子供をもつ意味2017年11月30日 16時24分33秒

  (ニサルガダッタ・マハラジの話は、次回にあと一回書きます)
 
 先日のご質問について

先日高木さんの書籍を購入いたしました、ストーン瀬戸物(←これで本名わかりますかね?笑)です。
 高木さんにお聞きしたいことがありコメント欄に書かせていただきました。
 
以前のブログで池田晶子さんの名前をはじめて知り、まだ二冊しか読んでいませんが、どなたかのブログに池田晶子さんが子供を作ることについて、ある書物で書いていて引用され掲載しています。

>親とは自身の否定性を乗り越えるためにこそ、あえて子という否定性を産み出すのである。これが、子作りとは精神の自己克服であるという、荒唐無稽な説である。

http://yoshi-imajuku.m.blog.jp/article/1044544682?guid=ON

この方のブログが読めれば全文が読めるのですが、高木さんは子供を作ることについて、子供ができることについて、どのように考えていらっしゃるのか聞いてみたい、と衝動的に書き込みしてしまいました。
 
高木さんの紙の書物は全部読みましたが、電子書物ではもしかしたら書いている内容かもしれません。楽しいお金3での幸せ父さん・幸せ母さんはわかっていますが、私が自分の子供のことで色々あるもので、何かの機会があればブログに高木さんの考えを書いていただけると、池田晶子さん以外の言葉を聞きたい、と思い、学ばせていただきたく質問いたしました。」

人はなぜ子供を産むのか? 実はその問いには根本的な答えがない。そもそも、子供を産むことにかぎらず、人の人生にまつわる「なぜ」には本当は答えがないのだ。そして子供をもつかどうか、子供が生まれるかどうかは、個人の意志(のように見えるが)、個人の意志には関係ないと私は思っている(この話は今年の2月のブログに書いた)。だから、誰も自分の意志で子供を産んではいない。ノン・デュアル系の教えの伝家の宝刀を抜けば、「すべては神の意志」(笑)――ただそう起こった――である。

しかし、そう答えてしまえば、身も蓋もないし、相対的レベルでは様々な理解な仕方があるとは思う。なので、今日は私が人間関係、特に親しい人間関係について思っていることを書いてみよう。

親しい人間関係(親子関係や夫婦関係)、それは進化を促進するための学習機能だというのが私の理解である。

私たちはお互いを通じて学び合う――それが親しい人間関係の意味だと、私はそう理解している。

私には子供はいないが、20代の頃、自分の両親と折り合いが悪かったときに、親子関係とは何なのかということをイヤというほど考えたものだ。
 
私は子供の頃はいわゆる「いい子」だった。そして私の両親もいわゆる典型的な日本の「いい親」――子供のためなら、自分のことは何でも犠牲にできるタイプの親――だった。
 
 だから、私は考えたものだった。「どうしてよい親とよい子供がお互いにこんなにケンカをしなければいけないのか?」
 
最初は私は、それは考え方・価値観の違いが問題なのだと思ったものだ。

私の両親は非常に保守的な考え・価値観の持ち主で、「子供は親の言うことを聞くべきで、何をするにも親の許可がいる」と強固に信じていた。  子供の頃はそういう親の考え・価値観をよく知らなかったが、大人になって、私(と私の姉妹たち)が自分のしたいことを勝手にやり始めたときに、双方の価値観・考えの違いが非常に鮮明になって、私は驚愕した。

私は子供の頃から「すべての人間は平等で、少なくとも大人になったら、自分のしたいことを自由にする権
利がある」とぼんやりと信じていた。

戦前の男尊女卑、家父長制度を強烈に信じていた私の父は、私の考えを聞くと、いつもこう言ったものだ。

「だから、戦後の教育が間違っていたのだ」

父に言わせれば、親の言うことを聞かなくなった私や私の姉妹は、全員が戦後教育の間違いの結果(笑)ということで、私は戦争や教育に関して激しく父親と口論したものだ。

この頃は、両親と私はお互いに相手の価値観や生き方を激しく否定し合い、そのせいで、関係は悪化するばかりで、私は本当に親子の縁を切りたいと思ったくらいだった。

それから私がスピリチュアルなことを学び始めたとき、ようやく私は人間の価値観・考え方には絶対に正しい価値観・考えはなく、だから自分の価値観・考えの絶対的正しさを主張することが愚かしいのだとしだいに理解するようになった。

そして、30代になって自分の人生に余裕ができたときようやく、両親のことを両親の立場に立って考えることができるようになり、彼らの保守的な考えや生き方も受け入れられるようになり、お互いの溝が少しずつ埋まっていたというわけだ。

だからといって、両親も私も自分の価値観・考えを変えたわけではなかったが、お互いが非常に違った価値観と考えをもっていることをしだいに許容しただけだった。

親子関係にかぎらないが、人間関係を悪化させる要因は、突き詰めていけば、一つである。それは人間関係についての自分の想定や思い込みや執着、つまり、「親はこうであるべきだ」、「子供はこうであるべきだ」、「何で私の親(子供)はこうなのか?」といった自分の側の想定や期待だ。
 
人間関係においては「想定・期待」はほとんどその反対に働く。

私自身が両親に非常に期待されていた。「期待」というのは非常に重く感じられ、そうするとますますその「期待」とは反対のほうへ行こうとする力学が働くようだ。

20代の頃、私は激しく思ったものだ。「親が期待するような人間には絶対にならない」(笑)

もし皆さんが自分の親しい人間関係で悩んでいるとしたら、自分がその人間関係にもっている期待・想定・執着を見ることをお勧めする。そして、「どうしてこんな親(子供・夫・妻)なんだ?」という「なぜ」の疑問がわくとしたら、それは自分の期待・執着を表している。

そこから出発し、想定・期待・執着を手放し、相手をあるがままに受容し、最終的には「まさにこれが私に必要なピッタリの親(子供・夫・妻)なんだ」という納得・理解へ至れば、自分の人生に子供や親、妻や夫がいることをありがたく思うことだろう。

今では私は自分の両親を非常に敬愛している。彼らは親不幸だった私にたくさんの援助をしてくれただけでなく、私には欠けているたくさんの美点をもち、たくさんのことを教えてくれた。そして両親にしても、おそらく変わった子供をもってしまったことで、色々と考える羽目になり、それは彼らにもよかったことだと思っている。

今、私はたいていのときは母親にやさしいが、でも時々耳が悪い母が何度も同じことを言ったり、老人特有のわがままや頑固さを示すと、思わず声を荒げることがある。そして思うのだ。「ああ、子育て中の母親も、自分の子供が言うことを聞かないときは、きっとこんなイライラした気持になるんだ」と。だから、今でも私は学んでいる。

以上、ご質問者の方の参考になったかどうかわからないが、親子関係に関する私の経験を述べてみた。
 
要約すれば、「人間にとって子供が生まれること、そして育てることの意味とは、進化するための学習のため」というのが私の結論である。  


[イベント]                                        

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書き版の二種類の版を用意してあります。 編集の都合上、総ページ数(縦書き版が453ページ、横書き版が367ページ)は異なっていますが、内容はまったく同じです。

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家族への執着・嫌悪、そして再び愛情2016年12月20日 11時33分48秒

今回のダグラス・ハーディングの「存在し、存在しない、それが答えだ」の19章「浴場の絵」の中で引用されているイエス・キリストの言葉、「もしどんな人でも私のところへ来て、自分の父と母、妻、子供たち、兄弟姉妹を憎まないものは、私の弟子になれない」 に関して、「この言葉は、すべてを愛するというキリストの愛と
矛盾するようで、よくわからない」という感想をいただいた。

