「癒やし系妻&夫、ほしいです……」2013年09月09日 09時03分50秒

この間、ものすごく久しぶりに結婚式に行ってきた。不慣れなフランス料理のフルコースを食べながら、今どきの結婚式に驚き、そして新郎新婦の挨拶文に、思わず笑ってしまった。

そこにはこう書かれてあった。

新郎が考える理想の夫:強い夫
新婦が考える理想の妻:癒やし系の妻

途中で祝辞を述べた中年の男性がこう言った。「私も、癒やし系の妻、ほしいです……」
 
理想とはいつも現実の逆である。その結婚が、風雪に耐えて、数十年無事続いたとしたら、そのカップルの両親がそうであるように、「癒やし系の夫と強い妻」のカップルになっているはず……であろう。

(キリスト教式の)結婚式では、カップルは、「富めるときも貧しいときも、健やかなときも病のときも、死が二人を分かつときまで……」と神父の前で誓うわけであるが、この約束を成就できたら、キリストのスーパー弟子である(!)

癒やし系の夫&キリストのスーパー弟子――今年のはじめ、そんなスーパー癒やし系「夫&父親」である人の講演を聴きに行ったことがある。

その壮絶な結婚生活を綴った本がベストセラーになり、その他仕事術の本もたくさん書かれている佐々木常夫さんという方である。

講演の内容は――結婚し、子供が3人生まれ、自分は大きな会社で課長に出世という順風満帆だったときに、突然、妻が鬱病にかかり、それから別の病気も併発して、入退院を繰り返すようになり、さらに子供の一人が自閉症でとても手がかかり、自分が家事・子育て全部をやらなければならない立場になった。そのため毎日、残業なしで定時に帰れるように仕事を工夫し、会社では出世し、社長になり、会社の業績も伸びた。しかし、会社の仕事はうまくいったものの、家庭生活では次から次へ難題(長女の自殺未遂や息子の自閉症が悪化等)が起こり、家庭が崩壊しないように数十年間必死で頑張った――だいたいこういう内容の話を、巧みな話術とユーモアで語られた。

現在では、奥様も回復され、普通に家事ができるようになり、子供たちもみな立派に成人し、佐々木さんも社長業を引退し、講演と著作の日々をのんびりと送り、仲のよい最愛の家族に囲まれて、とても幸せな生活を送っているとのことである。
 
講演の最後に、参加者の女性がこう質問した。「離婚を一度も考えなかったのですか?」

それに対して佐々木さんはこう答えた。「一度も離婚しようと思ったことはないです」

講演を聴いていた会場の大半を埋めた女性たちは、仕事と家庭を両立させ、家族を自分が守り抜くという佐々木さんの強い決意に感動し、そして、こう思ったかもしれない。

「私も、こんな癒やし系&強い夫、ほしいです……」



[お知らせ]

*2013年9月22日(日)「私とは本当に何かを見る会」(東京)
 
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html

*201310月26日(土)「人をめぐる冒険ワークショップ」(広島市)
 
http://www.simple-dou.com/CCP037.html

*2013年10月27日(日)「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
  
http://www.simple-dou.com/CCP037.html                                            


感情の研究(1)―嫉妬の可能性2013年05月02日 06時29分52秒

人間は、感情の生き物だとはよく言われるし、実際その行動の多くが好き嫌いによって左右されている。感情は、ときには喜ばしく、とくには苦しく、ときには切なく、ときには恥ずかしいものでさえもある。

「私とは何か」の目覚めの教えでは、多くの賢者の方々は感情・思考レベルをあまり語らない。たぶんその理由は、本質から見れば感情・思考レベルはどうでもいいことであり、そういう話に時間を割くのがもったいないということもあるのだろう。それにもかかわらず、「私とは何か」を探求している多くの人たちが、感情・思考レベルで混乱して、そのことが「私とは何か」を認識し、それを生きる障害になっているように感じることがある。

感情・思考の解放から目覚めへ導く方法として、今まで、バイロン・ケイティの四つの質問、セドナ・メソッドを紹介してきた。バイロン・ケイティもセドナ・メソッド(ザ・リリース・テクニックをいう名称もある)の創始者であるLester Levenson (1909――1994)も素晴らしい賢者で、彼らの生きた目覚めがこれらの方法には注入されているので、感情・思考の混乱に悩む人たちにはお勧めしている。

このブログでは、これから数回にわたって、人間の感情の中でとりわけしつこく居すわる感情、「嫉妬」と「罪悪感」について、それらがどう発生し、居すわるのか、そのメカニズムへの理解を提供したいと思っている。

まず今回は「嫉妬」について。

人間がもつ感情の中で、嫉妬は一番やっかいであり、イヤなものであり、恥ずかしくさえある。そのため、他の感情に比べて、嫉妬ははるかに自分の中で気づかれにくく、抑圧される傾向にある。

なぜ嫉妬は恥ずかしさを喚起するのかといえば、それは嫉妬には、正当な理由がないからだ。それが他の否定的な感情とは異なるところである。たとえば、人が何かや誰かに怒りを感じるときは、表向きには、一応自分を納得させる理由がある。「あの人が私にこんなことをした(言った)から、私は怒っていて、だから私が怒るのは当然だ」と。自分の怒りにプライドさえいだき、他の人たちにもその怒りをしゃべりまくる人もいる。

しかし、自分が誰かや何かに嫉妬を感じるときは、そういう正当な理由がない。つまり、相手が自分に何かをしたわけでもないのに、自分の中で、他人の所有物、境遇、才能、美貌、収入などに嫉妬が突然湧きおこるのだ。怒りとは違って、相手にまったく非がない。嫉妬を感じる人はそのことを無意識には知っている。嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを強く意識させられる。だからこそ、嫉妬を感じることは辛く、恥ずかしくさえあり、だからこそ、それは抑圧されたり、他の何か(相手に対する怒りや嫌悪感、軽蔑、批判など)に転化されることが多い。

最近読んだサイトの投稿に、要約すると次のような話があった。

ある母親からの投稿で、自分の息子と同じ塾に通っている息子の友人についてである。息子のその友人は、塾からの宿題も免除され、家庭ではゲームで好きに遊ぶことも許されていて、夜も早々と寝てしまうという。それなのに、塾での成績は抜群である。ところが我が息子は、塾の宿題を毎晩夜遅くまでやっとの思いでやって、しかも家庭ではゲームも禁止、それなのに成績は友人にはるかに及ばない。息子は友人を称賛しているが、その母親は塾の対応を疑い、塾に抗議しようかと思っている。

