神がいない風景 ― 2023年08月07日 10時28分55秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。
8月中旬発売予定となりました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(16)まで公開中。
ジョエル・ゴールドスミスの本が、ようやく今月中旬に発売されることとなった。「赦し」とか「カルマ」とか、イエス・キリストの山上の垂訓とか、テーマが「熱すぎる」(笑)と感じる方は、購入して、少し涼しくなってから、読んでもらえればうれしく思います。
今回、最後に、本書『静寂の雷鳴』の中で、私が非常に印象を受けた彼の言葉を紹介しよう。それは:
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」
その前後の部分を引用すれば:
「神のパワーはそれができるすべてをすでにやっていて、それは意識のエデン的状態の中で活動していますが、二つのパワーの世界の中では活動することができません。ですから、私たちや私たちの隣人たちがどれほど善人で道徳的で善意の人であっても、私たちも彼らも罪、死、事故、戦争を免れないのです。何度も何度も次の質問が尋ねられてきました。「もし神がいるなら、どうしてこんなことが可能なのか?」と。その答えは驚くべきものです――「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」。創世記の第2章に神はいません。原因と結果の法則――カルマの法則――である主神だけがいるのです。私たちが原因と結果の法則を超えるとき、もはや法則の下ではなく、恩寵の下、言い換えるなら、創世記の第1章の中で生きていて、そこには人間的悪も人間的善も存在しません。罪もなく、純潔もなく、ただ神だけが存在します」( 8 章 「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」)
ジョエル・ゴールドスミスが上記の引用で言っている「人間的風景」とは、「二つのパワー、善悪のパワーが戦っている風景」、さらにもっと具体的に言えば、私たちがマインドの中で、「私は正しく、お前は間違っている」という「私」対「あなた」の戦争をしているとき、そして、世界の一部を激しく否定している(憎んでいる)ときのことである。そういうマインド風景のときには、「そこには神はいない」。
さて、神は普遍的存在であり、どこでもいつでも誰の背後にもいるはずなのに、これはどういうことだろうか?
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」――この言葉をもっと正確に言えば、「神は存在するが、人間的風景な中では神(の恩寵)は働くことはできない」ということであろう。
つまり、神(の恩寵)は、私たちの「個人的意志=物事はこうあるべき」というような意志や「利己的欲得」があるところでは、働かないということでもある。だからこそ、ジョエル・ゴールドスミスは、たとえば、「どうか神様、私に〇〇を送ってください」というような、あるいは、「どうか神様、私たちに勝利をもたらしてください」というような嘆願的祈りは、神に届かないと言っているのである。
神様にお出ましいただくためには、私たちのほうで人間的風景から抜け出し(=物事の善悪判断を手放す)、神がいるところへ行かねばならないということであり、ここで役立つ概念は、「明け渡し」である。私的に言えば、「神様、この状況は仕方ありませんね」と常にあきらめる(笑)。長い人生の経験から言えば、(悪いと思われる)状況に抵抗しなければ、なんとかそれを切り抜ける知恵とパワー(神の恩寵)が出て来る感じ……である(神がどこにいるか確信できない方は、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット発行)の第14章「神を信じること」で、ダグラス・ハーディングが間違えようもなく、その場所を正確に説明しているので、参照いただければと思う)。
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
誰(何)にとっての、悪(人)なのか…… ― 2023年07月26日 06時02分26秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。
8月中旬発売予定となりました。
本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。
もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。
悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。
もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。
ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。
共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。
さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。
スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。
悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。
であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか?
その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。
非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。
今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。
「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)
彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私の罪を赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。
「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。
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[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
最近読んだ本から ― 2023年06月11日 09時26分11秒
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1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(8)まで公開中。
