アベノミックスの行く末 ― 2014年12月15日 09時31分25秒
先日、スーパーへ買い物へ行ったときのこと。スーパーの入口近くに一人の女性が首から募金箱のようなものをぶら下げて、直立不動で立っているのに気づいた。直立不動で無言で寄付集めは珍しいと思いながら、私はそのままスーパーの中に入り、買い物をし、数十分後に出て来たら、まだその女性が直立不動で同じ場所に立っていた。
少し興味をひかれ、私はその女性の前に行き、箱に張られている紙に書かれている文章を改めて読んで、やっとわかった――この女性は寄付集めの活動をしているのではなく、自分への物乞いをしていることが。
書かれている文章は、英語でいういわゆるsob story (お涙ちょうだい話、他人の同情を集める話) のたぐいで、自分は数年前に癌を手術し、子供は事故死し、現在、自分には身よりがなく、体が弱くて働けない、とまあだいたいそんなことが綴られていた。
私は思わず、「この寒空の中、人目に耐えて、直立不動で長い間立っているだけの忍耐力と体力があるなら、どこでも働けますよ」 と心でツッコミを入れてしまったが、それでも彼女の忍耐心に感心して、微笑んで「頑張ってください」と小声で言いながら、 箱にお金を入れた。
sob storyはたいてい話の半分以上はウソというのが決まりだから、私が見かけた女性の話も半分はウソかもしれない。それでも彼女が貧困状態にあるのは確かなことだろう。インドあたりではこういうsob storyで物乞いする女性はありふれているし、アメリカやヨーロッパでも時々見かけたことがあるが、日本国内で見かけるのは初めてだった。一人見かけたということは、これからこういう女性が日本の各地に出没するのかもしれない。日本国のますますの貧困と格差の進行を予感させる出来事だった。
国民間の経済的格差は、それが大きければ大きいほど、国は全体では貧困である。つまり、どれだけ一部の人たちと一部の企業だけが儲かっていても、大多数の国民の可分所得(自由に使えるお金)が減っていけば、国全体は貧しくなる――消費税は貧困層がますます貧困になる税金である。だから、先進各国はどこでも格差が広がっているので、みな相対的に貧しくなりつつある。そして、国全体が貧しくなるとき、社会は争いと暴力への圧力と不満な気分が高まり、政治は過激な保守系(と共産党)が人気を集めるのが一般的な傾向だ。
今回の選挙期間中、自民党の麻生財務大臣は、自民党が大勝するという予想のせいか、超ご機嫌だったようで、もう言いたい放題で、「この円安で儲けることができない企業の経営者は、運が悪いか無能」とまで言い切った。
しかし、現在の株高円安は、日本国の実体経済とは無関係に、政府の政策によって人為的に作られたものなので、それで儲かっているからといって、別に経営者が経営能力があるとか運がいいわけでもないし、それで儲からないからといって 運が悪いとか無能ということにもならないだろう。この国が貧困への道を歩きながらも、なんとかかろうじてまだ普通にまわっているのは、麻生さんがいうところの「無能で運の悪い」大多数の経営者の元で働いている大多数の労働者の勤労のおかげであって、政府の愚策のおかげではない。
それでも、麻生さんがそんな失言(本音)をしても影響ないほど、今回の衆院選挙では自民党が圧倒的に強かった。その理由の一つは、前回話題にした「苦痛に耐える能力」であると、私は思っている。一度野党に転落して野党のみじめさを知った自民党は、苦痛に耐える能力が格段にあがった。野党になるみじめさを味わうくらいなら、どんなに苦痛でもお互いの考えの違いに耐えて挙党一致で政権にしがみつくという決意をしている。自民党の政治家の中にも、安倍さんの保守的な考えを支持しない人たちもたくさんいるはずであるが、政権与党にいるために、その違いに皆さん耐えているというわけである。
それに比べれば、野党を作ってきた小沢(一郎)・菅(直人)・石原(慎太郎)・橋下(徹)その他各氏はみな、忍耐力がないところが共通している。忍耐力がないのに、やたら一緒に党を作っては解党するので、国民の支持を長く集められないのだ。
ということで、自民党圧勝に終わった昨日の衆院選挙。でも大昔の平家の時代から、「驕れる者は久しからず」という、権力者を戒める言葉があるように、麻生さんも安倍さんも有頂天になって、あんまりやりたい放題言いたい放題やっていると、神様からお目玉をくらうかも……
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God(神) か mammon(富の神)か ― 2013年03月27日 10時58分42秒
新約聖書マタイ伝に、キリストがお金について、というより、正確に言えば、mammon(富への強欲を象徴する神)について、述べた有名な言葉がある。
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは神(God)と富(mammon)に兼ね仕えることはできない」
(日本聖書協会発行新約聖書より)
このキリストの言葉も、前に紹介したResist no evil (悪に抵抗するな)と同じくらい有名で、同じくらい真意が理解されていないように感じられる言葉の一つである。「あなたがたは神と富に兼ね仕えることはできない」とは、本当はどういう意味なのだろうか? 清貧や財産放棄、禁欲的生活の勧めだろうか? なぜ神と富(への強欲)は両立しえないのだろうか?