ここで、「憎む」という言葉が適切なのかどうか、 イエスが本当に「憎む」という言葉を使ったのかどうか、私には疑問が残るところであるが、この言葉の本当の意味、そして、ダグラス・ハーディングがこの章で何を言わんとしているのか、私なりの理解を書いてみよう。
 
伝統的キリスト教では(仏教も同じであるが)、すべての世俗的執着を断ち切らないかぎり、人は神(仏)を求めることはできないと考えられてきた。つまり、神への愛 が他のすべての愛よりも大きくないかぎり、人は神への道を歩くことはできないとされてきたのだ。

そしてこの考えの元となったのが、イエス・キリストの「自分の父と母、妻、子供たち、親兄弟を憎まないものは……」  の発言だったようで、そのため、神への道を歩く者たちは親兄弟を捨て、家族生活も営まない、というふうに徹底してきたわけだ。

世俗的人間関係の中で私たちが最大に愛着するものが、家族への愛情で、親、子、兄弟姉妹への愛着である。そして、愛着とは執着で、執着とは依存である。
 
もし人が家族に執着・依存するとすれば、それはただ神だけを求め、ただ神だけを愛し、ただ神だけに依存することに対する最大の障害なのである

つまり、イエス・キリストが言わんとしたことは、家族への愛着(執着)・依存と神を求めることは両立しないということで、そこで彼は弟子たちに「もしあなたにとって家族がそんなに大事なら、私の弟子になることはできない。だから、神か家族かどっちかを選択せよ」と迫ったわけだ。(どこかで読んで記事によれば、以前は「親兄弟を憎む」ではなく、「親兄弟を捨てる」という訳だったとか)

問題は、外側で家族や世俗的生活を断ち切っても、人は心の中で必ずしも執着を断ち切れるわけではない、ということである。立派な法衣を着た聖職者や僧侶たちの性的金銭的スキャンダルが歴史上、現在に至るまでえんえんと続いている事実を見れば、世俗的執着を断ち切ることがどれほど困難かを物語っている。

キリストの「親兄弟を憎まないものは……」  と絡めて、ダグラス・ハーディングがこの19章で語っていることは、私たちが対象として見るどんな人(自分の家族も含めて)も、ただそれ自身では厚紙の切り抜きないし空っぽの船にすぎず、何の実体もないということだ。

そのさらなる意味とは、私たちは自分が見る他人の目に魅了されたり、愛着したり、それを恐れたり、嫌ったりするが、実際は彼らの目の背後には誰も住んでず、それは親でも子でも兄弟姉妹でも(恋人や友人でも)ない、ただの厚紙の切り抜きないし空っぽの船、単なるイメージである。

しかし、主体的に言えば、ダグラスが言うように「あなたが見るすべての目は盲目であるのに対して、その所有者たちは誰も盲目ではないということである。すべての人は見ている一なるもののただ一つの目で見ている

そしてそのことを見るとき、「私たちは皆が何もないものにされている聖なる中心以下であることを断固拒否し、そのことによってすべてであり、愛そのものである一なるものと一つになることである」(以上の引用は「存在し、存在しない、それが答えだ」p257-258)

つまり、私の本質と自分が見る対象の本質が一つであることを認識することによって、再び愛が復活するというわけである。そして、縁があるなら再び夢の中(厚紙の切り抜きの世界)で、親子、兄弟姉妹、夫婦、友人、恋人を演じ、執着なく愛し合うということになる。

執着なく家族を愛することがどういうことか、ラマナ・マハルシが弟子であるプンジャジ(「覚醒の炎」という邦訳本がある)に語ったエピソードが、私はとても好きなので、以前にもこの話を紹介したことがあるが、再び紹介してみよう。

プンジャジはラマナ・マハリシに出会い、ラマナに恋し、家族を捨てて一生、ラマナのアシュラムに住む決心をしていた。彼は結婚していて、子供が何人かいて、両親の面倒を見る立場にあった。あるとき家族からアシュラムに連絡が来て、それは「故郷の町が戦争に巻き込まれて、大変な状況になっているから、すぐに帰れ」という内容だった。ところが、そんな連絡をもらっても、プンジャジは「あれは夢の家族で、自分にはどうでもいい」とまったく心も動かされずにいた。

その話をラマナが聞きつけ、プンジャジを呼んで、尋ねた。「家族が大変な状況にいるというのに、どうしてあなたは家族のところへ帰らないのですか?

プンジャジ「あれは夢の家族で、私にはもうどうでもいいのです。私にはあなた以外誰も必要ではありません
ラマナ「だったら、夢の世界で、夢の夫、夢の息子、夢の親として、義務を果たしなさい

ラマナの言葉に、抗えないパワーを感じて、プンジャジはイヤイヤ承諾し、家族の元に帰ることにし、しかも、自分が生きている間、もう二度とラマナに会えない運命も直感的に悟ったという。

これはたぶん、プンジャジが三十代前半の話で、その後、彼は大家族の生計を支えるために定年退職するまで懸命に働いたという話だ。彼はすべての家庭的義務が終わったあとで、再び放浪生活に入り、インド国内、ヨーロッパ、アメリカとあちこち行ってサットサンをおこなった。(以上の話をどこで読んだか、記憶が確かではないが、たぶん、プンジャジの伝記、”Nothing ever Happened” に出ていた話だと思う)

 今、「執着なく愛する」と書いたが、実はここでも言葉が曲者で、それは「夢の中の登場人物(人間物体の小さい自分)が、別の登場人物に愛着したり、嫌悪したりしないように努力するとか、無理やり執着を断ち切る」ということではなく、実際は「夢の中の登場人物が別の登場人物に愛着したり、嫌悪する様子」をただ眺める(観照する)ということである。もし人間物体が夢の登場人物にすぎないとわかるなら、それが他人に愛着しようが、嫌悪しようが、それこそ、Who cares!? (そんなこと誰がかまうもんか)、であろう。

ラマナ・マハルシでさえ、自分の母親が死んだとき、涙を流して、悲しんだと伝えられている。「(執着がないとされている)聖者も自分の親の死を悲しむのですか?」と信者に尋ねられたとき、ラマナは「息子が母親の死を悲しむのは当然である」と答えたという。

最後は私の話だ。20代の後半の頃、私がスピリチュアルに深く傾倒していることが両親にばれて、特に母親が激怒し、ストレスから病気になるほどだった。

その時の私の気持ちと態度は、親に死んでくれとまでは思わなかったとしても、「親が不幸だろうが幸せだろうが、生きようが死のうが、一切私には関係も関心もありません」という非常に利己的で冷たいものだった。なので、縁は切れなかったものの、それからかなりの間、親子関係は非常に冷えたものだった。

その時代、私はロシアの神秘思想家、グルジェフの教えに影響を受けていて、私が強く記憶に留めている言葉の一つは、キリストの「親兄弟を憎まないものは……」  とは正反対のもので、彼はこう弟子に言っている。「自分の親を愛せないものは、私の弟子になることはできない」(グルジェフはひょっとしたら、キリストの有名な言葉を意識して、わざとこう言ったのかもしれない)。自分の弟子になる条件として、こんな世俗的で平凡なことをグルジェフが言う真意が私は理解できなかった。