とまあ、以上のような内容である。「おいおい、お母さん、本気ですか?」とツッコミを入れたくなる内容であり、当然、「お母さん、あなたがおかしいです」というコメントがたくさんついていた。このお母さんが自分と息子を同化して、息子の友人(とその家庭)に嫉妬をしているのは、明らかであり、嫉妬を外側への批判に置き換える典型的な例である。しかも、堂々とこういう文章を書いて投稿するあたりが、自分の嫉妬に完全に無意識である。

このような無意識の「嫉妬」はトリックスター(悪戯もの)でもある。万一このお母さんが、他人のコメントを読んでも目が覚めず、本当に塾に抗議したら、そのことは、自分の人生と息子の人生に対して大きな逆風となって、あとで跳ね返ってくる可能性がある。

世の中にはあらゆるものに恵まれている(ように見える)人たちはたくさんいる。しかし、私たちの嫉妬という感情は、すべての人に向くわけではない。このことは嫉妬について重要なポイントである。私たちは普通、芸能人やスポーツ選手がどれほど金持ちでも美貌でも豪邸に住んでいても嫉妬を感じることがない。学者がどれほど頭がよくても、ノーベル賞をもらっても、嫉妬することもない。

つまり、嫉妬とは、心理的・物理的に同じコミュニティ(友人、同じ世代、職場、家族、学校、近所、業界、その他サークル等)に所属する(あるいは所属していると思っている)相手に対していだくもので、普通、まったく無関係で無関心な相手には、嫉妬を感じることができない。

さらに言えば、嫉妬を感じるためには、「相手と自分は平等で同一であるはず」という観念も必要である。嫉妬とは、「本来同一で平等であるはずの人」がそうでないと気づくときに感じるショックでもある。ある意味では、私たちは嫉妬を感じる対象に非常に人間的愛情いだいている。

それから最後に、嫉妬の一番重要な点は、人が強く嫉妬を感じるときは、その裏には可能性があるということである。反対から言えば、自分の中に可能性のないことには、人は嫉妬を感じないものなのだ。嫉妬の裏側にあるものは、「可能性」である。

そのことを理解するとき、嫉妬を感じることに、否定的な気持ちや恥をほとんど感じなくなる。「そうか、これは可能性なのか」と。自分の嫉妬を受け入れていけば、しだいに、嫉妬を感じることも少なくなり、時期がくれば可能性が花開く道が自然に開けてくる。究極的には、「私とは何か」の目覚めが、嫉妬からの解放を強力に推し進める。なぜなら、(私たちのエゴは信じないけれど)「あらゆる瞬間に私たちの本質には、必要なものがすべてある」からだ。反対に、嫉妬に対してまずい対処は、嫉妬を抑圧したり、先の投稿者の例のように、無意識に外側に転化していくことである。

以上嫉妬が生じるメカニズムをまとめれば、
*同じ心理的物理的コミュニティに所属
*「同一で平等であるべき」という観念と相手に対する愛情
*可能性

さて、嫉妬についてよくある俗説として、「女は男より嫉妬深い」とか「女の嫉妬は怖い」(笑)などとよく言われるが、まったく誤解である。嫉妬に性は関係ない。男の嫉妬の悲劇を描いた有名な作品として、シェークスピアの「オセロ」、モーツアルトのライバルの音楽家の目からモーツアルトの生涯を描いた映画「アマデウス」、そしてそれほど有名ではないが、ユダの目からイエス・キリストを描いた太宰治の短編「駆け込み訴え」などが、私には印象に残っている。これらの作品では、男の嫉妬の切なさと悲劇が見事に描かれている。

新約聖書に題材をとった「駆け込み訴え」は、数年前に読んだ話で、太宰治の作品を読むのは、数十年ぶりであった(若い頃、私は太宰治を愛読していた)。太宰治は人の惨めさを描くのが本当にうまい。想像するに、非常に嫉妬深い人だったような気がするし、そしてたぶん、聖書もかなり読んだのだろうけど、彼はイエスではなく、ユダに共感して、イエスの教えは彼の救済にはならなかった――1948年、入水自殺(享年39歳)。

[伝言]
ニサルガダッタのPrior to Consciousness の特徴は、

*「アイアムザット」よりかなり短い。
*最晩年の講話録(死ぬ前の2年間の講話録)
*ニサルガダッタが末期の癌の中で、最後の気力を振り絞って話している。
*「アイアムザット」よりも、さらに内容が純化し、本質的なことだけに話を絞っている。







職場処世術2012年12月04日 17時41分00秒

「共感欠如のことを調べていてたどり着きました。同僚(男性、40代後半)が共感欠如ではないかと思います。いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず、自分が「良い」と思うと職場のルールは無視で突っ走ってしまいます。個人的には、病気で休んだ日に夕方自宅に突然現れたことがありました。迷惑だと言う説明は理解できないようです。どう対処したらいいのか困っています」(うさぎ)


以前書いた、「アスペルガー症候群」について最近、上記のようなコメント(質問?)をいただいた。ご参考になるかどうかわからないが、本日は、職場の人間関係について書いてみたい。


まず、職場で生じる問題について考えるべき第一のことは、「人は職場に何をしに行くのか?」というバカみたいな質問である。答えは、誰にとっても、本当は一つであるべきだ。それは、「仕事をするため」である。ランチやオヤツを食べるためでもなければ、しゃべりにいくためでもないし、友人や恋人や結婚相手を探しにいくためでもない。今述べたような楽しみは、仕事をしたうえでの「おまけ」である。

そして、職場では普通、一人で仕事をやることはまれで、たいてい一緒に仕事をやるたくさんの人たちがいるので、人間関係をうまくやることも「仕事」の一部である。職場の人間関係が悪いと、仕事の成果や能率は低下するのが、一般的である。

職場では、人間関係を作ることが目的ではなく、仕事を能率的にしかもできるだけ自分が消耗しないようにやるために、人間関係にどう対処するかという考え方が必要ではないかと思う。そうでないと、学校と同じように、ここでもまたよくありがちな人間同士の「好き・嫌い」やグループ内の権力闘争による問題が起こり、仕事よりもそちらに熱中といった事態に陥りがちである。実際、職場の人間関係の悪さは、よく見聞する話である。

それから、人間関係一般に関して、基本的に理解しておくべきことは、

他人を変えることはできない。つまり、共感能力のない人に、共感能力をもつように、強制することはできない。共感能力がない人は、単純に「共感能力がない」、のである。

他人の中に強く非難・批判したいところを見つけたら、同じような部分を自分ももっているのではないかと、関心を自分に向けることが重要である。たとえば、「いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず」とは、私たちのほとんどがそういう部分ももっている。私たちのエゴは、何事にも自分が一番正しいと信じて疑わないものである。ただ、人間的に多少でも成長した人は、「自分がどれだけ正しいと思っていても、それを必ずしも表現するのがいいわけではない」ことを経験から学び、さらに成長した人は、「あらゆる意見や考えは同じだけ価値があるか、同じだけ価値がない」ことを、理解したというだけの話である。(うさぎさんには、バイロン・ケイティのワークをお勧めします←←ネットで検索すると、出てくると思います)

