「動物園」・「人間クラブ」・「神の王国」(3)2016年05月10日 15時09分38秒

「神の王国」

伝統的宗教であるキリスト教、仏教 が言うところの「神の王国」、「涅槃」、あるいは非二元系、インドのアドバイタ系の教えが言うところの「悟り」、それが何であるにせよ、ここ数十年でまわっている賢者の方々の教えによれば、「私たちは今ここですでにそこにいる、ないしそれである」というのが定説である。

であるとしたら、私たちが問うべきことや学ぶべきことは、「どうやってそこに到達するのか?」とか「どうやってそれを獲得するのか?」ではなく、むしろ、「どうやってそこから転落する(した)のか?」、 「いつそこから転落する(した)のか?」  ということであろう。

子供の頃、私たちはみなその王国(対立がなく、あらゆる人が必要なものに恵まれている王国)に住んでいたとされている。それが大人になる過程で、王国から転落して、生存競争が激しい人間クラブや、さらに運が悪い場合は「動物園」へすら落ちてしまうのである。

私の理解によれば、転落の主なプロセスと理由は次のようなものである。

1成長する過程で、私たちは全体から自分を切り離し、自分を個体化する。

2個体化する過程で、私たちは孤独になり、他の個体との競争世界、生存競争に投げ込まれてしまう。

3マインドが発達し、社会が教える善悪を学ばされる。

4私たちはしだいにマインドの支配化におかれるようになる。

5以上の結果、私たちはマインドの「get and achieve(獲得と達成)」に駆り立てられ、いつも自分には何かが不足していて、自分の現実はいつも何か欠陥があるという観念に取り憑かれてしまうのである。

以上のプロセスが間違っているとかそういうことではなく、それは子供を社会化し、社会にとって役立つ人間に育てあげるという意味で、必要なことでもある。問題は、ダグラス・ハーディングも言うように、進化というか成長がそこで止まっているということだ。--「『私』は個人的意志をもった一人の人間である」という観念のところで、止まっていることである。

恩寵か何かによって、私たちがさらに霊的進化(成長)をする、あるいはさせられるとき、次のことを理解・認識することで、「涅槃」、「神の王国」、「悟り」が今ここにあり、そこでは必要なものは何も欠けていないことを確信するというだけのことである。だから、それは仰々しくも華々しくも神秘的でもなく、ただ興奮を欠いた平和というのが一番近い表現である。

1「本当の私」は一人の人間(個体)という見かけではない。

2「本当の私」はすべての人の本質でもある。

3「本当の私」とは「神」のことである。(「神」という言葉が嫌いな人は、「意識」でもその他、何でもお好きな
言葉を使ってください)

4私たちが現実と呼ぶものを創造しているのは、神である。よってすべては神(本当の私)の意志である。

5そして、マインドは以上の1から4を理解する能力がない。

6私たちにできることは、現実(それがどんな現実であれ、目の前で展開していることを)神の意志として受け入れることだけである。

なぜマインドは以上のことを理解できないかというと、

1)マインドは常に過去志向か、未来志向であり、そのため、自分や現実を否定し、その不完全さを批判すれば、今よりよい自分や現実が生まれると信じている。

(2)マインドは常に善悪(好き嫌い)の二元的判断に中毒している。

(3)マインドは、当然のことながら、あらゆることを人間の基準・判断で考えるので、「神の王国」、「涅槃」、「悟り」の中では、悪や苦痛はまったくなく、それは人間的喜びや快楽が拡大した世界か、美しく荘厳な心象風景に違いないと想像するが、それがマインドの根本的誤解である。

「神の王国」、「涅槃」、「悟り」の中に、人間がいわゆる「悪いこと」と呼んでいることが起きないわけではなく、それを「悪」とは見ず、ただ「あるがまま」と見るだけである。あるいは涅槃の境地を描いた有名な般若心経を引用すれば、「色即是空 空即是色」(世俗は涅槃である、涅槃は世俗である)である。あるいはキリスト教系、アドバイタ系なら、「すべては神から来ている」となる。私が愛読している20世紀前半に活躍したキリスト教神秘主義者で偉大なヒーラーでもあったJoelS.Goldsmithはこう言っている。

The next time someting that we call evil comes into our expereiece, let us remember our principle and say:" That too,is from God". (practicing the presence より)
「もし次回、私たちが悪と呼んでいる何かが自分の経験の中に入って来たら、私たちの原理を思い出し、『あれも神から来ている』と言うようにしましょう」

そして、人間クラブを卒業して、「神の王国」で生活できるのかどうかの不安がある人たちのために、キリストの言葉も紹介しよう。「まず神の王国を求めなさい。そうすればこれらすべての物があなたに付け加えられるだろう」。(新約聖書マタイ伝より)。またダグラス・ハーディングは同じことを少し違う表現で述べている。「まず本当の自分自身でありなさい。そうすれば(私たちの望む物事ではなく)、必要な物事が与えられるだろう

さて今、私は特筆すべきこともない平凡な部屋な中でこれを書いているし、このブログを読んでいる皆様もたぶん平凡な風景な中で平和にこれを読まれていることと思う。私たちのマインドが何を主張しようが、その平凡さ、その平和さが神の王国です--今夜は(お酒が好きな方は)お酒で、お祝いしてもいいくらいです。

以上のような「神の王国」と神の話は、この夏発売予定の「To Be and not to be、that is the answer(存在し、そして存在しない、それが答えだ)」 の中で、私が書いたような味気ない文章ではなく、ダグラス・ハーディングが重厚に文学的に語っているので、ぜひ読んでいただければと思っている。
 

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「動物園」・「人間クラブ」・「神の王国」(2)2016年04月26日 15時50分20秒

熊本・大分地方の皆様、地震お見舞い申し上げます。
 
前々回の続きです。

人間クラブ

意識が人間段階(人間クラブ)にまで進化した人と動物段階の人の一番大きな違いは、動物段階(動物園)の人たちの関心が常に他人志向であるのに対して、人間段階では、その関心が、自分と自分の目標にのみ向けられるということである。

動物段階では、自分が欲しいものを得ようとするとき、自分が努力して勝ち取るよりも、他人を利用して(操作して)得ることに執心する。なぜなら、自分のエネルギーを使わない分だけ、それのほうが「得な感じ」がするからであり、それのほうがより苦痛(苦労)が少ないと思うからだ。それに対して人間段階では、「自分の」力で「自分の」欲しい物を得ることに喜びを感じ、困難に出会ったときにはそれを乗り越えることにも喜びを感じる。だから、この段階の人は常に高い目標をもち、そのために努力を惜しまない。この段階の人たちのモットーは、get(獲得する)、achieve (達成する)、expand(拡大)である。代表的な人たち--スポーツ選手、ビジネスの経営者、自己啓発の伝道者たち、など。

動物段階でも人間段階でも、人は自分のことにしか感心がない--本当のところは。しかし動物段階の場合は、常にそれが他人経由の自己関心であり、だから、何か問題が起こったとき、悪いのは常に他人で(他人が悪いと、相対的に自分が正しいということになる)、動物段階の意識の人たちは常に他人の悪口を言い、他人を批判する。あるいは、他人と自分を比較して、自分の幸福と不幸の度合いを測ろうとする。

もちろん、人間段階の人たちも心の中では他人を批判するものであるが、批判を表現することは自分のためにならないし、時間も無駄だということをよく知っているので、そんなことをするよりも、自分の目標にエネルギーと時間を費やすほうがいいと考える。要するに、人は自分により正直になって、自分の幸福と目標だけを考え、動物段階よりも、より洗練された利己主義者になるわけである。

