『チ.地球の運動について』(2)――「情熱の質」について ― 2025年08月22日 10時27分57秒
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2025年9月21日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
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2025年9月13日(土曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年9月18日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
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今日も、『チ。地球の運動について』についてである。私がこのアニメを見て、もう一つ深く考えたことは、人々の「情熱の質」についてだ。
このアニメの中で敵対関係にある、異端を迫害する教会の人たちと地動説研究者たちは、両方がともに強い情熱をもっている。異端迫害派は、地動説などという危険な思想が広まらないように、地動説研究者を迫害し、撲滅することに情熱をかけ、地動説研究者は、惑星や星の運動に関して何が真実か知りたいという情熱に動かされている。
この二つの情熱はかなり「質」が違うものだ。その違いを言えば、前者(異端迫害派)の情熱は「恐怖」に根差している。それに対して、地動説研究者たちの情熱は、「天体の運動の真実を知る喜び」に根差している。彼らは別に天動説をやっつけたいとか、教会の権威を失墜させて、自分たちが権力者になりたいという政治的動機で研究しているわけではない。そして、この時代、その情熱は非常に危険、命をかける情熱となっていた。実際、『チ。地球の運動について』では、登場した地動説研究者はみな処刑されている。
しかし、人間の幸福という観点から見れば、この物語の中では少なくとも、異端とされた地動説研究者たちのほうが幸福に死んだ感じである。
再び、前回も紹介したオクジーの疑問を紹介すると:
彼は仕事がら(警備組合勤務――仇討ちの代理とか、人を殺すことも仕事に含まれている)たくさんの人の死に際の様子を見てきた。彼は「自分は今まで幸福に死んだ人を見たことがない。教会の言うように真面目に生きてきて、死後これから天国に行けるというのに、どうしてなのか?」と疑問に思う。そして、唯一幸福に死んだのが、星観察が趣味で、彼を星の世界へと導いてくれた警備組合の同僚と、彼が異端審問官の警備の仕事をしたときに会った地動説研究者の二人だけだった。そこから彼はしだいに、「真面目に教会の言うとおり生きていいれば、死後天国へ行ける」という教会の教義を疑うようになり、最初は夜空を眺めるのさえ怖かったのが、しだいに星空を眺めることに喜びを感じるようになった。そして、地動説研究者たちの仲間になり、最後は星空を眺めながら、幸福に死んでゆく。
前回も書いたように、このアニメで描かれていることは現代社会においても無縁ではない。この惑星地球においては、「恐怖に根差す情熱」が圧倒的に強く、「喜びに根差す情熱」はほんのわずかしか実現しない。しかも、私たちは大人になるにつれて、そのわずかな喜びさえも感じることがどんどん少なくなり、反対に恐怖を感じることが増え、さらに悪いことには、その恐怖を抑圧し、感じないようにして生きている。
「恐怖に根差す情熱」は、たとえば、カリスマ的政治指導者が出現して、「〇〇のせいで、私たちは貧乏になっている」とか「我が国の問題は、〇〇の国のせいだ」などと、欠乏の恐怖をあおり、社会の中で膨れ上がれば、それは簡単に社会に対立と分断を生み出し、最終的には「戦争」へと繋がっていく。
今はたまたま8月ということで新聞やネットには、戦時中の悲惨な体験が山ほど語られている。そして、戦争を経験した人たちはほぼ100%、「戦争は悲惨なもの。二度と戦争をしてはいけない」と言う。そして、そういった記事を読む読者だってほぼ100%戦争はしてはいけないと思うはずだ。
ところが……そういった理性に根差す思いは、はっきり言って、恐怖に根差す情熱の前では無力だということを、歴史は証明してきたし、今でもガザ、ウクライナで証明している。「戦争は悲惨なもの。二度と戦争してはいけない」という思いは、万一、政治家や国民の中に恐怖に根差す情熱が伝染し膨れあがれば、すぐに消滅し、一転して「戦争だ! 敵をやっつけろ!」に簡単に変わってしまうだろう。
だから私は「戦争は悲惨なもの。二度と戦争してはいけない」とは簡単に言えない自分に気づく。むしろ、私は問いかける。「戦争は悪いもの。戦争はしてはいけない」という理性的思いはなぜいつも無力なのか?と。なぜ人にとっては命より自分たちの正義やつまらない観念が重要なのか? そこを考えることが重要ではないかと思うのだ――第二次世界大戦のとき、アメリカとの戦争は勝ち目がないという賢明な理性ある提言はすべて退けられ、戦争賛成(恐怖に根差す情熱)派が多数派になり、無謀な戦争へと突入した(という記事を、先日の新聞で読んだばかりだ)。
そういうことを問いかけたからといって、世界中の戦争が止まるわけでもないが、少なくとも恐怖心に根差す情熱への感染防止になると私は思っている。
そして同時に、日々、小さいことをたくさん喜んで生きようと思う。たとえば最近新しい環境になって発見した喜び――1時間に1回か2回、新幹線が通過する音を聞くこと。騒音なのに、なぜか静寂の中でこの音を聞いている瞬間が好きだ。あるいは夕暮れ時に、帰路を急ぐ鳥たちの飛行をベランダで眺め見ることなど。
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by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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