Master Key to Self-Realization (2) ― 2024年06月15日 08時17分04秒
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Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)は、ちょっとミステリーふうな仕立てになっている。つまり、謎めいた「私」を探すために、人間を構成する様々な体(ボディ)を、粗雑な体(グロス・ボディ)から、精妙な体(グレート・コーザルボディ)へと、順を追って調査しながら、究極のパラブラフマン(絶対)に至る道筋を明らかにする。
もし本書の方法が成功するなら、最後に探求者に、「絶対」である「私」が明らかになることになっている。
本書で語られているボディの種類は下記の4種類であり、第一の体から、順番に第四の体まで詳細な説明がなされている。
第一の体――グロス・ボディ
第二の体――サトル・ボディ
第三の体――コーザル・ボディ
第四の体――グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)
第二の体――サトル・ボディ
第三の体――コーザル・ボディ
第四の体――グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)
ここで注意すべきことは、もし読者の皆さんが今まで、他の教え、他の本で、こうした目に見えない体(ボディ)に関する秘教的知識を読んだことがあるなら、本書での説明・分類は、他の教え、本とはかなり異なるかもしれない。
たとえば、私が昔読んだ本では、本書でいう第二の体――サトル・ボディをさらに、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)に分けてあるものが多く、私の中にもいまだ、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)という観念が根強く残っている。
思い出すに(かなり昔に読んだ本なので記憶があいまいであるが)、ヒーリング関係の本が多かったと思う。しかし、本書はヒーリングの本ではなく、あくまでも、私とは何か? 私の本質とは何か?を探求することが目的の本であり、本書での体(ボディ)の説明もその目的にそっている。
私が本書を読んで、一つ不思議に思ったことは、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの主要な弟子であるニサルガダッタ・マハラジの講話には、私が読んだかぎり、こういった目に見えない体(ボディ)への言及がほとんどないことだ。
『アイアムザット私は在る』(ナチュラルスピリット発行)には多少言及があるが、最晩年の『意識に先立って』(ナチュラルスピリット発行)にはまったく言及がない。では、ニサルガダッタ・マハラジの弟子である、ラメッシ・バルセカールはどうかと言えば、初期の頃の著作に目に見えない体(ボディ)を詳細に説明した章があるが、私が読んだかぎりでは、それ以外の講話、本の中で、ラメッシも体(ボディ)の話をしていない。
それはどうしてなのだろうか?
その答えはたぶん、『意識に先立って』から読み取れば、マハラジの帰依者たちは、そういった目に見えない体(ボディ)のことはすでに宿題として学び終えているべきことなので、最晩年の講話の中ではあえて、説明しない(説明している時間がない)というのが、マハラジの考えだったようだ。
だから、『意識に先立って』、そしてラメッシがマハラジの教えを解説した本、『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』(ナチュラルスピリット発行)では、第二の体、サトルボディと第三の体、コーザル・ボディの話はまったく出てこなくて、第四の体―グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)(IAM)から、絶対へ至る話のみをほとんど語っている。
マハラジは、第一の体(グロスボディ=肉体)と第四の体―グレート‐コーザル・ボディが理解できれば、その中間の体に関する知識は自ずと湧きあがるだろうと考えていたのかもしれない。
まあ、ニサルガダッタ・マハラジがどう考えていたにせよ、本書の中では、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、すべての体(ボディ)を時間をかけて調査し、完全に理解することが重要だと強調している。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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Master Key to Self-Realization (1) ― 2024年05月28日 09時20分00秒
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今回より、今年出版が予定されている本、Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)を紹介したい。
本書は、ニサルガダッタ・マハラジの師、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジ(Shri Siddharameshwar Maharaj 1888–1936)の講話を弟子たちがまとめた本で、最初はマラーティー語で出版され、そのあと英語版が出版された。
本書によれば、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、インドのインチャギリ・サンプラダヤ派の二代目のグルで、さらにこの教えはインドのマハラシュトラ州(中心都市ムンバイ)に伝統的に伝わる教えの系譜に所属している。本書の中では、マハラシュトラ州で活躍した過去の聖者、特にシュリ―・サマールタ・ラムダスとトゥカラムがたびたび話題にされている。