しかし、それからずっとこの言葉を考え、次第に親との関係も修復されるにつれて、ようやくグルジェフは事の核心を言っているのだとわかった。それは書けば長い話になるので、簡単に言ってしまえば、私たちの世俗人生においては、親とグルと神は同じ立場にあるということだ。つまり、自分の親を愛せない人は、グルを愛せず、グルを愛せない人は神も愛せないという構図になる。グルジェフはこう言ったという。「自分の親との間に問題をかかえている人は、グルとも同じ問題をかかえることになるだろう」(ここでも「愛する」という言葉は注意が必要だ。霊的な意味で「愛する」とは、感情的に「好き」という意味ではなく、むしろ、「理解する」「存在を受容する」に近い)

「親兄弟を憎まないものは……」 と「自分の親を愛せないものは……」は、見かけ正反対のことを言っているように見えるが、実際はそれはコインの表・裏のようなもので、愛着・嫌悪→無関心→再び(夢の世界で)愛情(と時々うんざり)と、円が一回りしてくれば、同じところへたどり着くのである。


[カモミール様へのお詫び]

コメントの真意を誤解していたようで、失礼をお許しください。

[お礼]

今年も一年間ブログを読んでいただき、また私が主催している活動に対して様々なご支援をいただき、ありがとうございました。お目にかかった皆様にには、そのご縁に感謝します。来年は1月の中旬頃からブログを開始します。 それでは、クリスマスやお正月を一緒に過ごす夢の家族、恋人や友人がいる方は、その人たちとの時間を楽しみ、そういった煩わしいもの(笑)  がいない皆さんは、一人の時間を楽しんでください。書き忘れるところでしたが、最後に、「動物園から神の王国へ」を読んでいただいた、私の著書のコアな読者の皆様、皆様に読んでいただいたおかげで、次作を書く意欲がますます湧いてきました(でもまだ一行も書いていないけど)。

[イベント予定]
 
「私とは本当に何かを見る会」 2017年2月11日(土曜日)(東京)
予約は2017年1月の中旬から開始します。

[来年の出版予定]

ニサルガダッタ・マハラジ"Prior to Consciousness "(意識以前)
  出版間近になりましたら、紹介記事を書きます。

 
[お知らせ]
 
ダグラス・ハーディングの新刊「存在し、存在しない、それが答えだ」(ナチュラルスピリット発行 本体価格 2300円)が発売されました。

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「動物園から神の王国へ」2015年12月08日 16時40分15秒

 去年の12月の終わりに、「動物園から神の王国へ―サルの惑星、のような星で、平和に生きるために」のPDF版を今年の秋に出すと書いたあと、データをパソコンに入れたままの状態だった。今年の秋になって、「ああ、そういえば、もう秋だ。PDF本の準備をしなくては」と思いながら、なかなか作業をする時間がとれず、フランスから帰国して、今年ももうすぐ終わることに気がついた。なんとか2015年内に出したいと思い、ようやく販売の準備ができました。

本書を書き始めたのは、たぶん(もう自分でも記憶が定かではないが)2000年の頃だったと思う。「『人をめぐる冒険』の続編は書かないのですか?」と、たまにきかれることがあって、「書き足りなかったことを、続編に書くのもいいか」と思いたち、書き始めたのが、「地獄の始まり」(苦笑)だった。

最初は順調に書いていたのだが、2001年~2006年頃、極度の精神的肉体的不調に襲われて、書く気力、出版する気力がなくなり、もうどうでもいいような気になってしまった。何年もほったらかしの状態で、それでもなぜか、たまにまれに書く気力が突然わいて(そして、またすぐに気力がなくなって中止)、そんなことを繰り返して、それでもなんとか時々書き続けて、ほぼ完成したのが2008年頃だった(ような気がする)。

そのあとは、何かと忙しくて、編集・校正ができず、ようやく最終的編集作業にかかったのが数年前で、そして、やっと完成に至ったというわけだ。実質書いていた時間は数年間くらいである。本書に関していえば、15年間、ずっと「葛藤状態」、つまり、前にも進めず、かといって、やめる(手放す)こともできず、書くのも苦痛、やめるのも苦痛というような苦痛をずっと引きずっていた感じだった。
 
やめる(手放す)ができなかったのは、たぶん、私がこの三部作に登場させた登場人物たちのせい(というか、おかげというべきか)である。小説ではないけれど、いったん登場人物たちを作ってしまうと、彼らは生き始め、表に出ることを要求する(ようだ)。本書が完成したのは、地獄の季節をともにした同志である彼ら(登場人物たち)の励ましと要求のおかげでもあろう、と思っている。


本書の詳しい目次は下記のサイトに出ています。

1部 ヒトにおけるセックスと闘争・暴力の問題について
2部 サルの壁 人の壁
3部 人生は、ド・アホでいこう!

以上の三部構成である。実はこの三部は、本当は別々の本にしてもいいもので、お互いにそれほど関連はないし、独立して読むこともできる。簡単に各部の内容をご紹介すると、

1部 21世紀末、ハドララ共和国という架空の国の大学教授が、なぜ人類がこれほど性と暴力に取り憑かれているのかを、人類の進化と歴史の観点から、夏期講座で、一般向けに講演する。人類の現状、特に性と暴力の問題を、生物進化論から考えるというのがその大まかなテーマである。

2部 不治の病におかされた元詐欺師が、10年あまりスピリチュアルな探求をし、死ぬ前に他の人たちのために自分の理解を書き残し、その中で、「なぜスピリチュアルな世界では、相互に矛盾したことが教えられているのか?」、「人と人はなぜ理解し合うことが困難なのか?」を、「自分をめぐる様々な観念」と知性の質の違いという切り口で解明を試みる。スピリチュアルなテーマというより、どちらかというと、コミュニケーション論 として読まれるほうがいい内容。「人をめぐる冒険」の続編になるのが、2部である。

 3部 若い頃、家庭を放棄して、10年ほどスピリチュアルな探求をしたコバヤシ老人は今はごく普通のおじさんになって、奥さんと仲良く暮らし、時々「ド・アホの会」で、暇つぶしに若い人たちと スピリチュアルなバカ話をするのを余生の楽しみにしている。そんなコバヤシ老人とその仲間たちがスピリチュアル系のバカ話をえんえんと展開するという内容。(もし自分の近所にこういうおじさんがいて、いつでも話に行って、バカ話ができたら楽しいだろうなあ、という私の想像からコバヤシ老人は生まれた)


本としては難産だったけれど、内容的には、特別な知識がなくても読めるように、できるかぎりわかりやすく軽く書いたつもりなので、(アドヴァイタ系の難解な本を読む合間に)食後のデザート用の本として、娯楽本として気楽に読んでいただければ、と思っている。

なお、本書のほとんどの内容は、10年以上前に書いたので、書いた本人自身が、本の内容をかなり忘れていて、今読み直してみると、「こんなことが書いてあったのか!これってどういう意味だろう?」(笑)という箇所がところどころある。なので、万一、本書の内容について質問されても、もう著者にはたぶん答えられません……

それでは、皆様、今年はこれで終わりにします。来年は2月頃から再開します。楽しいクリスマス、お正月をお過ごしください。


 [お知らせ]

「動物園から神の王国へ―サルの惑星、のような星で、平和に生きるために」(PDFファイル)ダウン
ロード版は、DLmarketのサイトで販売しています。お手持ちの機器(パソコン、タブレット、スマートフォン)
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いう人たちもいると思い、縦書き版と横書き版の二種類の版を用意してあります。 編集の都合上、総ペー
ジ数(縦書き版が453ページ、横書き版が367ページ)は異なっていますが、内容はまったく同じです。


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試読版(無料)は上記のサイトから、会員登録等なしに、どなたでも自由にダウンロードできますので、本との相性を確かめて、購入の判断をしていただければと思います。 (画像の下の、「立ち読みできます」をクリックすると、試読版PDFを無料でダウンロードできます
 