これは非常に奥深い問題である。なぜなら、私たち人間は、キリストの時代でも(ユダは、わずかなお金と引き換えにキリストを売り、歴史に悪名を残した)、現代でも、スピリチュアルを学んでいる人たちでも、そうでない人でも、程度の差はあれ、ほとんどの人がお金に深く依存・執着しているからである。なぜ私たちがお金にそれほど執着するかといえば、お金は、人間クラブ(と人間動物園)の中の最大のパワーを、象徴しているからである。人間クラブの中では、ほとんどすべてのものがお金で買える――おそらく人間関係や人間的愛情さえも。
人がスピリチュアルな道にいなければ、人がmammonに仕えようが、何に仕えようが、問題でもないが、もしスピリチュアルな道にいるなら、自分がいつmammonの弟子になるのかは、一人ひとりが自分の中に、注意深く誠実に見るべきことであり、また自分を生かしている究極のパワーが、mammonなのか、神なのか、それとも他の何なのかを問うべきである。私たちは一番パワーがあると信じているものを、一番信頼しているはずである。
ここで注意すべきことは、キリストの「God か mammonか」の言葉を、表面的に解釈して、清貧や財産放棄の勧めみたいに、受け取る誤解や、お金と現実的に付き合わないことが、スピリチュアル的であるというような誤解、あるいは、仕事やビジネスをしてお金をたくさん稼いだりすることが、問題であるというような誤解も起きやすいということである。
日常的にいえば、お金をたくさんもっていることや稼ぐことが、mammonに仕えることではなく、お金のせいで、惨めになったり不幸になったり心配したり、あるいは優越感や劣等感を感じたり、お金で他人をコントロールしたり、あるいは、お金のことで人を困らせたり苦しめたりすることが、mammonに仕えることであると、私自身はそう理解している。
だから、貧乏な人たちでもmammonに仕えている人はたくさんいるし、お金のために犯罪を犯す人や払うべきお金を払わないような人は、非常に強欲ということで、mammonの最大の弟子である。
先日読んだネットの記事の中で、ある不動産会社の社長が、自分たちが管理している賃貸物件の30%で、きちんと毎月家賃が払われないなどの支払いに関する問題が起きていて、その損失が年間数千万円になると話していた。
30%も、動物園の住民(笑)がいるんだ(!)と、私は驚いたが、実際、マンションの管理費、学校の給食費、自治会費など、払うべきお金が支払われないという話を見聞すると、だいたいどこでも平均10%以上は、mammonの弟子たちがいて、対策に苦慮している。こういったmammonの弟子たちは、払うべきものを払わないですめば得だと思うのだろうけど、それが将来どれほどの負債になって自分に戻ってくるのか、知らないのだ。
人間クラブでは、mammon以外にも、人が信を置いている小神たちがたくさんいる――人間関係、仕事、肉体のパワー・美貌、知識、名誉、地位、各種快楽、そしてスピリチュアルな各種テクニックやパワーなど。一個の肉体精神として、ほとんどの人がそれらをかき集めて、人間クラブでの安全で安定した暮らしを目指すものだが、そういったもののどれも究極の信頼を置くには足りないと、幸運にも気づくときに、神の王国への扉が開くのである――本当は、神の王国の扉はいつも開いているのだが、その入口を誰も見ないというだけの話である。ここでいう神の王国とは、「私の本質」のことで、だから、神を信頼するとは、別の言い方をすれば、「私の本質」を信頼するということである。
ダグラス・ハーディングは、「私の本質」の神秘、パワーについて、次のように語っている。
「もし霊的成長ということがあるとすれば、何よりもこれ(=私の本質)への信頼が成長するということです。これ以外の何も信頼しないでください。そうすれば、あらゆるものを利用することができます」
「信頼するとは託すということですね?それで私はこの神秘に託します。それは信頼に足ります。それは決して失敗しません。それは道徳経が『決して枯れることがない底なしの井戸』と表現したもののようです。神秘と信頼性はいっしょにすすみます」 (「顔があるもの 顔がないもの」より)
ハーディングのこれらの言葉は正しい。しかし、神(私の本質)のようにつかみどころのない、(人間マインドにとっては)あやふやに見えるものへの信頼が、育つのは時間がかかり、だから私たちは何十年にわたって小神たちと戯れ、希望と失望、挫折を繰り返して、ようやくこの理解に到達するのが、普通であろう。
God(神) か mammon(富の神)か、その他の小神たちか――どこに究極の信頼を置くのか、スピリチュアルな道にいる人は、このことを試される機会がしばしばある。幸運にも神の王国への道を選ぶ選択が起こり、神への信頼が育てば、ハーディングも言うように、お金も含めて、この世俗世界のあらゆるものを楽しみ、利用することができるようになる。
[お礼と伝言]
(エンジェル・ダストさんのコメントの受付は、前回で終了させていただきました。「あなたの世界の終り」をたくさん読んでいただき、また今までコメントを寄せていただき、ありがとうございました)
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは神(God)と富(mammon)に兼ね仕えることはできない」
(日本聖書協会発行新約聖書より)
このキリストの言葉も、前に紹介したResist no evil (悪に抵抗するな)と同じくらい有名で、同じくらい真意が理解されていないように感じられる言葉の一つである。「あなたがたは神と富に兼ね仕えることはできない」とは、本当はどういう意味なのだろうか? 清貧や財産放棄、禁欲的生活の勧めだろうか? なぜ神と富(への強欲)は両立しえないのだろうか?
