割り勘の悲喜劇2009年10月22日 13時30分55秒

本日は、割り勘をめぐる悲喜劇について書いてみよう。

最近、要約するとだいたい次のような内容の若い男性からの投稿を読んだ。

「先日、意中の女性を初めてデートに誘ってとても楽しい時間を過ごした。ところが、別れ際、その日かかった費用を計算して、彼女に割り勘で払ってと言ったら、それまで楽しそうにしていた彼女が怒ったような様子になり、お金は払ってくれたものの、そのあとメールをしても返事も返ってこない。自分は女性と男性は平等だと思っているし、年齢も近いので、割り勘でいいと思ったが、何か間違ったことをしたのだろうか?」

「男性と女性は平等だと思う」と、人間として正しい考えを持っているのに、どうしてこの男性はデートに失敗してしまったのか……

人間の論理では正しいことも、動物の領域では(男女関係は基本的に動物の論理で動いている)、通用しないことがある。

動物の世界では、オスがメスに求愛するときは、オスは精一杯見栄を張らないと、求愛には成功しない。「精一杯見栄を張る」とはどういうことかというと、自分がもっている力をできるだけメスにアピールするということだ。(もしテレビ等で機会があれば、「極楽鳥」という鳥のオスの求愛ダンスを見ることをお勧めする。オスたちの華麗で見事なダンスは必見の価値あり)

初デートで、男性が奢ることを女性がひそかに期待するのは、そのことが、オスがどれだけ自分のために「見栄を張ってくれるのか」を査定する一つのバロメータになっているからなのである←←動物のメスの論理から言えば。

それが帰り際に、「じゃあ、割り勘」では、「ああ、この人の私に対する求愛って、こんな程度なのね。がっかり。私には、私のためにもっと激しく求愛してくれるオスが他にいるはず」と、なってしまうのである。

それから、先回書いた人の「表」と「裏」でいえば、たいてい、女性は表がロマンチスト、裏が現実主義者、男性は表が現実主義者、裏がロマンチストである。女性は根が現実主義なので、恋愛等ではできるだけロマンチックな気分に浸りたいと思っている。だから、楽しくロマンチックに気分が盛り上がったその最後になって、「じゃあ、割り勘」では、そのロマチックな気分が一気にぺしゃんこになって、現実を見てしまったのがツライのである。女性は自分が現実主義であるゆえに、男性にはそうでないものを期待するというわけだ。

こんな割り勘の話を書いていたら、今から25年ほど前のある晩のことを思い出した。

その当時私は会社に勤めていて、あるとき、同僚の男性と二人で地方に仕事の出張で出かけたことがあった。数日間の仕事が終わった晩、せっかく食べ物と日本酒のおいしい街に来たので、では、どこかおいしい料理屋へ食事にでも行きますかという話になった。同僚の男性は、日本酒が好きで、私もおいしい食事と日本酒は好きなので、二人で料理屋へ食事に出かけた。

同期入社でほぼ同じ歳のその同僚の男性は話していて特に楽しい相手ではないのだが、二人であれこれおいしい日本酒を飲み比べて、日本酒の話で多少盛り上がって私も少々ほろ酔い気分になって、ではお勘定ということで、お店の人が勘定書きをもってきて、彼にそれを手渡した。

同僚の男性は、しばしその勘定書きを眺め、そして真顔で私にこう言ったのである。

「ねえ、ねえ、合計金額がさ、奇数で、割り切れないんだけど、1円どうする?」(彼は数学が専門である)

その言葉を聞く前は、私はほろ酔いの頭で、(彼は私よりたくさん給料をもらっているので)数百円程度彼が余分に払うほぼ割り勘で、払いやすい金額で払えばいいだろうとぼんやりと考えていた。

それが、「1円どうする?」と尋ねられて、私は目が点になり、一気にほろ酔いからさめ、「1円どうする?って私に尋ねるってことは、彼は1円もよけいに払いたくないんだ」と察した。