DLmarketで下記も販売中です。(無料試読版は会員登録不要で、自由にダウンロードできます――画像の下の「立ち読みできます」をクリックしてください)  
 
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「No」を言う練習2013年11月01日 12時57分59秒

一般的に言って、日本人は、「No」を言うのが苦手な人が多い。つまり、内心ではイヤだと思う頼まれ事をつい引き受けてしまい、引き受けてしまったあとから、愚痴を言いながらやってしまうパターンに陥る人たちが多い。

内心ではイヤだと思う頼まれ事は、引き受けないのが一番よいことであるのだが、人間関係によっては、「No」を言うのが難しいこともよくあるものだ。「No」は言いたい、でも人間関係も悪くしたくないという微妙な状況の中で、あれこれ考えることが、ストレスを倍増させる。

人間関係の中で、片方の人が、あるいは集団の中で誰か一人だけが、極端に重荷を押しつけられているのは、バランスの悪い状態で、関係が機能していない状態である。職場であれば、それは仕事の効率を下げ、家族間であれば、家族間の不和や問題を引き起こす原因となる。人間関係では、「快適さと喜び(利益)と苦労を分かち合う」のが、正しく機能する関係であると、私自身はそう思っている。

しかし、誰もが知っているように、相手に不満をもったり、内心非難したりしても、他人は絶対に変わらないものだし、そもそも他人を変えたいと思うことは傲慢である。「他人を変えることはできない」という言葉は、マントラにして一日百回も唱えてもいいくらいである(という話を先日のワークショップでも、私はしたばかりである)。

唯一できることは、相手に対する自分の反応と対応と理解を変えることだけで、その際の二つのキーワードは、「罪悪感」と「自己イメージ」である。

人に「No」を言えずに、ストレスがたまるという人の話を聞いてみると、「No」を言うことに非常に大きな罪悪感があり、さらにその元をたどれば、「自分はいい人である」 という自己イメージと、 「いい人でなければならない」 「他人にいい人だと思われたい」という願望が強すぎるという一般的傾向がある。

もちろん、対人関係の中でたいていは、私たちは「いい人」として行動するだろうけれど、自分の中味を正直に見てみれば、自分という人格は決して「いい人」だけでなく、いわゆるよい人格も悪い人格もあらゆる人格が、自分の中にはあるのが普通である。

人間の中にはあらゆる人格があり、あらゆる感情を感じ、あらゆる思考を考えることができることが、他の生き物(動物とか植物、あるいは天使とか悪魔とかチャネリングのエンティティのようなエネルギー情報体など)とは違う人間の美しさなのだ。

だから、本来は多様な人格があるのが普通であるときに、自分の中のある特定の人格だけに執着することで、自分にも周囲にもストレスを与え、「いい人でなければならない」  「他人にいい人だと思われたい」という願望そのものが、高圧的で鈍感な人たちを自分に引き寄せる磁石のような役割を果たすものである。

という以上の話は、人間関係で悩んでいる人たちにもたいていわかってもらえることなのだが、では、それを日常生活で具体的にどう実践するかの部分は、難しいことである。

つまり、今まで他人からの頼み事を全部引き受けていた人が、いきなりそれをゼロにはできないわけだし、「No」 を言うときに、罪悪感が全然なくなるなんてことも起こらないわけで、だから私がお勧めすることは、少しずつ練習することである。今まで十個イヤだと思うことを引き受けてきたなら、その中の一つか二つをまずやめてみる、断ってみる。それから、さらに別のことをやめてみる、断ってみる。  罪悪感がわいてもかまわずに、少しずつ、練習することである。  明るくさわやかに、そしてできるだけ相手に伝わる表現で、「No」 を言う練習を続けることである。

そうしていくと、何かを断ったり、「No」を言ったりしても、別に死ぬわけでもないし、たいした問題が起こるわけでもなく、むしろ、自分の時間が増え、非常にスッキリすることになる。そして高圧的で鈍感な人たちはしだいに自分の周囲からいなくなるか、あるいはそれほど高圧的でも鈍感でもなくなるというふうに自然に変わるか、というようなことが起こるものである。

かなり前にベストセラーになった本で、 「スッキリ!」(上大岡トメ著 幻冬舎))というタイトルの本があって、日常生活をスッキリさせるシンプルで具体的な方法がたくさん伝授されている。(イラスト付きの楽しい本なので、お勧めします)

その中の「できない約束はしない」  の項目で、

一級:理由を言って、とにかく断る。
初段:誰もが納得する理由で、断る
師範:約束できないオーラを出す。

  (「オーラ」という言葉は、日常用語で言えば、「雰囲気」ということです)

これにならっていえば、人が目指すべきことは、「イヤなことを頼まれないオーラを出す師範」になることである(笑)。でも、みんながそんなオーラ出しまくったら、なんだかオーラ対決みたいになって(というような場面にいた経験が何度かある)、かえってストレスがたまるかもしれないけれど……


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絆(きずな)時代の苦痛2013年10月19日 08時25分10秒

 2011.3.11の東日本大震災以後、「絆」  という言葉と、「あなたは一人ぼっちではない」 というメッセージがやたらマスコミから流れて来た気がしている。

私は子供の頃からかなりひねくれているので、  「絆」  とか「あなたは一人ぼっちではない」のメッセージが過度に強調されるたびに、「いやいや、『絆』には、苦痛という代償が伴い、しかも、どこまで絆を積み上げても、人の孤独は癒やされないものだ」と思うのである。

もちろん、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」の大量のメッセージのおかげで、多くの人たちが、自分の家族や自分が出会う人たちに、今までよりも、より親切でやさしくしようと心がけるようになったとしたら、それはよいことではあるし、そんなことは災害時でないときから、人としては心がけるべきことだ。

しかし、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちでない」の強調が、災害時に感じた自分たちの無力と寂しさの裏返しであるとしたら、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」が、「絆を感じるべき」とか、「あなたは一人ぼっちであるべきでない」というように、人間関係への依存と執着をさらに強化するメッセージとして働く可能性もあるのでは、と私には感じられる。

それに加えて、現在は、他人とのコミュニケーション・ツールが安価で非常に普及し、簡単に誰とでも「つながり」を築くことができ、連絡が取れる時代である。 だから、かえってなおいっそう、子供から大人まで人々の孤独感と疎外感が全体では強まっているというのが、私の印象である。下手をすれば、人間関係をもっていなかったり、絆を感じなければ、何か自分が人として欠落しているように感じさせられる、雰囲気さえある。

調査によれば、多くの中高生が一日に数時間を、メールや無料電話で、友人たちとのやりとりに費やしているそうである。数時間とは、尋常ではない時間である。そんなふうに友人たちとつながっていないと、不安になるのだという。

集団の中での自分の評判や立ち位置を気にするというのは、人間の中の動物的本能・意識によるものである。なぜなら人類は、集団の力によって生き延びてきた、生物としての長い歴史があるからである。メールや無料電話に極度にはまっている子供たちは、そういったツールによって、動物意識に強く憑依されているともいえる。 だから、若い子供たちがいとも簡単に本当に動物状態になって、罪悪感もなしに(罪悪感をもたないのが、動物意識の特徴である)、仲間内で、いじめから殺人まで、残酷な行為をやってしまうのも、理解できる話である。

このように、絆はときには、残酷で、苦痛なものでもある。そういった絆の苦痛を癒やすのが、孤独である。人間関係が仮になくても、自分がいれば本当は十分なのである。「あなたがいなければ、生きていけない」という嘘は、恋愛歌などでは、まるで愛の証のように高らかに歌われるが、それは本当は、私に言わせれば、動物的「脅迫」(笑)である。