私たちは「ものすごく嫌い」とか、「ものすごくイヤ」と思っている事態や人を、引き寄せる傾向がある。そうした自分の感情に執着しつづけるかぎり、仮に職場が変わっても、また同じようなタイプの人が目の前に出現する可能性がある。

私自身は大勢で一緒に働く職場体験は非常に短かったのだが、その昔の経験を振りかえると、職場という場所は不思議なところで、色々な考えと能力の人たちがいたことを思い出す。私のようにできるだけ会社での滞在時間を短くしたい人がいるかと思えば、残業大好きな人たちもいて、仕事を頼むと、「まかせてください!」と、いつも仕事をたくさん引き受けてくれるありがたい人もいた。職場では、一緒に仕事をする人の能力を認めて、おだてて(笑)、できるだけ快適に過す術を学ぶことをお勧めしたい。もし共感能力がないアスペルガー的な人が職場にいるなら、その人は、他の人にはない何か非常にすぐれた能力をもっているはずである。

このコメントを書かれた方がスピリチュアルや心理学などに関心がなければ、たぶん、今書いたようなことはあまりご参考にはならないかもしれない。そのときは、どこかの投稿サイトに改めて投稿して、慰めてもらってください。そのときには、次のようなコメントが予想される……

(予想)コメント

「『いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず、自分が「良い」と思うと職場(家庭)のルールは無視で突っ走ってしまいます』って、その人、私の夫みたいです。しかも毎晩、私の寝室に現れます」
(同じ悩みをもつ妻)

「その人、自宅に来るなんて、あなたのこと、好きなのかも、です。なんか、ストーカーぽいですよ。キケンです。上司に訴えましょう」(オヤツ大好きOL)

「そんなバカには、迷惑だって、100回くらい怒鳴ってやれば? だけど、バカは死んでも治らないか……」
(ランチ命のライオン)

「どこの職場にもそういう人いますよね。私の職場にもいます。完全無視です。姿見たら、よけます。みんなで無視無視作戦で、職場から追い出しちゃえば?」(快適ネコ)

「あんた、おれの職場のあの人? あんたのような奴がオレの職場にもいてさ。あんただけじゃないけど、みんな俺の天才ぶりがわかんないんだな。今、職場に必要なのは、共感能力とかつまんないルールじゃなくて、天才的仕事の能力、そうだろ? 天才は孤独をいとわず、なんちゃってね。でも、あんたには認められたいんだ、ホンネのところは」(オレ様)


[お知らせ]

「瞬間ヒーリングの秘密-QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し」
 (フランク・キンズロー著 ナチュラルスピリット発行)が、発行されました。

目次等は下記サイトをご参照ください。
http://www.simple-dou.com/CCP036.html









「シズコさん」2012年09月08日 10時40分00秒

この8月は、スイカと枝豆を毎日山ほど食べながら、母親の話相手・テレビメイト(テレビをいっしょに見る人)をつとめ、できるだけ母の関心のある話と活動をいっしょに楽しんだ(料理、時代劇、昔話など)。私はテレビドラマの登場人物の関係や粗筋を読み取るのはあまり得意ではないのだが、それでも、水戸黄門や鬼平犯科帳はなんとかこなすことができ、耳が少し遠くなった母に時々ストーリーの補足的解説をした。テレビドラマは、老人の認知症防止に案外役立つようである(テレビ業界には、耳の遠くなった老人たちのために、水戸黄門や鬼平犯科帳などの昔の時代劇に、字幕をつけていただきたいと要望したいものである)。

母親と私(たち娘たちは)はひどく親しい。子供の頃から今までずっと。だからいっしょにいるときは、親しいゆえの苦痛、親しすぎるゆえの苦痛、もっと親しくなろうとするゆえの苦痛が時々お互いをおそう。

娘にとって、母とは何なのか? 母にとって、娘とは何なのか?

最近は、娘の立場から母親との葛藤・確執を告白したような母娘ジャンルの本がよく出版されるようになったが、そんなジャンルの本である「シズコさん」(佐野洋子著 新潮社)を紹介してみよう。

「シズコさん」は、著名な絵本作家が、自分の母親との確執と和解に、自分の生い立ちをおりまぜて語ったような本だ。著者の母であるシズコさんは、戦争の頃に子供を亡くし、さらに中年の頃に夫を亡くし、そのあと残された4人の子供たちを一人で育て上げ、しかも家事全般に有能で、晩年は習い事に励み、まあ、いってみれば、「スーパーかあさん」のような人だった。

ところが、そんな母親を著者は長い間、嫌い、しかも、母親を嫌っている自分に罪悪感を感じて、二重に苦しんでいた。「シズコさん」の中に、何度も何度も、母親への嫌悪感と自分の罪悪感が告白されている。

世の中には、いろいろなタイプの母親がいる。一人一人の母親がユニークで、その母親から生まれてくる娘も一人一人ユニークで、したがって、世の中には無数の母娘関係の組み合わせがある。

共通していることは、どんな母娘もお互いを愛し合い、同時にお互いを嫌い合うこと(時期)もあるということだ。
それはなぜかといえば――娘と母親の間には、ある種の微妙なライバル心があり、それはいわゆる「女友達の原型」のようなものである。

娘にとっては、母親は、「女として生きるとはどういうことか」を最初に教えてくれる人であり、娘は、母親の中に自分の将来を無意識のうちに重ね合わせる――お母さんのように生きたいとか、お母さんのようには生きたくないとか、お母さんのように○○ができるようになりたいとか、お母さんと同じくらい幸福になりたいとか、お母さんよりも幸福になりたいとか、お母さんのように不幸になりたくないとか。娘というのは、子供の頃から母親を基準に、自分の将来の幸福について考えるものであり、娘ほど自分の母親を真剣に愛情深く、かつ辛らつに観察する人はいない。

では一方母親にとっては、娘は何かといえば、やはり自分の幸福と不幸を投影する対象であり、娘には自分のように生きてほしいとか、自分は○○だったから、娘には○○に生きてほしいとか、○○のような結婚をしてほしいとか、○○のような結婚はしてほしくないとか、まるで娘が第二の自分自身であるかのように、娘の将来をコントロールしようとするのである。

かくして、お互いに家庭の外では誉められるような、よい母親、よい娘であっても、家庭の中では、愛情とコントロール願望とライバル心がせめぎあって、母親と娘の間にはある種の戦争が起こる場合がしばしばである。