そういった過去の聖者への敬意と崇敬には満ちているものの、本書は決して堅苦しい本ではない。シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが非常にユーモアと科学的態度をもった人であることがうかがえる本だ。私は本書によって初めて、シッダラメシュヴァール・マハラジについて詳しく知ったが、彼のユーモアと科学的態度、そして、原書表紙に掲載されている彼の写真に写し出されている少年のようなほほ笑みに好感をもった。
本書の序文によれば、師の死後、シッダラメシュヴァール・マハラジは他の弟子たちと一緒に、師の教えを広める旅に出た。その旅の途中、師の教えを伝えることに関して、彼に一つの疑問が湧き起こり、それを仲間の弟子たちに伝えたところ、仲間からは強い反発を受け、彼も自分の考えをその場では撤回した。
その彼の疑問とは、師の教えを伝えるために、瞑想以外の方法はないのだろうか? 瞑想は非常に多くの努力と時間を要する。自分の本質に目覚めるという目的に到達する、もっと早い道はないのだろうか? というものだった。彼は以上の疑問を他の仲間の手前、撤回はしたものの、旅の途中で仲間たちと別れ、自宅に戻り、また一人で瞑想を続け、最終的な覚醒に至った。
それ以後、彼は瞑想に加えて、「鳥の方法」、つまり、自分自身を論理的に調査・考察する方法を弟子たちに教え始めた。「鳥の道」と呼ばれるのは、それは時間がかからない方法であるからで、それに対して、従来の瞑想を中心とする方法は、「蟻の方法」と呼ばれている。
本書は、シッダラメシュヴァール・マハラジが「鳥の方法」と呼んでいる、自分自身を論理的に調査・考察する方法の詳細を語った本である。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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顔がなかった子供(小学生)時代 ― 2024年05月14日 08時58分22秒
ダグラス・ハーディングは、人間が、世界と自分をどのように認識するかを、次の4段階に要約している。
第1 段階(幼年期)赤ん坊は世界と同じくらい広がっている。
第2段階(子供時代)自分の顔と空間の両方をもつ。
第3 段階(大人時代)完全に顔と一体化し、顔で空間をふさぐ。
第4段階(自分の本質に目覚める)他人から一人の人間として見られていることを知りつつ、目覚めた空間であることに気づく。
第2段階(子供時代)自分の顔と空間の両方をもつ。
第3 段階(大人時代)完全に顔と一体化し、顔で空間をふさぐ。
第4段階(自分の本質に目覚める)他人から一人の人間として見られていることを知りつつ、目覚めた空間であることに気づく。
ここ数年、自分の人生で上記の第2段階(概ね小学生時代)と、第3段階へ移行した時期を明確に思い出している。
第2段階であった子供(小学生)時代の一番楽しい、感情的に盛り上がった思い出は、親戚の子供たち(昭和の時代は、子供が多かった)と一緒に遊んだことだった。夏休みや冬休みに、お互いの家を行き来し、海水浴にみんなで行ったり、セミやトンボを捕まえに行ったりとか、公園で鬼ごっことか、トランプ、花札、ボードゲームをみんなでやって盛り上がった。
そういった時間がなぜあんなに楽しかったかと言えば、そこに「自意識」がなかったからだ。つまり、そういうとき、私たちは自分の顔で世界をふさいでいないので、明確に世界が見えていて、ただ在るのは、場面の中に他の子供たちや大人たち、そして向こうに見ているものに対する自分の思考や感情だけだった。
もちろん、その感情の中にはときには、悲しみや怒りも不快感もあったが、「私が怒っている」とか、「私が悲しんでいる」ではなく、ただ「悲しい」、ただ「怒っている」、ただ「苦痛」、あるいは、「うれしい」、「楽しい」、「(ゲームに勝って)ヤッター」みたいな感じだった。中心に顔がないので、感情や思考は瞬間瞬間、流れては去っていくだけで、重く蓄積したりはしなかった。
そういった楽しい時代が終わりを告げるのは、中学生になり、他者からの評価が重要になり、そして、決定的に自分の顔で世界をふさいだのは、中学3年生の受験期になり、将来を考え始めたときだ。そのとき、ハーディングの上記の第3段階に入ったのだ。そのときから、もう目の前の世界はほとんど見えなくなり、関心は自分の将来と自分のことだけ、そして、それにまつわる圧倒的感情は「不安と恐れ」だった。「今、ここにいる」ことがまったくなくなり、関心はいつも、「いつかそこ」になってしまった。その第3段階の暗黒時代には、心から楽しかったという記憶がほとんどない。
そういった暗黒時代の10年目くらいに、たまたまの偶然からスピリチュアルに入門し、ようやく一筋の光が見えた感じだった。スピリチュアルを突き進んでいけば、いつかこの暗黒の壁を全部壊すことができるのではないかという希望が湧いた。最終的に、ハーディング、その他の非二元系の教えにたどり着き、ありがたいことに壁が全部崩壊し、ハーディングの言う上記の4段階を認識できるようになった。
そして、今また子供時代のような無邪気な感性が戻っている。自意識なく(=世界を自分の顔でふさがないこと=中心に人間の顔を置かないこと)世界を眺めれば、誰だって愛しいし、可笑しい。先日は、数十年ぶりに、親戚の家へ遊びに行き、数時間、なつかしい昔話に花を咲かせた。子供の頃の思い出、昭和の思い出、そんなたわいもない話をしているときは、みんなまた子供になっている。顔のない空間になって、昭和ノスタルジーを楽しんだひと時だった。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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「
賢者たちの考え方と表現の違い ― 2024年05月01日 09時44分54秒
[イベント】
◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで
場所:東京都新宿
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる」
[お知らせ]
先日、ニサルガダッタ・マハラジなどのインド系の賢者と、トニー・パーソンズの教えの違いについてのご質問をいただいた。
私の理解によれば、それが真正の非二元系(ノンデュアル、アドヴァイタ)の教えであれば、古代のイエス・キリスト、仏陀から、現在の様々な賢者たちにいたるまで、本質的には、皆さん同じ真理を教えているはずである――「すべては一つであり、本質的には分離がない」