人間クラブでは、より強い信念・忍耐・集中力を持つことが成功の鍵である。しかし、名誉と報酬の高い地位(仕事)は、数が限られているので、動物段階とは違った意味で、人間クラブもまた非常に競争社会であり、その競争は、強い信念・忍耐・集中力というマインドの力による競争である。それゆえこのクラブで頑張っている人たちはある種の緊張状態にずっとあり、その緊張が楽しい間はいいけれど、緊張がストレスになると、精神・肉体の病気、その他の問題が人生に起きることがあり、その成功による幸福も長くは続かないことが多い。

スピリチュアル系のワークに関して言うと、人間段階のワークの目的はマインドのパワーを拡大することによって、「自分が何かを得る」ことである。したがってこの段階で、どんなスピリチュアル系の言葉(神、許し、愛、人類愛、豊かさ、悟り、奉仕等)が使われるとしても、その前提に個人があり、すべては「個人的」に獲得(ないし実現)するための、(神、許し、愛、豊かさ、人類愛、悟り、奉仕)であり、したがって、この段階での成功は、(本人が自覚するかいなかにかかわらず)人を非常に強力な利己主義者(個人主義者)にする。

私はここで「利己主義(個人主義)」という言葉を否定的に使っているのではなく、それはそうであってしかるべきで、「洗練された利己主義者である」ことは霊的進化の必要なプロセスであると、私はそう理解している。だから、人がそう自覚しているかぎり、利己主義者であることは悪いことではない。ただ、その事実を自覚していないと、人のエゴは動物園レベルのパワー・ゲームに再び戻る可能性があることは、心に留めて置くべきことだと思う。(私は、「正しい利己主義者であることは霊的な修行である」ことを、20代の頃に前に言及したグルジェフから学んだ)。

私たちがいわゆるマインドのパワーに中毒し、それと自分を一体化しているかぎり、それを超えたものを認識することは難しい。しかし、マインドが成熟し、自らの限界を知り始めるとき、その先に「神の王国」の扉があるのである。

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「動物園」・「人間クラブ」「神の王国」(1)2016年03月24日 09時14分15秒

自分の著書の中で、私が知性(理解)の種類を 大まかに動物段階、人間段階、神段階と分けたのは、それによって色々なことを(少なくとも自分にとっては)うまく明確に説明できるからである。そして、その人の知性(理解)が主にどこに定着しているかによって、人が住んでいる意識の世界が異なり、それぞれの世界を私は娯楽的に「動物園」・「人間クラブ」・「神の王国」と名付けている。 
 
それぞれがどんな意識の国なのか、簡単に説明してみよう。

「動物園」
以前、類人猿についての本を読んでいたとき、よく驚いたことがある。それは、人間の国や組織の中にも、類人猿の組織に似たものがけっこうあるなあ、ということである。
どこに特徴があるかというと、

*一頭(一人)、ないし複数のオスが絶対的権力をもっている。
*そして権力者とその取り巻きだけが、よいものを得ることができ、地位が下のメンバーはみじめな状態にいる。
*権力者への不服従は絶対に許さない。
*権力者のパワーが衰えるとき、群れを乗っ取ろうとして、権力争いが勃発する。

私たちの身近で一番動物園的国家としてわかりやすい例が、隣国(北朝鮮)で、今上に述べたすべての特徴が当てはまっている。金一族とその取り巻きが支配する独裁国家の典型であり、その三代目の息子は独裁者が共通してもっている性格を遺憾なく発揮している。つまり、「残虐性と幼稚性」だ。彼のすることがあまりにゴリラ的なのでネットのニュースをたまに読んで一人で笑うことがある。核実験やミサイル打ち上げは、ゴリラのドラミング(類人猿のオスが自分の力を誇示するために、胸を叩くしぐさ)である。(しかし、動物のゴリラの名誉のために言えば、本物のゴリラのボスのほうがもっと風格があり、頼りがいがありそうである)。

北朝鮮以外にも、アフリカや中東などの国に独裁国家はまだ多くあり、そしてあちこちでテロを引き起こしているIS組織はまさに独裁組織の典型である。

歴史を振り返れば、それぞれの地域で独裁国家が支配していた時代があり、たとえば、フランスではフランス革命前のブルボン王朝が典型的独裁国家であったし、日本では江戸時代が徳川家による非常にゆるい独裁国家だった。

現代の日本はもちろん動物園(独裁国家)ではないが、子供の世界から大人の世界にいたるまで、あらゆるところで動物園(独裁国家)的 組織はあちこちにたくさんある。

痛ましい殺傷事件が起こる少年達のグループ、子供を虐待する家庭はみな動物園の典型である。あるいは従業員を休みなく働かせるようなブラック企業も動物園である。

自分の幼い義理の子供を虐待致死させた若い男性が捕まったとき、「自分は正しいことをしたから、後悔していない」と言ったのをネットの記事で読んで、私は驚きかけた。が、以前にも書いたことがあるように、刑務所の中の多くの殺人犯は「自分は本当に悪いことをした」という罪悪感をもっていないそうなので、まあこの若い男性の発言も驚くには当たらない。独裁者のもう一つの顕著な特徴は、「自分のやっていることは絶対に正しい」という強固な信念で、その信念のためなら、人がどれだけ死のうが傷つこうがかまわないという鈍感さだ。

動物園の中では、そこの住民たちはいつもお互いを監視し合っているので、息苦しく、組織の末端の者たちは過酷な労働と貧困にあえいでいる。末端の者たちは必要なものさえ、手に入れるのが困難である。動物園の中で、豊かな暮らしを達成するためには、自分よりも地位が上のものに取り入り引き立ててもらうしかない。そのため、組織の中では個人の能力や才能は抑圧され、派閥の力学が物事や人事を決定していく。 

独裁者マインドとは、もう少し日常用語的に言えば、すべての物事と人間を自分の思いどおりにコントロールしたいと思う願望で、その願望を強烈に持つ人がいわゆる独裁者である。

このブログを読まれている皆さんは動物園をすでに卒業された方々ばかりだと思っているが、しかし、独裁者的マインドの残骸は誰の中にも潜んでいる可能性があることを心に留めておくべきである。

ここ数年間、思わず怒りにまかせて、独裁者バトル(お互いに相手に自分の言うことの正しさを説得しようという闘争)をやったことが何度かあって、あとでそういうことに罪悪感もわかなくなってはいるけれど、自分の中にまだ独裁者が潜んでいることを思い知ることとなった。つい二ヶ月ほど前も、90歳の母親と独裁者バトル をやって、あとになって、90歳の老人に本気に怒ってしまった自分に苦笑した。だから、皆さんも自分の中の独裁者に気づいたら、「おお、まだこいつ生きている!」 と笑うのが一番である。

こんんなふうに、 あれやこれや独裁者について考えていたら、ネット上で、「悪ノ娘」とかいう独裁者の物語を見つけた。「わずか14歳の王女リリアンヌは、その絶対の権力を使い、民衆からありとあらゆるものを搾取し、逆らう者は誰であろうと容赦なく首をはねた」という話だそうで、これがけっこう人気なんだという。処刑とお菓子が大好きって、隣国の三代目の息子にそっくりだが、唯一の違いは、リリアンヌちゃんが見た目かわいい少女だというところだろうか。


*「動物園から神の王国へ―サルの惑星、のような星で、平和に生きるために
    本書の詳しい目次は下記のサイトに出ています。
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1部 ヒトにおけるセックスと闘争・暴力の問題について
2部 サルの壁 人の壁
3部 人生は、ド・アホでいこう!