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(8)まで公開中。
1『お金のむこうに人がいる』田内学(ダイヤモンド社)
(実は、前回のブログのタイトル、『言葉の向こうに人がいる』は、本書のタイトルから借用させてもらった)。本書は、元外資系金融のトレーダーだった人が、専門用語を使わずに、お金や経済、金融についての疑問を解き明かした本である。著者は、「自分は長年、トレーディングの仕事をしながら、お金のことをとことん考えてきた。自分の頭で考えるときに、専門用語は必要なかった。専門家が専門用語を使うときは、相手をごまかそうとするときだ」と書いている。まったくそのとおりだ。新聞やネットに出ている経済や金融の専門用語や専門的説明がわからなくても、まったく問題ではない。自分で「お金とは何か」「経済とは何か?」を考えれば、いいだけなのである。
そうはいっても、素人には、ゼロからお金や経済について考えることは難しいかもしれない。そんなときに何か考える材料が欲しいという人には、本書はピッタリである。著者は、様々な質問を通じて、お金に関する社会の常識は本当か?という問いを読者に突き付ける。本書を読み終えたときには、老後資金問題、日本国の借金問題などに、「ああ、そういうことか!」と新鮮な発見があることだろう。そして、なによりも、自分がお金のやりとりをするとき、その向こうにいる「人」を意識するようになることだろう。
2『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』(オリバー・ハックマン)東邦出版
(本書は、『ネガティブ思考こそ最高のスキル 解毒剤』というタイトルで最近復刊されたようだ)。
最近、世界的ベストセラーになっている『限りある時間の使い方』(こちらの本は未読)の著者の以前の本の邦訳本である。
本書『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』は、ジャーナリストである著者が、世界の様々なスピリチュアル、精神療法(心理学)の先生(著名なエックハㇽト・トールにも会いに行き、そのときの様子も掲載されている)を訪問し、また瞑想キャンプにも参加しながら、いわゆる「ポジティブ・シンキング」と呼ばれている考え方が何をもたらすのか、実証的に考察した本である。
最初に登場するのは、著名なポジティブ・シンキングの先生で、1万5千人もの人たちが集まるその集会の雰囲気は、あとで紹介するトランプ元大統領の集会にそっくりである。「俺たちに不可能はない!」的メッセージの連呼は、集会の参加者(信者)たちにある種の陶酔をもたらし、まあ、言葉は悪いが、「ポジティブ・シンキング馬鹿」を生み出す。
私が本書に書かれたエピソードでもっとも印象に残ったのは、目標達成についての章のヒマラヤ登山の話である。ヒマラヤ登山では、どれほど頂上に近づいても、危険が差し迫っているときには、引き返す勇気が一番大切という話である。そのルールを破って、ある登山グループが危険をかえりみず、登山を強行し、登頂には成功(目標達成に成功)したものの、そのあと遭難するという有名な事故が昔あったそうだ。
この話を読んで、私が真っ先に思い浮かんだことは、現在、マイナンバー・カードと健康保険証(そして、将来は運転免許証など)を、リスクの検証もほとんどやらずに、一本化しよう(「リスクは分散する」って、現代のリスク管理の基本ではなかったっけ?)という目標達成に躍起になっている日本政府の姿である。このプロジェクトの現在の最高トップである河野大臣は、「猪突猛進」という言葉がぴったり当てはまる人で、「なにがなんでも俺はやる抜く」的ポジティブ・シンキングの持ち主という印象がある。今でさえ、マイナンバー・カードの問題点が日々報道されているが、目標達成に執着するあまり、もっと大きな問題をばらまくことになるような感じ……
その他本書に、「目標達成をイメージする」(成功哲学では、非常に有名な方法)は、かえって、目標達成を妨害するという実験など、興味深い話が多く掲載されている。経験的にも、著者が提唱する、ネガティブ・ケイパビリティ(「否定的なことを受容する能力」くらいの意味)のほうが、はるかに心の平和に役立つだろうと私も思っている。ただ、本書も、著者のポジティブ・シンキング嫌いという偏見が多少かかっている感じもあり、それこそ「盲信」しないで、読むことをお勧めする。
3『アンダークラス』(相場英雄)小学館
ネット通販のおかげで、私たちは「できるだけ安いものをできるだけ早く」手に入れることができる消費王国の時代を謳歌している。本書は、私たちの快適な消費ライフを背後で支えているブラックな世界(階級の上の世界に所属する者たちが、階級の最底辺層=アンダークラス=世に言うブラック企業とそこで低賃金で働かざるを得ない人々を搾取する世界)を、ミステリーの形で描いた本だ。本書は、娯楽本なので、弱者に心を寄せるヒーローたちがいて、彼らは、弱者を利用し、罪に陥れようとする上層階級の人間を執拗に追い詰め、最後には真実を明らかにする。しかし、現実には、ヒーローはそうそう登場しないものだ。
本書を読んだせいばかりではないが、通販で買い物するとき、最近気分があまり晴れないときがある。だからといって、通販での買い物をやめることもできず、まあ、自分にできることは、自分がこれを手にした背後に、様々な人たちの労働があったこと=「自分が払ったお金の向こうに人がいる」ことを思い起こすことくらいだけど。
4『トランプ信者潜入一年――私の目の前で民主主義が死んだ』(横田増生)小学館
2020年のアメリカ大統領選のときに、著者はトランプ陣営の選挙スタッフとして潜入し、トランプ元大統領を熱狂的に支持するトランプ教の人たちを取材しながら、アメリカという国の現在を浮かび上がらせている。トランプ元大統領とは、1で話題にした「ポジティブ・シンキング」のまさにサンプルのような人であり、彼の中にそれこそ「ポジティブ・シンキング」の欠陥を見ることができるかもしれない。
つまり、自分の中に否定的なものを見ることを絶対的に拒否する反動で、自分の外側(自分とは意見が異なる側)を全部「敵」と認定し、「悪」として攻撃する。こんなにウソを並べたて、自分の好き嫌いを声高に叫び、他者を攻撃することを喜びとする人が、国家の最高権力者になったことも驚きだが、本書でさらに興味深いのは、トランプさんの言葉に酔いしれるいわゆるアメリカの「トランプ信者」たちの様子だ。アイドルに陶酔することで自分たちがかかえる本当の惨めさ覆い隠し、それはかつてヒットラーに心酔したドイツ国民に似ている感じがあり、アメリカもそろそろ「終わりの国」であることを印象づけている。著者は最後に、「民主主義の死」について警告しているが、アメリカの子分のように長年振る舞っている日本だって、民主主義は相当にあやうい。
5『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己)亜紀書房
人は、自分が生まれ落ちた家庭環境、そして地域環境の文化的価値観の束縛を受ける。もし私たちが一生、生まれた場所から移動しないで、その場所で生活し続けるとしたら、生涯その文化的価値観を絶対のものと考え、それ以外の生き方、価値観はないと思い込むことだろう。