しかし、たとえば、愛を強調する新約聖書と空(くう)を強調する般若心経を読んで、両方が同じことを言っていると理解するのは、けっこう大変なことだと思う。あまりに言葉の表現が違うからだ。
そして、その言葉の表現が違い、それを様々な人たちが解釈するゆえに、時代を経るにつれて、いわゆるそれぞれの宗教はお互いに相い入れないまったく別の物となり、平和を説く宗教が皮肉にも、いつの時代でも戦争の種となっている。
私たちが現代の非二元系の賢者たちの言葉を読むときも、表面的な表現の違いではなく、彼らが共通して伝えようとしていることの本質を理解する必要がある。そして、彼らが説いている真理の本質は同じであっても、では、その真理をどうやって理解するのか(認識するのか)に関する方法論については、かなり異なっている。真理に至る方法論をすべて否定する賢者から、瞑想、グルへの帰依を強調する賢者から、またハーディングのようにグル‐弟子関係を無価値なものとして否定して、一人で手軽にできる実験を開発した賢者もいる。
彼らの言葉や考え方が多様なのは、彼ら自身の生まれつきの気質、育った環境、文化・時代、そして彼らが話しかけた人々が異なるからである。そして、そういった賢者の言葉を聴いたり、読んだりする人たちの気質、育った環境・文化も様々である。現在では、世界各国のあらゆる教えを読んだり聴いたりできるという状況にはあるが、最終的には、自分と相性のよい少数の賢者(本や言葉)を選ぶというのが、賢明なことだと思う。
それと少し話が横道にそれるが、有名な賢者の皆さんは、お互いをほとんど認めないことがよくある(笑)。私が若い頃、J.クリシュナムルティとオショー(ラジニーシ)の間の相互批判は、オショーの弟子たちとJ.クリシュナムルティの信仰者を巻き込んで、けっこうな騒動であったし、J.クリシュナムルティともう一人の有名な賢者、U.G. クリシュナムルティの間の確執も、インド系スピリチュアル業界では有名な話だった。
ダグラス・ハーディングにも、J.クリシュナムルティの教えを批判的に書いたエッセイがあり、また彼が、U.G. クリシュナムルティやラメッシ・バルセカールの教えに関して否定的なコメントをしているのを、私は読んだことがある。
つまり、有名な賢者の皆さんも、物事への好き嫌いがけっこうあったり、教えに関して頑固だったり、文化的時代的偏見だってもっている。私が非二元系の賢者の本を読むときは、彼らの個人的好き嫌い、時代的文化的偏見は、重要じゃないものとして、基本的に無視(笑)して読んでいる。
最後に、読者の皆さんには、非二元系の翻訳本をたくさん買っていただいて、改めてお礼を申し上げます。もしたくさん読みすぎて混乱している方がいれば、先ほども書いたように、相性のよいものを少数選んで、繰り返し読むことをお勧めします(その他の本は古本に出してもいいし、本棚に余裕があれば、いつか読むためにとっておいてもいいかもしれない)。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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最近読んだ本から ― 2024年04月18日 08時48分03秒
[コメントを寄せていただきましたさえ様へ]
コメントをありがとうございます。神の意志を受容すること、
すべてを受容することは、百パーセント、ポジティブだと
私も思います。
コメントをありがとうございます。神の意志を受容すること、
すべてを受容することは、百パーセント、ポジティブだと
私も思います。
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◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで
場所:東京都新宿
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる」
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『シャーマン・ヒーラー・賢者』アルベルト・ヴィロルド(ナチュラルスピリット)
南米のアマゾンとアンデス地域の伝統的ヒーリング・メソッドを解説した本。久しぶりにこういった心身のスピリチュアル系ヒーリングに関する本を読んだ。
私が本書を読んだのは、スピリチャルな文献でよく話題にされる、目に見えない様々なボディの概念が普遍的なものか、地域によって異なるのか、知りたかったからだ。現在制作中のMaster Key to Self-Realization (自己覚醒へのマスター・キー)の本の中に、目に見えない様々なボディ(subtle-body, causal-bodyなど)についての解説があり、そういったインドのアドヴァイタ系の教えの中のボディの概念が、アンデスの伝統的ヒーリングにもある概念なのか、調べてみたかったからだ。(ただし、Master Key to Self-Realizationはヒーリングの本ではなく、そもそも本の目的も違っているが)。
結論から言えば、目に見えないボディに関する概念は、それぞれの伝統の中で似たような概念はあるものの、まったく同じではなく(ボディの区分けも異なっている)、特有の説明がある。
本書の中では、ボディの話よりも、私には、チャクラの説明が一番興味深かった。特に過去のネガティブなエネルギーが結晶化し、チャクラにいわゆる憑依し、人の物の見方、考え方、健康に多大な影響を与えているという話は、そうかもと納得でき、実際に著者がヒーリングにあたった様々な人たちの事例が紹介されている。私のどこかのチャクラにも、何かそういった結晶が憑依している(笑)と感じるときがある。
『ふだん使いの言語学』川添愛(新潮社)
少し専門的であるが、こういう本は楽しい。本書では、私たちが日常で使う言葉がどれだけ可笑しいか、そしてときには、どれくらい誤解を生みやすいか、たとえば、「よい宿がいっぱい」、「あなた、歯医者やめたの?」、「あなたのせいじゃない」など、様々な事例が紹介されている。