料理屋のテーブルで、どっちが1円多く払うか議論するのもみっともないと思い、私が「じゃあ、私が1円多く払いますよ」と言ったら、その同僚氏は「ありがとう!」とニコニコして言うではないか――その笑顔を見て、私は完全にしらふになってしまったのである(私も会社では変人で通っていたが、彼も私以上に変人で有名だった)。

翌日会社に戻り、私は社内の誰かに出張の話を訊かれるたびに、仕事のことではなく、この「1円どうする?」の話をしまくり、私のほろ酔いをぶち壊した仕返しをしてやった。

「1円どうする?」――今ではあんな変人もいたなあと、その場面を思い出すと笑いがこみあげるのだが、そのときは、「別にカップルというわけじゃないけど、せっかくおいしい食事をしたあとで、1円どうする? なんて、そりゃないだろう」という感じだったのだ。

食事やデートの最後に、お金の話で女性の気分を盛り下げて、現実に連れ戻してはいけない(お金の話をする必要があるときは、最初にする)――男性諸氏はこの鉄則を覚えておくと、きっと役に立ちます(笑)。

人の「表」と「裏」2009年10月08日 08時39分47秒

大リーグ、マリナーズのイチロー選手が、先日、連続9年、200本安打の記録を達成したすぐあとのインタヴューが面白かった。

彼は、まず自分が着ている服(その日彼は、とてもカワイイ服を着ていた)に話題をふって、のっけから超ごきげんに話し始めた。

その様子が、野球をしているときのストイックで超真面目な彼とはあまりに違うので、インタヴュアーが驚くと、イチロー選手は、

「人には裏というものがあって、それでバランスがとれるんだと思う。僕が家庭でも真面目な野球選手だったら、もたないでしょう。どんな人にも裏があるのは、僕は当然なことだと思う」という意味のことを語った。

あらゆる人には裏がある――それは、ものすごく当たり前のことだが、そのことを理解している人は少ない。

「裏」というのは、必ずしも「悪い面」という意味ではなく、イチロー選手が言うように、表に現れる人格のバランスをとる面という意味である。

たとえば、

*(表が)ストイックで超真面目であれば、どこかでひょうきんでお茶目(イチロー選手のこと)
*(表が)優しく、親切であれば、どこかで冷たく、残酷
*(表が)頭がよければ、どこかでバカ
*(表が)何事にも几帳面であれば、どこかでだらしいない
*(表が)傲慢であれば、どこかで自信がない
*(表が)威張っていれば、どこかで劣等感をかかえている
*(表が)暴力的であれば、どこかでとても優しく、弱い
*(表が)理性的であれば、どこかでかなり感情的
*(表が)ハイテンションでいつも笑っている芸人やタレントは、どこかでかなり暗い
*(表が)素直な人、従順な人は、どこかで頑固
*(表が)計算高い人は、どこかで無駄使いをする
*(表が)臆病な人は、どこかで向こう見ず

等々、こうやって人は、自分の中で人格のバランスをとるのである。(上記のことは、反対もしばしば成り立つ。たとえば、「(表が)冷たく、残酷な人は、どこかで優しく、親切」)

さらに理解しておくと役に立つことは、ある人が、Aさんにとってそう見えるからといって、その人が別のBさんにとってそう見えるとはかぎらないということである。たとえば、ある人が、Aさんにとって親切で、優しくあるからといって、その人がBさんにとって親切で優しくあるとはかぎらないということだ。たいていの人は、人格・性格を、対人関係・状況によって多少修正するのが普通である。

もし、他人の「裏」が見えないとしたら、それは本当は、他人への観察眼が足りないというよりむしろ、その人は、自分の感情や思考、行動を客観的に眺めてみたことがないからなのである。

人は自分を理解する程度に、他人を理解する。

自分が物事や他人にどれだけ矛盾した思考や感情をいだくのか、ときにはどれほど否定的な感情や思考をいだくのか正視できれば、その程度において他人についてもより正確に判断できるようになるはず、と私はそう思っている。