私が自分の家と生まれた場所を離れて、最初にわかったことは、世の中には色々な家庭(地域)環境があり、色々な親がいて、色々な家庭がある、ということだった。そして、人は自分が生まれ落ちた家庭の価値観に相当束縛されていることにも気づいた。
それから、文化人類学という学問を学んだおかげで、私たちが当然だと思っている日本という国の文化的価値観も絶対的なものではなく、世界には無数の文化があり、それぞれの文化にはそれぞれの固有の価値観があることを知って驚いた。文化や価値観の多様性に私の目を最初に開いてくれたのが、文化人類学という学問だったのだ。
本書は、ボルネオの狩猟採集民「プナン」でフィールドワークをした人類学者が、プナンの人たちには、「ありがとう」や「ごめんなさい」という観念も、それに相当する言葉もないことに衝撃を受け、それがいったいどういうことなのか、プナンの人たちと一緒に暮らした日々を綴りながら、哲学的思索をした本である。
たとえば、プナンの人たちが著者にお金を借りに来る。でも一言の「ありがとう」もなければ、返金もまずない。また、著者から物を借りて、返ってきたときには、壊れていても、「ごめんなさい」もない。そもそも「借りる」という観念がないのだ。あるいは、著者が不在中に勝手に物をもっていく。プナンでは、物を所有するという観念がほとんどなく、もっているものはすべて必要な人に分け与えるのがよいとされている。
プナンの人たちの価値観とは、「人々が生き続けて、共同体が存続すること」というきわめてシンプルなもので、それに役立たないものは、儀式も儀礼も観念も物も所有しない。死者への敬意や愛情すらなく、人が死んだら埋めて、さっさと忘れるのがよいとされる。明日も過去もなく、「個人には何の責任もない」とか、「今、生きていること、それだけが重要」って、なんだかラメッシ・バルセカールの教えをみんなで実践しているような民族(笑)である。
もちろん、彼らの価値観も多くある文化的価値観の一つであり、絶対的価値観でもないし、日本のような社会では、「ごめんなさい」、「ありがとう」とういう言葉は、ある種の潤滑油の役割もあると思う。でも、こんなふうに人が生きている社会もあるんだということを知れば、次回人から、「ごめんなさい」、「ありがとう」を言われなくても、「ああ、プナン的か」と思って、あまり腹もたたなくなるかもしれない。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
The Thunder of Silence(4) ― 2022年12月02日 16時13分44秒
[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時
ジョエル・ゴールドスミスはThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の中で、「カルマの法則」というタイトルの章だけでなく、あらゆる箇所で折に触れて、新約聖書の言葉、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ人への手紙6章7)というカルマの法則に触れている。
そして彼は、モーセがヘブライ人たちに与えた「十戒」、ユダヤ教的「カルマの法則」と、イエス・キリストによる「神の愛と恩寵」の教えの違いを歴史的背景も踏まえて、非常にていねいに説明している。
ジョエル・ゴールドスミスがカルマの法則について言っていることをまとめると:
1人間の人生には確かに「カルマの法則」がある。
2「カルマの法則」とは、神が人を罰したり、報酬を与えたりという意味ではなく、善い行為にしろ、悪い行為にしろ、自分がした行為の結果が戻って来るということである。したがって、一部のキリスト教徒たちが信じている「神が人を罰するとか、人に報酬を与える」とか、「神が復讐する」という観念は間違いである。
3「カルマの法則」は、ボールを壁に投げたら、それが自分に向かって戻って来ることに似ている。
4しかし、人は「カルマの法則」を超えて、「神の恩寵」の元に入ることができる。
5「カルマの法則」を超えるためには:
*まず、「カルマの法則」を理解し、遵守すること。
*神(神霊)に目覚めること。
*キリストのメッセージ、山上の垂訓を生きること、つまり、人も自分も許し、何事においても、批判と非難と善悪判断を控えること。
2「カルマの法則」とは、神が人を罰したり、報酬を与えたりという意味ではなく、善い行為にしろ、悪い行為にしろ、自分がした行為の結果が戻って来るということである。したがって、一部のキリスト教徒たちが信じている「神が人を罰するとか、人に報酬を与える」とか、「神が復讐する」という観念は間違いである。
3「カルマの法則」は、ボールを壁に投げたら、それが自分に向かって戻って来ることに似ている。
4しかし、人は「カルマの法則」を超えて、「神の恩寵」の元に入ることができる。
5「カルマの法則」を超えるためには:
*まず、「カルマの法則」を理解し、遵守すること。
*神(神霊)に目覚めること。
*キリストのメッセージ、山上の垂訓を生きること、つまり、人も自分も許し、何事においても、批判と非難と善悪判断を控えること。
上記の2について、ジョエル・ゴールドスミスの言い方と、たとえば、インド系非二元のアドバイタ、特にラメッシ・バルセカールの表現は多少異なる感じがある。ラメッシは、「カルマの法則」も含めて、「起こることすべては神の意志」であり、それに対して、ジョエル・ゴールドスミスは、段階を踏んでいるというか、人が自分に起こったことに、善悪判断をしているかぎり、それは「カルマの法則」のレベルであり、善悪判断をしなくなれば、それは「神の恩寵」の領域に入る、みたいな感じだ。
ラメッシの言うことも、ジョエル・ゴールドスミスの言うことも、同じところへ行き着くはずであるが、表現はかなり違う印象を与える。このあたりの説明は、ラメッシのように、「すべては神の意志」とシンプルに言うほうがなんかわかりやすいし、起こったことを過去の自分の善い行為にしろ、悪い行為にしろ、結びつけるのも、なんだか面倒だし(笑)……と最近は特にそう思う。そもそもラメッシの教えには、「行為者は存在しない」わけで、だから、許す人も許される人も、許すべき行為すらなく、「許す」という観念すらない。
本日は、これ以上自分の言葉をまとめる気力がわかないので、昨年『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本が翻訳出版されたロバート・アダムスの別の本、『Karma &Compassion(カルマと慈悲)』から、彼がカルマについて言及していることを紹介してみよう。
[あなたはカルマの犠牲になる必要はありません。あなたの本質はどんなカルマよりも強力です。あなたの本質はこの世界の法則の支配下にはありません。(つまり、カルマは愛の行為によってバランスを取ることができるという意味です)。
あなたの本質は純粋で、それは苦しみの見かけを超越しています。カルマを理解している人が、誰かの苦しみを見るとき、「それは彼らのカルマのせいだ」とは言わないものです。彼らは慈悲をもち、助けます。そこに希望があるのです。カルマよりも強力なものが2つあります。「慈悲と許し」です。