実際、言葉を誤解を与えることなく使うのは非常に難しい。何十年、言葉を書く仕事をしていても、言葉の世界は複雑で、ときに騒がしく、やっかいであると感じる。それに比べれば、瞑想して言葉のない世界にいるときは、何と平和かと思うのだ。だったら、言葉を使う仕事なんて、全部やめればいいのかもとも思うが、一方で、私は言葉に中毒してもいる(苦)。だから、その葛藤を生きるしかない――神の意志がそれを止めてくれるまで。
さて、昨年「言葉の向こうに人がいる」のブログでも、言葉の言外の意味を読み取られる話を書いたが、最近も某県の(前)知事さんが新人職員に向けた下記の訓示が差別発言として炎上した(「差別発言」というより、常識欠如の「無知発言」という感じだ)
「県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです」
「違って」という言葉が、県民のリーダーである知事の発言としては、決定的にまずく、せめて、「同じく」にすればよかったのにね。
『悪童たち』(上・下)柴金陳(早川書房)
『悪童たち』(上・下)柴金陳(早川書房)
中国のミステリーを初めて読んでみた。著者は、「中国の東野圭吾」と言われている人気ミステリー作家だそうで、文章は読みやすく(たぶん翻訳がよいおかげでもある)、最後まで飽きずに読むことができた。海外の小説を読む利点は、その国の文化・歴史を知ることができると同時に、おおげさに言えば、人間という生き物がいだく感情は、国、政治体制、時代を超えて共通していることを理解できることだ。本書の中では、現代の中国社会の状況を背景に、社会や親との関係で不幸と鬱屈感をいだく子供たちが出会い、しだいに大胆に犯罪に突き進んでいく姿が描かれている。
『天国でまた会おう』(上・下)ピエール・ルメートル(早川書房)
第一次世界大戦後のフランス社会を背景に、戦争末期の悲劇的状況で出会った二人の青年たちの苦難と社会への復讐を描いた小説。ここでも、父親に愛されなかった非凡な青年と母親に期待されすぎている普通の青年、彼らの葛藤、怒りという人類共通のテーマが小説の縦軸となっている。
『未来は決まっており、自分の意志など存在しない』妹尾武治(光文新書)
ラメッシ・バルセカールの「すべては神の意志」の心理学版というところか。「人間には自由意志がない」という話のときにほとんど必ず引用される、ベンジャミン・リベットの実験をはじめ、様々な分野の知見が紹介されている。著者は、自分は発達障害であり、過去に自殺未遂を起こしたことも告白しているが、心理学的決定論に救いを見出い出したようである。
『前巷説百物語』京極夏彦(角川書店)
色々読んだ京極夏彦さんの小説の中で、一番気に入ったのは、昨年紹介した「書楼弔堂」シリーズと、「巷説百物語」シリーズである。このシリーズは、人気時代劇「必殺仕事人」のように、法で裁けない悪を裁く話であるが、その雰囲気はかなり違っている。
本シリーズに登場する仕事人たちは、ほとんどが無宿者、つまり、江戸時代の士農工商という身分制度の外にいる。そして彼らは、「弱者にこんなひどいことをするのは赦せない」というような正義感ももってない。彼らにあるのは、「業(カルマ)を清算する」とか、「確かに依頼人は損をしている。その損を取り戻すお手伝いをしましょう」的な考え方である。彼らはほとんど自分たちでは殺しはせず、相手に自らの非を悟らせたり、自殺に追い込んだり、悪者同士がお互いを滅ぼし合うように仕組んだりする。様々なありそうでなさそうなびっくり仕掛けを考え、実行するのが彼らの役割だ。
その仕事人たちのリーダー的存在、御行の又一、別名、小股潜り(こまたくぐり=詐欺師)が非常に魅力的である。彼は一切の武器をもたず、あらゆる人のところへ出かけては、自分たちの目的のために、変幻自在の言葉の技を駆使して、物語を語り、ときには騙り(=騙し)、ときには言葉で人の心を切り裂き、ときには修復する。ペン(言葉)が剣よりも強いヒーロー物語を読むのは、爽快である。
『朝日新聞政治部』鮫島浩(講談社)
紙面には、いつもリベラル派の立派な論と言葉が立ち並ぶ「朝日新聞」。その「朝日新聞」のエリート部局である政治部に長年所属し、エース記者だった著者が朝日新聞のエリート記者に上り詰め、それから小さなミスが元で、社内外からバッシングを浴び、閑職に追いやられ、最終的には退職を選択する顛末を語った話。
本書の中で、印象深い話は、当時の安倍政権がいかに朝日新聞を天敵として、執拗に攻撃をしたのかという話と、著者が内外のバッシングを受けているとき、朝日新聞の経営陣は自社の記者である著者を守ることなく、非常に冷たかったという話である。普段は立派なことを書いている新聞社も、普通の会社と同じく、いざとなれば、動物園的保身に走ることがよくわかる。
朝日新聞というと、亡くなった父を思い出す。父は、朝日新聞のリベラルな論調が大嫌いだったにもかかわらず、長年、自分が好きな産経新聞と嫌いな朝日新聞の二紙を購読していた。あるとき私は父に言ったものだ。「そんなに朝日が嫌いなら、購読をやめれば?」すると、父曰く、「朝日と産経を読み比べて、朝日がどれだけ間違ったことを書いているか知るためだ」。それでも、私自身は(母の家にいるときしか新聞を読まないけれど)、もしどれか一紙、読む新聞を選ぶなら、朝日を選ぶとは思う(土曜版のBeとGlobeの記事が気に入っている)。
私が思うには、新聞に掲載されるような立派な意見も含めて、リベラルな意見にしろ、保守的な意見にしろ、誰も意見も絶対的に正しいものはなく、それは書いている人の世界観を表現し、多かれ少なかれ偏向している。そして、意見は世界を「変えない」。そして、いつの世も悲しくも、「剣(権力と暴力)はペン(言葉)より強し」である。意見は、政治と政治家を変えず、戦争を止めず、貧困を止めず、少子化を止めず、格差を止めない。それでも、人という種は何かについての想い、自分の考え(意見)を言葉で表現せざるをえない生き物なのである。
[昨年出版された本]
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人は記憶でできている ― 2024年03月26日 08時58分53秒
[ハム様へ]
コメントをありがとうございます。
Sam Harrisの本は一冊読んだことがあります。今手元にないので、題名は忘れましたが、その中でダグラス・ハーディングのワークを好意的に紹介し、またインドの賢者への言及も確かあったように記憶しています。スピリチュアルに関して、素晴らしい理解をもった人だと思います。今のところ、私が翻訳する予定はないですが、将来のことはわからないです。
