神マインドに目覚める(1) ― 2010年02月07日 18時26分15秒
今月、ラメッシ・バルセカールの本(「誰がかもうもんか!?――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え――本体価格2,500円+税 ISBN978-4-903821-66-5 C0010 ナチュラルスピリット発行」)が出版されるのに合わせて、昨年の人間マインドの話の続きで、「神マインドに目覚める」とはどういうことかについて、少し書いてみたい。
神マインドとは、One Mind (分離・分裂のない一なる心)ということで、インドのアドバイタ哲学でいうところのConsciousness (意識)と同じ意味である。
動物マインド・人間マインドの世界では、「私の肉体」と「あなたの肉体」、「私の考え」と「あなたの考え」、「私(主体)」と「私が見ている対象(客体)」は、すべて全然別ものであるという認識が基本である。人間界は、「私」対「あなた」という二元論にもとづいて構築されている。
動物マインド・人間マインドは、他人とは異なる個人的自分が拡大していくこと――つまり、「個人的自分の」達成・理解・創造・物理的領域が増えること、拡大することが喜びである――「私」がそれを達成しました、「私」がそれを理解しました、「私」がそれを創造しました、「私」の支配領域が拡大しました、「私」がそれを引き寄せました、等々思えるとき、人の自己(=エゴ)は拡大した喜びを感じる。(物質的世界での領域拡大に喜びを感じるのが、政治的マインドである))
人間界では、One Mind (分離・分裂のない一なる心)の中にお互いが他人とは異なる「自分のマインド領域」(=エゴ)を設定するせいで、それは当然他人のマインドとある種の対立・軋轢を生むことになる。また人間マインドと動物マインドの世界は、達成・理解・創造の能力が人それぞれで異なるので、限りなく不平等の世界である。「私」と「あなた」の見た目は、境遇、運、能力、外見、地位、その他諸々において異なり、そのことが劣等感・優越感・罪悪感を生む――それが、人間界の最大の苦しみの一つである。
しかし、神マインドの世界では、すべてが真逆になっていく。神の世界に目覚めるとは、個人的「自分」が限りなく縮小していくプロセスを体験していくことであり、何がどう起っても、一なるもの、神の意志、One Mind(本質的意識)の機能のせいであるという理解が始まっていくことである。
神マインドの世界では、自分が何かを達成・理解・創造した、あるいは何かに失敗したと、そうエゴ的には思えても、そう見えても、「一なるものの意志、神の意志で、それが起こりました」としか、本当は言うことができない。(日常的には、こういう言語の使い方はできないので、「私がそれをやりました、Aさんがそれをやりました、Bさんがそれをやりました」と表現せざるを得ない)
よって、神の世界には、完全なる平等がある。「私」と「あなた」の見た目がどれほどどう異なろうと、世俗の境遇がどう違おうと、本質は一つである。この世界のあらゆる人、生き物、無生物さえ、すべての本質は一つである。
人が自分だと思っている、すぐ真下に見える(ラメッシの用語を使えば)肉体・精神機構も、その他無数の肉体・精神機構(どんな極悪人やダメな人も賢者や聖人)も、さらにいえば、(天使や悪魔や守護霊やチャネリングのエンティティ、各種振り子等の)エネルギー情報体も、すべてはOne Mind、同じ意識でできている。
One Mind、意識の別名が、「私は在る――I AM」であり、その場合の「私」は「個人的人間的私」のことではなく、すべての存在に共通する「神なる私」である。よって、「私は在る――I AM」に目覚めることは、
ダグラス・ハーディングの言葉を借りれば、
「あらゆる存在に対して、私は心から言う。『ここでは、私はあなたです』」
実は、人間マインドは、タテマエでは平等と平和を愛するとは言うが、本当は平等も平和も好きではない―― 人間マインドは、「他人よりもほんの少し」でも、世の中でのいいポジションを得たいと思い、そのために奮闘することが喜びだ。この世のあらゆるものと一つ、あらゆるものと平等という事実は、人間マインドを決して喜ばせるものではない。
だから、神マインドの世界――「私は在る―I AM」に目覚めること(それは、決して訓練して達成するべきものではなく、すでにそうである事実に気づくためのものである)は、決して、個人が自分で望んで選んだわけではなく、ただ神の意志に導かれて、そっちのほうへ行かされてしまうのである。