母娘だけでなく、親子は他の誰よりもお互いに愛し合いたいという切ないほどの願いがある。それにもかかわらず、その願いがなかなか実現せずに、確執があちらこちらで起こるのは、それは、「親は、○○であってほしい」「子供は、○○であってほしい」というテンコモリの期待や投影や観念を通じて、お互いを眺めるからである。
自分の狭い観念から見たお互いのある面が「好きだ」とか「嫌いだ」とか思うことは、自分が相手に投影したイメージを「好きだ」とか「嫌いだ」と言っているにすぎず、そのときは相手の多面的なありのままの姿を見ていないことになる。

娘の立場である人たちは、「母親が好きだ」とか「母親が嫌いだ」という話をよくするわけであるが、その実際は「好きだ」と思っている人でさえ、母親を嫌いなときはあるものだし、反対に「嫌い」だと思っている人でさえ、母親が好きなときはあるというのが、正確なところだ。嫌いな母親、好きな母親という多面的な母親を見ていくとき、それは同時に娘である自分自身をも多面的に見ることにもなり、「母親が好きだ」と思っているにしろ、「母親が嫌いだ」だと思っているにしろ、自分の中にひどく母親に似ている面を発見し、驚くことになる。

シズコさんの娘である著者は、「嫌い」という感情に執着し続け、老いて心が壊れていく母親を、自分の老後のために貯めたお金をつぎ込んで高級介護施設に入れて、自分の罪悪感を慰めようとするのだが、それでもなかなか心が晴れない。

最後になってやっと、「強い母親」ではない別の母親の面を見ることができて、今まで、自分が母親の一面しか見ていないことに気づき、母親との確執が消え、和解が起こったのである。推測するに和解が起こったからこそ、著者は本書を母親のためにも書いたのであろうと思う。

和解が起きて、双方が年齢を重ねてまるくなっていけば、母娘は、お互いに足りないところを助けあえる最強&最愛の友人となることができる。そしてそのときの母娘関係の苦痛とは、最強&最愛ゆえの代償である。

その他参考図書

「母が重くてたまらない」信田さよ子著(春秋社)
長年、母親のことで悩む娘たちの相談にのってきた臨床心理士が、どこまでも娘を追いかけてくる母(笑)の傾向と対策を語った本



ワンネスへの希求と挫折2012年04月20日 10時47分24秒

最近、スピリチュアル系の本で、非常によく使われる言葉にワンネス(oneness)という英語がある。――ピッタリな日本語訳がなかなか見つからないのだが、「一つであること」という訳はよく使われている。「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」(本体価格1900円――発売されました――ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の中にも何度か出てきている。

人という種は、スピリチュアルな探求をしている人たちでもしてない人たちでも、いつも切ないほどにこのワンネスを希求し、そういったワンネスの希求が様々な人間ドラマを生み出している。

先日、ある投稿サイトに次のような話が出ていた。二人の若い女友達の間で起こったちょっとした事件である。

投稿した女性は、もうすぐ結婚予定で、そんなある日、友人が遊びに来たので、婚約者から買ってもらった結婚指輪をはめてその友人に見せていた。たまたま彼女がその指輪をはずしてテーブルに置いたとき、その友人が何気なくそれを手にとって自分の指にはめるという事件というかハプニングが起こってしまった。友人が自分の結婚指輪をはめているのを見たその女性は驚愕しパニックに陥り、あとでそれを思い出すと怒りと悲しみでいっぱいになり、ついには友人に怒りのメールを送り、結婚式も近いというのに、その事件のせいで、非常に憂鬱になっている――とまあ、だいたいそんなような話だったと記憶している。

言ってみれば、女友達の間のたわいもない諍い(いさかい)なのだが、深く読めば、彼女は若い女性特有のワンネス(oneness)の希求とその挫折を語っているのである。

その女性は指輪を友人に見せた時点でおそらく、指輪の素晴らしさと自分の幸福を友人にも同意してほしかった、つまりワンネスへの希求が無意識にあったはずだ。「ねえねえ、この指輪どう、素敵でしょう? 今、わたし、すっごく幸せなの。あなたもそう思うでしょう?」みたいな。

ところが、彼女のそのワンネスへの希求の結末は、彼女の望むようにではなく、まったく予想外に展開して彼女を驚愕させることになった。しかし、少し賢明に状況を見てみれば、別の形では彼女のワンネスへの希求は実現したことがわかる――その友人が指輪をはめたという事実によって。

人、特に女性、特に若い女性には、「自分が美しいと感じるものに触れたい」という無意識の本能的願望がある。だから、その友人が投稿者の女性の結婚指輪に手を伸ばして、それをはめてみたということは、「わあ、素敵な指輪、こんな指輪を買ってもらって、もうすぐ結婚だなんて、あなた、幸せね」という同意を彼女なりに表現したわけだ。

だから、もしその投稿女性がそういうふうに状況を見ることができれば、ワンネスへの希求が実現して、本当は喜ぶべきで、何も悲しむべき話でもないのだが、エゴが物事を解釈すると、状況はどんどん悪化し、この女性のエゴは、結婚の喜びも人間関係も自分自身でぶち壊しているというわけである。

世の中の人たちが、特に親しい人間関係に対してもっている愚痴・不満・不平とは、ワンネスを希求したあげく、その結末をエゴが解釈することによるものである。ちなみに、私たちのエゴは常にワンネスを希求しながら、実際はワンネスを嫌悪しているという奇妙な絶対矛盾に陥っている。

では、スピリチュアルな探求をしている人たちはどうかといえば、やはり多くの人たちはワンネスの理想的状態を希求することで、ある種のストレスに陥っている。なぜストレスかといえば、ワンネスとは根源的な「既成事実」であるゆえに、その状態に「なろう」と頑張ることは、いわば、蛇足であり、かえってワンネスの事実から離れることになるからである。そして、私たちが肉体、思考・感情といった現象的次元で、誰かや何かとのワンネスを求めて、仮に一体感のようなものが得られたとしても、それは一時的なものにしかすぎない。反対に、一時的に否定的感情や思考がわこうが、それこそ喧嘩や対立があろうが、それさえも、根源的なワンネスを壊わすわけでもなく、時と場合によっては必要なことかもしれないのである――先ほど例にあげた投稿者の話でいえば、ひょっとしたら、二人の人間関係は終わるほうが、双方にとってよりよいために、そういう事件が起こったのかもしれないのである。

そのことを理解したなら、現象次元でのワンネスの積極的追求をやめることができ、ワンネスを象徴する喜びなどの感情が自然に来たらそれもOK、否定的感情がわいてもそれもOKとなり、他人も自分自身もあるがままにしておくという贅沢を味わうことができるのである。

