方向が逆 ― 2024年09月07日 07時55分23秒
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年9月19日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで ←受付終了しました
2024年9月29日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――非二元的認識から生まれる豊かさについて」
Master Key to Self-Realization についての紹介は、発売時期が決まりましたら、残りを書きます。
先日、ネットで見た小さい記事が私の関心を引いた。それは東ティモールという小さい国の話で、その国へこのたび、フランシスコローマ教皇が訪問するという。
東ティモールは小さい国で、それほど経済的に豊かではない。それにもかかわらず、莫大な予算を組んでローマ教皇来訪の準備をし、ミサの場所を作るために国有地に住んでいた貧しい人たちの家を強制的に壊し、退去させたという。
さて、私は思ったものだ。貧しい人たちの家を強制的に壊して退去させることは、キリストの精神に合っているのだろうか?と。もちろん、ローマ教皇はこのことをご存じないだろうから、彼の責任ではないが、貧しい人間たちを泣かせて、ローマ教皇の来訪に備えるって、なんかキリストの精神とは方向が逆な感じ……でも、カトリック教徒が90%以上をしめる国民からもたいした反対はなかったようだ。
私が子供の頃の話である。家族の中で唯一、祖母だけが宗教的行為に熱心だった。戦前から生き残った高さ2メートルに届きそうな仏壇に、お花と、家族がめったに口にできない高級なお菓子をあげ、熱心に毎日その前で読経していた。家にお金がない時代だったにもかかわらず、祖母は宗教行事にはお金をつぎ込んだ。それほど熱心に宗教行事にお金をつぎ込み、熱心に日々読経しているにもかかわらず、祖母は幸せな人ではなかった。そして、彼女の不幸は家族に暗い影を投げかけた。
祖母を見て、私は子供心に思ったものだ。木の箱(仏壇)にいるとされている死んだ人間にお菓子をあげて祈るより、生きている子供においしいお菓子をくれ!(笑)。そして、宗教行事はお金がかかるわりには、人間の幸福にも心の平和にも役に立たないものだとも思った。祖母は幸福や平和をまったく反対の方向に求めていたのだ。
だから、私は子供の頃から仏壇や墓に参るメリットを感じたこともなければ、宗教行事に特別な敬意ももったこともない。が、それでも、父が亡くなってからは、1年に数回だけは宗教行事(というよりは季節の文化行事)をおこなっている。8月は墓参りに行き、お寺さんにご挨拶もしてきた
そして、家に帰ってきてから、母と一緒に母の好きな歌、『千の風になって』を歌った。
私のお墓の前で泣かないでください♪♪♪
そこに私はいません♪♪♪
眠ってなんかいません♪♪♪
そこに私はいません♪♪♪
眠ってなんかいません♪♪♪
まさに、肉体が生きているときも、肉体の死後も、「私」が、あんな小さい石の箱(お墓)の中にいるはずがない! 方向が逆!
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