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生物進化論2016年02月25日 09時34分40秒

 40代の初めに生物進化論を知ったとき、20代のときにスピリチュアルを知ったときと同じくらいの衝撃を受けたものだ。イギリスの生物進化論の学者、リチャード・ドーキンスの世界的ベストセラー「利己的遺伝子」、そして、それを一般向けに解説した竹内久美子さんの著作などを読んで、本当に目が覚める思いだった。

何がそんなに衝撃的だったかというと、大人になってから(いや、本当は子供の頃から)ずっといだいてきた人という生き物についての?????が、生物進化論を知ってから 「ああ、そういうことだったのか。人間はまだほとんどサルなのだ」 と理解できたからである。

リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」の主要な観念とは、「人間も含むあらゆる生物は、遺伝子の乗り物にすぎない」「遺伝子は、自分が生き延び、代々にわたって自分の勢力を拡大するために行動し、それゆえ非常に利己的である」であり、そういう観念から見れば、生物としての私たちは遺伝子によって支配されているとも言え、自由な意志などはもっていないのである。人間は自分で何かを自分の意志で選択していると思っているが、実のところ、すべては利己的遺伝子が私たちの行動規範を決めている、というわけだ。

そして生物進化論の本を読んで、動物においては、利己的遺伝子は子孫拡大のために奔走するだけであるが、人類にあっては、利己的遺伝子が自我とタイアップし、自分の勢力拡大への衝動がはるかに強力になったことも理解できた。生物進化論的に見れば、人類という種、人間社会の中で起こる戦争、争い、対立、競争はすべて、利己的遺伝子と自我のタイアップによる拡大願望によるものである。

国家的自我であれば、「自分の」国の支配権を拡大したいと願い、宗教的自我でれば、自分の宗教の信者を増やしたいと思い、会社的自我であれば、「自分の」会社の製品をよりたくさん売って、マーケットのシェアを拡大したいと思い、作家や思想家的的自我であれば、自分の考え・観念を広めたいと思う。お互いに拡大したいと思うゆえに、目に見えるところ、見えないところでぶつかって、対立が起こるわけだ。

個人的レベルでも、私は「自分の」正しさを主張したい(拡大したい)、相手もまた「自分の」  正しさを主張したい(拡大)したいゆえに、争いが起こるわけである。
 
そして、私たちが身近に見聞したり、体験したりする、集団の中のイジメやセクハラ、パワハラ等は、切ないほどの、ある意味では、ゆがんだ動物的自我拡大欲求によるものなのだと、私はしだいに理解するようになった。特にヒトに近い類人猿(チンパンジーなど)の生態について知ったとき、イジメやセクハラ、パワハラ等は非常に強い動物的欲求によるもので、だから、他人をいじめて喜んでいる人たちを見たとき、「ああ、そうか、この人はまだチンパンジーなのか(笑)」と思い、怒るというより、同情心すらわくようになった。

以上のような動物的世界の話を、スピリチュアルな探求をしている皆さんは、自分には関係のないことだと思うかもしれないが、現実はそうではない。一応スピリチュアル系に属している私がなぜ著作の中で、生物進化論や動物世界の話を書いているかといえば、宗教やスピリチュアルな世界は、一歩間違えば、動物的権力(パワー)争いや暴力の方向へ簡単に進んでしまうからである。そして、この業界で仕事をしているほとんどの人たちがそういうことを指摘したり、書いたり、警告したりしないからである。歴史的にみて、愛や慈悲を説いている宗教のせいで、どれだけの戦争と暴力が起こってきたかは、驚くべきことである。宗教が暴力に転化した最近の例としては、90年代に日本を騒がせた宗教教団の事件は典型である。

生物進化論から見れば、人間が利己的なのは当然で、私たちが自我拡大運動に奔走することは仕方ないことだとわかって、私は非常に安心し、自分や他人の利己的行動をはるかに許容することができるようになった。そして、むしろ、自分の利己心を覆い隠して、「自分はよき人である」「自分はいつも他人のことを考えている」と思いこむほうが、はるかに弊害が大きく、自分にもまわりにもストレスを与えることに気づいた。

そしてさらに、その弊害は、スピリチュアルな世界を探求している人やこういう世界で仕事をしている人たちにもよく見られることに気づき、唖然と驚くことがあった――つまり、いつもは、愛、感謝、許し、豊かさ、気づきなどを熱心に語ったり信じたりしている人たちがいざとなると、他人のことなどおかまいなしに、自分の利己心をむき出しにする風景。そして自分でもそうなりがちな傾向を感じて、ときには葛藤が起こったものだ――自分の利益(快適さ)を優先するべきか、それとも他の人たちの利益を優先すべきなのか、と。

私たちが「私は一個の肉体ではない」とか、「すべては一つである」と教えられたり、本で読んだからといって、あるいはそういう観念を信じたからといって、利己的ゆえに長い歴史を生き延びてきた肉体レベルの行動が簡単に非利己的に変わったり、感情や思考が急に愛や親切心にあふれるはずがないのである。誰でもはある程度、自分が信じる(あるいは信じたい)スピリチュアルな観念と自分の行動や感情・思考がずれているのは、当然なことなのである。

問題は、観念と自分の行動・思考感情のズレを認識しないことで、だから、常に正直に自分自身を見ることが重要だと私が何度も強調するわけである。

私が「人をめぐる冒険」  そして、今回の「動物園から神の王国へ」の中で、動物段階、人間段階、神段階という観念を展開したのは、スピリチュアルな世界を探求をしている皆さんが、そういう弊害に陥らずに、自分をいつも正直に眺めるためである。

もちろん、動物段階、人間段階、神段階という観念も最終的にはどうでもいい観念にすぎないが、あるところまではけっこう役立つものだ(と私自身は確信している)

たとえば、動物段階、人間段階、神段階を理解すれば、この世に出回っているスピリチュルな教えが、人間段階の教えなのか、神段階の教えなのか、あるいはその橋渡しをする教えなのか、そういう区別が次第にわかるようになる。「神」という言葉を使っているからといって、神段階の教えとはかぎらないのだ。私が見るに、スピリチュアルな業界で、人間段階と神段階の教えがゴチャゴチャになって提供されていることが、混乱に拍車をかけているような気がする。

もし 「人をめぐる冒険」  そして、「動物園から神の王国へ」を読まれた皆さんが、そのあたりの混乱を多少でも収めることができたとしたら、私がこれらの本を書いた意図が正しく伝わったということである。

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「私とは本当に何かを見る会」2016年3月20日(日曜午後) 東京
 
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http://www.simple-dou.com/CCP006.html

[お知らせ]

*「動物園から神の王国へ―サルの惑星、のような星で、平和に生きるために」
    本書の詳しい目次は下記のサイトに出ています。
http://www.simple-dou.com/CCP044.html
1部 ヒトにおけるセックスと闘争・暴力の問題について
2部 サルの壁 人の壁
3部 人生は、ド・アホでいこう!