これは非常に奥深い問題である。なぜなら、私たち人間は、キリストの時代でも(ユダは、わずかなお金と引き換えにキリストを売り、歴史に悪名を残した)、現代でも、スピリチュアルを学んでいる人たちでも、そうでない人でも、程度の差はあれ、ほとんどの人がお金に深く依存・執着しているからである。なぜ私たちがお金にそれほど執着するかといえば、お金は、人間クラブ(と人間動物園)の中の最大のパワーを、象徴しているからである。人間クラブの中では、ほとんどすべてのものがお金で買える――おそらく人間関係や人間的愛情さえも。
人がスピリチュアルな道にいなければ、人がmammonに仕えようが、何に仕えようが、問題でもないが、もしスピリチュアルな道にいるなら、自分がいつmammonの弟子になるのかは、一人ひとりが自分の中に、注意深く誠実に見るべきことであり、また自分を生かしている究極のパワーが、mammonなのか、神なのか、それとも他の何なのかを問うべきである。私たちは一番パワーがあると信じているものを、一番信頼しているはずである。
ここで注意すべきことは、キリストの「God か mammonか」の言葉を、表面的に解釈して、清貧や財産放棄の勧めみたいに、受け取る誤解や、お金と現実的に付き合わないことが、スピリチュアル的であるというような誤解、あるいは、仕事やビジネスをしてお金をたくさん稼いだりすることが、問題であるというような誤解も起きやすいということである。
日常的にいえば、お金をたくさんもっていることや稼ぐことが、mammonに仕えることではなく、お金のせいで、惨めになったり不幸になったり心配したり、あるいは優越感や劣等感を感じたり、お金で他人をコントロールしたり、あるいは、お金のことで人を困らせたり苦しめたりすることが、mammonに仕えることであると、私自身はそう理解している。
だから、貧乏な人たちでもmammonに仕えている人はたくさんいるし、お金のために犯罪を犯す人や払うべきお金を払わないような人は、非常に強欲ということで、mammonの最大の弟子である。
先日読んだネットの記事の中で、ある不動産会社の社長が、自分たちが管理している賃貸物件の30%で、きちんと毎月家賃が払われないなどの支払いに関する問題が起きていて、その損失が年間数千万円になると話していた。
30%も、動物園の住民(笑)がいるんだ(!)と、私は驚いたが、実際、マンションの管理費、学校の給食費、自治会費など、払うべきお金が支払われないという話を見聞すると、だいたいどこでも平均10%以上は、mammonの弟子たちがいて、対策に苦慮している。こういったmammonの弟子たちは、払うべきものを払わないですめば得だと思うのだろうけど、それが将来どれほどの負債になって自分に戻ってくるのか、知らないのだ。
人間クラブでは、mammon以外にも、人が信を置いている小神たちがたくさんいる――人間関係、仕事、肉体のパワー・美貌、知識、名誉、地位、各種快楽、そしてスピリチュアルな各種テクニックやパワーなど。一個の肉体精神として、ほとんどの人がそれらをかき集めて、人間クラブでの安全で安定した暮らしを目指すものだが、そういったもののどれも究極の信頼を置くには足りないと、幸運にも気づくときに、神の王国への扉が開くのである――本当は、神の王国の扉はいつも開いているのだが、その入口を誰も見ないというだけの話である。ここでいう神の王国とは、「私の本質」のことで、だから、神を信頼するとは、別の言い方をすれば、「私の本質」を信頼するということである。
ダグラス・ハーディングは、「私の本質」の神秘、パワーについて、次のように語っている。
「もし霊的成長ということがあるとすれば、何よりもこれ(=私の本質)への信頼が成長するということです。これ以外の何も信頼しないでください。そうすれば、あらゆるものを利用することができます」
「信頼するとは託すということですね?それで私はこの神秘に託します。それは信頼に足ります。それは決して失敗しません。それは道徳経が『決して枯れることがない底なしの井戸』と表現したもののようです。神秘と信頼性はいっしょにすすみます」 (「顔があるもの 顔がないもの」より)
ハーディングのこれらの言葉は正しい。しかし、神(私の本質)のようにつかみどころのない、(人間マインドにとっては)あやふやに見えるものへの信頼が、育つのは時間がかかり、だから私たちは何十年にわたって小神たちと戯れ、希望と失望、挫折を繰り返して、ようやくこの理解に到達するのが、普通であろう。
God(神) か mammon(富の神)か、その他の小神たちか――どこに究極の信頼を置くのか、スピリチュアルな道にいる人は、このことを試される機会がしばしばある。幸運にも神の王国への道を選ぶ選択が起こり、神への信頼が育てば、ハーディングも言うように、お金も含めて、この世俗世界のあらゆるものを楽しみ、利用することができるようになる。
[お礼と伝言]
(エンジェル・ダストさんのコメントの受付は、前回で終了させていただきました。「あなたの世界の終り」をたくさん読んでいただき、また今までコメントを寄せていただき、ありがとうございました)
ギリシャの危機・日本の危機 ― 2011年11月22日 20時25分17秒
1990 年代の後半のある年の夏、一度ギリシャに行ったことがある。ギリシャがまだユーロに加入する前のことだ。美しいエーゲ海の夕日と安価でおいしい食べ物とワイン、そして、陽気でのんびりとした人々の印象を今でも鮮明に覚えている。
最近、マスコミでやたらギリシャ危機が報道されるのを見て、(私の印象では)のんびりとしていたあのギリシャに何が起こったのか?と不思議に思い、何人かの経済専門家の書いた記事、本を読んで、「ギリシャ悲劇」を大まかに理解した。
悲劇の発端は、ギリシャがユーロに加入したところから始まる。たとえていうと、こんな感じの話になる。