ワンネスへの激しい希求がどれほどストレスで暴力的になるかの具体的証拠を見たければ、究極のワンネス希求国家、お隣の北朝鮮の状況がそれを物語っている。国民全員を金(キム)一族への崇拝という「たった一つ」の思想に無理やり統一しようとする不可能をやろうとするゆえに、約700億円ものお金(8割の北朝鮮国民の一年分の食費に相当)を愚行につぎ込んで、そのストレスを外に向かって発散せざるをえないのである――今回はそのストレス発散(ミサイル打ち上げ)さえ失敗に終わり、さあ、これからお隣さんはどういう暴走に走っていくのだろうか……

[関連サイト]

「アジャシャンティ」公式ホームページ
http://www.adyashanti.org

ナチュラルスピリットのサイト
http://www.naturalspirit.co.jp/

ブッククラブ回(スピリチュアルブック専門書店)
http://www.bookclubkai.jp/index.html

 「あなたの世界の終わり」 の 本の目次が下記サイトに掲載されています
シンプル堂サイト
http://www.simple-dou.com/CCP035.html

[イベント]

2012年4月29日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)
詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html

*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html



シマウマの婚活ルール2012年02月15日 10時06分49秒

いつだったかテレビで、シマウマの生態を見たことがある。シマウマは大人のオス一頭とその妻(妻が単数だったか複数だったかは失念)と娘たちで暮らしている。そして、若いオス(息子)たちは群れを離れて、別の群れの若いメス(娘)に求愛し、また新しいカップルが誕生して、という具合に種が存続していく。

面白いのは、その求愛というか婚活で、ある集団の若いメスに若いオスが近づいてくると、その集団のボス、つまり、父親は必ずその若いオスと戦うのである。娘はといえば、その戦いをのんきに眺め、もし若いオスが父親に勝てば、若いオスについていき、もし負ければ父親のところに残る。このルールに例外はない。

こんなことは動物の世界だけかと思えば、案外このルールは、人の中の動物的マインドにも根強く残っているようである。世間でいうところの「結婚適齢期」(ほとんど死語に近い言葉ではあるが)の娘をもつ女性が、「親が娘の結婚に反対するのは、儀式のようなもの。反対されて引き下がるような程度の男と、娘を結婚させたくない」と言う発言を私は聞いたことがある。そのとき私は思わず心の中で、「シマウマか……」とツッコミを入れたものだ。

清水義範さんの小説の中に、一般的な父親が娘にいだく感情がどんなものかをよく表した文章があり、それを紹介してみよう。

「そして、最終的には娘には好きな男ができて、その男に奪い取られてしまうのである。
そのことを空想すると、腸(はらわた)が煮えくりかえる。怒り心頭に発する。怒髪天を衝く。泣くに泣けない気持ちになる。いても立ってもいられない。神も仏もないのか、と思ってしまう。
 娘が好きになるほどの男だから、おそらく紳士的ないい青年だろうとは思うが、ひょっとするとそうじゃなくて、私の娘に何かエッチなことをする奴かもしれない。そんなことをチラリと考えるだけで胸がつぶれる。私のあの娘に、エ、エ、エッチなことをするとは、このバババ、馬鹿者め。下がれ下がれ下がれ、控えおろう、という気分になる」 (「親ごころ」-「似ッ非イ教室」より。講談社文庫)

私の長年の見聞では、娘が結婚するとき、親と娘の間で、何かの騒動が起きなかったほうが珍しかったので、たぶん、大多数の父親が今書いたような感情構造をもっていると言って間違いないことだろう。

今私の人間マシンと同年代の人たちは、子供が結婚する年頃であり、そういった同年代の人たちを見て、多少は私も親ごころというものを解することができるようになってきた――若い頃は、子供の結婚に反対する親、そもそも成人した大人がしたいということに反対する「種族」は、私にとっては理解不能だった。

先ほどの清水さんの作品の中の父親の感情を別なふうに表現すると、子供とは親にとって「貴重な花」なのだ――長年、水をやり、肥料をやり、暑さから寒さから守り、お金と時間をかけて丹精をこめて育てたすえにやっと美しく咲いた花。ようやく花(子供)が美しく咲いて、これからはゆっくりとその花(子供)を楽しもう・鑑賞しようと思っているところへ、どこの「馬の骨」(と昔の親はよくこの言葉を使ったものだ)ともわからん奴が、自分の美しい花(子供)に忍びよって、勝手に断りもなしに、その花を持ち去ろうとしているのだ。親にしてみれば、その馬の骨に向かって、「一体お前は、何の権利があって、私の花を勝手に持ち出そうとしているのか? お前はこの花の成長に一円だって、支払っていないだろうが?」という憤懣やる方ない怒りがわき、自分の花に対しても、「今まで、これだけの愛情をこめてお前を大事に育ててきたのに、あんな馬の骨のほうが私よりいいとは、どういうことだ。お願いだから、もう少しの間、お前の美しさ・かわいさを私に独占させてくれ」という悲しい気持ちに駆られるのである。親にしてみれば、人生の不条理そのものである。しかし、若い頃の子供にそんな親の気持ちが通じるはずがなく、子供は親より外の世界の人間関係に夢中になる。

一般的に親がこういう気持ちに駆られているらしいのは、よく見かける風景だったのだが、こう思ったあとで、自分を振り返ることができるかどうかが、動物的マインドと人間マインドを分けるのである。人間マインドが機能している父親なら、泣く泣くこういう理解にいたるはずだ。「いやいや、自分だって、昔、よそ様の花々を勝手に持ち出して、エ、エ、エッチなことをたくさんして、おかげで父親にもなれたのだ。したし方がない、人生とはこういうものだ」と。

しかし、最初に紹介したシマウマの婚活ルールと親である女性の発言にも、動物的とはいえ、その中に何がしかの実用的知恵というものがある。親という種族は押しなべて保守的である。つまり、子供がしたいということ、特にそれがある種のリスクがあるようなことにはたいてい反対する。しかし、反対しても反対しても、もし子供が親の反対を突破すれば、最後にはあきらめて応援する親も多い。

私が思うに、もし親が反対したせいで、やめてしまえることなら、結婚にしても、その他のことにしても、「その程度の縁」なのである。つまり、たぶん、やめるほうが正解なのである。(今、読んでいる本、「非道徳教養講座」平山夢明著 光文社―の中の「賢い親の裏切り方」という文章の中で、著者は、映画監督になるという夢をどうしてもあきらめることができず、勤めていた会社をやめたとき、親に勘当された話を書いている。親に勘当されてもやりたいもの、それを著者は「魂の納得」と呼んでいる)

ということで、若い世代の皆さんの中で、婚活や夢の実現のために活動している人は、シマウマ親対策も忘れずに!