*「動物園から神の王国へ―サルの惑星、のような星で、平和に生きるために」(PDFファイル)ダウンロード版は、DLmarketのサイトで販売しています。お手持ちの機器(パソコン、タブレット、スマートフォン)に、PDFを読むソフト(AdobeReader等)が入っていれば、どなたでも読むことができます。

Lmarketからファイルをダウンロードするためには、まず会員登録をする必要がありますが、Facebook、Twitter、楽天のアカウントもご利用でき、各種支払いにも対応しています。(銀行振り込み、コンビニ支払い、Amazonペイメント、クレジットカード、Paypal、その他)。なお現在は、パソコン等では、横書きの文章のほうが読みやすいという人たちもいると思い、縦書き版と横書き版の二種類の版を用意してあります。 編集の都合上、総ページ数(縦書き版が453ページ、横書き版が367ページ)は異なっていますが、内容はまったく同じです。

*購入についての詳細は、購入前に下記のDLmarketのサイトを見てください。
 http://www.dlmarket.jp/

*「動物園から神の王国へPDFダウンロード縦書き版」(1500円+税)(453ページ)
   http://www.dlmarket.jp/products/detail/331107

 「動物園から神の王国へPDFダウンロード横書き版」(1500円+税) (367ページ
  http://www.dlmarket.jp/products/detail/331108

試読版(無料)は上記のサイトから、会員登録等なしに、どなたでも自由にダウンロードできますので、本との相性を確かめて、購入の判断をしていただければと思います。 (画像の下の、「立ち読みできます」をクリックすると、試読版PDFを無料でダウンロードできます)


 *DLmarketで下記も販売中です。(無料試読版は会員登録不要で、自由にダウンロードできます――画像の下の「立ち読みできます」をクリックしてください)  
 
「楽しいお金」PDFダウンロード版(本体価格1,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/290251

「 楽しいお金3」PDFダウンロード版(本体価格1,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/290294

 「人をめぐる冒険 」PDFダウンロード版(本体価格1,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/290283

「1994年バーソロミュー・ワークショップ東京会場1日目」MP3ダウンロード版(本体価格2,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/297870

「1994年バーソロミュー・ワークショップ東京会場2日目」MP3ダウンロード版(本体価格2,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/297880

「1994年バーソロミュー・ワークショップ京都会場1日目」MP3ダウンロード版(本体価格2,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/297958

「1994年バーソロミュー・ワークショップ京都会場2日目」MP3ダウンロード版(本体価格2,000円)
http://www.dlmarket.jp/products/detail/297975

*上記MP3無料試聴版は下記よりダウンロードできます。
「1994年バーソロミュー・ワークショップ東京会場試聴版」(無料)
http://1drv.ms/1lKRZcr

「1994年バーソロミュー・ワークショップ京都会場試聴版」(無料)
http://1drv.ms/1g9oRdI



絆(きずな)時代の苦痛2013年10月19日 08時25分10秒

 2011.3.11の東日本大震災以後、「絆」  という言葉と、「あなたは一人ぼっちではない」 というメッセージがやたらマスコミから流れて来た気がしている。

私は子供の頃からかなりひねくれているので、  「絆」  とか「あなたは一人ぼっちではない」のメッセージが過度に強調されるたびに、「いやいや、『絆』には、苦痛という代償が伴い、しかも、どこまで絆を積み上げても、人の孤独は癒やされないものだ」と思うのである。

もちろん、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」の大量のメッセージのおかげで、多くの人たちが、自分の家族や自分が出会う人たちに、今までよりも、より親切でやさしくしようと心がけるようになったとしたら、それはよいことではあるし、そんなことは災害時でないときから、人としては心がけるべきことだ。

しかし、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちでない」の強調が、災害時に感じた自分たちの無力と寂しさの裏返しであるとしたら、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」が、「絆を感じるべき」とか、「あなたは一人ぼっちであるべきでない」というように、人間関係への依存と執着をさらに強化するメッセージとして働く可能性もあるのでは、と私には感じられる。

それに加えて、現在は、他人とのコミュニケーション・ツールが安価で非常に普及し、簡単に誰とでも「つながり」を築くことができ、連絡が取れる時代である。 だから、かえってなおいっそう、子供から大人まで人々の孤独感と疎外感が全体では強まっているというのが、私の印象である。下手をすれば、人間関係をもっていなかったり、絆を感じなければ、何か自分が人として欠落しているように感じさせられる、雰囲気さえある。

調査によれば、多くの中高生が一日に数時間を、メールや無料電話で、友人たちとのやりとりに費やしているそうである。数時間とは、尋常ではない時間である。そんなふうに友人たちとつながっていないと、不安になるのだという。

集団の中での自分の評判や立ち位置を気にするというのは、人間の中の動物的本能・意識によるものである。なぜなら人類は、集団の力によって生き延びてきた、生物としての長い歴史があるからである。メールや無料電話に極度にはまっている子供たちは、そういったツールによって、動物意識に強く憑依されているともいえる。 だから、若い子供たちがいとも簡単に本当に動物状態になって、罪悪感もなしに(罪悪感をもたないのが、動物意識の特徴である)、仲間内で、いじめから殺人まで、残酷な行為をやってしまうのも、理解できる話である。

このように、絆はときには、残酷で、苦痛なものでもある。そういった絆の苦痛を癒やすのが、孤独である。人間関係が仮になくても、自分がいれば本当は十分なのである。「あなたがいなければ、生きていけない」という嘘は、恋愛歌などでは、まるで愛の証のように高らかに歌われるが、それは本当は、私に言わせれば、動物的「脅迫」(笑)である。

誤解がないように言えば、私が人と人の絆を否定しているわけではない。「絆」は広い意味で、二つのものの間の「関係」という考えにたてば、人はあらゆる絆に囲まれて生きている。今このブログを読んでいる皆さんと、私も何らかの絆があり、本を読む読者と著者にも絆があり、初対面の人と出会っても、そこに絆がある。たった今食べたばかりのリンゴを介して、私はそれを作った人との間に絆がある。というように、現代社会では、そういった絆なしには、ほとんどの人は生きていくことができない。

自由と平等があるところでの絆は楽しく、お互いが一時的であれ、長期的であれ、理解し合い、絆を楽しむことは、人間意識の中でもっとも贅沢で甘美な経験である。そして、親しい絆の関係が終わるとき、それを悲しむことができるのも、人間意識の特権である。

最終的には、スピリチュアルな道にいる人にとっての人間関係・絆の形態とは、アジャシャンティが「あなたの世界の終わり」(ナチュラルスピリット発行)で述べているようなものである。

人々が自立し、自立を通じて、お互いにある種の親密さを発見するというものです。そこが私が人々と出会う場所であり、その場所で全体として、能力があるものとして、そして彼らが自分でもっているとは思っていないかもしれない能力をもつものとして、私は彼らを見るのです。彼らがそこに立ち、自分自身の内なる十分さを発見し始めるとき、そこで私たちは出会うのです。私は彼らの不十分さの中で、彼らが自分には能力がないと思っているその場所で彼らと出会うのではありません」(「あなたの世界の終わり」238~239ページ  )

つまり、アジャシャンティがここで言っているのは、「私は、あらゆる人を自分と同等の能力をもった存在として見る」ということである。彼がまた警告していることは、導師(グル)や先生などを自分より高い台座に乗せて、自分よりもパワーがあるものとして、崇拝したり執着したり、依存関係を作らないように、ということでもある。あるいは、弟子や生徒や信者に依存しないように、ということでもある。

人間同士の絆――それが自然に起こればハッピーであるが、なくてもけっこうなものである。なぜなら、アジャシャンティが言うように、私たち全員が一人一人十分な能力をもつものであり、そして、スピリチュアルな人たちがよく言うように、「すべてはワンネス(一つ)であるからだ」――人間のいかなる努力も作為も修行もなく、すでに現実として。
 