たとえば、誰かが苦しんでいるのをあなたが見るとします。あなたはその人があまり好きではありません。でもその人の苦しみをあなたは見ます。これはすべてそのようにあらかじめ配置され、これはあなたのカルマでもあるのです。あなたはその人が苦しんでいるのを見ます。
あなたは彼らの苦しみを見て、こんなことを言うかもしれません。「私はカルマの法則を理解している。彼に起こったことは、彼が自分で作り出したのだ。私がカルマの法則を理解したことは、何と幸運なことだろうか」。そう言って、あなたはその場面から歩き去ってしまいます。
これはスピリチュアルな探求者の初心者の態度です。あなたは本当には理解していないのです。あなたは自分に起こることにしか関心がありません。だから、歩き去るのです。しかし、ある日、あなたが同じような状況に陥って、苦しんでいても、誰もあなたを気遣ってくれません。誰もあなたを助けてくれません。
おそらくあなたは「それはあなたのカルマだ」と言う宗教や家族の中にいるかもしれませんが、そこには慈悲がありません。そして、どうして誰も自分のことを気遣ってくれないのか、と疑問に思い始めるのです。ついにあなたは「あらゆる人は慈悲に値する」ことを学びます。しかし、このことは人があなたを傷つけることをゆるす、ということを意味しているわけではありません。ただあなたが物事に慈悲深く、優しく対処するという意味です。慈悲はカルマよりも強大です。
あなたはカルマの法則があると理解しています。そして、助けます。あなたは(苦しんでいる人を)助けるために、何ができるか見ます。人の苦しみを和らげるために、あなたはできるかぎりのことをします。これが神聖であるということです。ここで2つのことが起こりました。あなたは他人のカルマを助け、そして自分自身のカルマも変えたのです]
あなたの本質は純粋で、それは苦しみの見かけを超越しています。カルマを理解している人が、誰かの苦しみを見るとき、「それは彼らのカルマのせいだ」とは言わないものです。彼らは慈悲をもち、助けます。そこに希望があるのです。カルマよりも強力なものが2つあります。「慈悲と許し」です。
たとえば、誰かが苦しんでいるのをあなたが見るとします。あなたはその人があまり好きではありません。でもその人の苦しみをあなたは見ます。これはすべてそのようにあらかじめ配置され、これはあなたのカルマでもあるのです。あなたはその人が苦しんでいるのを見ます。
あなたは彼らの苦しみを見て、こんなことを言うかもしれません。「私はカルマの法則を理解している。彼に起こったことは、彼が自分で作り出したのだ。私がカルマの法則を理解したことは、何と幸運なことだろうか」。そう言って、あなたはその場面から歩き去ってしまいます。
これはスピリチュアルな探求者の初心者の態度です。あなたは本当には理解していないのです。あなたは自分に起こることにしか関心がありません。だから、歩き去るのです。しかし、ある日、あなたが同じような状況に陥って、苦しんでいても、誰もあなたを気遣ってくれません。誰もあなたを助けてくれません。
おそらくあなたは「それはあなたのカルマだ」と言う宗教や家族の中にいるかもしれませんが、そこには慈悲がありません。そして、どうして誰も自分のことを気遣ってくれないのか、と疑問に思い始めるのです。ついにあなたは「あらゆる人は慈悲に値する」ことを学びます。しかし、このことは人があなたを傷つけることをゆるす、ということを意味しているわけではありません。ただあなたが物事に慈悲深く、優しく対処するという意味です。慈悲はカルマよりも強大です。
あなたはカルマの法則があると理解しています。そして、助けます。あなたは(苦しんでいる人を)助けるために、何ができるか見ます。人の苦しみを和らげるために、あなたはできるかぎりのことをします。これが神聖であるということです。ここで2つのことが起こりました。あなたは他人のカルマを助け、そして自分自身のカルマも変えたのです]
以上の言葉は、「カルマの法則」から「神の恩寵」へを、ロバート・アダムス流にシンプルに語ったものだと、私はそう理解している。
カルマについて以前書いたブログ
[新刊発売]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
The Thunder of Silence(3) ― 2022年11月04日 11時11分44秒
[コメントをいただいたかとう様へ]
私も日常生活では、ほとんど「許す」という言葉は使わないですし、キリスト教が教えるように、
「人を許せ」と言われて、自分の意志の力で許せるものなのか、疑問にも思っています。ラメッシが言うように、最初に湧く感情、たとえば、「許せない、許したくない」という感情は、誰にもコントロールできず、ただ私たちにできることは、そういった感情に気づき、その感情を増幅しないこと、そてしその感情にもとづいて「行動しない」ことくらいかと、思います。
「人を許せ」と言われて、自分の意志の力で許せるものなのか、疑問にも思っています。ラメッシが言うように、最初に湧く感情、たとえば、「許せない、許したくない」という感情は、誰にもコントロールできず、ただ私たちにできることは、そういった感情に気づき、その感情を増幅しないこと、そてしその感情にもとづいて「行動しない」ことくらいかと、思います。
1神とは何か?
2善悪という二つのパワーを超越する。
3「カルマの法則」から、「神の恩寵」への移行。
4新約聖書の山上の垂訓のメッセージ。
2善悪という二つのパワーを超越する。
3「カルマの法則」から、「神の恩寵」への移行。
4新約聖書の山上の垂訓のメッセージ。
本日は、The Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の上記のテーマのうち、「善悪という二つのパワーを超越する」を説明してみよう。
人間の人生は、日々出来事で構成されている。人間のマインドが善い、楽しいと考える出来事、人間のマインドが悪い、ひどいと考える出来事、そして、平凡で普通の出来事。自分に関する出来事もあれば、世の中、世界に関する出来事もある。
そして、「善悪という二つのパワーを超越する」とは、日常的な言葉で言えば、そういった「日々起こる出来事に、これは善い、これは悪い、という善悪の判断をしない」ということである。そして、「出来事や人々を憎むな、許せ」ということでもある。
日々起こる出来事には、戦争、災害、コロナのようなパンデミック、物価高などの世界情勢や日本という国の情勢に関することもあれば、自分個人に関すること、失業、病気、事故、人間関係の問題など、あるいは財布やスマホを落とす、パソコンが突然壊れるなどの出来事もある。もちろん、お金をたくさん手に入れたとか、好きな人と結婚するとか、子供が生まれたとか、望む就職ができたとか、人間のマインドが判断する善い出来事の場合もある。ジョエル・ゴールドスミスが言っていることは、「そういった出来事にいちいち善悪判断をするな」、「関わっている人たちを許せ、憎むな。反対に、称賛もするな」ということである。
