感情の研究(2)罪悪感の裏側2013年05月19日 10時00分57秒

今回は罪悪感について。

罪悪感については、二年前に一度、書いたことがあるので、そちらも合わせてご参照ください。
罪悪感の三段階(1)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/06/

罪悪感の三段階(2)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/08/

嫉妬と同じく、罪悪感もしつこく居座る、イヤな感情で、それゆえに罪悪感はしばしば抑圧される傾向にあり、他の何かに転化されやすい。

嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを感じさせられると前回書いたが、人が罪悪感を感じるときは、文字通り、自分が「罪と悪の側にいる」ことを感じさせられる。

罪悪感に関して興味深いことは、罪悪感をよく感じる人とほとんど感じないか、まったく感じない人がいるということだ。上記の罪悪感の三段階(1)で、動物や犯罪者は罪悪感を感じないという話を書いたが、普通の人たちの中にも、自分が何をしても何を言ってもほとんど罪悪感を感じない人たちがいる一方、自分の言動の一つ一つが気になり、クヨクヨと罪悪感に悩む人たちもいる。

自分の言動に罪悪感を感じない人たちのよくあるタイプが、自分の言動をあまり深く内省せず、感じたままで物を言い、そしてすぐ忘れるタイプだ。こういうタイプの人は基本、他人の感情領域に鈍感で、「自分の言動はいつも正しい」と信じて疑わないタイプである。こういうタイプの人に、誰かが、「この間、あなた、私にこんなこと言ったでしょう? 私、すごくイヤな思いをした」みたいなことを言っても、たいていの返答は、「え? 私、そんなこと、言ったっけ?」か、あるいは、「そんなこと気にするなんて、あなたのほうがおかしいんじゃない?」みたいな返答となる。うらやましいほどの「短期記憶」(笑)である。

なぜこのタイプの人たちは、そんなに「自分の正しさ」を主張しなければならないのかといえば、それはそう主張しないと、反対の側、つまり、「罪と悪」の側に転落する恐れを非常に強くもっているからだ。本当は、そういった人は罪悪感をもっていないのではなく、何かについて非常に強い罪悪感があって、もしそれを感じたら、生きていくのが非常に辛くなるので、罪悪感を抑圧して、自分を正しい側に置くことで、精神のバランスを保っている。あるいは、普段はめったに自己主張しない人でも、特定の何かに関して、「自分の正しさ」をどうしても主張せずにいられないときがあれば、その背後に無意識の罪悪感があることを疑ったほうがいいかもしれない。「罪悪感と自分への非難」は、抑圧されると、「自分の正しさと他人への非難」に容易に転化されるものである。

精神の進化から考えれば、以上のような罪悪感を感じない人たちよりも、罪悪感を感じる人たちのほうが、進化しているとは言える。

つまり、他人の立場や気持を思いやる気持ちが芽生え、自分の言動を深く内省するようになるからこそ、罪悪感を感じるわけで、罪悪感は、より多くのことを感じられる感受性の進化と向上心と記憶能力の増加のおかげでもある。

しかし、より精神の進化が進んだにもかかわらず、人間界ではなぜか、罪悪感の強い人は罪悪感を感じない人たちよりも、不利な立場に置かれることが多い。その理由は、前回のときにも触れたけれど、一つは、罪悪感は常に人を後ろ向きにさせ、過去の重荷を背負わせ、自分の現在を否定し、前に向かうエネルギーを奪うからである。罪悪感を感じなければ、自由にできることが、いったん罪悪感を感じてしまうと、自分が何をしても、間違った、正しくない側にいるような気がするのだ。そして、これも以前に書いたことではあるが、それに追い打ちをかけるように、罪悪感はある種のトリックスター(悪戯もの)で、自分が無意識に何かに強く罪悪感を感じていると、ほとんど必ず誰かが鏡のように自分を批判しにやって来るという具合である。人間界でよくおこなわれるゲームの一つは、「私は正しい・あなたは間違っている」という罪悪感のなすりつけ合いである。

それから、罪悪感を感じるもう一つの主要な原因に、理想の自己イメージというものがある。自分に対してある種の理想的な善なる聖なる自己イメージをもつ場合、それにそぐわないことをすると、罪悪感を感じやすくなる。自分はよい人(母、父、夫、妻、子供、友人など)であるというイメージを強くもっていたり、自分がいつも正しく、清く、美しく、賢く、スピリチュアルでなければいけないと思ったりすると、自分にも周囲にもストレスを与える。人は、絶対的に善の人も絶対的に悪の人もいるわけではなく、関係によって善になったり悪になったりするだけである。イエス・キリストでさえ、ユダヤ社会にとっては「悪」であったのだ。

だから、私はいつも思うのである。人としての私たちはみな、精一杯生きてはいるけど、それでも不完全な生き物である。だから、自分の中にある冷たさ、間違い、愚かさ、優柔不断、気遣いのなさ、意地悪な気持ちを、ゆるしましょう、って。自分がいつも「よい、正しい、賢い、清い、美しい、高い、聖なる側にいる」と、思い込むのはやめましょう、って。もし次回、罪悪感を感じたら、とことん、「自分は本当に悪いやつ」と感じきるのも、よい方法である――私自身、この方法で、何度かしつこい罪悪感から解放された経験がある。自分の「悪」を受け入れたら、もう「よいふり」をする必要もなくなり、そうすれば、緊張がなくなり、ありのままの自分でリラックスしていられるものである。

それから、最後に、自分が社会の少数派に所属していると感じるときに、「自分の状態はおかしいのではないか」と罪悪感を感じる人たちがたくさんいる。しかし、本当のところは、あらゆる人は究極的には誰でも、「少数派お一人様」である。人としての私たちの存在のあり様は、決して他人と同じではありえず、色々なことが異なるのが普通である。人間は(動物とは違って)、お互いが違って、多様であるのが普通である。自分と他人を比較して、自分が他人のように考えたり行動できないことを責めたり、他人が自分のように考えたり行動できないことを責めても、百パーセントムダ! である。「北朝鮮化運動」(笑)――みんなが同じように考え・行動することを絶対善として、少数派を断罪しようとすることを、私はひそかにこう呼んでいる――は、人生の最大のムダと非効率である。

むしろ、人間関係や組織においては、違うもの同士が、どうしたらお互いの違いを認め合って、共通の仕事や何かを一緒にやっていくことができるのか、それを研究するほうがはるかに役に立つだろうと、思っている。

以上、罪悪感を感じやすい原因をまとめれば、

1他人の感情領域に敏感である
2自分の言動の内省と過去を記憶する能力と向上心の増加
3自分に対する高い理想的な自己イメージ
4自分と他人を比較し、少数派であることを感じる

罪悪感の裏側は、感受性、理想、向上心、記憶能力といった非常にポジティブなものである。だから、罪悪感を感じることそのものに罪悪感を感じる必要はないし、自分の中の負の部分を許せば、自分にネガティブに作用していた罪悪感がポジティブなものに変容するかもしれないのである。

最後に、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」から、若い頃の私の心に非常に響いた言葉を引用して、ご紹介したい。

「何かがわかった時には、それ以外のことについては自分が無知であることを認める、ということです。神聖な使命感を持ったならば、その裏側の罪と共に生き、その責任を受け入れることなのです」 (31ページ)

「自分の中にみにくいものの存在を許して認めてやれば、私達は美しいものを自由に作り出すこともできるのです。自分の愚かな部分を認めてやれば、私たちはどんな高い知恵でも得ることが可能になります」 (32ページ)