親子関係は切ないもの2012年02月03日 08時36分22秒

先月、父がついに旅立ってしまった。亡くなる前は病院通い、そして亡くなったあとは葬儀等で、あわただしい一年の始まりであった。

親が死んだら、どんな感情がわくのだろうかと思っていたのだが、今は哀しいというよりも、父が点滴・チューブの苦痛から解放されて、そしてその父の苦痛を見る苦しみも終わって、ほっとしたというのが非常に正直な気持ちだ。

大正生まれの父は、人は家族・親族・国家に尽くすべきという強固な戦前的家父長的人生観をもち、その観念どおり、縁ある人たちに尽くして一生を生きた。それに対して、私(だけでなく、子供たち全員)は、そういった父の観念を嫌って、誰一人何一つ父の言うことに従わず、自分勝手に生きてきたので、父の頭の中にはたぶん、「なんで誰もオレの言うことを聞かないんだ???」があったにちがいない。ちょうどS新聞(父の愛読紙)とA新聞が表面的論調ではしばしば対立するように、父と私(たち)は、若い頃は激しく、お互いに歳をとってからは穏やかに言い争いをし、そして、しだいに言い争うこともなくなり、最晩年はほとんど食べ物の話ばかりするようになった。

しかし、考え方、価値観、生き方、趣味など、あらゆることが違っているにもかかわらず(おいしいものをいっしょに食べるのが好きというのが、家族全員で唯一共通しているところだ)、父と私(たち)はなぜかピッタリな親子なのだ。何がどうピッタリなのかを言葉にして説明することは難しいが、自分の運命の展開にお互いが寄与し合ってきたというか、あるいは、お互いが自分の人生映画の中で欠かせない登場人物となって、喜びと苦しみを与え合ってきたというか……

あらゆる親子関係にはある種の「切なさ」がある。「切ない」という感情は非常に複雑な感情だ。おそらくその切なさの根底にあるのは、ある種の「恋愛感情」であろうと、私は感じている。それは、「決して成就しない恋愛」ともいえるし、あるいは、「はじめから成就している恋愛」ともいえるかもしれない。親子として一体感を感じようとする運動と、その中で埋没しないようにまた分離感へ動こうとする運動が、複雑にからみあって生まれる濃厚で味わい深い感情。単なる愛情でも憎しみでも怒りでも喜びでも悲しみでも好き嫌いでもなく、それらが全部合わさったような「切なさ」に、人はしばしば「中毒」する。だから、この「中毒」が重症となって手に負えなくなるとき、セラピー等の場所でそれに対処する必要が生じたり、また小説家であれば、それをテーマに小説を書いたりする必要性が生じるのであろう。

もちろん実際に一体とか分離があるわけではなく、人生映画が起こるために、人が映画に没頭するために、そうした「一体感」とか「分離感」という幻想が生まれるわけだ。

最後の五ヶ月間、父にずっと心で伝えたことは、「長年父親役をやってみんなを支えてくれて、ありがとうございました。お疲れ様でした。そして親孝行ができなくてごめんなさい」ということだった。たぶん、父(の役割をした存在)も私の感謝と謝罪を受け入れて、平和に源泉へ帰っていったと確信している。




夫(政府)の弱腰・妻(国民)の不満2010年11月09日 12時41分49秒

世の夫族は、概して弱腰である。それが結婚生活における世の妻族の不満の一つである。

子供のこと、近所付き合い、親族付き合い等々において、たとえば、妻が
「ねえ、あなた、ご近所の〇〇さんが××で、困っているんだけど、あなた、注意しに行ってよ」とか、

「お義母(おかあさん)が、毎月、ここに泊まりに来ているけど、こっちも忙しいから、なんとか、あなたからもう少し回数を減らすように、言ってよ」とか言われると、

夫は、たいていこんな返事をする。
「別に、いいじゃないか。そのうちついでに言っておくよ」と逃げ腰で答える。面倒な場面にはなるべく巻き込まれずに、穏便にすべてを済ませたい――それがたいていの世の夫族の本音だ。

妻は、「そのうち」は、決して来ないことを知っているので、内心不満たらたらである。では、自分が出て行って言えばいいのだが、妻も自分が非難を浴びてまで、あえて人間関係を悪くしたくはない。妻は、自分が出来ないことは棚上げして、自分の夫には出るべきところへ出て、言う必要があるときは、ビシっと意見を言ってもらいたいと思っている。が、その妻たちの願いは、多くの家庭ではかなえられないでいる。

人が生きている人間環境――近所、親族、子供の教育関係、職場の人間関係では、しばしばゴリラ的な人が出没して、彼らは、自分より誰が弱いか、強いかをちゃんと査定して、弱腰の人のところへ平気で無理難題を押し付けてくる。

最近の日本の外交問題を見ていると、まさに弱腰夫(政府)とそれに不満タラタラの妻(国民)というよくある日本の家庭の風景を見ているようである。

日本のご近所さん、中国、北朝鮮は一党独裁共産国家で、ロシアもつい最近までは一党独裁共産国家で、昨年も書いたように、一党独裁国家の思考パターンは、ゴリラである――つまり、私(国家)だけが、絶対に正しい。私に刃向かうものは、全部間違っている――というゴリラ的思考で生きている。

中国ゴリラに、間違いは存在しない、というよりも、存在してはならないのである――たとえ、自分から、船をぶつけようが、車をぶつけようが、何をぶつけようが、悪いのは、ぶつけられた相手であって、自分ではない。

さて、こういったゴリラに、人間の礼儀(その場所がどこであれ、故意にしろ、偶然にしろ、ぶつけたほうが、詫びる、それが人間の礼儀だ)を理解させるのは至難のわざだ。ゴリラは、自分より弱いと思っている相手の言うことは、聞かないのだ。

では、中国ゴリラは、何を恐れているかといえば、アメリカとそして国際世論だ。国際世論が盛り上がって、「中国ってこんなひどい国なのか、人間以下だ。あんな国とは付き合いたくない」と思われるのは、これから世界中に進出したい中国にとっては、さすがにイヤなことである。

そういう意味では、国民のほとんどが思っているように、中国船の衝突事件のビデオがyoutubeに流出したことは、よかったことであるのだ――あなた(中国)がこれからもこういう行為を繰り返すなら、youtubeにいつだって、あなたのしたことが世界中に暴露されますよという警告の意味で。

弱腰夫(管さん)は、こう言っている。「時間がたてば、政府は正しく対処していることが、わかってもらえるはずだ」と。これはまるで、何もしない夫が、家庭の中で、「俺が正しいことが、いつか君にもわかってもらえると思うよ」とのん気に妻に言っているようなものだ。

