誰(何)にとっての、悪(人)なのか……2023年07月26日 06時02分26秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。

悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。

もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。

ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。

共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。

さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。

スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。

悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。

であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか? 

その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。

非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。

今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。

「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)

彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私のを赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。

「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。

関連ブログ

「好き嫌いと善悪」2008年2月19日



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
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『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)


















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