Sam Harrisの本は一冊読んだことがあります。今手元にないので、題名は忘れましたが、その中でダグラス・ハーディングのワークを好意的に紹介し、またインドの賢者への言及も確かあったように記憶しています。スピリチュアルに関して、素晴らしい理解をもった人だと思います。今のところ、私が翻訳する予定はないですが、将来のことはわからないです。
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*Youtube新シリーズ 「猿笑(さるわらい)非二元講座」
*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。
親の介護は大変なことも多いが、まじかで人の老いを観察できることがとても興味深い。特に認知機能、思考・感情機能の老化というか変化を、私は関心をもって眺めている。
母は92歳くらいまでは認知機能にほとんど問題がなかったが、93歳くらいから徐々に衰えた感じだ。その頃、何があったか記録を付けているわけでもないのでだいたいの推測であるが、まず料理・洋裁をやらなくなり、近所の親しい友人が亡くなって、話相手がいなくなった頃に、一気に認知機能が衰えたようだ。
物と人の名前、そして関係を忘れ続け、現在、人名で覚えている名前はついに3個になった。自分の名前と子供たちの中の一人の名前と、そしてなぜか岸田首相(笑)。岸田首相がテレビに映ると、「岸田さん、岸田さん」と言って、喜ぶ。
母が一番執着していた「母という自己像」も完全に消えて、それと同時に、子供たちも母の記憶から消えている。今は、自分のまわりで見る人は全員、自分の世話係か自分の相手をしてくれる人で、たぶん母の今の自己イメージ(がもしあれば)は2歳くらいの子供である。
そんな母の記憶と感情の変遷を眺めていると、人は記憶でできているが、記憶がなくなっても、生きることは続くので、生の本質は人(=記憶)ではないということがわかる。そして、母の場合、思考機能が衰えるにつれて、感情のほうはどんどん自由奔放になり、昔は自分の感情をめったに表に出さない人だったのに、今は喜怒哀楽を自由に発散させている。
長い間の、よき母、よき妻であらねばならないという、人(=記憶)としての重荷から解放されて自由になり、ある意味では母は幸福なのかもしれないし、その一方で、現実が一瞬かい間見え、いつも人の世話になっている重荷を感じるとき、「もう何もできないから、自分は死んだほうがいい」とか、「死にたい」と、落ち込んでつぶやくこともある。
そんなとき私は、母に意地悪くこう声をかける。「あのね、もうすぐ夕食だけど、死ぬなら、夕食、食べないよね?」すると、母は突然元気になって、大きな声で、「夕食、食べる!」と言う。
最近、一番可笑しいことは、父(母の夫)がいつの間にか「将軍様」になったことだ。それは、たぶん、母と一緒にテレビを見ている部屋に父の大きな遺影が壁にかけてあり、そして最近ずっと、時代劇「暴れん坊将軍」を見ているせいだ。母はテレビの映像と現実の区別がつかず、父の遺影とテレビの中の将軍が一つになっている。
「今晩は、将軍様のところへ泊めてもらう」と毎日のように言い、そのたびに私は、テレビを指差し、「ほら、将軍様は、今お仕事中だから、仕事が終わったら、二人で頼みに行こう」と言うと、うれしそうに、「私、この人、大好き!」と、ほとんど目がハートマークになり、うっとりと父の遺影を眺めている。
父が生きているときに言ってあげれば、どれだけ父も喜んだかと思うのだが(昔は散々、父についての不満を子供たちは聞かされたものだ)、それでも母にとって父(夫)の記憶がいつのまにか「よい」イメージだけになったことは驚きだ。それはひょっとしたら、母の場合、脳の老化のよい面なのかもしれない。
人=記憶、非常に重要ではあるけれど、本質ではない。そのことを心に留め、日々老いる(変化する)記憶機能を自分のことも含めてユーモアをもってこれからも眺めていきたいものだ。
[昨年出版された本]
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「自己責任論」とは、自分を責めることではない ― 2024年03月17日 08時29分14秒
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*Youtube新シリーズ 「猿笑(さるわらい)非二元講座」
(1)スピリチュアルとお金
(2)ラメッシ・バルセカールの教え①
(3)ラメッシ・バルセカールの教え②
(4)ラメッシ・バルセカールの教え③
*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。
前回、いま流行りらしい「公正世界仮説」を紹介した。「公正世界仮説」をめぐる議論とは、別の言い方をすれば、人の人生の問題は、個人のせいなのか、社会のせいなのかという議論でもある。そして、一般的には、「公正世界仮説」を信じる人たちは、問題の原因を個人に帰し、「公正世界仮説」に反論する人たちは、問題の原因を社会に帰す傾向がある。
しかし、問題の原因は個人か社会かという単純な話ではないだろうし、私たちの人生に起こる問題の原因はそれこそ無数にあり、特定の一つに絞れるものではないと私は思う(そもそも、非二元系の教えでは、個人も社会も幻想なので、非二元の教えの観点から言えば、こういった議論そのものが無意味で、「起こることはすべては神の意志。」(笑)。でも、そんなことを言ってしまえば、身も蓋もなくなるので、今回は、いちおう個人も社会もあるという前提で話を進める)。
前回も書いたが、最近のネットには、「自己責任論(つまり、「公正世界仮説」的考え方)で、自分が責められているような気がして辛い」という記事をよく見かける。そして、いわゆるリベラル派の知識人も、「問題を個人に帰してはいけない。それは社会や政治の側の問題である」と、社会にはびこる自己責任論を批判する。
私自身も、自分が背負っている(背負わされている)重荷に最初に気づいたとき、非常に怒ったものだ。20代の前半、私はものすごく怒っていた。親に対して、自分が受けた教育に対して、常識的な生き方を押し付ける世間の大人たちに対して。そして、何よりも無知無能な自分に対して。怒りを発散すると、何か自分の中からパワーが出て来るような感じがして、一時的には心が軽くなる。しかし、怒りと様々な葛藤が長く続くと、心身が極度に消耗し、また気分が落ち込むという状態になり、気分の高低差が激しかった。