それと同じくらい笑えるのは、元夫(元、前首相)たちがしばしばマスコミに登場して、「私なら解決できた」とか、「菅政権のやり方はここがおかしい」と、言い放っていることだ。

たしか、菅さんだって野党のときは、散々自民党を批判して、「私ならこうする、ああする、もっとうまく解決する」と言っていたと記憶する。自分で何もできない弱腰夫にかぎって、自分がその立場にないときには、「私ならこうする、ああする」と言うのである。

国民世論調査によれば、内閣支持率は30%台まで落ち込んでいて、内閣支持率は政府と国民の離婚バロメーターでもある。管さんは、「石にかじりついてでも頑張る」とおっしゃるが、現在の妻は、昔の妻と違って、我慢強くない。「いつか」の前に、さっさと離婚する……が、妻(国民)も、いつだって自分にピッタリな夫(政府)を得ていることに気づかなければ、どれだけ夫(政府)を新しく変えても、不満は永遠になくならないものであろうとは、思うけど。



「ありがとう」の種類2010年08月11日 16時44分02秒

猛暑お見舞い申し上げます。(愛用の老体ノート・パソコンも熱中症気味で、たびたび労働拒否(フリーズ)。保冷剤で冷やすと、多少調子がよくなることを発見!)

先日、Y新聞系の投稿サイト(時々、愛読している)に、次のような内容の投稿があった。

要約すると、
「私の友人に、何事につけ『ありがとう』を言う人がいる。『電話してくれてありがとう』、『会ってくれてありがとう』等々。彼女は愚痴も悪口も、好き嫌いも言わず、本当にいい人で私は秘かにプチ聖人と呼んでいるのだが、あまりに頻繁に『ありがとう』を言われて、私は苛立っている。そんな私は性格が悪いのだろうか?」

とまあ、だいたいこういう内容だったと記憶している。それに対して、「あなたは、性格が悪い」とか、「自分のまわりにもプチ聖人みたいな人がいて、自分も同じように感じている」とか、その他数百の様々なコメントが寄せられていた。

スピリチュアルな業界というか世界では、「ありがとう」は、ほとんど「こんにちは」みたいな言葉で、私も含めて皆さんよく使う言葉であるのだが、「ありがとう」には、実際いくつかの種類があるのではないかと、私は思っている。

一番一般的なものは、
1職場、仕事関係、ご近所、家族等の間で社交的に使う「ありがとう・ありがとうございます」は、「おはよう・おはようございます」とか、「お世話になります」とか、「よろしくお願いします」と同様な役割があり、その意味は、どの言葉も共通して、「私たちは知り合いで、ある種の関係があり、お互いの利益を損なわないように努めます」ぐらいの意味であろうと、私は理解している。

それから、
2知人・友人・親族、そして、見知らぬ人に具体的に親切な行為をしてもらった、お中元・お歳暮、プレゼントをもらったときに言う「ありがとう」がある。この場合の「ありがとう」は、「あなたのご好意がうれしい」ぐらいの意味である。

以上の1と2の「ありがとう」に関していえば、言わないよりは、適宜言えば、スムーズな人間関係に役立つことは間違いないことである。

3修行としての「ありがとう」――おそらく、「ありがとう」を常に口にすると運がよくなるという教えの広まりだろうと思われるが、修行や訓練として、一日に何回も「ありがとう」を言うように努めている人たちが、今日本全国にたくさんいるようである。こういう教えは、大まかにくくって言えば、言葉に霊が宿るという「言霊信仰」 の部類に入り、「ありがとう」の他にも、「ついている、うれしい」とか、「愛しています。許してください」などのポジティブな言葉を繰り返すことで、心身の浄化や願望達成、運命の向上に効果があるとされている。

実際、病気が治った、収入が増えた等のたくさんの効能・効果も報告されているということなので、たぶん効果はあるのだろうと思う――どんな修行でも、一生懸命にやれば、それなりの効果はあるものである。

それから、最後に
4言葉にできない「ありがとう」があって、何かや誰か、存在そのものに、突然にわく感謝の念というものがある。こういう感謝の念は、自分の意志でどうにかできるものではないし、修行や運の向上とも無関係である。

で、最初に紹介した投稿者の友人は、愚痴や文句を言わずに、何度も「ありがとう」を言うということなので、たぶん、今説明した、3の「ありがとう」修行を実践中なのだろうと思われる(コメントにもそういう指摘がいくつかあった)。

投稿者の苛立ちを推測するに、たぶん、本当は「ありがとう」の問題ではなく、それは、言葉によるコミュニケーションの問題なのである。一般的に、普通の会話をしているとき、人は、いつも同じ言葉で、反応されるのを好まない傾向がある。もし誰かがこちらが何を言っても、いつも、定型句で反応してきたら、「この人は、自分の言うことをちゃんと聞いていない」というような印象になってしまうのだ。

一方、スピリチュアルな研鑽の場では、教えの言葉をいくつかの定型句にまとめて、少ない観念を徹底して繰り返して叩き込むということがよく見られ、それはスピリチュアルな研鑽の場では、有効なことが多い。たとえば、前回と前々回説明したラメッシの教え、「すべては神の意志」もその一つである。

言葉によるコミュニケーションとは、場所・状況・相手を踏まえないと、どれほどポジティブで、真実で、聖なる波動や言霊が宿るとされる言葉を使っても、コミュニケーションの成果という観点から見れば、まずい場合もあるし、私もたくさん失敗した経験がある。

さて、「ありがとう」の元々の意味は、仏教の教えにその起源があるそうで、それは、「有る」ことが「難い」、つまり、本来は、「あることが困難=めったに起らない貴重な」という意味なのである。

その意味では、(無数の人の中から)縁あって人と人が知り合って、電話であれ、直接であれ、言葉を交わすことは、めったにない貴重な機会で、だから、(言葉で表現するかどうかは別として)、気持ち的には、「お会いできて、ありがとう」「お話できて、ありがとう」なのである。人との出会いは、一期一会で、次はないかもしれず、さらに、人間界で言うところの「死」が、いつどこで誰に起るか、わからないからだ。




アスペルガー症候群――共感能力の違い2010年06月10日 12時01分48秒

アスペルガー症候群という名前の病気がある。どういう病気か簡単に言ってしまうと、脳に障害があるせいで、他人とコミュニケーションをとるのが困難になるという病気だ。しかし、ある特定の分野ではかなりの能力があるため、多くの人は普通に社会生活を送っている。アスペルガー症候群の人は、幸か不幸か、対人関係にエネルギーを使わない(使えない)分だけ、自分の得意分野に一点集中して、エネルギーを投資しているとも言え、―点豪華主義の脳をもっているわけである。

