「悼む人」2009年04月15日 10時56分58秒

「悼む人」(天童荒太著 文藝春秋社)――前回、直木賞をとった小説だ。

私は普段、小説をあまり読まないし、文学賞にも関心がないので、いわゆる賞をとった話題の本もほとんど読んだことがない。「悼む人」を読んだのは、たまたま著者があるインタヴューで、本書を書こうと思った動機を語るのを聞いて、ちょっと興味をもったからだ。

そのインタヴューの中で天童さんは、「2001年9月11日、アメリカのニューヨークで起きたテロのときは、世界中がその犠牲者を悼みました。でも、そのあとアメリカがアフガニスタンを攻撃して、アフガニスタンでもたくさんの人が死んだにもかかわらず、その死はほとんど話題にならず、関心ももたれなかった。死は平等のはずなのに、人の死にこんなにも差別があるのは、どうしてなのか? そこで、あらゆる死を平等に悼む静人という人物像が浮かんだのです」と、(彼の正確な言葉ではないが)、だいたいこんなような主旨のことを語った。

で、本の中で、著者が創造した静人さんは、日本全国のあらゆる死、どちらかといえば、不幸な死――悲惨な死、自殺、殺人、事故死等々――の現場を旅し、その関係者に3つの質問、「その方は誰を愛していましたか? 誰に愛されていましたか? どんなことで感謝されていましたか?」を尋ね、ノートに書きとめ、自分の記憶の中に留め悼むのである。

著者が本書で描きたいことは、おそらく、人がどんなふうに死んだにしろ、どんなふうに生きたにしろ、それはどうでもいいことで、その人が生きたことが「愛」である――だから、「こんなふうに死んだから、かわいそうだ」と思う必要はなく、その人の愛を記憶しよう――「悼む」とは、その人のみじめさではなく、その人の愛を記憶する行為である――私はそう本書を読み、テーマをそう理解した。

著者が長年の歳月をかけて、様々な事件の場に自分でも出かけ、関係者の苦しみと喜びを共有して、書いただけあり、なかなかの力作であり、こういう本は、「ヒーリング小説」と呼んでもいいかもしれない。

さて、私自身は静人さんとは違って、元々人の死をあまり長くは考えないほうだ。でも、本書を読んで、私も悼んでみようと思い、静人さんの質問を少し変形して自分に向けて、過去10年くらいに亡くなった知り合いの人たちを悼んでみた。「私は、☆☆さんのどんなところを愛していましたか? どんなところが楽しかったですか? どんなことに感謝していますか?」 

すると、たとえば、「ああ、あの叔父さんには、小さいころ海へ遊びに連れて行ってもらって楽しかったな」とか、「お年玉をたくさんもらってありがたかったな」とか、楽しい思い出が湧き起こってくる。その人の愛を思い出し記憶すると、自分も楽しくなってくるから不思議だ――死んだ人と、楽しさと愛という存在の本質がもたらす感情で一つになることができる。

[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年4月19日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

執着と嫌悪2009年04月26日 17時50分02秒

スピリチャルを学んでいる人たちは、たいていの教えや団体で、「何事にも、執着してはいけない」「執着を手放しなさい」と教えられることが多い。

しかし、私が経験・見聞してきたことによれば、「執着を手放しなさい」と教えられたからといって、そう簡単には執着のほうは、自分から出ていかないものだ。

最近、発見したことは、執着ではなく、むしろその裏側にある嫌悪を理解し・解放したほうが、執着も自然に出て行きやすくなるような感じがしている。

執着とは、「対象を掴んで離したくない感情」であり、

嫌悪とは、「対象からできるだけ逃げたい感情」であり、

運動方向は正反対ながら、自分にとって対象が「非常に重要である」点で、根は同じところにある。

私は、自分も含めて、スピリチュアルを探求している多くの人たちは、自分の執着をよく理解しているわりには、自分の嫌悪については無意識であり、嫌悪とは色々な形をとることはあまり理解されていない。

たとえば、
スピリチュアルな世界の一部に見られるある種の厭世観も、嫌悪である。
自分や他人の行為・言動への批判も、嫌悪である。
過去の苦しみを二度と味わいたくないと思うのも、嫌悪である。
こんなもの(人・行為)を見たくないと思うのも、嫌悪である。

そして、嫌悪とは中々の曲者(トリック・スター)で、自分の過剰な嫌悪の結末に、思いがけない状況で出会ってしまう場合がある。

往々にして、「私はAが嫌いだ」「私はAの苦しみを二度と味わいたくない」「私はAを二度と見たくない・経験したくない」「私はAからできるだけ逃げたい」と強く思えば思うほど、再びAの経験に出会ってしまう確率が高くなるようなのである(笑)――が、私たちは、無意識にこういう嫌悪の感情に囚われがちである。

また、嫌悪とは、「執着している何かが、自分の手に届かないと感じる」ときに、しばしば感じがちのものでもある。

ここ数年くらいは、こういった嫌悪感に関してシンプルなワークを自分で時々やってみた。私が採用した方法は、バイロン・ケイティのワークとセドナ・メソッドというワークだ。(バイロン・ケイティのワークとセドナ・メソッドの詳細については、参考図書を参照ください)

バイロン・ケイティのワークの中に、自分が二度と経験したくないことを書き出して、それをひっくり返すというものがある。

たとえば、
「私は二度とAを経験したくない」であれば、
「私はAをまた喜んで経験しよう」あるいは「私はAをまた経験することを楽しみにしている」

嫌悪だけでなく、怖れていることも含めて、全部書き出して、お風呂に入っているときなどに、声に出して言ってみる。声に出して、「私は喜んでAをまた経験しよう」を言えるようになると(言えないときは、無理する必要はなく、その項目は飛ばすことにしている)、不思議なことに少しずつ嫌悪感が消え、心が軽くなる。

そして、嫌悪感を感じることそのものへの抵抗感・嫌悪感を解消するために、こうもついでに付け加えることにしている。

「私はあらゆる嫌悪感を喜んで経験しよう」

参考図書
「探すのをやめたとき愛は見つかる」バイロン・ケイティ著 (創元社)

「人生を変える一番シンプルな方法」ヘイル・ドゥオスキン著 (主婦の友社)
思考ではなく、感情領域に直接働きかけ、否定的感情を解放するシンプルなセドナ・メソッドの本。

「振り子の法則」ヴァジム・ゼランド著(徳間書店)
昨年も本書ご紹介したが、嫌悪感も含め、何かに対する過剰な感情が、人生にどういう影響を与えるのかを物理的に説明している。