そして、他人についての判断がより正確になれば、人間関係において期待と失望が減り、あらゆる人はみな「ありのままで、普通で、多様で、多面的」となり、自分より上でも下でも、自分より素晴らしいわけでも、ダメなわけでもなくなるのだ。

だから、他人の「裏」を見るとは、こいつの裏を暴いてやろう(笑)などという意地悪な気持ちで人を見たり、人には裏があるから信用できないと思ったりすることでは決してなく、ただ、単純に、人の多様な面を認め、受け入れることである。

人間がしばしば犯す間違いは、自分が好きな(あるいは嫌いな)一面だけを他人の中に見て、それに執着して、それ以外の面(「裏」)をなかなか見ようとしないことだ。

すると、ある日、その人の別の面を発見して驚く、ショックを受ける、嫌悪を感じる、(あるいは、たまには、嫌いだった人が好きになる)ということが起る。

自分が好きな他人のある面だけを台座に上げて過度に賞賛すれば(それが、アイドル化=偶像化ということ)、人の心は、いつかそれをその台座から引きずりおろして非難しないと気がすまない――もし人間心理のその証拠を見たいなら、マスコミのニュースやゴシップ欄を見るだけでいい――結局のところ、マスコミ(大衆心理の象徴)は、賞賛しては批判する、誰かを台座に上げては、引きずりおろすのがその仕事である。

人間は、本当はあらゆる人が多面的な生き物で、いわゆる「裏」がたくさんあるから、楽しいだと思う。

「裏」を受け入れ、愛すれば、「表」はもっと自由になる。反対に「裏」を否定すれば、「表」には非常にストレスがかかる。ほんの少し自分自身と自分のまわり(職場や家庭など)を注意深く見れば、そのことを理解するのは楽しい驚きとなるだろう。


[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年10月18日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

チンパンジー・マインドの研究2009年06月20日 10時09分13秒

前回、ゴリラ・マインドについて書いたので、今回はその続きで、「チンパンジー・マインド」について書いてみよう。

チンパンジーは、ゴリラよりももっとヒトに近く、DNAのレベルでは、ヒトとチンパンジーはわずか2%くらいしか違っていないと言われている。つまり、ヒトの心身の中には、チンパンジーと共通することがたくさんあるのである。

ゴリラ社会とチンパンージ社会の一番の大きな違いは、ゴリラ社会は一党(一匹)独裁型であるのに対して、チンパンジー社会は、群れの中でオス同士が激しく権力闘争をするシステムであるということだ。

そして、もう一つの大きな違いは、メスがもっと自由であり、誰と関係(sex)するのか、少なくともゴリラ社会よりはずっと自由に選べるというところである。チンパンジーの社会は性的にpromiscuousな社会である。

前回、イラン、北朝鮮等は、ゴリラ型の国と紹介したが、では、現代の地球で、チンパンジー的な国とはどこかといえば、一番のチンパージ的社会は、アメリカ、そして、ヨーロッパ、日本等の先進国である。そういった社会は、激しい競争社会であり、その一方女たち(メス)は、自由な恋愛を謳歌している。

チンパンジー的社会の価値観は、どんなものかといえば、

* 競争に勝った強い男(オス)がヒーローで、自分の欲しいものを一番たくさん得ることができる。(スポーツ選手はその象徴であり、彼らがもてはやされる理由がここにある)

* 競争に勝った男(オス)と関係する女(メス)がヒロインである。

* チンパンージ的社会では、いつも他人のことが気になる。というより、より正確に言えば、他人と比較した自分のポジションが気になる。他人と自分、他人がもっているものと自分がもっているものを比較しては、いつも嫉妬や不安に苦しむ社会である。