生活レベルが中の下くらいのギリシャという家庭があった。生活は厳しかったが、貧しいながらものんびりと暮らしていた。あるとき、(娘か息子の結婚によって)そのギリシャ家に突然金持ちの親戚(ドイツやフランスなど国)ができた。そこでギリシャ家は思ったのである。「今日から私たちは金持ちの仲間だから、それなりの恥ずかしくない生活をしなければ」と。とはいえ、ギリシャ家はそれほど稼いでいるわけではないので、よりよい暮らしに必要なお金を金持ちの親戚に借金することにした。
その親戚(ユーロの金持ち各国)は、金持ちであるだけでなく、気前もいいので(しかし、本当はずる賢い)、ギリシャ家に向かって、「もちろん、これからは親戚なので、あなたにどんどんお金を貸してあげますから、好きなだけ借りてください。あなたは私たちの仲間になったのだから、ぜひもっといい暮らしをしてください」と親切に応じてくれた。
今まで、貧乏で信用がなかったので、お金を借りることに苦労していたギリシャ家は、裕福で親切な親戚が今までより安い金利でお金を貸してくれるという話に舞い上がって、イケイケドンドンでお金を借りまくって(つまり、ギリシャ国債を海外に売りまくって)、見かけ上の生活レベルの向上を推進した。時代は、アテネ・オリンピック前後の話で、オリンピック・バブルとも重なって、どれだけお金を借りても、「景気がいいんだから、借りた金はいつだって返せるさ」みたいな楽観論が国を支配し、ギリシャ家の人々は他人からの借金で、浮かれた生活を送っていた――暖かい国の人たちは、何事においてもたいてい、「なんとかなるさ」とよくも悪くも楽観的だ。
もちろんギリシャにかぎらずバブル景気というのは、永遠には続かない。景気はしだいに下降を始め、リーマン・ショックがやって来て、観光産業もその他の産業もどん底へ。気前のよかった親戚もさすがに、ギリシャ家の放漫経済運営と借金の踏み倒しを心配し始めて、今度はもっと質素な生活をするように苦言を呈するようになり、それに反発してギリシャ家の人たちが怒っているというわけだ。
同じような問題が、イタリア、スペインなどのヨーロッパの中流国にも波及して、それが今、世界が騒いでいるヨーロッパ経済危機の問題である。
現在のヨーロッパの経済危機、そしてアメリカのサブプライム・ローンの問題で浮き彫りになったのは、お金を貸す側の狡猾さと借りる側の無知と見通しの甘さだ。先日、90年代からリーマン・ショックまでの、世界の金融業界の裏側と彼らの驚くべき錬金術を描いた「インサイドジョブ――世界不況の知られざる真実」というドキュメンタリーDVDを見ていた。その中の一人の登場人物曰く、「何もないところから、大金を生み出す誘惑に誰も勝てない」のだそうだ。
そんな錬金術師たちの魔の手が、私のところへも伸びてきている(笑)。ここ数年、買い物しているお店でよくこう声をかけられる。「クレジット・カード、お作りになりませんか?」クレジット・カードの誘いとは、「借金をもっとせよ」という誘いだ。どんだけ、世界にはカネが余っているんだか……
さて、ヨーロッパ危機と言いながら、実は、ヨーロッパ各国の債務は、GDP比で日本よりはるかに少ない。騒がれているギリシャでも借金はGDPの1・2倍(120%)くらいである。日本はといえば、国家の借金がGDPの2倍近くで、先進国最大である。それなのに、なぜ日本危機はまだ騒がれないかといえば、日本の場合は、国にお金を貸しているのは、外国ではなく、ほとんど日本国民だからである。
しかし、その日本国民も急速に老いつつあり、国家を財政的に支えるよりも、国家に支えてもらわなければならない人たちが急増している。自分の親が介護を必要とするようになったからかもしれないが、「老い」が、日本の目下の最大の問題・危機であることを実感する日々である。両親のまわりではどこでも、「老人の介護と病気」、そしてそれを支えている人たちの精神的肉体的負担と疲労が話題だ。
しかも、危機といっても、国家全体の老いも、個人の老いも誰も止められない。せいぜい自分にできることといえば、老親をユーモアと平和をもって見守り、親を介護するだけの体力を養い、自分がネタキリになる確率をできるだけ減らそうと思うくらいだ。ということで、運動嫌いだった私も、最近は運動を前よりも積極的にやるようになり、現在のお気に入りの運動は、音楽を聴きながらやる「踏み台昇降運動」で、自宅には踏み台がないので、売れ残った自著が入ったダンボールで代用している――お金がかからず、自宅で簡単にでき、脚力向上にも効果があるので、皆様にもお勧めします。
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出版で金儲け(!?) ― 2010年03月25日 15時53分48秒
出版社をやってみたいという方にたまにお会いすることがある。もちろん私は、人がしたいということに対しては、何であれ、原則励ます主義なので、「ぜひぜひやってください」とお応えする。
出版はよい仕事だろうか?―Yes―もし本が売れれば(笑)
出版は楽しい仕事だろうか?―Yes―もし本が売れれば(笑)
昔から、出版社は、最低資本でできる業種と言われ、「机(と椅子)と電話」、今なら、これにパソコンとソフト、プリンターがあれば、誰でも出版社を作ることができる。しかも、パソコンとDTP(編集)ソフトの進化によって、印刷経費は、昔に比べてはるかに安価になり、いわゆる取次ぎ会社(本の問屋さん)に加盟しなくても、今では、インターネットを使って自社だけで売ることもできるし、各種インターネット・ショッピングモールに簡単に加盟もできる。
そんなわけで、出版社を作る敷居はずいぶん低くなってはいるが、現実には出版社の数は減り続け、倒産も増えている。
まあ、早い話、紙の本や雑誌を読む人が減っている、本や雑誌の代わりに、インターネットで無料の情報を得られるので、無理して本や雑誌を買う必要がない、携帯、マルチチャンネルテレビ、インターネットの影響で、本を読む時間がない、文字の多い本を読まなくなっているというか、読めなくなっている人たちが増えている――文字ぎっしりの本を読むのが好き、抵抗なく読めるという活字派はきわめて少数派なのである。