書くには、簡単であるが、これを日々実践するのは、けっこうな「修行」となるだろうと思う。なぜなら、私たちのマインドは、あらゆること、世界情勢から日本の経済政治状況、そして、自分の日常生活に起こる出来事について、いつも善悪判断するようにプログラミングされているからだ。
そもそも私たちの肉体の基層にある免疫機能は、体にとって「悪」、「非私的なもの」が体に侵入しないように常に警戒し、万一侵入したら、徹底的に戦うという機能を担っている。つまり、常に善悪判断をし、常に「私」と「非私」を分離し、区別するという仕事をしていて、そのおかげで、私たちは肉体の健康を保つことができている。
だから、ジョエル・ゴールドスミスのメッセージも含めて、一般的に非二元系の教えは、肉体の法則とは真逆なことを教えるゆえに、私たちはマインド・レベルで、「善悪判断を手放すこと」に困難を覚えるのである。
本書、The Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の中で、ジョエル・ゴールドスミスは、人間のマインドが「善悪という二つのパワーを超越する」困難を認めつつ、条件づけられた人間マインドをいかに超越するのかを、時には日常的事例をまじえ、あらゆる角度から説明している。
それでも彼の話を理解するのは簡単ではないだろうが、しかし、自分の本質、アイデンティティは一個の肉体・マインドではないと目覚めた人、あるいは目覚めつつある人、つまり、(キリスト教が言う)人の子から神の子に移行しつつある人たちは、「善悪という二つのパワーを超越する」ことの本当の知恵が浸透する可能性が生まれる。
「善悪判断を手放す」ことに関して、私自身はラメッシの「起こることすべては、神の意志である」が役に立っている。大きなことから小さいことまで(数日前は、パソコンの問題と奮闘して、半日も時間がつぶれ、昨日は朝から北朝鮮のミサイル発射とかで、スマホから大音響のJアラートが鳴り、体の免疫機能が一瞬、警戒態勢にはいった)、「起こることはすべて神の意志。ピリオド」。
そして、「覆水盆に返らず=起こったことは、元どおりにはならない」、老荘思想の哲学、「人生万事塞翁が馬=善いことは悪いことに変わり、悪いことは善いことに変わる」も、私がよく思い起こす言葉である。
マインドにストレスをかかえずに、問題を冷静に考えることができれば、なんとか状況を切り抜けられるだろうと楽観している――Jアラートは、「安全な場所へ避難してください」と言っているけど、万一ミサイルが自分のいる地域に飛んできた場合、物理的に安全な場所なんてあるのかと思う。ジョエル・ゴールドスミスが言うように、そんなときは、「平静にしている」、それが一番な気がする。
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
The Thunder of Silence(2) ― 2022年10月15日 10時24分39秒
昨年に引き続きジョエル・ゴールドスミス(1892~1964)の本を日本に紹介できることを、とてもうれしく思っている。
私がどうやってジョエル・ゴールドスミスの本に出会ったのかについては、昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(ナチュラルスピリット発行)の紹介のときに書いたので、まだ読んでいない方は過去のブログをお読みいただければと思う。
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(1)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(2)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(3)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(4)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(5)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(6)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(2)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(3)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(4)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(5)
『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(6)
今回のThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)は彼の1961年の作品で、『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(ナチュラルスピリット発行)よりもあとに出版され、私が読んだ彼の本の中で、一番コンパクトに彼の教えの真髄がまとめられているという印象がある。ただ、本書では、『スピリチュアル・ヒーリングの本質』とは違って、ヒーリングそのものについてはあまり語られていない。
本書の主なるテーマを列挙すれば:
1神とは何か?
2二つのパワーを超える。
3「カルマの法則」から、「神の恩寵」への移行。
4新約聖書の山上の垂訓のメッセージ。
2二つのパワーを超える。
3「カルマの法則」から、「神の恩寵」への移行。
4新約聖書の山上の垂訓のメッセージ。
もちろん、上記の4つのテーマは緊密にリンクして、もし一つのテーマを完全に理解できれば、他のテーマを理解するのはそれほど難しくはないだろうと思う。
今日は、まず1の「神とは何か?」について:
ジョエル・ゴールドスミスが語る神を一番シンプルに定義すれば、「神とは善悪を超えた創造原理」というようなものだ。本の中で彼はあらゆる角度から神について語っているが、「創造原理」というのが一番宗教的な感じがしなくて、私はこの表現が好みである。
「創造原理」――神は人間の支援なく、壮大な宇宙を統治・運営する原理。そして、神の創造には善悪がない。これを突き詰めていくと、人間が悪だと思っているもの、悪人から害虫、ウイルスに至るまで、あるいは、病気、戦争、自然災害でさえ、神の観点からは「悪」ではない。
反対に、人間が善だと考えることさえ、善ではない――神の世界では善人もいないし、自分が大喜びするような出来事も善ではない。
そして、神についてジョエルゴールド・スミスが語る二番目に重要な点は、神とは「私」である、ということだ。ただし、この「私」は、鏡に映るような人間、ジョンとかメアリーのことではなく、あらゆる人の本質、人だけでなく、あらゆる生きとし生けるものに共通する根源的本質である。
だから彼は、「私」は神である、と教えたが、一方で、自分の教え(彼の教えは「無限の道」と呼ばれている)を学ぶ生徒たちには、「私は神である」と言うことを禁止したという。その禁止の理由を彼は、人が、「私は神である」と言うと、すぐにそれを鏡に映るような人間、ジョンとかメアリーである自分が神だと誤解し、秘かなプライドをいだくようになるからだ、と説明している。