最近、マスコミでもこの病気を取り上げることが多くなり、病気の認知度があがり、また企業の中でも、アスペルガー症候群の人たちの特殊な能力を、仕事に生かそうという動きもあるらしい。

医学的にはアスペルガー症候群ではない人でも、他人の気持ちがほとんど理解できないアスペルガー症候群的な人たちは多くいて、昨年のブログで言及した、達成マインドは発達しているのに、理解マインドが発達していない人の中にも、アスペルガー症候群的な人たちはたくさんいる。

アスペルガー症候群やアスペルガー症候群的な人な一般的な特徴は、

*特定のことに対する抜群の記憶と能力。
*それ以外のこと、他人に対する無関心、無理解。
*世の中で言うところのKY(空気を読まない・読めない)
*他人の心を想像・理解する共感能力の欠如。(共感能力はないけど、反社会的でもなければ、他人や世の中を憎んだりしているわけでもない。内面は、心優しい人が多い)

共感能力――つまり、他人の心を想像したり、理解したり、自分を他人の立場に置いて考える能力が、他の動物にはない人間の大きな特徴の一つだと言われている。

人間の社会では、人は一般的共感能力があるという前提で集団が運営されているので、他人と関わるあらゆる場面で人は、「こう言えば、この人はこう感じるはずだから、これは言わないでおこう」とか、「今、この状況で自分がこういう言動をするのはまずい」とか、「あの人は言葉ではああ言っているけど、本当はこう思っているに違いない」というような、他人の心を類推する作業をやるように暗黙に求められている(本当は、みんな面倒くさいとは思っているけど)。

ところが、脳の障害のためにこういった類推作業をしないというか、できないのが、アスペルガー症候群も含めた自閉症の人たちで、彼らは、共感能力が前提となっている社会の中での人間関係に困難を覚えている。

以前見たあるアメリカ映画で、アスペルガー症候群らしい天才学者が、酒場で、女性に一目ぼれして、いきなりその女性に、「僕とsexしませんか?」(正確なセリフではないかもしれないが、だいたいこんな表現)と言って、女性にびんたされ、呆然する場面があった。

彼は、自分がなぜ女性の気分を害したのか、まったく理解できない。彼にしてみれば、悪意があるわけでもなく、からかっているわけでもなく、相手の女性を魅力的に感じ、純粋にそうしたいと思ったから、単純に相手に尋ねただけのことだ。しかし、世の中の一般常識では、アメリカでも日本でも、初対面の女性に向かって、いや、初対面ではなくても、「僕とsexしませんか?」は、たとえ、丁寧に尋ねてもまずい……はず。

自我が形成される前の子供たちは、みな多かれ少なかれ、自分の感じたままを大人に言ったりするものである――「嫌い」「臭い」「あれ、欲しい」とか、「ヤダー」「あっちへ行って」とか――大人が言えば、ヒンシュクを買うような言葉でも、子供が言えば、ほほえましく聞こえたりもする。

普通の子供は、成長するにつれて、他人の気持ち・行動を少しずつ想像・理解・予測できるようになり(自分がこう言えば、こう行動すれば、相手はこう感じるだろう、こういう反応をするだろうみたいな)、また言葉は、それが使われる文脈・状況に応じて意味が変わることも理解するようになる。

以前読んだ自閉症関係の本にこういう話が書いてあった。

「ご飯を食べに行こう」と誘われて、その場合の「ご飯」は「白米」ではなく、「食事全般」の意味であることを理解できなかったとか、

ホテルの部屋で、
「お客様の声をお聞かせください」というアンケート用紙の文字を見て、
実際に声を出して叫んでみたりとか、

私は読みながら笑ってしまったのだが、実際の場面では、そういったいわばコミュニケーションの断絶は深刻な問題となる可能性がある。

実は、この共感能力は障害がない普通の人々でも、非常に個人差がある――いつも過剰に他人の気持ち・感情を想像・理解しようとする人(一般的に女性が多い)から、まったく想像・理解できない・しない人(一般的には男性が多い)まで――それは、一人一人の人間の脳は、それぞれ得意と不得意があり、一人一人まったく違ういわばある種のコンピュータ・システムのようなものだからだ。

私たちが対人関係で感じるストレスとは、この人間コンピュータ・システムの共感能力の違いに由来していることが多く、それは、要約するとほとんど、「どうしてあなたは(あの人は)、私が感じるように、私が気を使うように、私が行動するように、感じたり、気を使ったり、行動してくれないのか?」みたいな不満となる。

その「どうして?」の答えは、実に簡単だ――単純に、その人の現在のシステムでは「そうすることができない」、というものである(将来は、そうすることを学ぶかもしれないが)

そして、その不満への対応も簡単である――あきらめるか、あるいは、どうしても相手に理解してもらうことが必要なときには、相手(のコンピュータ・システム)が理解できる言語、説明、表現を工夫するか、である。工夫しだいでは、コミュニケーションがうまくいくかもしれない。

まあ、アスペルガー症候群や自閉症ではないとしても、対人コミュニケーションは誰にとっても決して簡単な分野ではない。そして、対人コミュニケーションは、いつも絶対的に正しい対応というか正解というものはなく、いつも学びの連続である。学び続けるうちに、しだいに、「どうしてあなたは(あの人は)……」的な愚痴が減り、理解と工夫が増え、さらに進化すれば、それぞれユニークで不思議な人間マシン(自分のものも、他人のものも)の多様さを楽しみ、驚く余裕さえもつようになれるかもしれない。

参考図書

「ひとりひとりこころを育てる」メル・レヴィーン著(ソフトバンククリエイティブ)
一人一人の子供(と大人も)は脳の機能にそれぞれ特徴と違いがあり、そのせいで学校(や職場で)能力を発揮できなかったり、落ちこぼれていくことを、たくさんの事例から説明している。人間コンピュータの脳の機能を解説したかなり専門的な本であり、教育関係の仕事をしている人や小中高の子供を持つ人にお勧めしたい。

「ぼくには数字が風景に見える」ダニエル・タメット著(講談社)
抜群の暗記力と語学力をもつアスペルガー症候群の著者が、自分の半生を語った本。

「動物感覚」テンプル・グランディン著 (日本放送出版協会)
人間の気持ちは理解できないが、動物の気持ちは理解できるという人が書いた本。著者は、家畜の立場にたって、家畜をどうしたら苦しめずに飼育できるかを研究し、それをアドバイスする仕事をしている。

「自閉っ子、こういう風にできてます! 」 ニキ・リンコ著(花風社)
自閉症で翻訳家として活躍する著者が、自閉症の人はどんなふうに世界を見て、感じるのかを語った本。