必要か欲望か……どっちでもかまわない2013年12月14日 07時24分01秒

 前回、20代後半にJ.クリシュナムルティと格闘した話を書いた。そのとき、関連してよく考えたことは、何が欲望で、何が必要か、ということである。

一般に、スピリチュアルな本では、 欲望は悪、必要は善みたいに語られることが多い。実際、多くの賢者の方々が、必要は無理なくかなうものだが、欲望は必ずしもかなうとはかぎらず、しかもかなったときに、しばしば苦しみをもたらすという主旨のことを言っている。

「必要は無理なくかなう」――このことは経験からいっても、確かにそうだとは思うが、では、欲望と必要の間の線はどうやって引くのだろうか?

たとえば、「水が飲みたい」という思考、これは明らかに必要に属するもので、そのとき人は立ち上がって台所に向かい、水を飲み、その必要を満たす。
 
では、「ビールを飲みたい」 という思考は、どうだろうか? ビールは欲望だろうか、必要だろうか? ビールは生存のためには必要ないが、ビールなら、誰でも簡単に手に入れることができるし、 一杯くらいなら、飲んだところで別に苦痛もない。

では、ご飯一膳が適量な人が、二膳目のご飯を食べたいと思うことは、必要だろうか、欲望だろうか。  これはたぶん、健康に悪いという意味では、必要ではなく欲望であろうが、二膳食べないと心が満足しないということであれば、その人にとっては必要かもしれない。
 
では、車が趣味の人が、何台も車を所有し、さらにもっと欲しがることは、必要だろうか、欲望だろうか? もしその人にとっては車が生きがいだとしたら、それは必需品かもしれない。この場合、車は他のどんな物とも置き換えることができる。本とか食器とか鞄とか靴とか、そういった車に比べれば安価なものも同じことである。

ではでは、配偶者がすでにいる人が、それ以外に恋人や愛人を望むのはどうだろか? しかも財力にまかせて、何人もの愛人をもつとしたら、これは必要だろうか、欲望だろうか? 複数の愛人がいなければ、生きていく活力がでない(!)と思う人にとっては、それも必需品なのかもしれない。

と、こんなふうに考えていくと、何が欲望で、何が必要なのかの線引きは非常にあいまいで、伝統的なスピリチュアルが語る欲望=悪 、欲望からの解放=善、という単純なものでもないようである。

もし欲望が悪なら、欲望から解放されたい欲望とか、悟りたいという欲望だって、「悪」なわけだし、あるいは、知識をたくさん欲しい、真理を知りたいという欲望だって、欲望にちがいなく、そういった欲望が他の欲望に比べて高尚というわけでもない。

と、考えれば考えるほど、わけがわからなくなり、その区別もどうでもいいように思えてくる。ラメッシの説明を借りれば、外側から来る思考→言葉→行為→結果の順番で、物事は個人的意志によらず起こるが、そのどれも本人の手中にはなく、自然発生的な出来事である。つまり、欲望にしろ、必要にしろ、それは厳密に言えば、「私の欲望」でも「私の必要」でもなく、ある特定の肉体精神機構に自然発生的にわき起こる欲望ないし必要である。

しかも、人には多くの思考が通過するものの、すべての思考が言葉になるほど意識されるわけではなく、すべての言葉になった思考が、行為に移されるわけではなく、すべての行為が自分の望む結果をもたらすわけでもない。仮に望むように起こっても、それは自分の意志や自分の力のおかげではない。すべては(再びラメッシの言葉を借りれば)神(全体性)の機能の中で起こるだけである。そこがラメッシがいつも非常に強調する点である。

ある思考がわき、それが言葉として自覚され、そして行為になるエネルギーがやって来て、何かの結果を生む。ある思考は言葉としてまでは自覚されたが、行為に変換されるエネルギーがやって来ないままで終わる。ある思考は言葉としてすら自覚されないままで終わる。と、こんな感じだ。

では、「欲望が苦しみ」であるとはどういうことかと言えば、それは何かへの欲望の思考があって、しかも行動に移されるエネルギーも出ないまま、思考だけがぐるぐるとまわり続ける状態である。あるべきだと自分が思うもの――それがお金であれ、車であれ、結婚相手であれ、仕事であれ、才能であれ、愛人であれ、悟りであれ――それが自分には「ない」、欠落しているという思考、あるいは、それが欠落しているゆえに、自分自身が何か欠落しているように感じること、それが人の苦しみである。

あるいは、自分の欲望の対象が実現しても、その対象そのものが苦痛になることもある。そうすると、今度は私たちの心は言う。「これがあることが苦痛だ」「この状況がイヤで苦痛だ」と。ただ心だけが、何かが「ない」ことや「ある」ことに異議を唱えるわけで、だから、賢者の方々は「問題は心の中にしかない」  と繰り返し言うのである。思考がわかない熟睡状態では、誰も問題も苦痛ももつことができないことを見れば、そのことは明らかである。

しかし、そう知的に理解しても、(それは本当は「私の欲望」ではないゆえに)、私たちが「自分の」意志の力で、何かの欲望から解放されことは不可能なのである。それがわかるとき、私たちはムダな努力をしなくなるというだけの話である。自分自身とも状況とも戦うことをやめ、結局のところ、すべては起こるがままでよいという話になるのである。

で、ラメッシのConsciouness Speaks(意識は語る)の本は、「悟りへの欲望」がその一つのテーマであるが、なかにはセックスや不倫などについての世俗的質問もある。たとえば、

「賢者も不倫をする可能性がありますか?」

それにラメッシが何と答えたかは……来年、本を買って読んでください(笑)

[お礼」
 
本年のブログはこれで終了します。来年は2月からブログを再開します。この一年、ブログを読んでくださった方、コメントを送ってくださった方、そしてご縁でお会いした皆様、ありがとうございました。楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。