そして、すべての救いはこの神なる「私」と触れ合うこと、そこに定住することであり、それが「神の王国」に住むということであり、神の王国ではそこの住民は、「神の恩寵」が約束されている。
しかし……神の王国に住み、神の恩寵を受け取る前には、人間のマインドにとって、非常に大きな障害を乗り越える必要があり、それが、上記2の「二つのパワーを超える」であり、ジョエル・ゴールドスミスがマスターと仰ぐ、イエス・キリストの(人間のマインドには非常に厳しく聞こえる)山上の垂訓のメッセージである。
ジョエル・ゴールドスミスの言葉
「神は私たちが正義、愛、慈悲だと考えるものを受け入れません。しかし、私たちが静かな小さい声を聞こうとするなら、神は神自身の正義、愛、慈悲を私たちに分け与えてくれることでしょう」
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『仕方ない私(上)(下)』発売 ― 2022年08月29日 10時58分45秒
[32°様へ:ご質問への答え]
*USアマゾンからダウンロードは、ドルでの支払いのみだと思います。
[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2022年9月25日(日曜日)午前9時から午前11時
オンライン「非二元の探究―ニサルガダッタ・マハラジの教え」
2022年9月29日(木曜日)午後2時から午後4時
2022年10月9日(日曜日)午前9時から午前11時
2022年10月9日(日曜日)午前9時から午前11時
[新刊発売]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
『時間の終わりまで』 ― 2022年06月30日 08時53分01秒
皆様、暑中お見舞い申し上げます。
*7月から8月の終わりまで、ブログをお休みします。
[イベント]
オンライン「非二元の探求―瞑想と質問の会」
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2022年7月20日(水曜日)午後2時-午後4時
2022年7月24日(日曜日)午前9時-午前11時
ブライアン・グリーン著『時間の終わりまで』(講談社)という物理学の最先端研究をテーマとしたポピュラー・サイエンスの本を今読んでいる。
ブライアン・グリーンは私がもっとも好きなポピュラー・サイエンスの作家(かつ最先端の物理学者)であり、難しい話題をできるだけかみくだいて説明するその才能にいつも感銘を受けている(それでも、読むのはかなり大変な作業になるが)。
今回の本、『時間の終わりまで』は、意識や心、脳といった主観的部分にもかなり踏み込み、さらに生物進化論や生命の起源など、物理学以外の分野にも広げて、物理学と宇宙論の最先端を包括的に語っている。その分、非常に分厚くなり(本文が約530ページ、注も含めると、637ページ)、途中で読むのがしんどくなった。
それで、今回は4章から9章を(また別の機会に読むとして)飛ばして、実際に読んだのは、1章から3章、そして10章と11章だけである。つまり、今回は、出だしと結論だけを読んだということになる。
半分読んだ印象で言うと、物理学の最先端の研究がもたらしている事実に、著者は心が揺れていて、その揺らぎが全編にあふれている。彼は(というより科学全般が)、科学者としての全人生、科学的全研究の基盤を揺るがしかねない大問題に直面しているという事実を告白している。
少し引用すれば:
「あなたが今持っている信念、記憶、理解は、いかにして得られたのかと自問すれば、莫大な母数にもとづく公平な答えがどんなものになるかは明らかだろう。あなたの脳は、特定の粒子配置に刻み込まれた記憶なので神経心理学的特質をそなえた状態で、からっぽの空間を飛び交う粒子たちから自然発生的に生まれたのだ。あなたが語る生い立ちの物語は、感動的だが事実ではない。あなたの記憶と、あなたが持つ知識を導き出した様々な論証と、あなたの信念はすべて、作り事なのだ。あなたに過去はない。思考する能力と過去に一度も起こったことのない出来事の記憶とを与えられた、肉体から切り離された脳としてたまたまひょっこり存在するようになったのだ。これが公平な答えである」(『時間の終わりまで』第10章「時間の黄昏」p483より)
「あなたが今持っている信念、記憶、理解は、いかにして得られたのかと自問すれば、莫大な母数にもとづく公平な答えがどんなものになるかは明らかだろう。あなたの脳は、特定の粒子配置に刻み込まれた記憶なので神経心理学的特質をそなえた状態で、からっぽの空間を飛び交う粒子たちから自然発生的に生まれたのだ。あなたが語る生い立ちの物語は、感動的だが事実ではない。あなたの記憶と、あなたが持つ知識を導き出した様々な論証と、あなたの信念はすべて、作り事なのだ。あなたに過去はない。思考する能力と過去に一度も起こったことのない出来事の記憶とを与えられた、肉体から切り離された脳としてたまたまひょっこり存在するようになったのだ。これが公平な答えである」(『時間の終わりまで』第10章「時間の黄昏」p483より)
つまり、現在の最先端の物理学の研究から言えば、私たちがもっている過去の記憶は全部、作り話ということで、実際に起きた話ではない、という結論である――その結論を導くエントロピーの細かい法則を、私はとても説明できないので、興味のある方はぜひ本書を読んでいただければと思う。
「私は〇〇年に生まれた」から、「昨日の夕食に肉じゃがを食べた」に至るまで、あるいは1分前にトイレに行った記憶まで、全部、「起こっていないこと」、それが物理学の結論でもある。非二元系の教えでは、このあたりの話は時々、語られているので、信じがたいけれど、驚くことではないかもしれない。しかし、長年対象世界の研究に人生を捧げた科学者たちにとっては、天地がひっくり返る結論なのだ。科学者と科学にとってのその衝撃を、著者は次のようにさらに述べている。
「あなたのものであれ、私のものであれ、他の誰かのものであれ、もしひとつの脳が、自分がもっている記憶と信念は、実際に起こった出来事の正確な反映だと信じることができなければ、科学知識の基礎をなす測定や観測か計算は、なにひとつ信じられなくなる。私は、一般相対性理論や量子力学を勉強した記憶があるし、これらの理論を支える論証の鎖をすべてたどり直すことができるし、これらの理論によってみごとな精度で説明されるデータや観測をすべて自分で確かめてみた記憶もある。ところが、もし私がこうした記憶は、それと結びついた実際の出来事によって刻まれたのだと信じることができなければ――一般相対性理論や量子力学は、心が作り上げた虚構などではないと断じて信じることができなければ――、これらの理論が示す結論はひとつとして信じることができない」(『時間の終わりまで』第10章「時間の黄昏」p483~484より)
科学とは実際に起こった(とされる)事実にもとづき、論証を地道に積み上げる作業にそのすべての基盤をおいている。したがって、著者が書くように、「自分がもっている記憶と信念は、実際に起こった出来事の正確な反映だと信じることができなければ、科学知識の基礎をなす測定や観測か計算は、なにひとつ信じられなくなる」であれば、科学者にとっては耐え難い話になることは想像にかたくない。