それから、スピリチュアルに入門し、最初の頃はセラピー的ワークを多く体験した。そのおかげで、自分の過去のトラウマを理解し、それをかなり手放すことができ、重荷が自然にかなり落ちた感じだった。そのとき、前回も書いたように、自分の人生の問題を誰かのせいにすると、そのほうがみじめだとわかり、他人や社会を責めなくなったら、人生の歯車がよい方向に回転し始め、私はスピリチュアルな道が自分にとって間違いのない道であることを確信した
この時期、私がバイブルのように読んだ本が、『なまけ者のさとり方』(タデウス・ゴラス 地湧社)という本で、スピリチュアル的「公正世界仮説」と自己責任論の権化のような本だ。
その文章を一部紹介すると(『なまけ者のさとり方』については以前のブログでも何度か紹介したが):
「他の人が何をしようと、あなたに起こることは、あなたの責任です。外部のいかなる事柄も、あなたの感情や体験を左右することは絶対にありません。あなたの人生の体験は、あなたのバイブレーションに百パーセント支配されているのです。バイブレーションが送ってくる情報と、その情報に対する反応の仕方によってあなたの人生は決まります」(80p)
「しかし、あなたが自分のバイブレーションを高めさえすれば、いつでも問題(精神的にも肉体的にも)を上手に避けられるようになり、世界が文字通り、よい方向へと変わってくるのです。愛は最も強力な魔法なのです。地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう天国に住んでいます」(80p)
「人がやっていることを否定すると、その行為を自分にも否定することになります。私達は自分を律する法律を常に自分が作っているのですから、あなたが発するすべての言葉と言動は、あなたがどんな世界に住むかを決めてゆくのです。あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見を同じくする人達だけに、有効である」(44p)
「あなたはどれくらい許され愛されたいですか。それと同じだけのものを他の人にもあげてください。とことん他の人にあなたの愛をあげてください。他の人のあなたに対するカルマをすべて許してあげなさい。自分の欲しいと思っているのと同じだけの自由と愛と注目を他の人にもあげなさい」(44P)
以上のような言葉を私は非常に納得して読んだものだ。私自身にとっては、スピリチュアル的「自己責任論」とは、自分にパワーを取り戻す考え方であり、それをほとんど辛いと感じたこともなかった。たぶん、『なまけ者のさとり方』の文章がとても温かい雰囲気だったせいもある。
それから、また長い探求の最後に、ダグラス・ハーディングやラメッシ・バルセカールなどの非二元系の教えに出会ってからは、「自己責任」さえも放棄し、今は、「神責任」(笑)に落ち着いている。
ここで、「責任」という言葉に関して私が思うことは、多くの人は「責任」に「批判」というニュアンスも入れるせいで、自分や人を苦しめる、ということだ。本当は、「責任」追求とは、批判するターゲットを探すというより、原因を究明する科学的態度をもって、自分の内面、自分が生まれ落ちた環境、社会制度を冷静に調査するということである。
そして、先ほど紹介したような『なまけ者のさとり方』のような見方も、たとえ気にいったとしても、鵜呑みにするべきではなく、自分の中で何度も検証すべきことである。検証できたら、古い考え方はしだいに抜け落ち、新しい見方が心身に馴染んでいくものである。
私たちがもっている様々な考え方(観念)は、本当は洋服のようなもので、いつでも取り換えることが可能だ。だから、私たちはいつも自分自身を調べて、問いかける必要がある。私がいだいている(着ている)様々な考え方(観念)は、私を平和と幸福へと導いているだろうか? 私はどこから誰からそういった考え方を受け取ったのだろうかと。そういった問いかけが、自分にへばりついているネガティブな観念からの束縛を少しずつ緩め、幸運なら、ある時期に自分の側の努力もなく、抜け落ちるという経験が起こることがある。
もし自分自身の過去のトラウマを自分自身で解きほぐすのが難しいと感じる場合は、必要ならカウンセリングやセラピー、自助グループの助けを借りることもお勧めする。自分が心を開けば、世の中には助けの手を指しのべてくれる人や団体はたくさんあるものだ。
本日は、昔、私が熱心に愛読し、非常に心が軽くなった本、『なまけ者のさとり方』の文章を紹介した。辛いときに読むと、よく効く本なので、もし現在、辛い気持ちや状況で苦しんでいる人がいれば、お勧めします。
昨年出版された本]
[その他の本]
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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生への未練 ― 2024年02月02日 07時35分01秒
[イベント】
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年2月18日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2024年2月29日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる」
遅くなりましたが、今年のブログを開始します。お時間があるときに、気楽にお付き合いください。
元旦の午後、母の家で家族全員でくつろいでいたとき、全員のスマホからいっせいに大音響の地震アラートが鳴り響き、その1、2秒後、ものすごい大揺れが家を襲った。すぐに家中の暖房を消したあと、そのあとどうすればいいか、パニックで行動が思い浮かばす、全員で固まっていたら、ほどなく揺れが止まり、テレビをつけると、テレビからは、「津波です。すぐ逃げてください」とアナウンサーの絶叫の声が聞こえてきた。震源地から遠く離れていて、海からも離れているので、津波の心配はなく、家も比較的新しいので、倒壊はないだろうと思ってはいたものの、それでも震度6弱の強烈な揺れは一瞬、家の倒壊の恐怖を呼び起こした。