* 競争が謳歌される一方、同時に、所属している集団の秩序を守ることが重要で、無用に集団の秩序を乱すものには、罰が与えられなければならない。

この最後に書いた「競争が謳歌される一方、同時に、所属している集団の秩序を守ることが重要」というのは、ゴリラ・マインドに比べてかなりの複雑なマインドの働きで、先進国の人たちは、子供の頃から、家庭、学校、職場で、その複雑なマインド――たえず競争し、かつ、たえず協調するというような、かなり矛盾するマインドを学ばさせられる。

ヒトの中のチンパンジー・マインドは、競争と(人間)関係に取りつかれているマインドともいえ、ヒトの世界の人間関係の悩みはその多くが、「集団の中の競争と和」という、なかなか両立しえないものを両立させようとするストレスに起因している。

そして、そのストレスが集団の中で極端な形で現れるとき、それはイジメ・中傷となり、さらには暴力にまで発展する場合もある。集団で特定の個人をイジメるのは、きわめてチンパンジー的な行為であるのだ。

集団の中のイジメというのは、集団の和・秩序を乱したと(チンパンジー・マインドが思う)異分子に対する罰という大義名分のもとに、本当は、いじめている相手よりも自分たちは強いという満足感を得たいという目的で行われる行為なのである。したがって、そういったときのヒトのチンパンジー・マインドは、実はかなりの劣等感とストレスに苦しんでいる。

前回も書いたように、類人猿の子孫である私たちはほとんどの人が自分の中にゴリラ・マインドやチンパンジー・マインドをもっている。が、それが作動するかどうかは、人それぞれで、自分の中のゴリラ・マインドやチンパンジー・マインドを認識・理解し、そして笑うことができる人は、そういったマインドに支配されずにすむはずである。

さて、先日私は、sex and the city という、何年も前からアメリカ、そして、日本でも女性たちに大人気のDVDを見ていた。ニューヨークのセレブな独身貴族の女たちの生態を描いている(現実よりもかなり上品に美化されているようだが)このアメリカのテレビドラマは、まさにチンパンジー・ワールド全開で、チンパンジーの性と心を学べるなかなか楽しいドラマだ。高度なチンパンジー・マインドを駆使する女(メス)と男(オス)の駆け引きが見どころで、しかも、英会話の勉強にもなる。(内容が内容だけに、俗語も多いが、登場人物は皆さん教養のあるセレブなので、とてもきれいで洒落た英語をしゃべっている)

このドラマのある場面でヒロインの一人が、一度だけ関係した男にこう詰問する場面がある。

「(あなたは)体だけが目的なのね。(私のことを)恋人だとは思っていないのよ。私はあなたが思うような女じゃないの」(おいおい、チンパンジーよ、「体」以外のどんな目的があるのだよ?←←私のツッコミ)

女にゴチャゴチャと愚痴や怒りをぶつけられても、そこは、この男はゴリラではなく、頭のいいチンパンジーなので、怒ることもなく、キレルこともなく、おだやかにこう言い訳を始める。

「まだ(君の)体しか知らないけど、(それ以外のことは)これから知るよ」

かくして、男(オス)は巧みな話術で女(メス)を騙し、再び、欲しいものを手に入れたのでありました……


参考図書

「政治をするサル」フランス・ド・ヴァール著 平凡社
チンパンージーの世界で、どういう「政治」が行われているのか、長年研究し、観察した記録。ヒトの世界の政治(や性・恋愛)の起源は、チンパンージにあり、ということを教えてくれる貴重な本である。

「風葬の教室」山田詠美著(新潮文庫)
学校という場で、どういう状況でイジメが起るのか、いじめられる立場から描いた短編。ちょっと主人公(いじめられる側)を美化しすぎという感じもしなくはないが、よくありがちな思春期の少女たちの心理を巧みに描いている。

「人をめぐる冒険」髙木悠鼓著(マホロバアート)

少子化対策大作戦2008年04月14日 21時46分02秒

結婚しているカップルで、夫が家事育児を積極的に手伝う場合は、妻が二番目の子供を生む確率が高い――最近そんな統計をインターネットで読んだ。現代では、家事育児を積極的に手伝う夫は、そうでない夫よりも子供をたくさんもてるということが、統計的に証明されたようである。