そんなこんなの状況で、それでも出版を起業してビジネスとしてお金を儲けることができるかといえば、そこは、逆転の発想で、普段はほとんど本を読まない人たち(圧倒的多数派)にアピールする本を作れれば、マーケットは実は非常に広い。普段本を読まない人、読む時間がない人でも、機会があれば、本当は本を読みたいと思っている人たちは多いという調査結果も出ている。
いつだったか、ユニクロの社長の柳井氏がインタヴューの中で、「世の中で、ファッションに関心がある人は、実はそれほどたくさんいるわけではなく、多くの人は服を選んだり、買ったりするのを面倒だと思っている。ユニクロは、ファッションに関心のない人でも、男性でも、とりあえず、あそこへ行けば、何かしら買える服があるというお店にした」という主旨のことを言っていた。ファッションに特に興味のない人でも服を簡単に選べて、買える店――慧眼である。確かに、たまに私もユニクロへ行くと、家族で来て、かご盛で服を買っている人たちが目につく。
それを出版にも当てはめれば、「出版で金儲け」のヒントは、普段は本に興味のない人、本を読まない人たちにも買ってもらえる本を企画して、作ることだ。
本を読まない人向けの企画が成功したここ数年間の例をいくつか挙げてみると、
まずは、シリーズ通算、数百万部は売れたという話の、血液型の本、「A型自分の説明書」(文芸社)(他、B型,O型,AB型の4冊)。本屋でチラッと見た印象によれば、1ページに1行20文字×10行程度≒200字くらいの本だったような気がする。本文総ページ110ページとして、総文字数、2万2千字くらい、本体価格1000円で、労働効率の非常にいい本だ。(ちなみに私が今読んでいる自然科学の翻訳書は、1ページ931文字、総ページ約400ページ、本体価格2000円、総文字数37万2千字以上もある)
本を読まない人向けの本は、まず第一に1ページの文字数が少ないこと、薄いことが絶対条件の一つである。
それから、誰にでも関係のあること、多くの人がたわいもなく話題にできること、この場合は、血液型のない人はいないので、本を普段読まない人にも「読みたい」と思わせる。
そして、第三の要素に、文字だけでなく、イラストやマンガをたくさん入れるということも大切である。これでずっと、本に親近感をいだかせ、読んでみようかという気にさせる。
最近書店の店頭にうず高く積まれている「日本人の知らない日本語」(メディアファクトリー)は、日本語学校で学ぶ外国人生徒と日本語教師たちの抱腹絶倒のやりとりをマンガと文字で描き、シリーズ通算、百万部を越えたそうである(私はこういう本はわりに好みだ)。ほとんどマンガなので、買ってから1時間以内に読める。短時間で読めるというのも大事な要素かもしれない。
それから、全米で数百万部、日本でも数十万部売れたという「ザ・シークレット」(角川書店)。こちらも本を読まない人向けの本である。欧米での「ザ・シークレット」の過剰ともいえるほどの人気を社会学的に研究した「ザ・シークレットの真実」(カレン・ケリー著PHP発行)によれば、「ザ・シークレット」の成功は、まず本よりも先にDVDを作ってプロモーション活動をし、今までニューエイジ系の本に関心のなかった層への売り込みに成功したことが大きかったそうだ。
秘密でもなんでもない中味の本に、大胆にも、「ザ・シークレット」(しかも、A Secret ではなく、「The 」Secretである――英語のTheには、「ただ一つの」という含みがある)というタイトルをつけ、権威ある有名人をたくさん登場させているあたりが、著者及び製作者たちのすぐれたマーケティングのセンスを感じさせる。「秘密」って言われ、さらに有名人が宣伝しているとなると、人はそれを覗いてみたい誘惑に駆られるものだ。
他に、若い素人の人たちが携帯でサラサラ書いたものを、紙の小説化にして、何十万部も売り上げている(百万部も売れた本もでている)携帯小説の分野がある。これも、「本を読まない人向け」本で成功した例である。
さて、この間私は、「ルポ 現代のスピリチュアリズム」(織田淳太郎著 宝島新書)という本を読んでいた。日本でスピリチャルに関わっている様々な人や団体を取材した本で、現代日本のスピリチャル世界の表と裏を書いている。
このルポの中で、私が特に興味深く読んだのが、スピリチュアル系志(こころざし)系出版の老舗、「めるくまーる社」を28歳で起業した和田元社長の話だ。1970年代後半、私はめるくまーる社の本を買いまくって読んだものである。2001年以後、激しいうつ病になって、ようやくそれを克服したという和田氏は、30年間を振り返って、「最後に会社をおかしくしてしまったけれど、私は30年間も好きな世界で仕事をさせてもらった」と語っている。和田氏の気持ちが痛いほどわかるというか……
出版社にかぎらずビジネスを起業し、会社を作ることはある種の「人生修行」である。出版社の場合、「志」系出版社になると、その修行が2倍大変になり、それにさらにスピリチュアル系が加わると、3倍大変になる。しかし、修行が終われば、和田氏のように平和な境地になれるだろうと思う、たぶん。
「出版で金儲け」か……「出版で修行」か……どちらにせよ、やってみれば、波乱の冒険となること間違いないです……
参考図書
「インターネット「印税」生活入門」立石洋一著(メディアファクトリー)
(少々古い本ですが)インターネット上で小説(ただし、紙の本ではなく、電子書籍)を売っている著者の体験記。
「ほどほど」という考え ― 2009年02月27日 09時04分19秒
石油価格も穀物価格も今はかなり値段が下がったようだが、それが最高潮に値上がっていた頃、そういう市場へ大量の資金を投入していたアメリカのヘッジファンドの代表へのインタヴューを私は見たことがある。
インタヴュアーがこう訊いていた。
