罪悪感の三段階(2)2011年08月02日 11時29分58秒

ようやく時間が取れるようなったので、「罪悪感の三段階」の続きを書いてみたい。

そもそも「罪悪感」という感情の起源は、どこにあるかということを考えてみると、実のところ、それは動物から人間に進化する過程で発達した高度の認識能力の副産物である、と私は思っている。その能力とは、「自意識と記憶と比較」である。

自意識=(人間としての)自分は人とは違うことに気づく能力
記憶=過去(自分の言ったこと・したこと)を覚えている能力
比較=何かと別の何かを比較する能力、現在と過去や未来を比較する能力。

「自意識と記憶と比較」の能力それ自身は、生活し、仕事をし、対人関係を築くうえでは、必要不可欠な能力であり、だから、「自意識と記憶と比較」の能力が高いことは、本当は喜ぶべきことなのである。

ところが、この高度の認識能力に、いわゆる「エゴ」がからみつくと、それが巨大な罪悪感を生み出す原因となる。そのメカニズムとはこんな感じだ。

たとえば自分と他人の違いを認識して、

「私は〇〇である・あなたは△△である」という事実があるとしよう。それは人としてお互いが何かにおいて、違っているという単純な事実の認識にすぎない。しかし、ここにエゴが入ってきて、もし自分のまわりがみんな「△△派」であれば、なんとなく、自分だけが「〇〇派」であることが、何か悪いことのように感じられてくる場合がある。小さいことから大きいことまで、自分と他人の違いの単純な認識にエゴがからむときに、比較が罪悪感を無意識のうちに生み出していくのである。

それから、私たちのエゴが自分に、ポジティブなイメージを与えるときも、罪悪感が発生しやすい。「私は善人である、親切である、頭がいい、仕事ができる、賢い、美しい、かわいい、ポジティブである」などの強い自己イメージがあるとき、自分の人生でその自己イメージに反することが起るとき、罪悪感が生じやすい――どうして自分はこんなに善人で、親切なのに(賢いのに、ポジティブなのに)、こんなひどいことが起こるのか、どうしてこんなヘマやミスをしてしまうのか、みたいな。

特に、日本人の場合は、文化的社会的条件付けとして、自分を「善人」(=よい隣人、よい妻・夫、よい友人、よい子供・親等)、「まわりとの和を乱さない人」だと思いたがる、というより、そうでなければいけないと思っている人たちが多い。「いい人」「善人」の自己イメージが強すぎると、自分が言ったこと、したこと、そして自分の存在そのものが、人を傷つけたのではないか、何か場違いのことをしたのではないかとか、いつもまわりの空気を気にしたり、過去をクヨクヨと考えこんだりするようになる。

もししつこい罪悪感に悩むときがあれば、おそらくは、その悩みの根幹に、「ポジティブな自己イメージ」への固執があるかもしれず、その処方箋の一つは、「もしかしたら自分って相当悪いやつ(否定的)なのかも(実際それがあらゆる人間関係の事実であろう――関係によっては、誰もが、ときには「悪い人、悪い親、悪い友人、悪い子供、悪い恋人、悪い妻・夫、悪い嫁・姑」になり、状況によっては否定的になる場合もある)と、自分の「悪」や否定性を認めて、「善人イメージ」や「ポジティブ・イメージ」を手放せば、あっさりと罪悪感が消えることもある(前にご紹介した様々なワークも役に立つだろうと思う)。ポジティブによせ、ネガティブにせよ、どんな自己イメージも、それは私たちの本質ではない。

このように罪悪感は、実に百害あって一利なしである(刑務所に入っている方々は、一度は罪悪感に目覚めたほうがいいとは思うが)。にもかかわらず、社会・文化全体を覆う罪悪感の罠というか網は非常に強力なものがあり、罪悪感は、嫌悪感同様にある種のトリックスター(イタズラもの)で、様々に形を変え、私たちの心の中に忍び込もうとする。私たちの多くがそれに無意識であり、だから、それを教えてくれるために、時々、自分がもっている罪悪感を鏡のように映す誰かが現れることは、不思議なことだが、経験的にも事実である。で、知るわけである。「ああ、私はこんなことに罪悪感をもっていたのだ」と。

最終的には、個人的行為者は誰もいない、起こったことすべては神(私の本質)の意志であると心から認識できれば、ラメッシ・バルセカールも言うように、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消え、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消えるとき、「すべてはあるがままで完璧」という「神の王国」に、自分が「すでに」住んでいることに気づくのだ。

ついでに言えば、罪悪感がなくて、たとえば、「私(たち)は絶対正しく、おまえ(たち)は絶対間違っている」というようなプライドだけが残ると、動物的意識状態となり、独裁ゴリラ国家、罪悪感のない犯罪者、そしてさらに、それにスピリチュアルがからむと、(90年代の日本を騒がせたような)カルト宗教が生まれる。プライドだけを残して、「神の意志」や「導師(グル)や教祖の意志」を信じると、スピリチュアルな活動は、非常に「あぶなく、あやしい方向」へ向かっていく可能性のあることを(イスラム原理主義はその象徴的代表である)、スピリチュアルを学んでいる人たちは、十分に心に留めておくべきであろう。

(観念的)まとめ
動物的意識―――罪悪感なし・プライドあり
人間的意識―――罪悪感あり・プライドあり
神的意識―――罪悪感なし・プライドなし