それに関連して、家事育児を手伝わない夫たちへの不満を、妻たちがタラタラと述べているサイトも読んでみた。みんな怒りまくっている。いわく、

「結婚する前は、家事を手伝うといったのに、実際は言っても何もしない」とか、
「子供が生まれてから、まったく夫は家事育児を手伝わず、自分だけ一人で遊びに出かけている」とか、
「不満を言うと、誰のおかげで、お前は飯を食っているんだと言われた」とか、まあまあ、様々な不満がぶちまけられている。

そして、多くの人が、その最後に書いている。

「今、離婚を考えています」
「子供が、手がかからなくなったら、離婚します」
「これから、お金を貯めて、離婚の準備をします」

自分が、家事育児を手伝わないくらいで、離婚はないだろうと、そうたかをくくっている世の男性方、その考えは、甘い! 今日日、女たちは、夫が家事育児を手伝わないくらいで、簡単に離婚したくなるのです――しかも、年代を問わず――夫が家事を手伝わないという理由で、50代、60代でも妻から離婚を申し立てる夫婦さえいる。

こういう女たちの怒りはもっともなものの、しかし、男が家事育児をしたがらないのには、生物学的根拠があるのだ。つまり、オスという種の長い進化の歴史の中で、オスの仕事は「種を蒔くこと」だけ、という種が多いのである。オスは、子育てはおろか、餌だって運んでこない動物もたくさんいる。そのため、オス(男)の脳の中には、自分の仕事は、「種蒔きだけ」という観念が根強く残っているようなのである。

あるとき、私はチーターのメスの子育てをビデオで見たことがある。チーターのオスも「種を蒔くだけ」の動物の一つで、子育てはすべてメスがやる。数年間、メスと子供たちという母子家庭で、母親は、狩りをして子供たちに餌をやり、子供を外敵から守り、そして子供に狩りを教えと、24時間孤軍大奮闘。それなのに、ある日突然、子供たちはもう一人前と判断すると、唐突に子供たちと別れるのだ。子供たちのほうは去っていく母親を見送るだけで、決してあとを追いかけようとはしないし、母親も振り返りもしない。そのあまりの未練のなさに、私は感動してしまったのである。

では、人類はといえば、少なくとも餌だけはオス(男=父親=夫)に運んでこさせようということで、数百万年前に、いわゆる結婚制度みたいなものが始まり、男は外で狩り(仕事)、女は家で家事育児という男女の役割分担が確立した。

ところが、その数百万年間続いてきたパターンが、過去数十年間、先進諸国では、女たちが外で働くようになり、お金を稼ぐようになってから、急激に変わってしまったのである。女たちは家事育児以外にも、人生の楽しさを知るようになり、家事育児に費やすエネルギー・時間をできるだけ減らしたいと思うようになっている。

女(というより、正確にいえば、女の脳)は、数百万年も続いてきたライフスタイルを、わずか数十年で簡単に変えることができたのに、男(男の脳)はといえば、それが簡単にできないのである。単純に言ってしまえば、女の脳は器用で、男の脳は不器用なのだ。女の脳はマルチで、家事も育児もできれば、外で仕事もできるし、やろうと思えば、たいていのことを簡単に学び、平均的にこなせてしまう。

一方、男の脳は、一点集中型で、たいていは仕事と趣味とスポーツくらいにしか関心がもてない。家事育児は、多様で煩雑で細かいことの連続で、普通の男の脳にはおそろしく難しい。そして男の脳は、自分が関心のないこと、不得意なことをしようとしたり、させられたりすると、ものすごくストレスがたまって、イライラし、切れやすくなる。

ほとんどの夫たちの本音をいえば、仕事から帰ったら、風呂に入ったあと、好物を食べながら、静かにビールを飲み、何も考えずにプロ野球やサッカーでも見ていたい――妻のうるさい愚痴も、子供の泣き声も一切聞きたくない。妻の話を聞きたくないのは、妻の言っていることに関心がなく、理解もできないからなのである。