誤解がないように言えば、私が人と人の絆を否定しているわけではない。「絆」は広い意味で、二つのものの間の「関係」という考えにたてば、人はあらゆる絆に囲まれて生きている。今このブログを読んでいる皆さんと、私も何らかの絆があり、本を読む読者と著者にも絆があり、初対面の人と出会っても、そこに絆がある。たった今食べたばかりのリンゴを介して、私はそれを作った人との間に絆がある。というように、現代社会では、そういった絆なしには、ほとんどの人は生きていくことができない。

自由と平等があるところでの絆は楽しく、お互いが一時的であれ、長期的であれ、理解し合い、絆を楽しむことは、人間意識の中でもっとも贅沢で甘美な経験である。そして、親しい絆の関係が終わるとき、それを悲しむことができるのも、人間意識の特権である。

最終的には、スピリチュアルな道にいる人にとっての人間関係・絆の形態とは、アジャシャンティが「あなたの世界の終わり」(ナチュラルスピリット発行)で述べているようなものである。

人々が自立し、自立を通じて、お互いにある種の親密さを発見するというものです。そこが私が人々と出会う場所であり、その場所で全体として、能力があるものとして、そして彼らが自分でもっているとは思っていないかもしれない能力をもつものとして、私は彼らを見るのです。彼らがそこに立ち、自分自身の内なる十分さを発見し始めるとき、そこで私たちは出会うのです。私は彼らの不十分さの中で、彼らが自分には能力がないと思っているその場所で彼らと出会うのではありません」(「あなたの世界の終わり」238~239ページ  )

つまり、アジャシャンティがここで言っているのは、「私は、あらゆる人を自分と同等の能力をもった存在として見る」ということである。彼がまた警告していることは、導師(グル)や先生などを自分より高い台座に乗せて、自分よりもパワーがあるものとして、崇拝したり執着したり、依存関係を作らないように、ということでもある。あるいは、弟子や生徒や信者に依存しないように、ということでもある。

人間同士の絆――それが自然に起こればハッピーであるが、なくてもけっこうなものである。なぜなら、アジャシャンティが言うように、私たち全員が一人一人十分な能力をもつものであり、そして、スピリチュアルな人たちがよく言うように、「すべてはワンネス(一つ)であるからだ」――人間のいかなる努力も作為も修行もなく、すでに現実として。
 
 
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結婚は、「仕事」、あるいは、「冒険」2013年09月28日 09時07分26秒

前回のついでに、今回も結婚についての話題です。

以前に読んだ投稿サイトの投稿で、二十代後半くらいの若い女性が結婚について書いた悩みが、印象に残っている。

要約すると、だいたい以下の内容である。

「私は今、恋人と同棲しています。彼のことが大好きで、いずれ結婚したいと思っています。『あなたとずっと一緒にいたいから結婚したいし、あなたのことがこんなに好きなんだから、結婚してもきっとうまくいくと思う』と彼に言っても、彼はなかなか結婚しようと言ってくれません。彼は、『君のことは好きだけど……でも君は結婚のことを何もわかってない』と言います。『結婚が何もわかっていない』とは、どういうことでしょうか?」

もし私が20代の頃にこういった文章を読めば、この女性にきっと共感しただろうけど、今なら、男性の気持ちのほうがよくわかる。 人生には、「好きだけど、縁が終わらざるをえないこと」(人間関係にかぎらず、あらゆるものとの縁)が、たくさんあるのだ。

私自身は運命の都合で、一度も結婚したことがないが、自分の両親をはじめ、結婚している人たちを子供の頃から観察してきたことと、特に生物進化論、人類学等から、「結婚の現実」を学んだ。その結論から言えば、ロマンのない話にはなってしまうが、結婚とは「仕事」である。特に若い年代の人たち、そして、特に女性は、結婚をロマンチックに考える傾向にあるが、結婚は「仕事」とほぼ同義であり、結婚したい人はそう思って結婚に向かうほうが、現実的である。

私が若い頃、女性たちは、結婚を「永久就職」と多少揶揄して語ることがよくあったし、今では、就職活動のように、まさに「婚活」という言葉が一般的に定着している。永久かどうかは別として、「就職」という言葉は、けっこう当てはまっているかもしれない。もちろん、女性にとってだけでなく、男性にとっても、結婚は「仕事」である。

おそらく、先の投稿者の恋人が本当に言いたかったことは、「君のことは好きだけど、でも君は『僕との結婚という仕事』には向かない」ということではないかと、推測する。

生物進化論&人類学の研究によれば、男女の恋愛感情の賞味期限は3~4年ということであり、これには生物学的な根拠がある――詳しく知りたい方は 「愛はなぜ終わるのか?」 (ヘレン・フィッシャー著 草思社 ) 「結婚の起源」 (ヘレン・フィッシャー著 どうぶつ社) などの本がお勧めである。

だから、どんな大恋愛で結婚したとしても、数年たてば、その恋愛感情は色あせるのが普通ということである。結婚生活がうまくいくかどうかは、恋愛感情が終わったあとにも、結婚生活を支えるだけの共通の目的があって、そのために夫婦が努力できるかどうかということにかかっている。たいていは、「子供を無事に育てあげる」が共通の最重要の目的である―そもそもそのために、「結婚制度」は始まったのだ。 

もちろん、子供以外に、夫(妻)の仕事を支えるとか、共通の趣味(思想)を楽しむとか、一緒に商売や何かの活動をするとか、伝統的な家業を継承するとか、その他色々な目的があるが、結婚が続いているカップルは、「結婚生活において、何が重要か」という価値観が絶対に一致している。そして、「結婚における幸福」とは、お互いの協力でその目的がうまく実現していると思えるときで、そのとき相手に対して愛情と感謝を感じ、相手を大切にしようという気持ちが自然にわく。

表面的にはそれほど仲よさそうに見えない夫婦でも、「結婚生活において、何が重要か」の価値観だけは共通しているものである。たとえ、どれほど自分ではそう思えなくても、結婚している人たちはすべて、自分にピッタリな相手を得ている――そもそも、「あらゆる人は自分にピッタリの人間関係を得ている」(仏陀の言葉らしい)、のである。昔、私の母親が自分の夫(つまり、私の父親)について、ぐちぐちと不満を言ったとき、私は言った。「お父さんは、お母さんにピッタリな人でしょう」。そのとき母親が、その言葉にどれほど抵抗したことか(笑)。私の母親にかぎらず、なぜか、「あなたの夫(妻)はあなたにピッタリの相手」という言葉に抵抗する人たちは多い(特に妻たち)。

結婚は仕事であり、就職である。「会社で、自分は同僚や上司に大切にされていない」という悩みは、本質的な悩みではない。仕事では、「仕事の目的を果たすために、相手とどううまく付き合えばいいのか?」が、問題である。

 では、結婚は「仕事」という考え方が、あまりにロマンがなさすぎると思う方のためには、「結婚は神聖な冒険」という考え方もあり、それのほうがスピリチュアル系の人たちには合うかもしれない。それを言ったのは、私が好きな神話学者、ジョージ・キャンベルで、 「ジョージ・キャンベルが言うには、愛ある結婚は冒険である」(築地書館)の本の中で、結婚生活が神聖な冒険とはどういうことか、彼の考えを述べている。