「大地震が来る」と専門家はいつも警告し、日本ではどこでも地震は起こる可能性はあるので、地震が起こっても驚くことではないはずなのに、それでも個々の人間にとっては、地震はいつも突然来るものだ。大地震のときに湧く一瞬の恐怖心は、(私の場合)人生で経験する最大の恐怖心の一つで、ハートに突き刺さるようなイヤな感じである。地震の揺れが収まっても、そのイヤな感じがしばらく続くのもイヤなことである。そして、自分のところは被害がなくてホットしたあと、被災地の惨状を見ると、さらに胸が痛む。
その元旦の夜にそのイヤな感じについて考えてみた――考えても仕方のないことだけど、愚考が湧くのを止めることもできず、しばらくマインドのおしゃべりに付き合っていた。
たぶんそれは、諸々の恐怖心なのだろう。肉体が傷つくことへの恐怖、生が突然に終わることへの恐怖など、肉体の生への未練なのだろうと思い至った。自分の本質は不死であることは確信しているし、肉体年齢が70歳を超え、生きることに特別に強い未練があるわけでもないと思いながら、しかし実際は、まだ頑張って生きている(笑)母を残して死ぬわけにもいかないとか、やりかけの仕事があるとか、色々なことが片付いていないとか、人間としては未練が残っているような感じである。では、時計の針を進めて、今から10年後に突然に肉体の死を迎えそうになるときだって、もしそのとき、体が元気なら、何かをやっているはずで、やはり未練が残るにちがいない。
生への未練について考えていたら、日本の偉大な禅僧、一休(室町時代の禅師)が臨終のときに言ったとされる言葉、「死にたくない」を思い出した。それから、ダグラス・ハーディングの晩年のワークショップ(彼が車椅子生活になってからのワークショップ)のあとで、みんなでお茶を飲んでいるとき、ダグラスがぼそっと、「死ぬのはイヤなことだ」みたいなことを言って、その場にいた人たちが「ええ?!」と驚いたことがあった。彼ほどの人が口にする言葉とも思えなかったからだ。その中の誰かが彼の言葉の真意を尋ねたが、彼がどう答えたかは残念ながら記憶にない。
こんなふうに、地震のあと、ひとしきり生への未練について考えをめぐらし、最後に、ラメッシ・バルセカールの言葉、「人はどんなふうにいつ死ぬか、初めから決まっている」、つまり、「人の寿命や死に方は人知でコントロールできない」ということを改めて思い出して、なぜかほっとした。
そう、寿命は決まっているのだ。未練があろうがなかろうが、死に際にどんな思考が湧こうが、人の死によって、まわりがどれほど悲しもうが、(残務の後始末をさせられて)迷惑しようが、地震だろうが、何だろうが、病気になろうが、寿命なら死ぬ。そうでなければ、生きる。
私にとっての地震対策は、この単純な事実を受け入れて、一方で矛盾するようだが、日々、中心にいる(本質を見る)練習をすることだ。ダグラス・ハーディングがワークショップで日本に滞在していたとき、たまたま地震があり、そのとき彼は、「地震のときは、自分の中心にいなさい」とそうアドバイスしてくれた。今だに地震の大揺れのときに、情けなくも、中心にいることができない感じになるが、それでも日々練習する――寿命の終わりまで、日々平和に生きることができるように、そして、最後の瞬間に平和に死ぬためにも。
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仏陀の教え――「般若心経」(2) ― 2023年12月23日 10時41分54秒
[お知らせ]
*『バーソロミュー1994年東京ワークショップ』がアマゾン・キンドル版として発売されました。
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。(1)から(17)
「般若心経」は、大乗仏教の教えの精髄をまとめたものとされ、仏陀の死後、数百年後に起こった大乗仏教運動の中で、出来上がったもの(作者未詳)らしい。
大乗仏教と小乗仏教の違いを、ものすごく簡易に言えば、小乗仏教は「修行者が自分だけの悟りを求める」仏教であり、大乗仏教は、仏教を一般庶民にも開放して広め、すべての人の救済を目指す仏教、みたいなことになるらしい(自分一人しか乗れない「小さい乗り物=小乗」と、大勢が乗れる「大きな乗り物=大乗」と考えるとわかりやすいかもしれない)。
それでは前回に引き続いて、私が「般若心経」とどう格闘したかの話を書いてみよう。「物質には実体がない」の文章に躓き、それから次に私が引っかかったのは、「無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽きることもなし」(漢文書き下し文)のところで、私がもっていいる、『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)の訳は、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」となっている。
「迷いもさとりもない」、「老いも死もない」と前半で言っておきながら、後半で、「迷いも悟りも、老いも死も尽きることがない」と真逆のことを言って、お互いに打ち消しあって、まったく何も言っていないことになり、ナンセンスな文章ではないかと、私の常識思考は言い、私は読みながら、いつも怒りすら(笑)覚えたものだ。この当時、「Aは存在しないが、Aは存在する」みたいな理性にはまったくナンセンスな文章を、私のマインドはまったく受け入れることができなかった。
それでも私は、「不」「無」「空」のようなネガティブな漢字ばかりが散りばめられているテキストになぜか愛着を感じ、手放すことができず、一年に最低は1回か2回、儀式のように読んでは、ため息をついていた。
スピリチュアルな探求を始めたあとも、時々は、「般若心経」を読み返し、あるとき、「たぶん、般若心経は、私たちの常識が理解する観点とはまったく異なる観点で、この世界を語っているにちがいない」という思考が思い浮かんだ。この頃にはスピリチュアルな文献に特有なあちこちで矛盾する表現も、なんとか受け入れられるぐらいには、、私の二元的常識的思考はかなり薄くなっていった。