というわけで、話を聞こうとしない夫たちに対する妻たちの愚痴が、前述のように炸裂するわけなのだ。「できるだけ家事育児の負担を減らし、それ以外の色々なことをして人生を楽しみたい」現代の多くの女たちが共通していだくこういった願望を、男たちはほとんど理解していないし、ここ数十年で、女たちが急激に変わってしまった時代状況になかなかついていけない――昔のような、「おーい、風呂、飯、ビール」の時代は、すでに終わったのである。

そんなこんなの状況の中で、もし、自分の子孫がたくさんほしいと――男がもし本当にそう思うなら、考えられる作戦は以下のとおりである。

1.家事育児援助作戦――家事育児のやり方を熱心に学び、まめに妻を手伝う。

2.金持ち作戦――お金をバリバリ稼いで、家にお手伝いさんを雇えるくらい大金持ちになる。大金持ちにならないまでも、各種家事代行サービスをバンバン利用できるくらい稼ぐ夫となる。

3.誉め倒し作戦――家事も育児も手伝いたくないし、お金もたくさん稼げないという夫は、妻を誉め、感謝の言葉を濫用する。妻がどんな食事を作ろうと、「ありがとう、おいしいね」を忘れず、自分の優先順位が子供たちよりも下でも、おかずの量が子供たちよりも少なくても、決して文句を言わない。妻の容姿、化粧、服装をどんなときにも誉める。すると、妻は何となく気分がよくなり、夫に対する不満や愚痴をつい忘れてしまい、家事や育児は自分の仕事だと思いこみ、夫に手伝わせるのをあきらめる。(自分の趣味に忙しく、育児も家事もほとんどしないにもかかわらず、この作戦を実行して、平均以上に子供をもてた男性を私は何人か知っている)

4.邪道作戦――あちこちの他の男たちに、こっそりと自分の子供たちを育てさせる(これがどういう意味か、おわかりですね?)

男性の皆様、少子化対策のために、がんばって!


参考図書
「話を聞かない男 地図が読めない女」アランピーズ/バーバラ・ピーズ著 「主婦の友社」発行

男と女の脳の違いを、一般向けにわかりやすく書いた本。

人は、親を踏み台にして、成長する2007年12月17日 18時58分00秒

先日、あるサイトで、「親に言われた一言で、傷ついています」という投稿に対して、「私も親にこんなこと言われて、傷つきました」という何百もの膨大なレスポンスが寄せられているのを見て、親子関係って、「永遠のトラウマ」なんだと改めて思ったものだ。

私も含めて、人生で知り合ったほとんどの人は、親との関係である種のトラウマやジレンマを抱えていた。親子関係の問題の根、それは、一言でいえば、「期待」である。親の種類にかぎらず、子供の種類にかぎらず、人間は、他の誰よりも、子供に期待し、親に期待する。つまり、「子供はこうあるべき」「親はこうあるべき」というテンコモリの期待や理想像を、自分の子供や親に押し付けるものだ。それはほとんど「親宗教」、「子供宗教」とも呼べるような、信仰に近いものである。

幼い子供から見ると、親は「神」であり、すべてのよきものは親から来るはずだと信じている。ところが、成長していくにつれて、親は食事や保護も与えてくれるけど、同時に、自分が嫌いなもの(小言、叱責、悪口、規律、しつけ、制限)も与えるようになり、「なんか、変じゃん、親って神様じゃなかったの? こんな変なものくれる神様なんか、大嫌い!」となる。親を誰より好きで、親に頼って生きているだけに、親(神)のイヤな面を見たときのショックも大きい。

では、親のほうはどうかというと、親にとっては、自分の子供は、自分の作品か投資商品という感じであり、それが自分のイメージや期待に合わないことをしだすと、これだけ手間ひまかけて育てているのに、こんな程度の成長かというような、期待はずれや失望感が湧き起こってくる。