結婚が「仕事」にしろ、「冒険」にしろ、あるいは、スピリチュアル系の人たちがよく言う「修行」にしろ、 結婚されている皆さんはよくご存じのように、「結婚生活における重要なこと」のために、夫婦は他の多くのことを犠牲というか我慢しなければならない。人間界での喜びは苦労に比例する。結婚式で、本人たち以上に親が感涙にむせぶのは、自分たちの長年の努力がやっと花開いた―自分たちの「作品」が、皆様に見ていただけるように、立派に完成いたしました!―と、感じるからなのであろうか……
  
その他お勧めの本

「100万人が癒やされた愛と結婚のカタチ」 (ハーヴィル・ヘンドリックス著 アーティストハウス)
アメリカの著名な結婚セラピストが、うまくいかない結婚生活を解明し、「結婚生活を成功させる方法」を伝授する。


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「癒やし系妻&夫、ほしいです……」2013年09月09日 09時03分50秒

この間、ものすごく久しぶりに結婚式に行ってきた。不慣れなフランス料理のフルコースを食べながら、今どきの結婚式に驚き、そして新郎新婦の挨拶文に、思わず笑ってしまった。

そこにはこう書かれてあった。

新郎が考える理想の夫:強い夫
新婦が考える理想の妻:癒やし系の妻

途中で祝辞を述べた中年の男性がこう言った。「私も、癒やし系の妻、ほしいです……」
 
理想とはいつも現実の逆である。その結婚が、風雪に耐えて、数十年無事続いたとしたら、そのカップルの両親がそうであるように、「癒やし系の夫と強い妻」のカップルになっているはず……であろう。

(キリスト教式の)結婚式では、カップルは、「富めるときも貧しいときも、健やかなときも病のときも、死が二人を分かつときまで……」と神父の前で誓うわけであるが、この約束を成就できたら、キリストのスーパー弟子である(!)

癒やし系の夫&キリストのスーパー弟子――今年のはじめ、そんなスーパー癒やし系「夫&父親」である人の講演を聴きに行ったことがある。

その壮絶な結婚生活を綴った本がベストセラーになり、その他仕事術の本もたくさん書かれている佐々木常夫さんという方である。

講演の内容は――結婚し、子供が3人生まれ、自分は大きな会社で課長に出世という順風満帆だったときに、突然、妻が鬱病にかかり、それから別の病気も併発して、入退院を繰り返すようになり、さらに子供の一人が自閉症でとても手がかかり、自分が家事・子育て全部をやらなければならない立場になった。そのため毎日、残業なしで定時に帰れるように仕事を工夫し、会社では出世し、社長になり、会社の業績も伸びた。しかし、会社の仕事はうまくいったものの、家庭生活では次から次へ難題(長女の自殺未遂や息子の自閉症が悪化等)が起こり、家庭が崩壊しないように数十年間必死で頑張った――だいたいこういう内容の話を、巧みな話術とユーモアで語られた。

現在では、奥様も回復され、普通に家事ができるようになり、子供たちもみな立派に成人し、佐々木さんも社長業を引退し、講演と著作の日々をのんびりと送り、仲のよい最愛の家族に囲まれて、とても幸せな生活を送っているとのことである。
 
講演の最後に、参加者の女性がこう質問した。「離婚を一度も考えなかったのですか?」

それに対して佐々木さんはこう答えた。「一度も離婚しようと思ったことはないです」

講演を聴いていた会場の大半を埋めた女性たちは、仕事と家庭を両立させ、家族を自分が守り抜くという佐々木さんの強い決意に感動し、そして、こう思ったかもしれない。

「私も、こんな癒やし系&強い夫、ほしいです……」



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*2013年9月22日(日)「私とは本当に何かを見る会」(東京)
 
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*2013年10月27日(日)「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
  
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感情の研究(1)―嫉妬の可能性2013年05月02日 06時29分52秒

人間は、感情の生き物だとはよく言われるし、実際その行動の多くが好き嫌いによって左右されている。感情は、ときには喜ばしく、とくには苦しく、ときには切なく、ときには恥ずかしいものでさえもある。

「私とは何か」の目覚めの教えでは、多くの賢者の方々は感情・思考レベルをあまり語らない。たぶんその理由は、本質から見れば感情・思考レベルはどうでもいいことであり、そういう話に時間を割くのがもったいないということもあるのだろう。それにもかかわらず、「私とは何か」を探求している多くの人たちが、感情・思考レベルで混乱して、そのことが「私とは何か」を認識し、それを生きる障害になっているように感じることがある。

感情・思考の解放から目覚めへ導く方法として、今まで、バイロン・ケイティの四つの質問、セドナ・メソッドを紹介してきた。バイロン・ケイティもセドナ・メソッド(ザ・リリース・テクニックをいう名称もある)の創始者であるLester Levenson (1909――1994)も素晴らしい賢者で、彼らの生きた目覚めがこれらの方法には注入されているので、感情・思考の混乱に悩む人たちにはお勧めしている。

このブログでは、これから数回にわたって、人間の感情の中でとりわけしつこく居すわる感情、「嫉妬」と「罪悪感」について、それらがどう発生し、居すわるのか、そのメカニズムへの理解を提供したいと思っている。

まず今回は「嫉妬」について。

人間がもつ感情の中で、嫉妬は一番やっかいであり、イヤなものであり、恥ずかしくさえある。そのため、他の感情に比べて、嫉妬ははるかに自分の中で気づかれにくく、抑圧される傾向にある。

なぜ嫉妬は恥ずかしさを喚起するのかといえば、それは嫉妬には、正当な理由がないからだ。それが他の否定的な感情とは異なるところである。たとえば、人が何かや誰かに怒りを感じるときは、表向きには、一応自分を納得させる理由がある。「あの人が私にこんなことをした(言った)から、私は怒っていて、だから私が怒るのは当然だ」と。自分の怒りにプライドさえいだき、他の人たちにもその怒りをしゃべりまくる人もいる。

しかし、自分が誰かや何かに嫉妬を感じるときは、そういう正当な理由がない。つまり、相手が自分に何かをしたわけでもないのに、自分の中で、他人の所有物、境遇、才能、美貌、収入などに嫉妬が突然湧きおこるのだ。怒りとは違って、相手にまったく非がない。嫉妬を感じる人はそのことを無意識には知っている。嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを強く意識させられる。だからこそ、嫉妬を感じることは辛く、恥ずかしくさえあり、だからこそ、それは抑圧されたり、他の何か(相手に対する怒りや嫌悪感、軽蔑、批判など)に転化されることが多い。

最近読んだサイトの投稿に、要約すると次のような話があった。

ある母親からの投稿で、自分の息子と同じ塾に通っている息子の友人についてである。息子のその友人は、塾からの宿題も免除され、家庭ではゲームで好きに遊ぶことも許されていて、夜も早々と寝てしまうという。それなのに、塾での成績は抜群である。ところが我が息子は、塾の宿題を毎晩夜遅くまでやっとの思いでやって、しかも家庭ではゲームも禁止、それなのに成績は友人にはるかに及ばない。息子は友人を称賛しているが、その母親は塾の対応を疑い、塾に抗議しようかと思っている。

とまあ、以上のような内容である。「おいおい、お母さん、本気ですか?」とツッコミを入れたくなる内容であり、当然、「お母さん、あなたがおかしいです」というコメントがたくさんついていた。このお母さんが自分と息子を同化して、息子の友人(とその家庭)に嫉妬をしているのは、明らかであり、嫉妬を外側への批判に置き換える典型的な例である。しかも、堂々とこういう文章を書いて投稿するあたりが、自分の嫉妬に完全に無意識である。

このような無意識の「嫉妬」はトリックスター(悪戯もの)でもある。万一このお母さんが、他人のコメントを読んでも目が覚めず、本当に塾に抗議したら、そのことは、自分の人生と息子の人生に対して大きな逆風となって、あとで跳ね返ってくる可能性がある。