「あなた方が、大量に穀物市場に資金を投入したせいで、貧しい国では、穀物の値段が急騰して、食料をめぐる暴動が起きています。そういうことをあなたはどう思っているのですか?」
それに対してヘッジファンドの代表はこう答えていた。
「別に。私たちの仕事は、顧客から預かったお金を一番儲かるところへ投資して、利益をできるだけ上げることです。それが私たちの仕事です」
私はそのとき、それを聞いて、思ったものだ。「食い物の恨みは恐ろしいことを、この人たちはあんまり知らないのかもしれない」と。
人はお金その他に関して、どんな考えをもつことも自由であり、どんな価値観が絶対的に悪いわけでも正しいわけでもないが、しかし、自分がすること・考えることの結末は自分に循環して戻ってくる(これをスピリチュアルな世界では「カルマ」と呼んでいる)確率が高いものだ。
アメリカという国は、根から上昇主義、お金の量で計る成功主義が蔓延している。彼らに理解できないのは、「ほどほど」とか「まあこのくらいで」といった中庸的な考えで、アメリカではこういう考えを、「負け犬の考え」と呼ぶ。しかし、極端な上昇主義の国では、その代償として、一方で格差と貧困が拡大する。
私も、お金は便利だから好きだが、拝金主義とアメリカのような格差のありすぎる社会は好みではない。なぜなら、格差のありすぎる社会とは、
:必然的に犯罪と暴力が多い。
:社会全体は貧乏。
:社会的公共的インフラの整備がお粗末。
のような社会だからだ。
そして、アメリカの上昇主義に中途半端に影響されてきた日本も、気づいてみれば、格差と貧困は拡大し、国全体は貧乏になりつつある(悪いところだけがアメリカに似てきている)。
さて、先日、アメリカのクリントン国務長官が、アジアにやってきた。(外国で醜態をさらけ出す日本の政治家とは違って)、自国の印象アップに貢献し、各国で見事なパフォーマンスを披露した。が、彼女がアジアに最初に挨拶にやってきた本当の理由は、「これからもアメリカにお金、よろしく」という意味だ。また、オバマ大統領が、各国政治家の中で麻生首相を最初にアメリカに招待したのも、「これからもアメリカにお金、よろしく」というためである。アメリカは、日本の一年間の国家予算にも匹敵するお金を、経済再建につぎ込むというが、そのお金の多くを日本、中国などのアジア各国からの「援助」に頼る予定のようだ。
アメリカの言い分は、こうである。
「もしあなた方が私たちにお金を出さなければ、あなた方の国の経済も停滞したままですよ。これからもアメリカに物を輸出したければ、お金を出しなさい」(日本の立場からいえば、自分のお金を貸して、そのお金で相手から物を買ってもらう奇妙な経済である)
政治レベルでは、日本はこういった圧力に屈するだろうけど、アメリカが日本からこれから一番輸入する(学ぶ)べきものは、本当は、「日本のお金や物」ではなく、「ほどほど」「そこそこ」「普通」「仕方ない」という、日本的中庸の考え方だと思う。オバマ大統領は演説で、「強いアメリカの復活」みたいなことを言っていたけど、もうこの地球に「他国の援助に頼る強いアメリカ」なんて、必要あるの? という感じである。
で、この間、昼寝中に思いついたアメリカ人向けセルフヘルプの本のタイトル――「あなたを救う『ほどほど』『そこそこ』『仕方ない』――日本的中庸のすごいパワー」
*前回に続いて、エントロピーの発想で書かれた本をご紹介する
「弱者のためのエントロピー経済入門」槌田敦著 ほたる出版
資源物理学者が、現在のような膨張経済ではなく、本当に成長可能な経済とは、どういう経済かを、エコロジー、環境の問題も含めて論じ、貧困、格差の問題の本質に鋭く迫る本。著者もまた、「ほどほどの幸せ」という考えを提唱する。
「エコロジー神話の功罪」槌田敦著 ほたる出版
「リサイクル運動は本当によいことか?」「温暖化は問題か?」「太陽光発電は環境にやさしいか」等々、エコロジーをめぐる神話と常識に一石を投じる本。リサイクルではなく、動植物も含めたサイクル(循環)が大事という考えは納得できる。日本的「もったいない」の考えから始まったリサイクル運動のたどった道は、よい考えが、必ずしもよい結末にならない難しさを感じさせる。
インタヴュアーがこう訊いていた。
「あなた方が、大量に穀物市場に資金を投入したせいで、貧しい国では、穀物の値段が急騰して、食料をめぐる暴動が起きています。そういうことをあなたはどう思っているのですか?」
それに対してヘッジファンドの代表はこう答えていた。
「別に。私たちの仕事は、顧客から預かったお金を一番儲かるところへ投資して、利益をできるだけ上げることです。それが私たちの仕事です」
私はそのとき、それを聞いて、思ったものだ。「食い物の恨みは恐ろしいことを、この人たちはあんまり知らないのかもしれない」と。
人はお金その他に関して、どんな考えをもつことも自由であり、どんな価値観が絶対的に悪いわけでも正しいわけでもないが、しかし、自分がすること・考えることの結末は自分に循環して戻ってくる(これをスピリチュアルな世界では「カルマ」と呼んでいる)確率が高いものだ。
アメリカという国は、根から上昇主義、お金の量で計る成功主義が蔓延している。彼らに理解できないのは、「ほどほど」とか「まあこのくらいで」といった中庸的な考えで、アメリカではこういう考えを、「負け犬の考え」と呼ぶ。しかし、極端な上昇主義の国では、その代償として、一方で格差と貧困が拡大する。
私も、お金は便利だから好きだが、拝金主義とアメリカのような格差のありすぎる社会は好みではない。なぜなら、格差のありすぎる社会とは、
:必然的に犯罪と暴力が多い。
:社会全体は貧乏。
:社会的公共的インフラの整備がお粗末。
のような社会だからだ。
そして、アメリカの上昇主義に中途半端に影響されてきた日本も、気づいてみれば、格差と貧困は拡大し、国全体は貧乏になりつつある(悪いところだけがアメリカに似てきている)。