親の人間的理性(人間脳)がちゃんと機能しているときは、「自分が思っていることを正直に子供に言ったら、子供は傷つくだろう」と自制が働き、言葉をこらえることができるが、親が生活苦やその他の過度の精神的ストレスにあるときは、自分よりも立場が弱い子供をそのストレスのはけ口にする。子供を攻撃したからって、仕返しされる怖れもないからである。

自分よりも弱いものを攻撃して、精神的安定をはかる――動物脳のストレス解消法である。そして、動物脳に特有なことは、自分が言ったこと、したことは、すぐにケロっと忘れることだ。そもそも自分の言葉にまったく無自覚で、ただストレスのはけ口に、思いつきで子供に言葉を投げつけるだけの話なのである。

ところが、言われた子供のほうは、親の言葉を何十年間も覚えていて(なにしろ、「神様の言葉」だから、そう簡単に忘れることはできない)、その間、ずっと傷つき続けている。サイトに書き込まれている、「親から言われて傷ついた言葉」をずっと読んで、私は、書いている人たちの親への怒りと、同時に、そういう言葉を子供につい言ってしまう親たちが、その当時どれほど不幸だったのかを想像してみた。

親子関係のヒーリング――それは、相手に対してもっているすべての「期待」、「親は子供を無条件に愛すべきだ」「子供は親の言うことに従うべきだ」などというような真実ではない信仰を、手放すことであり、親子関係で起きたことは、すべて起きるべき必然であったことを理解することである。

親子関係で起きたことは、学習・奮起の材料であり、親は人生の踏み台であり、反面教師なのである。そう理解できるまで、人は親子関係で傷つき、怒り、人生を後ろ向きに生き(親は過去の原点である)、前に向かうエネルギーを自分で奪っている。「親は完全無欠な神のようであるべき」という観念を捨てるとき、人は、自分の中にいる本当の「完全無欠な神」に出会う可能性が開かれる。

念のために言えば、「理解」とは、宗教系の人たちがよく説くところの「許しや感謝」とは、少し違うような気が、私はしている。「許す」という言葉には、「あなたは何か悪いことをしたけど、それを私は許してあげる」というようなニュアンスがあるが、理解とは、単に、「人がしたり言ったりするどんなことも、本人もコントロールできない、しかたのないこと」という積極的なあきらめのようなものであり、許す必要も、許される必要もないとわかることだ。

というわけで、私自身は、親を「許した」ことも、「生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう」と一度も親に言った記憶もない。そういう言葉を素直に言えないのが、私らしいところである。でも、今、親を心からありがたく思うのは、まだ時々私にたくさんお小遣いをくれることと(^_^)、80代になっても、相変わらず、口が元気(つまり、子供と喧嘩するエネルギーがあるということ)で、弱ってきたとはいえ、寝たきりにも認知症にもならずに、生きていることだ。


お勧めの本

「探すのをやめたとき愛は見つかる」バイロン・ケイティ著(創元社)
親子関係だけでなく、あらゆる人間関係からストレスを取り除いて、自分の中にある本当の愛を見出すための本。たった4つの質問を自分にすることで、
真理でない思考から解放される。

「人をめぐる冒険」高木悠鼓著 (マホロバアート)
 動物から人へ、人から神への意識の進化のプロセスを書いた本。人間関係に悩む人、精神世界の様々な観念に混乱している人、観念と現実のずれに悩む人にお勧めしたい。

アルファ・オス(序列が一番上のオス)になりたい夫たち2007年12月06日 10時26分18秒

「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」と、夫に言われて、怒りがおさまらないという主婦の悩みを、たまに悩み相談のサイトで見かけることがある。

「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」という言葉は、昔から、夫婦喧嘩のときに、夫たちが、主婦である妻に投げつける定番の武器であり、私も昔、知り合いの主婦の人たちから、その怒りを聞いたことがある。