非二元系の教えにはまっている私たちは、「世界は幻想である」とか、「時間はない」とか、まあ平気で言うものであるが、それは、私たちが科学者たちほど対象世界の研究に時間とエネルギーを投資していないからだ。むしろ、「実際には何も起きていない」とか、「「世界は幻想である」と聞くほうが、聞いているだけなら、ほっとするというか安心するというか……という感じであるが……しかし、その認識を実際に生きるのは簡単ではないし、まして、「すべての過去が実際に起こった出来事である」という基盤にもとづいている二元社会では通用する話ではない。
『時間の終わりまで』の10章の途中からは、科学の基盤、合理的思考への信頼を取り戻すための科学者たちが様々な戦略(=科学と科学者たちの救済戦略)を編み出す奮闘が紹介されている。一流の科学者とはSF作家並みに想像力に富んだ人たちなので、多様な宇宙モデルを想像し、私たちを楽しませてくれるが、どれ一つとして、絶対的確実なモデルはないようである。
本書の全体としてのテーマは、「私たちの宇宙の終わり」であり、「世界の終わり=時間の終わり」が現在の科学的研究から結論としては避けられないということで、著者は次のように述べている。
「われわれが長きにわたって「唯一の」宇宙だと思っていた領域では、生命と思考はいずれ終わりを迎えることになりそうだ。無限の宇宙空間では、われわれの領域の境界のはるか彼方で、生命と思考は生き延びるかもしれないし、その可能性が心の慰めになることもあるだろう。だが、われわれ自身は、永遠について考えることはできても、そして永遠を手に入れようと努力することはできても、永遠に触れることはできそうにない」(第10章497p)
著者のこの言葉を読み、「今の宇宙が終わる」と聞かされても、衝撃でもないけど、ただ物理学の研究が「過去がない」という結論に導くなら、「未来だって、実際は起こらない」という結論にならないのか?という疑問が湧いた。
そして、最後の文章、「われわれ自身は、永遠について考えることはできても、そして永遠を手に入れようと努力することはできても、永遠に触れることはできそうにない」は、科学的マインドの限界を告白している感じである――ちなみに、著者のお兄さんは、宗教が専門だそうで、何かのイベントに二人が呼ばれて対談したとき、全然話がかみ合わなかったという話が書かれている。
地上の諸々の問題にうんざりしたとき、たまにこういう宇宙論と物理学の最先端の話を読むと(そこには人間の些末な問題は出てこない)、数百億年規模の話なので、広大な宇宙の(実際は存在しなかった)過去や(やはり実際は存在しないかもしれない)未来へ旅行する気分が味わえたりして、楽しい――地上世界があまりに悲惨で滑稽だと、「この宇宙が終わる」と聞かされると、なぜかうれしいような気分にさえなる。
[昨年の新刊]
目次は下記に掲載してあります。
[お知らせ]
[お知らせ]
(横書き版PDFから1部と2部を収録)
(横書き版PDFから3部を収録)
*「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」(ラメッシ・バルセカール著)が、発売になりました。本体価格:2,550円 (用語解説と訳者あとがきも含めた本文ページ数、378ページ)
目次は下記のサイトに掲載してあります。
http://www.simple-dou.com/CCP052.html
アマゾン社サイト
https://www.amazon.co.jp//dp/4864513317/
*「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0832XZ3ZX
アマゾン社サイト
https://www.amazon.co.jp//dp/4864513317/
*「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0832XZ3ZX
*「意識に先立って――ニサルガダッタ・マハラジとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B084KPV1XC*「楽しいお金2」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B085VLSD2G/*「楽しいお金3」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B088TDX4CL/
[電子書籍既刊]
*ラメッシ・バルセカール 『誰がかまうもんか?!』
ヨドバシ電子書籍ストア
*フランク・キンズロー『瞬間ヒーリングの秘密』
*トニー・パーソンズ 『何でもないものがあらゆるものである』
*「人をめぐる冒険」
「頭がない男-ダグラス・ハーディングの人生と哲学」
*定価:本体価格2,500円+税 *版型:B5版(フラカラー)183ページ*発行:ナチュラルスピリット
*目次詳細
最近読んだ本から ― 2022年06月10日 09時15分32秒
『NO HARD WORK』(ジェイソン・フリード&デイヴィッドッド・ハイネマイヤー・ハンソン著 早川書房)
競争し、ストレスに満ちた会社ではなく、Calm company (穏やかな会社)を目指す、世界的なソフトウェア開発会社「ベースキャンプ」を経営する著者たちが自ら実践してきた働き方の極意、NO HARD WORK(頑張って働かない)が、本書ではシンプルにまとめられている。「無謀な目標」、「短時間睡眠」、「中断」、「無駄な会議」、「長時間労働」などを全部やめれば結果は出る! と著者たちは断言する。
私はここに書かれていることの多くを個人的には実践してきたので、著者たちの言うことに非常に共感する。日本でも取り入れて実践する会社が増えればいいのにとは思うが、しかし、長時間労働=善、頑張って働く=善が骨の髄までしみ込んでいる日本では、こういった考えが浸透するのにあと100年くらいかかるかも……でも、その前に、日本は少子化のせいで消滅するかも……(と警告されている)。
『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(岩田健太郎著 光文社新書)
忖度しないで、率直に意見を言うので、医学界の一部から嫌われて、いじめられてきたという医者である著者が提言する「いじめ」への対処法。著者は、大人社会がいじめ社会なので、それが子供世界にも伝染しているという。学校関係者たちの願望、「うちの学校にいじめはないはずだ」とか、「いじめの事実を覆い隠したい」が、いじめの対処を遅らせると警告し、常に「事実」を調査することを著者は勧める。
いじめの話となると、被害者の親から、「学校は何もしてくれない」という不満がでて、それはもっともな正論で不満ではあるが、たぶん、異常に忙しすぎる学校の教育現場では、いじめ問題に適切に対処する余裕がほとんどないのが実情であろう。さらにほとんどの先生たちは、いじめという複雑な人間関係の問題にどう対処していいのか、わからないのが現実ではないか、とも思う。
小学・中学・高校のお子さんをお持ちの方は、どの学校にも必ずいじめが存在すること、そして、ほとんどの場合、学校はいじめに対応できない(よほど、校長以下一丸となって、いじめ対策に取り組んでいる学校以外)ことを、心に留めておくとよいと思う。