さて、先日、アメリカのクリントン国務長官が、アジアにやってきた。(外国で醜態をさらけ出す日本の政治家とは違って)、自国の印象アップに貢献し、各国で見事なパフォーマンスを披露した。が、彼女がアジアに最初に挨拶にやってきた本当の理由は、「これからもアメリカにお金、よろしく」という意味だ。また、オバマ大統領が、各国政治家の中で麻生首相を最初にアメリカに招待したのも、「これからもアメリカにお金、よろしく」というためである。アメリカは、日本の一年間の国家予算にも匹敵するお金を、経済再建につぎ込むというが、そのお金の多くを日本、中国などのアジア各国からの「援助」に頼る予定のようだ。
アメリカの言い分は、こうである。
「もしあなた方が私たちにお金を出さなければ、あなた方の国の経済も停滞したままですよ。これからもアメリカに物を輸出したければ、お金を出しなさい」(日本の立場からいえば、自分のお金を貸して、そのお金で相手から物を買ってもらう奇妙な経済である)
政治レベルでは、日本はこういった圧力に屈するだろうけど、アメリカが日本からこれから一番輸入する(学ぶ)べきものは、本当は、「日本のお金や物」ではなく、「ほどほど」「そこそこ」「普通」「仕方ない」という、日本的中庸の考え方だと思う。オバマ大統領は演説で、「強いアメリカの復活」みたいなことを言っていたけど、もうこの地球に「他国の援助に頼る強いアメリカ」なんて、必要あるの? という感じである。
で、この間、昼寝中に思いついたアメリカ人向けセルフヘルプの本のタイトル――「あなたを救う『ほどほど』『そこそこ』『仕方ない』――日本的中庸のすごいパワー」
*前回に続いて、エントロピーの発想で書かれた本をご紹介する
「弱者のためのエントロピー経済入門」槌田敦著 ほたる出版
資源物理学者が、現在のような膨張経済ではなく、本当に成長可能な経済とは、どういう経済かを、エコロジー、環境の問題も含めて論じ、貧困、格差の問題の本質に鋭く迫る本。著者もまた、「ほどほどの幸せ」という考えを提唱する。
「エコロジー神話の功罪」槌田敦著 ほたる出版
「リサイクル運動は本当によいことか?」「温暖化は問題か?」「太陽光発電は環境にやさしいか」等々、エコロジーをめぐる神話と常識に一石を投じる本。リサイクルではなく、動植物も含めたサイクル(循環)が大事という考えは納得できる。日本的「もったいない」の考えから始まったリサイクル運動のたどった道は、よい考えが、必ずしもよい結末にならない難しさを感じさせる。
低成長・低エントロピーの時代 ― 2009年02月16日 14時29分28秒
ここ数ヶ月、マスコミのニュースは、経済と雇用と失業の話ばかりだ。
こうやって、どん底まで(もっと落ちるとも予想されているが)景気が落ちてみると、いかに過去数年間の「景気」が表面的だったかがよくわかる。アメリカの住宅バブルに依存していた「偽景気」だったので、現在の状況は当然の結末であろう。
私は、90年代初頭のバブル崩壊以後、日本全体の景気がよかったことは一度もないと思っているし、それが多くの国民の実感でもあるはずだ。あのときに、日本の戦後を支えた成長し続ける重工業モデルは終焉したのである。
しかし、この国の官僚、政治家、そして経済人、金融業界の人たちは、なぜか現実を見ないで、いまだに「経済成長・経済拡大・輸出拡大」の成長神話を信じている。つまり、国全体で老人が増えて、その世話に追われる国(国家として体力のない老人国家になりつつある)では、もうかってのような重工業成長路線は向かないのに、いわゆるこの国の指導者たちは今だ、輸出向きの自動車産業や電気メーカなど大企業中心の経済構造に頼って、景気を盛り上げようとしている。
彼らの希望的観念(成長神話)と実際の日本の現実が、かぎりなく乖離しているゆえに、90年代の公共事業へのバラマキも、小泉構造改革も、その結末は、多数の国民の痛みと国家の借金だけという結果となっている。でも、「痛みに耐えて、構造改革」という小泉さんの物語を多くの国民は信じたわけだし、政治・経済状況は国民の知性のレベルを反映しているので、現在の状況もある意味では、国民の自己責任というところか……
経済に関して、これから必要なのは、「経済成長しなくても、低成長でも、幸福になる道」(GDPではなく、国民幸福度を大事にするブータンのような国の発想)みたいな大胆な発想転換と、これからの日本経済は、かぎりなく低成長であり、GDPが下がるのも当然という認識だと、私は思っている。今後数十年の日本の経済状況については、希望的観測ではなく、きびしい認識をもっているほうが、現実と合っているので、生きていくには役に立つはずである。
地球の立場から見れば、エネルギーを使いまくって、エントロピー(熱)を上昇させる経済は、もう限界が来ていて、だから、車やその他の物が売れないことは、地球にとってはよいことにちがいない(それは実際、地球の「意志」かもしれない)。
大人の世代よりもむしろ若い世代の人たちのほうが、これからは低エントロピーの時代だということを肌で感じているのだろうか、車や海外旅行に興味のない人(かつては若者の憧れだったこと)が増えているという。
先日読んだ本、「エントロピーの法則」では、エントロピーの法則の観点から、現在のアメリカに代表される高エントロピー志向社会(高成長・大量生産・大量廃棄社会)が行き詰まることを警告していて、これからは、低エネルギー・低エントロピーのものしか生き延びないと断言している。かなり前に出版された本であるが、エネルギー消費が早まるほど、失業率も増加するなど、現在読むと、なおいっそう著者の言っていることの正しさがよくわかる。
エントロピーの発想から見れば、これからは、
生産活動を適正にして(つまり、必要な物を必要なだけ最小生産)
できるだけスローな生活をする
できるだけエネルギーを消費する機械を使わない
自分で自分が食べる分の食料を作る
できるだけ静かにしている
つまり、ニートぽい人たちとか、自給自足のような暮らしをしている人たちが、「地球に最も好かれる」人たちだ。
