「アジャシャンティ」(1)‐スピリチュアルな落とし穴‐「プライド(優越感)」2012年03月10日 10時12分38秒


3月か4月に、アジャシャンティのThe End of Your World(「あなたの世界の終わり」ナチュラルスピリット発行‐邦訳タイトルは現時点では未定)がようやく発売予定となったので、本書が扱っている内容に関していくつか、数回にわたって取り上げてみよう。

本による情報では、アジャシャンティはアメリカの北カリフォルニアに生まれ、子供の頃から青年期まで自転車競技に熱中し、大人になってからは禅の先生について禅の修行に励む。25歳と32歳頃に覚醒体験があり、1996年より、自分の先生の要請で教え始め、現在はカリフォルニアを中心に広範囲で教えている。以上がアジャシャンティの簡単なプロフィールである。
 
本書、The End of Your World(「あなたの世界の終わり」)のテーマは、「いかにして目覚めるか」ではなく、むしろ、霊的覚醒体験や神秘体験などをした人たちが、スピリチュアルな道において、どんな行き詰まり、袋小路に陥ってしまうのか、どうやって目覚めから「転落」してしまうのかに、焦点を当てて語っている。アジャシャンティは、自分が覚醒体験をしたあとでどういう落とし穴に落ちてしまったのか、自分自身の経験からも多くを語っているので、非常に説得力のある話が本書では展開している。

本書の中でアジャシャンティは、スピリチュアルな探求者たちがよく陥る落とし穴として、特に、「プライド(優越感)」、「無意味感」、「空虚感」に言及しているが、ここでは、「プライド(優越感)」について、取り上げてみたい。

「プライド」と人々がよく言うところのものは、スピリチュアルに特有なものではなく、人間であることに特有なものである。人間はプライドの生き物である。なぜなら、プライドにおいて、人は、「他人とは違う自分」を実感できるからである。

プライドの形は、明確に他人と自分を比較する顕著な「優越感」から、自分でもそうとは知らずに「飼っている」非常に微妙なものまで、様々なタイプがある。

たとえば、世の中の人々がよく口にしたり心で思っていたりする、「私は、こんなに頑張って生きています(仕事をしています、家事をやっています)」も、プライドの一種であり、「私はあなたのことを心配している」(=あなたは、私が心配してあげなければならない程度の人だ)も、プライドの変形であり、自分が自分に言う「自分の将来が心配だ」(=今の自分から見ると、将来の自分は、心配な状況に陥るだろう)も、プライドの微妙な変形である。

スピリチュアルな探求を始めた最初の頃、私たちはまず自分の中にある明確にネガティブなもの――怒り、憎しみ、みじめさ、強欲等に気づく。こういったものは、苦痛を感じやすく、簡単に気づきやすい。しかし、プライドに関してはそう簡単ではない。なぜなら、私たちは自分を高く評価すること、自分を肯定することを教えられ、プライドとはそういったある種の自己肯定感と非常に密接にリンクしているからだ。スピリチュアルの多くの教えでは、自分を高く評価すること、自分を肯定することは、非常によい(善)ことだとされ、そのため、自己肯定感に隠れてプライドが微妙な形で自分の中に住むつくことになる。

なかには、こう尋ねる人たちもいるかもしれない。「自己肯定感やプライドの何が悪いですか?」と。自己肯定感やプライドは、別に悪いものではない。自己肯定感やプライドは、実際に人生においては肯定的に作用する場合も多い。人は自分のプライドや矜持を維持するためなら、非常に努力することができるからだ。

しかし、もし人がスピリチュアルな道にいるなら、プライド、あるいはプライドとリンクした自己肯定感はある種の行き詰まりへと導く可能性が大きい。その理由は私が思うには、二つあり、一つはスピリチュアルの根幹に関わる理由だ。それは、スピリチュアルとは、あらゆる生きとしいけるものの本質的平等、百%の民主主義という(観念や理論や理想でではなく)事実に基づいているからである。だから、人の本質に関するあらゆる優越観念や劣等観念、あらゆる種類の上下観念は、スピリチュアルな根本的事実に反している。何かについてのプライドとは最も微妙な形での分離感であり、本質が一つであるという事実に(あえて言えば)違反している。それが、プライドが霊的な意味で行き詰まりを引き起こす第一の理由である。

それから二番目の理由として、プライドとは常に、「自分が過去に達成(経験)した何か、過去の自己イメージに関する何か、今まで築きあげてきた何か」に関わっている。つまり、プライドをいだくというのは、いつも過去に手を伸ばして、その膨大な過去という荷物をいっしょに引っ張って歩くようなものだ。当然、そんな重荷を背負っていたのでは、今、歩いている現実の風景を楽しむこともできなければ、毎瞬毎瞬の現実にうまく対処する能力も減っていく。

プライドに関して、以上に書いたことを知的に理解することは困難ではないだろうが、問題は、最初にも書いたように、プライドとは実に様々な観念(特に、善だと自分が信じている観念)に変形していて、自分でも気づかずに住まわせているというか飼っていることが多いことだ。だから、もし人が知的な知識としてではなく、実際に自分の中に潜んでいる変形されたプライドに本当に気づくときは、非常に驚くことになる――善だと信じていたことが、実は自分のプライドだったのだ、と。

アジャシャンティも、25歳の覚醒体験のあとに自分の中から予期せずに出てきた優越感(プライド)に驚き、それを取り除こうとして、奮闘・苦闘して失敗した話を語っている。アジャシャンティは、そういった優越感(プライド)がわき起こることは、霊的探求者にはよくあることで、しかも、人はそれを自分の意志の力では取り除くことができないと言っている。

優越感(プライド)だけでなく、人間のあらゆる執着、中毒は個人の意志の力では取り除くことができないと、経験から私もまたそう理解している。この理解、つまり、人間のあらゆる執着、中毒は、個人の意志の力では取り除くことができないという理解は、ある意味では朗報でもある。アジャシャンティは、本書の中で、自分の意志のドン詰まりまで来たいくつかの経験を語り、そういった経験を「荒々しい恩寵」と呼んでいる。

アジャシャンティも強調しているように、スピリチュアルな道ではプライドは起こるのが普通で、それに執着するのも人としては普通であろう。そして、おそらく、それを否定したり、変形して何かの善なる観念に仕立てあげることも、よく起こることだ。いずれにせよ、人がスピリチュアルな道を歩き続けるかぎり、「荒々しい恩寵」か「優しい恩寵」がやって来て、人がいだくプライドの本質を教えてくれることになっている(ようである)。

「アジャシャンティ」公式ホームページ
http://www.adyashanti.org



コメント

_ ATW ― 2012年06月11日 00時37分39秒

高木さん、Adyashantiは、今私の最大のSpiritual teacherです。高木さんはどのようないきさつで彼の本を翻訳することになったのか、教えていただけませんか。

_ シンプル堂 ― 2012年06月14日 11時02分20秒

ATW様

アジャシャンティの本は、出版社のほうから紹介していただきました。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
日本の首都はどこですか?

コメント:

トラックバック