のことを心配しないで、額に汗して働きなさい」とか、
平凡すぎて、私たちのマインドにはまったくアピールしない。が、もしラメッシの教えの正しい理解が起これば、彼が「霊性の基本は罪悪感や重荷ではありません。霊性の基本はくつろいだ自由です」と言うとおり、罪悪感、憎しみ、嫉妬、プライド、そして未来への不安が減り、代わりに自由感がわき上がるのである。その自由感はうまく言葉では説明できないが、何が起ころうと問題ではない、というような確信だろうか――ダグラス・ハーディングの教えの話の時にも書いたように、たとえ、胃痛がしようが、頭痛がしようが、怒りや悲しみが起ころうが、見かけの問題が起ころうが……エゴがどれだけ異議を叫ぼうが、私たちがどこで何をしていようが、あらゆる平凡な「今ここ」が到着地点である。
[イベント]
*2014年9月28日(日曜日)午後「私とは本当に何かを見る会」(東京)
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html
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