私も心は低エントロピー志向だが、一方、便利な機械は好きなほうだし、移動するときはできるだけ速い乗り物に乗りたいし、パソコンは何台ももっているし、仕事その他で高エネルギー消費の便利さに依存した生活をしているので、地球に好かれる度数からいえば、たぶん、かなり度数が低い……なるべく低生産・低エネルギー消費・低エントロピーで、どうやって、暮らしていくか――それを日々考えてはいるが、実際は矛盾だらけである。
「エントロピーの法則」ジェレミー・リフキン著 (祥伝社)
エントロピーの法則が、経済や社会においてどれほど重要な法則かを、歴史を振り返りながら解説している。理系の知識に興味のない人でも、エントロピーの法則とは何かがおおよそ理解できる本。
「エントロピーと秩序」ピーター・W・アトキンス著
エントロピーについて本格的に学ぶなら、本書をお勧めする。ほとんど数式が出てこないので、素人でも読め、「そういうことだったのか、エントロピーとは」と、宇宙全体から人間の体まで、現象世界を見る新鮮な視点と驚きが得られる。ただし、素人向けの一切の妥協がなく、本格的に解説しているので、何回も読まないと理解できないほど複雑難解なので、時間がたくさんある人向け。
こうやって、どん底まで(もっと落ちるとも予想されているが)景気が落ちてみると、いかに過去数年間の「景気」が表面的だったかがよくわかる。アメリカの住宅バブルに依存していた「偽景気」だったので、現在の状況は当然の結末であろう。
私は、90年代初頭のバブル崩壊以後、日本全体の景気がよかったことは一度もないと思っているし、それが多くの国民の実感でもあるはずだ。あのときに、日本の戦後を支えた成長し続ける重工業モデルは終焉したのである。
しかし、この国の官僚、政治家、そして経済人、金融業界の人たちは、なぜか現実を見ないで、いまだに「経済成長・経済拡大・輸出拡大」の成長神話を信じている。つまり、国全体で老人が増えて、その世話に追われる国(国家として体力のない老人国家になりつつある)では、もうかってのような重工業成長路線は向かないのに、いわゆるこの国の指導者たちは今だ、輸出向きの自動車産業や電気メーカなど大企業中心の経済構造に頼って、景気を盛り上げようとしている。
彼らの希望的観念(成長神話)と実際の日本の現実が、かぎりなく乖離しているゆえに、90年代の公共事業へのバラマキも、小泉構造改革も、その結末は、多数の国民の痛みと国家の借金だけという結果となっている。でも、「痛みに耐えて、構造改革」という小泉さんの物語を多くの国民は信じたわけだし、政治・経済状況は国民の知性のレベルを反映しているので、現在の状況もある意味では、国民の自己責任というところか……
経済に関して、これから必要なのは、「経済成長しなくても、低成長でも、幸福になる道」(GDPではなく、国民幸福度を大事にするブータンのような国の発想)みたいな大胆な発想転換と、これからの日本経済は、かぎりなく低成長であり、GDPが下がるのも当然という認識だと、私は思っている。今後数十年の日本の経済状況については、希望的観測ではなく、きびしい認識をもっているほうが、現実と合っているので、生きていくには役に立つはずである。
地球の立場から見れば、エネルギーを使いまくって、エントロピー(熱)を上昇させる経済は、もう限界が来ていて、だから、車やその他の物が売れないことは、地球にとってはよいことにちがいない(それは実際、地球の「意志」かもしれない)。
大人の世代よりもむしろ若い世代の人たちのほうが、これからは低エントロピーの時代だということを肌で感じているのだろうか、車や海外旅行に興味のない人(かつては若者の憧れだったこと)が増えているという。
先日読んだ本、「エントロピーの法則」では、エントロピーの法則の観点から、現在のアメリカに代表される高エントロピー志向社会(高成長・大量生産・大量廃棄社会)が行き詰まることを警告していて、これからは、低エネルギー・低エントロピーのものしか生き延びないと断言している。かなり前に出版された本であるが、エネルギー消費が早まるほど、失業率も増加するなど、現在読むと、なおいっそう著者の言っていることの正しさがよくわかる。
エントロピーの発想から見れば、これからは、
生産活動を適正にして(つまり、必要な物を必要なだけ最小生産)
できるだけスローな生活をする
できるだけエネルギーを消費する機械を使わない
自分で自分が食べる分の食料を作る
できるだけ静かにしている
つまり、ニートぽい人たちとか、自給自足のような暮らしをしている人たちが、「地球に最も好かれる」人たちだ。
私も心は低エントロピー志向だが、一方、便利な機械は好きなほうだし、移動するときはできるだけ速い乗り物に乗りたいし、パソコンは何台ももっているし、仕事その他で高エネルギー消費の便利さに依存した生活をしているので、地球に好かれる度数からいえば、たぶん、かなり度数が低い……なるべく低生産・低エネルギー消費・低エントロピーで、どうやって、暮らしていくか――それを日々考えてはいるが、実際は矛盾だらけである。
「エントロピーの法則」ジェレミー・リフキン著 (祥伝社)
エントロピーの法則が、経済や社会においてどれほど重要な法則かを、歴史を振り返りながら解説している。理系の知識に興味のない人でも、エントロピーの法則とは何かがおおよそ理解できる本。
「エントロピーと秩序」ピーター・W・アトキンス著
エントロピーについて本格的に学ぶなら、本書をお勧めする。ほとんど数式が出てこないので、素人でも読め、「そういうことだったのか、エントロピーとは」と、宇宙全体から人間の体まで、現象世界を見る新鮮な視点と驚きが得られる。ただし、素人向けの一切の妥協がなく、本格的に解説しているので、何回も読まないと理解できないほど複雑難解なので、時間がたくさんある人向け。
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