世の中にはあらゆるものに恵まれている(ように見える)人たちはたくさんいる。しかし、私たちの嫉妬という感情は、すべての人に向くわけではない。このことは嫉妬について重要なポイントである。私たちは普通、芸能人やスポーツ選手がどれほど金持ちでも美貌でも豪邸に住んでいても嫉妬を感じることがない。学者がどれほど頭がよくても、ノーベル賞をもらっても、嫉妬することもない。

つまり、嫉妬とは、心理的・物理的に同じコミュニティ(友人、同じ世代、職場、家族、学校、近所、業界、その他サークル等)に所属する(あるいは所属していると思っている)相手に対していだくもので、普通、まったく無関係で無関心な相手には、嫉妬を感じることができない。

さらに言えば、嫉妬を感じるためには、「相手と自分は平等で同一であるはず」という観念も必要である。嫉妬とは、「本来同一で平等であるはずの人」がそうでないと気づくときに感じるショックでもある。ある意味では、私たちは嫉妬を感じる対象に非常に人間的愛情いだいている。

それから最後に、嫉妬の一番重要な点は、人が強く嫉妬を感じるときは、その裏には可能性があるということである。反対から言えば、自分の中に可能性のないことには、人は嫉妬を感じないものなのだ。嫉妬の裏側にあるものは、「可能性」である。

そのことを理解するとき、嫉妬を感じることに、否定的な気持ちや恥をほとんど感じなくなる。「そうか、これは可能性なのか」と。自分の嫉妬を受け入れていけば、しだいに、嫉妬を感じることも少なくなり、時期がくれば可能性が花開く道が自然に開けてくる。究極的には、「私とは何か」の目覚めが、嫉妬からの解放を強力に推し進める。なぜなら、(私たちのエゴは信じないけれど)「あらゆる瞬間に私たちの本質には、必要なものがすべてある」からだ。反対に、嫉妬に対してまずい対処は、嫉妬を抑圧したり、先の投稿者の例のように、無意識に外側に転化していくことである。

以上嫉妬が生じるメカニズムをまとめれば、
*同じ心理的物理的コミュニティに所属
*「同一で平等であるべき」という観念と相手に対する愛情
*可能性

さて、嫉妬についてよくある俗説として、「女は男より嫉妬深い」とか「女の嫉妬は怖い」(笑)などとよく言われるが、まったく誤解である。嫉妬に性は関係ない。男の嫉妬の悲劇を描いた有名な作品として、シェークスピアの「オセロ」、モーツアルトのライバルの音楽家の目からモーツアルトの生涯を描いた映画「アマデウス」、そしてそれほど有名ではないが、ユダの目からイエス・キリストを描いた太宰治の短編「駆け込み訴え」などが、私には印象に残っている。これらの作品では、男の嫉妬の切なさと悲劇が見事に描かれている。

新約聖書に題材をとった「駆け込み訴え」は、数年前に読んだ話で、太宰治の作品を読むのは、数十年ぶりであった(若い頃、私は太宰治を愛読していた)。太宰治は人の惨めさを描くのが本当にうまい。想像するに、非常に嫉妬深い人だったような気がするし、そしてたぶん、聖書もかなり読んだのだろうけど、彼はイエスではなく、ユダに共感して、イエスの教えは彼の救済にはならなかった――1948年、入水自殺(享年39歳)。

[伝言]
ニサルガダッタのPrior to Consciousness の特徴は、

*「アイアムザット」よりかなり短い。
*最晩年の講話録(死ぬ前の2年間の講話録)
*ニサルガダッタが末期の癌の中で、最後の気力を振り絞って話している。
*「アイアムザット」よりも、さらに内容が純化し、本質的なことだけに話を絞っている。







職場処世術2012年12月04日 17時41分00秒

「共感欠如のことを調べていてたどり着きました。同僚(男性、40代後半)が共感欠如ではないかと思います。いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず、自分が「良い」と思うと職場のルールは無視で突っ走ってしまいます。個人的には、病気で休んだ日に夕方自宅に突然現れたことがありました。迷惑だと言う説明は理解できないようです。どう対処したらいいのか困っています」(うさぎ)


以前書いた、「アスペルガー症候群」について最近、上記のようなコメント(質問?)をいただいた。ご参考になるかどうかわからないが、本日は、職場の人間関係について書いてみたい。


まず、職場で生じる問題について考えるべき第一のことは、「人は職場に何をしに行くのか?」というバカみたいな質問である。答えは、誰にとっても、本当は一つであるべきだ。それは、「仕事をするため」である。ランチやオヤツを食べるためでもなければ、しゃべりにいくためでもないし、友人や恋人や結婚相手を探しにいくためでもない。今述べたような楽しみは、仕事をしたうえでの「おまけ」である。

そして、職場では普通、一人で仕事をやることはまれで、たいてい一緒に仕事をやるたくさんの人たちがいるので、人間関係をうまくやることも「仕事」の一部である。職場の人間関係が悪いと、仕事の成果や能率は低下するのが、一般的である。

職場では、人間関係を作ることが目的ではなく、仕事を能率的にしかもできるだけ自分が消耗しないようにやるために、人間関係にどう対処するかという考え方が必要ではないかと思う。そうでないと、学校と同じように、ここでもまたよくありがちな人間同士の「好き・嫌い」やグループ内の権力闘争による問題が起こり、仕事よりもそちらに熱中といった事態に陥りがちである。実際、職場の人間関係の悪さは、よく見聞する話である。

それから、人間関係一般に関して、基本的に理解しておくべきことは、

他人を変えることはできない。つまり、共感能力のない人に、共感能力をもつように、強制することはできない。共感能力がない人は、単純に「共感能力がない」、のである。

他人の中に強く非難・批判したいところを見つけたら、同じような部分を自分ももっているのではないかと、関心を自分に向けることが重要である。たとえば、「いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず」とは、私たちのほとんどがそういう部分ももっている。私たちのエゴは、何事にも自分が一番正しいと信じて疑わないものである。ただ、人間的に多少でも成長した人は、「自分がどれだけ正しいと思っていても、それを必ずしも表現するのがいいわけではない」ことを経験から学び、さらに成長した人は、「あらゆる意見や考えは同じだけ価値があるか、同じだけ価値がない」ことを、理解したというだけの話である。(うさぎさんには、バイロン・ケイティのワークをお勧めします←←ネットで検索すると、出てくると思います)

私たちは「ものすごく嫌い」とか、「ものすごくイヤ」と思っている事態や人を、引き寄せる傾向がある。そうした自分の感情に執着しつづけるかぎり、仮に職場が変わっても、また同じようなタイプの人が目の前に出現する可能性がある。

私自身は大勢で一緒に働く職場体験は非常に短かったのだが、その昔の経験を振りかえると、職場という場所は不思議なところで、色々な考えと能力の人たちがいたことを思い出す。私のようにできるだけ会社での滞在時間を短くしたい人がいるかと思えば、残業大好きな人たちもいて、仕事を頼むと、「まかせてください!」と、いつも仕事をたくさん引き受けてくれるありがたい人もいた。職場では、一緒に仕事をする人の能力を認めて、おだてて(笑)、できるだけ快適に過す術を学ぶことをお勧めしたい。もし共感能力がないアスペルガー的な人が職場にいるなら、その人は、他の人にはない何か非常にすぐれた能力をもっているはずである。