ラメッシ・バルセカールの言葉を借りるなら、
「人のエゴは、自分が消滅の道を歩いているとも知らずに、霊的探求をしているのです。もしエゴがそれを知っていたなら、霊的探求を選ばなかったことでしょう。」
「もし人に選択の自由があるとすれば、悟りではなく、100万ドルを追求するように、私はお勧めします。なぜなら、100万ドルを得れば、それを楽しむ人がいるが、悟りを得ても、それを楽しむ人はいないからです。しかし、事の真実はといえば、人は人生で自分が何を追求するかを選択することはできないのです」
神マインドの世界――私自身の体験を語れば――「私は在る―I AM」に目覚めることは、それは何よりも自然で平和な感覚である。それは(あらゆる人間的思考や感情にもかかわらず)主体と対象が一つであるというシンプルな事実であって、信仰ではなく、あえていえば、純粋な第一人称の科学である。だから、別に他者との一体化感で、感情的に盛り上がるわけではない(たまに、そういう気持ちになるときもあるけれど)。
しかし、そのシンプルで奥深い神の世界の面白さに目覚めるつれて、私の中ではこれぞ本当の「科学研究」って感じが、最近ますますしてきている。
次回は、ラメッシの教えをもう少し詳しく説明してみよう。
*20世紀を代表するインドの聖者ラマナ・マハルシの言葉
(神の世界についての究極の理解を要約したものとして、よく引用される言葉)
創造もなく、破壊もない
誕生もなく、死もない
運命もなく、自由意志もない
いかなる道もなく、いかなる達成もない
神の世界に目覚めるための参考図書
* 「アイアムザット――私は在る」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット)
* 「あるがままに」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット)
* 「覚醒の炎」シュリ・プンジャジ(ナチュラルスピリット)
* 「ポケットの中のダイヤモンド」ガンガジ(徳間書店)
* 「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
* 「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
* J.クリシュナムルティ(たくさん出版されています)
* A Course in Miracles (奇跡のコース――日本語版未刊)
神マインドに目覚める(2)ラメッシ・バルセカールのユニークな教え ― 2010年02月21日 13時32分18秒
ラメッシ・バルセカール(Ramesh S.Balsekar 1917—2009)は、1917年にインドの中流家庭に生まれた。イギリス留学後、インド有数の銀行に勤め、最後は頭取になって手腕を発揮した。銀行を定年退職後、長年の関心だった「私とは何か?」を本格的に探求し始め、ほどなく同じ町に住むニサルガダッタ・マハラジに出会い、覚醒。以後、死ぬまで(昨年の9月に92歳で逝去)数十年間、ニサルガダッタ・マハラジの教えの継承者として、ムンバイの自宅や欧米で、真実の探求者にサットサン(「真実と交わる集まり」くらいの意味のアドバイタ哲学の用語)を行う。私生活では、ゴルフ等、スポーツの愛好家であり、よき父親、夫、祖父だった。(彼の生涯や英語の著書についての詳細は、次のサイトに掲載されています。http://www.advaita.org)
ラメッシ・バルセカールは、欧米では、「最後にたどりつく先生」という異名があり、その意味は、色々な先生、色々な修行の場をまわって、それでも満足できない人たちが最後に教えを請う先生という意味である。だから、彼は有名にはなったけれど、実際に彼に会いに行く人は、他のインドや欧米のカリスマ的導師たちに比べれば、それほど多くはない。
彼の自宅(ムンバイの一等地にある高級マンション)でのサットサンは、私が会いに行ったときで、参加者は毎日20人程度であった。彼の自宅でのサットサンに参加した人はたぶん、そのことを非常に幸運に感じたはずである。なぜなら、少人数なので、彼は、一人一人にとても親しく話してくださるからだ。一応場所がインドなので、彼を自分の導師だと思う弟子のような人たちはたくさんいるが、ラメッシの自宅は、インドによくありがちな、導師―弟子というガチガチした雰囲気が一切ない場所で、初めて来た人でも誰でも気軽にラメッシと話をすることができた。彼は、普通で上品でカジュアル(格式ばらない)という形容がピッタリな人だった。