『王とサーカス』(米澤穂信著 東京創元社)
主人公のジャーナリスト、太刀洗万智がジャーナリスト駆け出しのときに、ネパールで遭遇した事件をネパールの国情とネパール王宮での暗殺事件を背景に描くミステリー。最初、このタイトルを見たとき、「ああ、王様が自分の娯楽のためにサーカス団をもっていて、そのサーカス団でおきた殺人事件か」と、私はまったく勘違いしていた。
ここでの「サーカス」という言葉は、ネパール王宮に勤める軍人が、ネパール王宮での暗殺事件を取材する太刀洗万智に、苦々しく語る言葉の中で使われている。「サーカス」とはここでは、「視聴者に喜びを与える娯楽的ニュース」という意味合いで使われている。
ネパールの軍人は次のような主旨の言葉を彼女に投げつける。「他国の事件など、あなた方外国人にとっては、サーカスから逃げ出したトラのニュースほどにも価値がないものだ。ネパール王宮をこれ以上サーカスにするな」
この軍人の言葉やガイドを務めたくれたネパール人の少年の言葉は太刀洗万智の胸に深く突き刺さる。それでも、彼女はこのジャーナリストという仕事が好きである自分を自覚し、他人の苦しみを取材してお金をもらうジャーナリストという仕事の苦痛を引き受ける覚悟をする。
『真実の10メートル手前』(米澤穂信著 東京創元社)
前述の太刀洗万智がジャーナリズムの世界に身をおいてからかなりたった頃、ジャーナリストとして出会う数々の事件を、ジャーナリストの視点から解決するミステリー短編集。悲しく絡み合あう人の正義感と自尊心を解き解す太刀洗万智の知性に共感。
『女帝 小池百合子』(石井妙子著 文藝春秋社)
現職東京都知事、小池百合子さんの評伝(かなりネガティブに描かれている印象)である。本書から読み取れる小池百合子さんは、サイコパスの一つの類型である「常に自分がスポットを浴びていないと気がすまないヒロイン型」、トランプ元アメリカ大統領にそっくりで、「自分一番主義」の人である。
彼女にとっては、エジブト留学も、ジャーナリストのキャリアも、そして政治家という仕事も、その学問や文化や仕事が好きというより、「自分が常によりスポットを浴びることができる地位を求めて」という感じであり、その野心の徹底ぶり、そして、女性としての魅力で男性たちを惹きつけ、踏み台にして出世する手腕・能力も見事である。たぶん、小池さんが日本社会で出世できたのは、トランプ元アメリカ大統領と同様に、彼女があまりに見ていて面白い、小説的ヒロインであり、それが大衆に支持されたからだと思う。
でも本書を読んで私に一番印象深かったのは、実は小池百合子さんのことではなく、著者に小池さんに関する膨大な情報を提供したエジブト時代の友人だった女性のほうだ。彼女はエジプト留学時代の小池さんと同居し、誰よりもエジプト時代の小池さんを知る人物として紹介されている。
小池さんの性格からすれば、そんな若い時代の友人のことなんてほとんど思い出しもしないはずであろうが、その友人のほうは、まるで何十年も小池さんに憑依され、呪縛され、小池さんの影におびえて生きてきた感じである。
その友人が著者に自分の思いをぶちまけたのは、あんなウソだらけの人間が日本社会で出世して、高い地位にいることが許しがたいという正義感からなのか、それとも、単に小池さんからの憑依と呪縛から解放されたかったからなのか……二人の女性の心理的関係をテーマに小説を描いたら、面白い小説になるにちがいない。
『無力の道』(ウェイン・リカーマン著 ナチュラルスピリット)
著者ウェイン・リカーマンは、ラメッシ・バルセカールの一番弟子であり、ラメッシの『意識は語る』の原書の編集人兼出版人である。『意識は語る』の中で、ウェイン・リカーマン自ら、自分が長い間アルコール・ドラッグ中毒だったことを告白している。
本書は、『アルコホーリクス・アノニマス(匿名のアルコール依存症の人たち:略称『AA』)』の12のステップと、アドヴァイタの教えを融合させ、「自分は本当に無力だ」という明け渡しへと導くステップを語る。
『自由へのエニアグラム』(イーライ・ジャクソンベア著 ナチュラルスピリット)
本書はまだ発行前ですが(今月半ばに発行予定)、私が長年愛読し、エニアグラムの本の中で今まで読んだ一番よい本だったので、お勧めします。
昔から、人間の性格の違いを説明するのに血液型、星占い、その他、様々なものが流行してきたが、エニアグラムが一番正確である印象がある。しかも地球上のどこの人種・民族にも通用すると言われ、その背後の哲学も奥深い。
もし人間観察眼があれば、自分の知り合いの人すべてを9つの型どれかに当てはめることができ、他人を知るために、そして他人とのコミュニケーションに役立つだろうと思う。
しかし、本書のポイントは、単なる人間分類ではなく、一つひとつの型の背後には聖なる目的があり、さらに人の本質はそういった類型的性格からは解放されている、という点である。そこを理解しないと、血液型、星占い同様に、単に人間を新たに分類するだけに終わってしまう。
著者のイーライ・ジャクソンベアは、著名な非二元の先生、ガンガジのパートナーで、二人ともインドのグル、プンジャジ(『覚醒の炎』が邦訳されている)のお弟子さん。
[昨年の新刊]
目次は下記に掲載してあります。
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[お知らせ]
(横書き版PDFから1部と2部を収録)
(横書き版PDFから3部を収録)
*「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」(ラメッシ・バルセカール著)が、発売になりました。本体価格:2,550円 (用語解説と訳者あとがきも含めた本文ページ数、378ページ)
目次は下記のサイトに掲載してあります。
http://www.simple-dou.com/CCP052.html
アマゾン社サイト
https://www.amazon.co.jp//dp/4864513317/
*「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0832XZ3ZX
アマゾン社サイト
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*「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0832XZ3ZX
*「意識に先立って――ニサルガダッタ・マハラジとの対話」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B084KPV1XC*「楽しいお金2」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B085VLSD2G/*「楽しいお金3」電子書籍版発売。
https://www.amazon.co.jp/dp/B088TDX4CL/
[電子書籍既刊]
*ラメッシ・バルセカール 『誰がかまうもんか?!』
ヨドバシ電子書籍ストア
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