 
[お知らせ]

201310月26日(土曜日午後)
「人をめぐる冒険ワークショップ」(広島市)
  http://www.simple-dou.com/CCP037.html

2013年10月27日(日曜日午後)
「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
   http://www.simple-dou.com/CCP037.html                                            

2013年11月23日(土曜日午後)
「楽しいお金」ワークショップ(大阪市)
http://www.simple-dou.com/CCP038.html

2013年11月24日(日曜日午後)
「私とは本当に何かを見る」ワークショップ(大阪市)
http://www.simple-dou.com/CCP040.html

 



感情の研究(2)罪悪感の裏側2013年05月19日 10時00分57秒

今回は罪悪感について。

罪悪感については、二年前に一度、書いたことがあるので、そちらも合わせてご参照ください。
罪悪感の三段階(1)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/06/

罪悪感の三段階(2)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/08/

嫉妬と同じく、罪悪感もしつこく居座る、イヤな感情で、それゆえに罪悪感はしばしば抑圧される傾向にあり、他の何かに転化されやすい。

嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを感じさせられると前回書いたが、人が罪悪感を感じるときは、文字通り、自分が「罪と悪の側にいる」ことを感じさせられる。

罪悪感に関して興味深いことは、罪悪感をよく感じる人とほとんど感じないか、まったく感じない人がいるということだ。上記の罪悪感の三段階(1)で、動物や犯罪者は罪悪感を感じないという話を書いたが、普通の人たちの中にも、自分が何をしても何を言ってもほとんど罪悪感を感じない人たちがいる一方、自分の言動の一つ一つが気になり、クヨクヨと罪悪感に悩む人たちもいる。

自分の言動に罪悪感を感じない人たちのよくあるタイプが、自分の言動をあまり深く内省せず、感じたままで物を言い、そしてすぐ忘れるタイプだ。こういうタイプの人は基本、他人の感情領域に鈍感で、「自分の言動はいつも正しい」と信じて疑わないタイプである。こういうタイプの人に、誰かが、「この間、あなた、私にこんなこと言ったでしょう? 私、すごくイヤな思いをした」みたいなことを言っても、たいていの返答は、「え? 私、そんなこと、言ったっけ?」か、あるいは、「そんなこと気にするなんて、あなたのほうがおかしいんじゃない?」みたいな返答となる。うらやましいほどの「短期記憶」(笑)である。

なぜこのタイプの人たちは、そんなに「自分の正しさ」を主張しなければならないのかといえば、それはそう主張しないと、反対の側、つまり、「罪と悪」の側に転落する恐れを非常に強くもっているからだ。本当は、そういった人は罪悪感をもっていないのではなく、何かについて非常に強い罪悪感があって、もしそれを感じたら、生きていくのが非常に辛くなるので、罪悪感を抑圧して、自分を正しい側に置くことで、精神のバランスを保っている。あるいは、普段はめったに自己主張しない人でも、特定の何かに関して、「自分の正しさ」をどうしても主張せずにいられないときがあれば、その背後に無意識の罪悪感があることを疑ったほうがいいかもしれない。「罪悪感と自分への非難」は、抑圧されると、「自分の正しさと他人への非難」に容易に転化されるものである。

精神の進化から考えれば、以上のような罪悪感を感じない人たちよりも、罪悪感を感じる人たちのほうが、進化しているとは言える。

つまり、他人の立場や気持を思いやる気持ちが芽生え、自分の言動を深く内省するようになるからこそ、罪悪感を感じるわけで、罪悪感は、より多くのことを感じられる感受性の進化と向上心と記憶能力の増加のおかげでもある。

しかし、より精神の進化が進んだにもかかわらず、人間界ではなぜか、罪悪感の強い人は罪悪感を感じない人たちよりも、不利な立場に置かれることが多い。その理由は、前回のときにも触れたけれど、一つは、罪悪感は常に人を後ろ向きにさせ、過去の重荷を背負わせ、自分の現在を否定し、前に向かうエネルギーを奪うからである。罪悪感を感じなければ、自由にできることが、いったん罪悪感を感じてしまうと、自分が何をしても、間違った、正しくない側にいるような気がするのだ。そして、これも以前に書いたことではあるが、それに追い打ちをかけるように、罪悪感はある種のトリックスター(悪戯もの)で、自分が無意識に何かに強く罪悪感を感じていると、ほとんど必ず誰かが鏡のように自分を批判しにやって来るという具合である。人間界でよくおこなわれるゲームの一つは、「私は正しい・あなたは間違っている」という罪悪感のなすりつけ合いである。

それから、罪悪感を感じるもう一つの主要な原因に、理想の自己イメージというものがある。自分に対してある種の理想的な善なる聖なる自己イメージをもつ場合、それにそぐわないことをすると、罪悪感を感じやすくなる。自分はよい人(母、父、夫、妻、子供、友人など)であるというイメージを強くもっていたり、自分がいつも正しく、清く、美しく、賢く、スピリチュアルでなければいけないと思ったりすると、自分にも周囲にもストレスを与える。人は、絶対的に善の人も絶対的に悪の人もいるわけではなく、関係によって善になったり悪になったりするだけである。イエス・キリストでさえ、ユダヤ社会にとっては「悪」であったのだ。

だから、私はいつも思うのである。人としての私たちはみな、精一杯生きてはいるけど、それでも不完全な生き物である。だから、自分の中にある冷たさ、間違い、愚かさ、優柔不断、気遣いのなさ、意地悪な気持ちを、ゆるしましょう、って。自分がいつも「よい、正しい、賢い、清い、美しい、高い、聖なる側にいる」と、思い込むのはやめましょう、って。もし次回、罪悪感を感じたら、とことん、「自分は本当に悪いやつ」と感じきるのも、よい方法である――私自身、この方法で、何度かしつこい罪悪感から解放された経験がある。自分の「悪」を受け入れたら、もう「よいふり」をする必要もなくなり、そうすれば、緊張がなくなり、ありのままの自分でリラックスしていられるものである。

それから、最後に、自分が社会の少数派に所属していると感じるときに、「自分の状態はおかしいのではないか」と罪悪感を感じる人たちがたくさんいる。しかし、本当のところは、あらゆる人は究極的には誰でも、「少数派お一人様」である。人としての私たちの存在のあり様は、決して他人と同じではありえず、色々なことが異なるのが普通である。人間は(動物とは違って)、お互いが違って、多様であるのが普通である。自分と他人を比較して、自分が他人のように考えたり行動できないことを責めたり、他人が自分のように考えたり行動できないことを責めても、百パーセントムダ! である。「北朝鮮化運動」(笑)――みんなが同じように考え・行動することを絶対善として、少数派を断罪しようとすることを、私はひそかにこう呼んでいる――は、人生の最大のムダと非効率である。

むしろ、人間関係や組織においては、違うもの同士が、どうしたらお互いの違いを認め合って、共通の仕事や何かを一緒にやっていくことができるのか、それを研究するほうがはるかに役に立つだろうと、思っている。

以上、罪悪感を感じやすい原因をまとめれば、

1他人の感情領域に敏感である
2自分の言動の内省と過去を記憶する能力と向上心の増加
3自分に対する高い理想的な自己イメージ
4自分と他人を比較し、少数派であることを感じる