ラメッシの教えの基本観念は、次の数行にまとめることができ、彼の話は、すべてその基本観念にもとづいている。
*存在するすべては、意識である。
*神の意志でなければ、何事も起らない。
*出来事は起こり、行為はなされるが、それに関する個々の行為者は誰もいない。
*「私は在る(I AM )」以外は、何も真実ではなく、私の言うことも含めて、どんな宗教の聖典、聖者、賢者、教師、学者、どんな人が語るどんな言葉も、真実ではなく、観念にすぎない。
だから、ラメッシの教えを理解するとき、何が起きても、よいことも悪いことも、「私のせいで(おかげで)、あるいは、某誰々のせいで(おかげで)――が起きた」とは、言えないのである。
すべてはただ一つなるもの、One Mind (それを神と呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが、意識と呼ぼうが、「それ」と呼ぼうが、Xと呼ぼうが、何でも名前はお好みであるが)の意志のせいであり、スピリチュアルな理解・成長から、日常的なことまで、すべてはその「一つなるもの」の意志が運営している。
そのことを理解すると、どういうことが起こるかというと、まさにラメッシの言うとおり、
プライド、罪悪感、憎しみ、妬みがなくなって、人生はシンプルで平和になる。
ただし、「シンプルで平和」とは、人生の苦痛がまったくなくなるという意味ではない。ラメッシは、ほとんどのスピリチャルな探求者たちが、苦痛のない境地(=「悟りとか涅槃」と呼ばれている境地)を求めていることをよく知っているので、自分の教えに期待させないように、しばしばこうも警告する。
「私の教えを理解したからといって、人生から苦痛はなくなりません。ただ、人生がシンプルで平和になるだけです」
私たちのエゴは、常に求め、結果を期待する――それが動物マインドと人間マインドの特性だ。しかし、神マインドの世界では、期待が最大の障害である。
当然エゴ的には、こう尋ねたくなる――行為者もなく、自由意志もなく、期待もなく、私は人生をどう生きたらいいのか?と。
こういった質問にラメッシは、非常にシンプルに答えている。
*どんな瞬間でも、自分がやりたいと思うこと、自分がやるべきだと思うことをやって、人生を楽しんでください。人生を楽しむとは、どんな瞬間でも、起ったことを神の意志として受け入れることです。起ることは、ときにはよいことであり、ときにはそれほどよくないこともあります。でも、どんな人もこのことしかできません。その結果その創造された対象物にとっての最も重要なことは、次のことです。プライド、罪悪感、憎しみ、妬みもなく、人生はシンプルになるのがわかるでしょう。
*どんな瞬間も、まるで自分に自由意志があるかのように選択してください。
だから、「すべては神の意志」だからといって、あらゆる瞬間に私たちが見かけの自由意志を行使できないわけではない。
人は、カフェに行って、自分が飲みたい飲み物を何でも選ぶ見かけの自由がある。あらゆる瞬間に人は、Aを選ぶべきか、Bを選ぶべきかの見かけの自由がある。
人はいつでも自分の選択が最善の結果を生むことを願う。しかし、その見かけの自由意志の選択の結果が、どう展開するかは、誰にも本当はわからないのだ。
私たちにできる唯一のことは、今この瞬間にやっていること(それが何であれ)を心から楽しむことだけである。
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*「誰がかまうもんか?!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」 (ナチュラルスピリット発行)は、全国の一般書店、ネット書店、スピリチュアルブック専門書店ブッククラブ回等で購入できます。(2月末までには、書店にでる予定です)定価:本体価格2,500円プラス税
*ナチュラルスピリット社のご好意により、「誰がかまうもんか?!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」の本の目次を次のサイトで公開しています。
http://www.simple-dou.com/CCP024.html
ナチュラルスピリット
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