そして、大学の講義で「般若心経」を最初に読んだときから、およそ15年くらいたったときに、ダグラス・ハーディングの著作と実験に出会い、初めて、色即是空、空即是色の一瞥を得たのだ。彼の開発した実験によって、自分の目の前にある色の世界(物質世界)と自分側にある空(本質)の世界がピッタリと一つであることが信じられないほど簡単に見えたのだ。その最初の衝撃は、「ええ!まさか!?」という感じだった。
もちろん、長年の????が解消したあと、また新しいたくさんの????も生じたが(シンプル堂という物体のプログラミングはいつも???が湧くようにできている)、長年の疑問とストレスがとりあえず解消できて、うれしかったものだ。
「般若心経」は確かに、世界を真逆に語っていた。そのことを、簡単に説明すれば、普通、常識思考では、前回も書いたように、「感じられるもの(こと)」が現実である。私が自分の指で、体のどこかをつねる。すると痛みが生じて、それは人間としての自分にはとても「現実」に感じられる。しかし、「般若心経」の観点から言えば、感じられるからこそ、それは「現実ではない=幻想」なのである。なぜなら、感じられるものは、すべて一時的で永遠ではないからである。だから、五感が対象的にとらえるすべてのもの(こと)、そして、感じられる感情や思考も、全部、「現実ではない=幻想」であり、感じられないもの、五感でとらえることができないもの(空)こそ、「現実」なのだ。
そして、私を悩ませていた、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」のところも、空(本質)の観点と色(物質)の観点という、二つの真逆な観点から、さとり、迷い、老い、死を語っている。空(本質)から見れば、「さとり、迷い、老い、死」などというものは永遠にまったく存在していない。しかし、色(物質)の世界では、永遠に「さとり、迷い、老い、死」が尽きることがない。「さとり、迷い、老い、死」はあくまでも、色(物質)の世界で、人間が創造した観念にしかすぎないのだ。
最近、「般若心経」を読んでいると、時々一つの風景(イメージ)が思い浮かぶ。それは、こんな風景だ――仏陀と仏陀の高弟たちがみんなで瞑想をしている。そして、瞑想が終わると、その中の一人、観自在菩薩が、自分が、今、深く瞑想に入っていって、気づいたことを話し始める。
「私が深く自分の本質(般若波羅蜜多=知恵の完成)について、瞑想していましたところ、五大元素から構成されているこの世界は、そのどれも究極的には実体がない空っぽであることがわかりました。だから、私たちが感じる苦しみにも、実体がないのです」
そのあとの「シャーリプトラよ」で始まる部分は、別の高弟であるシャーリプトラ(舎利子)に話かける形で、観自在菩薩の言葉を受けて、それをもっと詳しく補足するように、仏陀が言葉を続けている(と私にはそう感じられる)。
その部分で、注目すべき言葉は、無苦集滅道(苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない)という部分で、それは下記の仏教の有名な四諦(したい)の否定である。
苦=人生は苦に満ちている
集=その苦は、迷いによる業が集まって原因となっている。
滅=迷いを断ち尽くした永遠に平和な境地が理想である。
道=その理想に到達するためには、道によることが必要である。
集=その苦は、迷いによる業が集まって原因となっている。
滅=迷いを断ち尽くした永遠に平和な境地が理想である。
道=その理想に到達するためには、道によることが必要である。
四諦をもっと平たく言えば、「私たちの苦は、私たちの過去からの業により、それらから解放されるために、人は厳しい修行の道を歩くことが必要である」ぐらいであるが、しかし、仏陀はここであっさり自ら四諦を否定し、「皆さん、苦集滅道なんて必要ありませんし、真理を知ることも、悟りを得ることもないのです」と宣言する。
そして、ここからフィナーレに向かって、仏陀の言葉はさらに、パワーアップしてくる。「悟りを得ることなんて、ないわけですから、求道者たちは自分自身の本質(般若波羅蜜多)に(すでに)安住し、だから、不安や恐れがないのです」
そして、最後に、般若波羅蜜多(智慧の完成)がどれほど比類なきほどの素晴らしいものかを称えるために、求道者がいつも覚えておける形で、次のマントラで締めくくられている。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)完全に彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)完全に彼岸に行ったのです。
ああ、般若波羅蜜多(智慧の完成)は、なんと素晴らしいことか!
『金剛般若心経』の中で、スブーティ長老が仏陀に、「これらのあなたの言葉を、後世になっても、真実だと思う人が誰かいるのでしょうか?」と尋ねる場面がある。それに対して仏陀は、「心配しなくても大丈夫。後世になっても、必ずこれらの言葉が真実だと思う人たちがいるにちがいない」と予言している。
その予言どおり、仏陀亡き後、2千5百年後の今日でも、仏陀の言葉が真実だと思う人たちは少数ながらも存在し、そして今から2千5百年後にもいるはずである。その系譜に参加させてもらう縁を得て、仏陀の勝手弟子として、この上もなくその縁を私はありがたく感じている。合掌
*ダグラス・ハーディングが、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット刊)の第21章「チャオの夢」というエッセイの中で、一万回「般若心経」を読経した僧が、夢の中で仏陀と語り合うという形で、「般若心経」の世界を格調高く語っている。
[お礼]
今年も貴重な時間を割いて、ブログを読んでくださった皆様、またシンプル堂のYouTubeを視聴してくださった皆様、そして、様々なご支援をしてくださった皆様、ありがとうございました。今年も、平和に、無事一年を終わることができそうで、ほっとしています。それでは皆様、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は、1月の終わりか、2月の初め頃から、ブログを再開する予定です。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
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