罪悪感の裏側は、感受性、理想、向上心、記憶能力といった非常にポジティブなものである。だから、罪悪感を感じることそのものに罪悪感を感じる必要はないし、自分の中の負の部分を許せば、自分にネガティブに作用していた罪悪感がポジティブなものに変容するかもしれないのである。

最後に、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」から、若い頃の私の心に非常に響いた言葉を引用して、ご紹介したい。

「何かがわかった時には、それ以外のことについては自分が無知であることを認める、ということです。神聖な使命感を持ったならば、その裏側の罪と共に生き、その責任を受け入れることなのです」 (31ページ)

「自分の中にみにくいものの存在を許して認めてやれば、私達は美しいものを自由に作り出すこともできるのです。自分の愚かな部分を認めてやれば、私たちはどんな高い知恵でも得ることが可能になります」 (32ページ)



テストステロン(オス・ホルモン)中毒2012年07月23日 09時21分43秒

皆様、暑中お見舞い申し上げます。(8月は都合でブログをお休みします)

どこかの県の中学校で昨年起こった、イジメが原因とされる自殺が、今頃マスコミで大きく報道されている。

私は、学校でのイジメ問題が起こるたびに、その当の学校の校長や教育委員会の人たちの発言、「イジメはなかったと認識している」みたいな発言にいつも驚く。人が集団で毎日集まる場所(学校、職場、家庭等)では、どこでもイジメが起こる可能性があるし、特に中学校では、ほぼすべての学校で、私が子供だった頃も、現在も、大なり小なりイジメが起こっている。

ほとんどの場合は、たぶん、暴力ざたにならない程度ですんでいるか、イジメられている子供が孤独に必死に耐えているか、耐えられない場合は、他の学校へ転校するかして、表ざたにならないだけである。

イジメはめったに起こらない特殊なことだと学校関係者が思っているかぎり、毎回毎回、「イジメはなかったと認識している」と馬鹿の一つ覚えの発言を繰り返して、自分たちの無能さをさらけ出す羽目となっている。

なぜ教育関係者そして親たちががイジメに対して無知無能かといえば、彼らがヒトという生き物が子供から大人まで、どれほど本当は闘争的か、他者をコントロールして優位な立場に立ちたいという願望にどれほど駆り立てられて生きているか、知らないからだ。学校の教師はいつも生徒をコントロールして、自分のパワーを感じたいと思っている。親はいつも自分の子供をコントロールして、パワーを感じたいと思っている。そしてまた、教師同士、親同士も、コントロール・ゲームをしている。こういった自分たちの中にもある闘争本能を理解しないかぎり、子供同士のイジメのメカニズムも理解できないはずであろう。

「闘争本能」それ自体は、ヒトの肉体に生まれつき備わっているもので、それそのものが悪いわけではないが、それがヒトの自我(エゴ)とタイアップして、他人を踏み台にして、自己存在感を高めようとするとき、他者へのイジメという形でしばしば現れる。

その闘争本能をつかさどるホルモンが、テストステロンと呼ばれているオス・ホルモン(男性ホルモン)で、小学生高学年から中学生頃の思春期に、特に男の子の体の中で大量にそのホルモンが出始めることが知られている。

テストステロン(男性ホルモン)の作用というのは、日常用語的に言うと、「自分の中のエネルギーを外側に発散して、自分のパワーを感じたい」という衝動であり、sexはその衝動の一番有名な表現である。


学校という場で許されるテストステロン(ちなみに、このホルモンは女性の体の中にもある)の表現は普通、勉強、スポーツ、芸術とほぼ三つの分野に限られていて、この分野でテストステロンの衝動をうまく昇華できる子供たちは、学校という場で、それなりの居場所を見つけて、自分の存在にある程度自信をもつことができる。

しかし、すべての子供たちがテストステロンを無害に昇華できるわけではなく、学校の方針や教師の教え方が自分に合わないなどの理由で、不安や退屈や苦痛を感じている子供たち、あるいは、何らかの事情でひどい心理的ストレスをかかえている子供たちは、ほとんどの場合、人間関係の中で、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとする。

イジメている子供たちには、自分たちが悪いことをしているとか、自分たちがイジメているという認識はほとんどないはずであり、ただあるのは、「どうだ、オレがどれほど強いか、わかったか」みたいなテストステロンの衝動による自己存在の確認だけである。

そしてイジメられている子供も、多くの場合、イジメられていることを否定するのは、「イジメられている」ことを認めると、「自分は弱い存在である」ことを自分でも認めることになるからだ。子供の自殺というのは、自分のパワーの最後の証明とある種の「復讐」の意味合いがあるのではないかと、私には感じられる。小学中学生の頃のすべての子供たちは、切ないほど、自分の存在(パワー)を他者に認めさせたいと思っている。

学校でのイジメの問題に対しては、大人が考える解決法よりも、子供たち全員に問題を考えさせ、解決法を自分たちで創造させるのが本当は一番効果があるだろうと私はそう思っているが、学校関係者が自分たちの保身や無能さのために隠し続けると、いつのまにか大人の世界の(動物的)政治問題になってしまい、問題がスパイラルに膨れ上がって、もう誰も止めることができない状態になる(以前紹介した「ハインリッヒの法則」が当てはまる)

さて、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとするのは子供だけでなく、一生この動物的闘争に中毒する人たちもいる。「国民の生活が第一」党(という冗談のような党名――本当は、「オレの権力闘争が第一」党にすべきであろうと思うけど)の党首にこのたび就任された民主党元代表の小沢一郎氏はその典型である。誰かとの権力争い、選挙などの戦いになるときだけ、テストステロンが最高潮に盛り上がる方なのだ。小沢氏は、「昨年の原発事故のあと、放射能の影響が怖くて、地元へお見舞いにも行かなかった」とか、「塩を買い占めるように命じた」とか、自分の妻からその臆病ぶりが暴露されたという話がネットに出ていたけれど、集団でイジメる子供たちも、集団で動物的権力闘争する大人たちも、みな本当は臆病である。

というよりも、人はみな臆病なのだ。私の観念によれば、それを認めることができる人は人間で、それを認めることができない人はサル脳状態である。それを認められるとき、テストステロンの衝動が動物的闘争から人間的闘争へと進化する可能性が開かれるのである。

で、もうすぐロンドン・オリンピック――テストステロンが一番美しく無害に昇華され、お金も稼げて、人々からの称賛も得られるのが、スポーツという分野である。オリンピックのメダルとは、孤独と苦痛に耐えて、(イジメとは違って、より弱いところへ向かうのではなく)、より高くより強いところに向かった人たちに与えられる称号である。

お勧めの本
「政治をするサル――チンパンジーの権力と性」フランス・ドゥ・ヴァール著(平凡社)
チンパンジーの世界とヒトの世界がどれほど似ているかを教えてくれる本

シマウマの婚活ルール2012年02月15日 10時06分49秒

いつだったかテレビで、シマウマの生態を見たことがある。シマウマは大人のオス一頭とその妻(妻が単数だったか複数だったかは失念)と娘たちで暮らしている。そして、若いオス(息子)たちは群れを離れて、別の群れの若いメス(娘)に求愛し、また新しいカップルが誕生して、という具合に種が存続していく。

面白いのは、その求愛というか婚活で、ある集団の若いメスに若いオスが近づいてくると、その集団のボス、つまり、父親は必ずその若いオスと戦うのである。娘はといえば、その戦いをのんきに眺め、もし若いオスが父親に勝てば、若いオスについていき、もし負ければ父親のところに残る。このルールに例外はない。