そして、機会があるときには、夫たちがその言葉を妻に言わざるをえない、動物脳の習性を説明してあげたこともあった。

その動物脳の習性とは、

ヒトも含めて集団をつくる哺乳類は、集団の中の序列を確定したがる、ということだ。そして、序列を確立したあとで、自分が他のメンバーに対してどういう行動をとるかを決定する。

よく知られている例が、犬で、犬を飼うときは、ペットの飼い主は、自分が犬よりも、序列が上であることを最初にしっかりと犬に教えなければならない。そうでないと、犬は、自分が家族の中のアルファ・オス(序列が一番上のオス)だと思い込んで、誰の言うことも聞かなくなるという。動物脳には、民主主義は理解できないのである。

私が知るかぎり、妻子を養っているほとんどの男は、「オレの稼ぎで、家族は生活している」と思っている。生活費とは、動物的解釈では、餌を運んでくるという意味で、動物の世界では、オスが餌を運んでくることができれば、それは、強いオス=集団の中で序列が一番上ということを意味する。

つまり、妻子を養っている男の脳では、「オレは餌を運んできているので、この集団のアルファオスだ」=「よってお前たちは、オレの言うことに従わねばならない」という解釈が成立している。

ところが、現実のヒト家族では、たいてい、夫であり父親である男の言うことなど、誰も無視して、従わない。そのことが、特に動物脳が強く機能している夫の脳には、耐え難いストレスとなる。「なんでアルファ・オスであるオレの言うことに、誰も従わないんだ? お前ら、なんか変じゃないか?」と。

動物世界では、みんながアルファ・オスに絶対に服従するので、こういった夫たちのストレスと疑問も、当然といえば、当然なのである。

人間の脳がある程度機能している夫の場合は、たとえ、「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」という思考が心によぎっても、もしそれを口に出して、妻に言ってしまったら、夫婦関係が悪くなるのを理解しているので、理性でとめて、言葉をこらえる。

さらに、もし神の脳が機能している夫であれば、「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」という思考がよぎったときに、その思考そのものの真実を疑うはずだ。事実は、誰かが誰かを養っているなどということはなく、ただ縁によって、いくつかのボディ・マインドが、家族として引き合って、神の意志によってお互いを支え合っているだけの話なのだ。「オレの稼ぎで、家族は生活している」などという思考そのものが、笑止千万である。

このように、「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」などという言葉と思考は、笑止千万であるにもかからず、家庭内でアルファ・オスの地位を名実ともに勝ち取ろうとあがいている夫たちにとっては、妻子を黙らせ、従属させる(そして、嫌われる)最強の武器でもある。

そして、もしそれを言われた妻の側が、いつまでも、うじうじ、ぐじゃぐじゃと悩み、怒るとすれば、その人の中にも、「自分は夫に養われている」という劣等感と負い目があるはずであり、敵(夫)はその弱点を攻撃して、従属関係を作ろうとするわけだ。相手の一番弱いところを攻撃するのが、動物的習性というものである。


夫婦喧嘩は、カップルが離婚する運命がない場合、激しくやりあったあと、仲直りするケースも多いので、妻の側も、一人で悩んで怒っているよりは、女の得意技、「口撃」で、反撃するのもいいかも、と私は思います。

「誰のおかげで、お前は飯を食っていると思っているんだ?」と言われたら、

「誰のおかげで、あんたは毎日、清潔なパンツをはいて会社へいけると思っているの?」と同様に笑止の言葉で切り返す、あるいは、

「あんたが私を食わせているって? ええ? そんなまさか!? 今日まで知らなかった……」と、ボケて見せる、あるいは、

「ごめん、実は今だから言うけど、内の子供たち、あんたの子供じゃないようなの……あんたの知らないところで、私も色々あってね……
今まで、本当にありがとう。自分の子供でもないのに、お金出してくれて、本当に感謝するわ」と白状して、さらに修羅場を作るか……