このコメントを書かれた方がスピリチュアルや心理学などに関心がなければ、たぶん、今書いたようなことはあまりご参考にはならないかもしれない。そのときは、どこかの投稿サイトに改めて投稿して、慰めてもらってください。そのときには、次のようなコメントが予想される……

(予想)コメント

「『いつも高飛車で自分の意見が正しいと信じて疑わず、自分が「良い」と思うと職場(家庭)のルールは無視で突っ走ってしまいます』って、その人、私の夫みたいです。しかも毎晩、私の寝室に現れます」
(同じ悩みをもつ妻)

「その人、自宅に来るなんて、あなたのこと、好きなのかも、です。なんか、ストーカーぽいですよ。キケンです。上司に訴えましょう」(オヤツ大好きOL)

「そんなバカには、迷惑だって、100回くらい怒鳴ってやれば? だけど、バカは死んでも治らないか……」
(ランチ命のライオン)

「どこの職場にもそういう人いますよね。私の職場にもいます。完全無視です。姿見たら、よけます。みんなで無視無視作戦で、職場から追い出しちゃえば?」(快適ネコ)

「あんた、おれの職場のあの人? あんたのような奴がオレの職場にもいてさ。あんただけじゃないけど、みんな俺の天才ぶりがわかんないんだな。今、職場に必要なのは、共感能力とかつまんないルールじゃなくて、天才的仕事の能力、そうだろ? 天才は孤独をいとわず、なんちゃってね。でも、あんたには認められたいんだ、ホンネのところは」(オレ様)


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「瞬間ヒーリングの秘密-QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し」
 (フランク・キンズロー著 ナチュラルスピリット発行)が、発行されました。

目次等は下記サイトをご参照ください。
http://www.simple-dou.com/CCP036.html









「シズコさん」2012年09月08日 10時40分00秒

この8月は、スイカと枝豆を毎日山ほど食べながら、母親の話相手・テレビメイト(テレビをいっしょに見る人)をつとめ、できるだけ母の関心のある話と活動をいっしょに楽しんだ(料理、時代劇、昔話など)。私はテレビドラマの登場人物の関係や粗筋を読み取るのはあまり得意ではないのだが、それでも、水戸黄門や鬼平犯科帳はなんとかこなすことができ、耳が少し遠くなった母に時々ストーリーの補足的解説をした。テレビドラマは、老人の認知症防止に案外役立つようである(テレビ業界には、耳の遠くなった老人たちのために、水戸黄門や鬼平犯科帳などの昔の時代劇に、字幕をつけていただきたいと要望したいものである)。

母親と私(たち娘たちは)はひどく親しい。子供の頃から今までずっと。だからいっしょにいるときは、親しいゆえの苦痛、親しすぎるゆえの苦痛、もっと親しくなろうとするゆえの苦痛が時々お互いをおそう。

娘にとって、母とは何なのか? 母にとって、娘とは何なのか?

最近は、娘の立場から母親との葛藤・確執を告白したような母娘ジャンルの本がよく出版されるようになったが、そんなジャンルの本である「シズコさん」(佐野洋子著 新潮社)を紹介してみよう。

「シズコさん」は、著名な絵本作家が、自分の母親との確執と和解に、自分の生い立ちをおりまぜて語ったような本だ。著者の母であるシズコさんは、戦争の頃に子供を亡くし、さらに中年の頃に夫を亡くし、そのあと残された4人の子供たちを一人で育て上げ、しかも家事全般に有能で、晩年は習い事に励み、まあ、いってみれば、「スーパーかあさん」のような人だった。

ところが、そんな母親を著者は長い間、嫌い、しかも、母親を嫌っている自分に罪悪感を感じて、二重に苦しんでいた。「シズコさん」の中に、何度も何度も、母親への嫌悪感と自分の罪悪感が告白されている。

世の中には、いろいろなタイプの母親がいる。一人一人の母親がユニークで、その母親から生まれてくる娘も一人一人ユニークで、したがって、世の中には無数の母娘関係の組み合わせがある。

共通していることは、どんな母娘もお互いを愛し合い、同時にお互いを嫌い合うこと(時期)もあるということだ。
それはなぜかといえば――娘と母親の間には、ある種の微妙なライバル心があり、それはいわゆる「女友達の原型」のようなものである。

娘にとっては、母親は、「女として生きるとはどういうことか」を最初に教えてくれる人であり、娘は、母親の中に自分の将来を無意識のうちに重ね合わせる――お母さんのように生きたいとか、お母さんのようには生きたくないとか、お母さんのように○○ができるようになりたいとか、お母さんと同じくらい幸福になりたいとか、お母さんよりも幸福になりたいとか、お母さんのように不幸になりたくないとか。娘というのは、子供の頃から母親を基準に、自分の将来の幸福について考えるものであり、娘ほど自分の母親を真剣に愛情深く、かつ辛らつに観察する人はいない。

では一方母親にとっては、娘は何かといえば、やはり自分の幸福と不幸を投影する対象であり、娘には自分のように生きてほしいとか、自分は○○だったから、娘には○○に生きてほしいとか、○○のような結婚をしてほしいとか、○○のような結婚はしてほしくないとか、まるで娘が第二の自分自身であるかのように、娘の将来をコントロールしようとするのである。

かくして、お互いに家庭の外では誉められるような、よい母親、よい娘であっても、家庭の中では、愛情とコントロール願望とライバル心がせめぎあって、母親と娘の間にはある種の戦争が起こる場合がしばしばである。

母娘だけでなく、親子は他の誰よりもお互いに愛し合いたいという切ないほどの願いがある。それにもかかわらず、その願いがなかなか実現せずに、確執があちらこちらで起こるのは、それは、「親は、○○であってほしい」「子供は、○○であってほしい」というテンコモリの期待や投影や観念を通じて、お互いを眺めるからである。
自分の狭い観念から見たお互いのある面が「好きだ」とか「嫌いだ」とか思うことは、自分が相手に投影したイメージを「好きだ」とか「嫌いだ」と言っているにすぎず、そのときは相手の多面的なありのままの姿を見ていないことになる。

娘の立場である人たちは、「母親が好きだ」とか「母親が嫌いだ」という話をよくするわけであるが、その実際は「好きだ」と思っている人でさえ、母親を嫌いなときはあるものだし、反対に「嫌い」だと思っている人でさえ、母親が好きなときはあるというのが、正確なところだ。嫌いな母親、好きな母親という多面的な母親を見ていくとき、それは同時に娘である自分自身をも多面的に見ることにもなり、「母親が好きだ」と思っているにしろ、「母親が嫌いだ」だと思っているにしろ、自分の中にひどく母親に似ている面を発見し、驚くことになる。

シズコさんの娘である著者は、「嫌い」という感情に執着し続け、老いて心が壊れていく母親を、自分の老後のために貯めたお金をつぎ込んで高級介護施設に入れて、自分の罪悪感を慰めようとするのだが、それでもなかなか心が晴れない。

最後になってやっと、「強い母親」ではない別の母親の面を見ることができて、今まで、自分が母親の一面しか見ていないことに気づき、母親との確執が消え、和解が起こったのである。推測するに和解が起こったからこそ、著者は本書を母親のためにも書いたのであろうと思う。

和解が起きて、双方が年齢を重ねてまるくなっていけば、母娘は、お互いに足りないところを助けあえる最強&最愛の友人となることができる。そしてそのときの母娘関係の苦痛とは、最強&最愛ゆえの代償である。

その他参考図書

「母が重くてたまらない」信田さよ子著(春秋社)
長年、母親のことで悩む娘たちの相談にのってきた臨床心理士が、どこまでも娘を追いかけてくる母(笑)の傾向と対策を語った本