こんなことは動物の世界だけかと思えば、案外このルールは、人の中の動物的マインドにも根強く残っているようである。世間でいうところの「結婚適齢期」(ほとんど死語に近い言葉ではあるが)の娘をもつ女性が、「親が娘の結婚に反対するのは、儀式のようなもの。反対されて引き下がるような程度の男と、娘を結婚させたくない」と言う発言を私は聞いたことがある。そのとき私は思わず心の中で、「シマウマか……」とツッコミを入れたものだ。

清水義範さんの小説の中に、一般的な父親が娘にいだく感情がどんなものかをよく表した文章があり、それを紹介してみよう。

「そして、最終的には娘には好きな男ができて、その男に奪い取られてしまうのである。
そのことを空想すると、腸(はらわた)が煮えくりかえる。怒り心頭に発する。怒髪天を衝く。泣くに泣けない気持ちになる。いても立ってもいられない。神も仏もないのか、と思ってしまう。
 娘が好きになるほどの男だから、おそらく紳士的ないい青年だろうとは思うが、ひょっとするとそうじゃなくて、私の娘に何かエッチなことをする奴かもしれない。そんなことをチラリと考えるだけで胸がつぶれる。私のあの娘に、エ、エ、エッチなことをするとは、このバババ、馬鹿者め。下がれ下がれ下がれ、控えおろう、という気分になる」 (「親ごころ」-「似ッ非イ教室」より。講談社文庫)

私の長年の見聞では、娘が結婚するとき、親と娘の間で、何かの騒動が起きなかったほうが珍しかったので、たぶん、大多数の父親が今書いたような感情構造をもっていると言って間違いないことだろう。

今私の人間マシンと同年代の人たちは、子供が結婚する年頃であり、そういった同年代の人たちを見て、多少は私も親ごころというものを解することができるようになってきた――若い頃は、子供の結婚に反対する親、そもそも成人した大人がしたいということに反対する「種族」は、私にとっては理解不能だった。

先ほどの清水さんの作品の中の父親の感情を別なふうに表現すると、子供とは親にとって「貴重な花」なのだ――長年、水をやり、肥料をやり、暑さから寒さから守り、お金と時間をかけて丹精をこめて育てたすえにやっと美しく咲いた花。ようやく花(子供)が美しく咲いて、これからはゆっくりとその花(子供)を楽しもう・鑑賞しようと思っているところへ、どこの「馬の骨」(と昔の親はよくこの言葉を使ったものだ)ともわからん奴が、自分の美しい花(子供)に忍びよって、勝手に断りもなしに、その花を持ち去ろうとしているのだ。親にしてみれば、その馬の骨に向かって、「一体お前は、何の権利があって、私の花を勝手に持ち出そうとしているのか? お前はこの花の成長に一円だって、支払っていないだろうが?」という憤懣やる方ない怒りがわき、自分の花に対しても、「今まで、これだけの愛情をこめてお前を大事に育ててきたのに、あんな馬の骨のほうが私よりいいとは、どういうことだ。お願いだから、もう少しの間、お前の美しさ・かわいさを私に独占させてくれ」という悲しい気持ちに駆られるのである。親にしてみれば、人生の不条理そのものである。しかし、若い頃の子供にそんな親の気持ちが通じるはずがなく、子供は親より外の世界の人間関係に夢中になる。

一般的に親がこういう気持ちに駆られているらしいのは、よく見かける風景だったのだが、こう思ったあとで、自分を振り返ることができるかどうかが、動物的マインドと人間マインドを分けるのである。人間マインドが機能している父親なら、泣く泣くこういう理解にいたるはずだ。「いやいや、自分だって、昔、よそ様の花々を勝手に持ち出して、エ、エ、エッチなことをたくさんして、おかげで父親にもなれたのだ。したし方がない、人生とはこういうものだ」と。

しかし、最初に紹介したシマウマの婚活ルールと親である女性の発言にも、動物的とはいえ、その中に何がしかの実用的知恵というものがある。親という種族は押しなべて保守的である。つまり、子供がしたいということ、特にそれがある種のリスクがあるようなことにはたいてい反対する。しかし、反対しても反対しても、もし子供が親の反対を突破すれば、最後にはあきらめて応援する親も多い。

私が思うに、もし親が反対したせいで、やめてしまえることなら、結婚にしても、その他のことにしても、「その程度の縁」なのである。つまり、たぶん、やめるほうが正解なのである。(今、読んでいる本、「非道徳教養講座」平山夢明著 光文社―の中の「賢い親の裏切り方」という文章の中で、著者は、映画監督になるという夢をどうしてもあきらめることができず、勤めていた会社をやめたとき、親に勘当された話を書いている。親に勘当されてもやりたいもの、それを著者は「魂の納得」と呼んでいる)

ということで、若い世代の皆さんの中で、婚活や夢の実現のために活動している人は、シマウマ親対策も忘れずに!



罪悪感の三段階(2)2011年08月02日 11時29分58秒

ようやく時間が取れるようなったので、「罪悪感の三段階」の続きを書いてみたい。

そもそも「罪悪感」という感情の起源は、どこにあるかということを考えてみると、実のところ、それは動物から人間に進化する過程で発達した高度の認識能力の副産物である、と私は思っている。その能力とは、「自意識と記憶と比較」である。

自意識=(人間としての)自分は人とは違うことに気づく能力
記憶=過去(自分の言ったこと・したこと)を覚えている能力
比較=何かと別の何かを比較する能力、現在と過去や未来を比較する能力。

「自意識と記憶と比較」の能力それ自身は、生活し、仕事をし、対人関係を築くうえでは、必要不可欠な能力であり、だから、「自意識と記憶と比較」の能力が高いことは、本当は喜ぶべきことなのである。

ところが、この高度の認識能力に、いわゆる「エゴ」がからみつくと、それが巨大な罪悪感を生み出す原因となる。そのメカニズムとはこんな感じだ。

たとえば自分と他人の違いを認識して、

「私は〇〇である・あなたは△△である」という事実があるとしよう。それは人としてお互いが何かにおいて、違っているという単純な事実の認識にすぎない。しかし、ここにエゴが入ってきて、もし自分のまわりがみんな「△△派」であれば、なんとなく、自分だけが「〇〇派」であることが、何か悪いことのように感じられてくる場合がある。小さいことから大きいことまで、自分と他人の違いの単純な認識にエゴがからむときに、比較が罪悪感を無意識のうちに生み出していくのである。

それから、私たちのエゴが自分に、ポジティブなイメージを与えるときも、罪悪感が発生しやすい。「私は善人である、親切である、頭がいい、仕事ができる、賢い、美しい、かわいい、ポジティブである」などの強い自己イメージがあるとき、自分の人生でその自己イメージに反することが起るとき、罪悪感が生じやすい――どうして自分はこんなに善人で、親切なのに(賢いのに、ポジティブなのに)、こんなひどいことが起こるのか、どうしてこんなヘマやミスをしてしまうのか、みたいな。

特に、日本人の場合は、文化的社会的条件付けとして、自分を「善人」(=よい隣人、よい妻・夫、よい友人、よい子供・親等)、「まわりとの和を乱さない人」だと思いたがる、というより、そうでなければいけないと思っている人たちが多い。「いい人」「善人」の自己イメージが強すぎると、自分が言ったこと、したこと、そして自分の存在そのものが、人を傷つけたのではないか、何か場違いのことをしたのではないかとか、いつもまわりの空気を気にしたり、過去をクヨクヨと考えこんだりするようになる。

もししつこい罪悪感に悩むときがあれば、おそらくは、その悩みの根幹に、「ポジティブな自己イメージ」への固執があるかもしれず、その処方箋の一つは、「もしかしたら自分って相当悪いやつ(否定的)なのかも(実際それがあらゆる人間関係の事実であろう――関係によっては、誰もが、ときには「悪い人、悪い親、悪い友人、悪い子供、悪い恋人、悪い妻・夫、悪い嫁・姑」になり、状況によっては否定的になる場合もある)と、自分の「悪」や否定性を認めて、「善人イメージ」や「ポジティブ・イメージ」を手放せば、あっさりと罪悪感が消えることもある(前にご紹介した様々なワークも役に立つだろうと思う)。ポジティブによせ、ネガティブにせよ、どんな自己イメージも、それは私たちの本質ではない。

このように罪悪感は、実に百害あって一利なしである(刑務所に入っている方々は、一度は罪悪感に目覚めたほうがいいとは思うが)。にもかかわらず、社会・文化全体を覆う罪悪感の罠というか網は非常に強力なものがあり、罪悪感は、嫌悪感同様にある種のトリックスター(イタズラもの)で、様々に形を変え、私たちの心の中に忍び込もうとする。私たちの多くがそれに無意識であり、だから、それを教えてくれるために、時々、自分がもっている罪悪感を鏡のように映す誰かが現れることは、不思議なことだが、経験的にも事実である。で、知るわけである。「ああ、私はこんなことに罪悪感をもっていたのだ」と。

最終的には、個人的行為者は誰もいない、起こったことすべては神(私の本質)の意志であると心から認識できれば、ラメッシ・バルセカールも言うように、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消え、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消えるとき、「すべてはあるがままで完璧」という「神の王国」に、自分が「すでに」住んでいることに気づくのだ。

ついでに言えば、罪悪感がなくて、たとえば、「私(たち)は絶対正しく、おまえ(たち)は絶対間違っている」というようなプライドだけが残ると、動物的意識状態となり、独裁ゴリラ国家、罪悪感のない犯罪者、そしてさらに、それにスピリチュアルがからむと、(90年代の日本を騒がせたような)カルト宗教が生まれる。プライドだけを残して、「神の意志」や「導師(グル)や教祖の意志」を信じると、スピリチュアルな活動は、非常に「あぶなく、あやしい方向」へ向かっていく可能性のあることを(イスラム原理主義はその象徴的代表である)、スピリチュアルを学んでいる人たちは、十分に心に留めておくべきであろう。

(観念的)まとめ
動物的意識―――罪悪感なし・プライドあり
人間的意識―――罪悪感あり・プライドあり
神的意識―――罪悪感なし・プライドなし





罪悪感の三段階(1)2011年06月11日 08時40分26秒

世の中には、風変わりな殺人者がいるもんだと思ったのは、先日、「人を殺すとはどういうことか」(美達大和著 新潮社発行)という本を読んだときのことだ。

殺人者の贖罪本にしては、その端正な文章のうまさが印象的な本で、本を読みすすんだとき、私はその理由を納得した。おそらく殺人者にしてこれほどのインテリで読書家もそうはいないかもしれない。しかも、この人は刑務所に入ってから読書家になったのではなく、殺人者になる前から無類の読者家でインテリだったのだ。幼い頃は、金持ちの坊ちゃんにして、神童、しかし、父親の事業失敗で、貧乏のどん底に、それから、大人になってからは、仕事で成功し、殺人犯で捕まるまでずっと、年収は億を超え、一ヶ月(一年間にではなく、一ヶ月に、である)に、単行本を100冊から200冊、週刊誌20誌、月刊雑誌60誌から80誌も読むほどの、読書の日々を送った人なのである。当然、その殺人も、激情に駆られて突発的に、というものではなく、計画的に冷静に論理的に行ったのである。

本書では、著者の改心改悛の情、そして、著者が持ち前の鋭い観察眼で観察した様々な受刑者仲間、犯罪者の生態が描写されている。以前から、私はそう確信していたのだが、本書でも、受刑者の多くは自分が犯した罪への罪悪感がないということが書かれている。以前別の死刑囚の方の文章を読んだときも、そう書かれてあったし、刑務所にいた体験があるロシアの文豪、ドストエフスキーも刑務所体験を描写した文章の中で、そう書いていた。

重大な犯罪を犯しながら、罪悪感がないし、反省もない――おそらく、これは普通の人には信じ難いことであろう。彼らが本当に反省することは、「自分がドジを踏んで、警察につかまったこと」なのだそうだ。

私の観念によれば、他人にひどい行為をしても罪悪感がわかないのは、彼らが動物的意識に支配・憑依(動物的催眠状態)されているからなのである。動物(食物連鎖においては人間も)は自分よりも弱いものを餌にして、生きている。自分よりも弱いものを蹴散らして、生き延びている。何をしても生き延びること=善、なのである。どんな動物も、餌を捕獲して食べる前にもあとにも、「かわいそうなことをした」とか、「ああ、こいつにも親や子供がいるんだな」とか、「ああ、死ぬ瞬間の表情が苦しそうだ」などと絶対に思うことはなく、餌を食べたあとは、満足感だけで、罪悪感はわかないはずである。万一子供を殺されたシマウマの母親が、ライオンに向かって、「なんでうちの子を食っちゃたのよ」と尋ねるなら(実際の動物界ではありえないことであろうが)、「そこでウロウロしていたのが、悪いんだろ。子供を亡くしたくなかったら、逃げる教育をしっかりしておくことだな」とでも答えることあろう。

著者が、刑務所の中で他の受刑者に、「なぜ人を殺したのか?反省はしないのか?」と尋ねまわっても、多くの受刑者が、「そいつがそこにいたのが、悪い」とか、「オレに逆らったのが、悪い」みたいな動物的意識の論理で答えているのが興味深いところだ。

では、なぜ著者には深い罪悪感がわき起こったのかといえば、それは裁判の最中に、検察官が殺人現場の情景を読み上げたときに、天啓のごとく、突然に自分が殺した被害者との同化が起こり、「被害者の立場に立つ」ことを余儀なくされ、衝撃を受けたからだ。そのとき、著者は人生で初めて自己嫌悪を感じたという。その裁判が始まる前までは、著者にはまったく罪悪感がなく、自分がやったことの正当性を疑うこともなかったというから、それが起こったのは、著者個人の意志ではなく、まさに宇宙の計らい(神の意志)なのであろう。かくして、動物意識の憑依から突然に目覚め、人間化への進化を余儀なくされた著者は、罪悪感と自己嫌悪に苦しむようになったのである。

人間化するとは、別の言葉で言えば、動物的意識よりも多種多様で複雑な感情をもつことであり、そのために動物的意識状態よりも心に葛藤と混乱をかかえることが多くなる――それが人間であることの苦しみと喜びである。動物的意識は、ある意味で単純であり、それゆえ、(たとえ犯罪を犯しても)それほど悩まず、苦しまないのである。刑務所に入る前の美達氏のように「私は絶対に正しい」といういわば百パーセントの自己肯定感(プライド)が緩衝装置となって、罪悪感と自己嫌悪感(反省心)を全部吹き飛ばしてしまうのである。

次回は、罪悪感と自己嫌悪感を再び(そして自己肯定感さえ)失う神化へのプロセスと、自分の内側と外側の様々な場所で出会う可能性がある動物意識的プライドとどう付き合っていくのかについて書く予定である。