The Thunder of Silence(3)2022年11月04日 11時11分44秒

[コメントをいただいたかとう様へ]
私も日常生活では、ほとんど「許す」という言葉は使わないですし、キリスト教が教えるように、
「人を許せ」と言われて、自分の意志の力で許せるものなのか、疑問にも思っています。ラメッシが言うように、最初に湧く感情、たとえば、「許せない、許したくない」という感情は、誰にもコントロールできず、ただ私たちにできることは、そういった感情に気づき、その感情を増幅しないこと、そてしその感情にもとづいて「行動しない」ことくらいかと、思います。



1神とは何か?
2善悪という二つのパワーを超越する。
3「カルマの法則」から、「神の恩寵」への移行。
4新約聖書の山上の垂訓のメッセージ。


本日は、The Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の上記のテーマのうち、「善悪という二つのパワーを超越する」を説明してみよう。

人間の人生は、日々出来事で構成されている。人間のマインドが善い、楽しいと考える出来事、人間のマインドが悪い、ひどいと考える出来事、そして、平凡で普通の出来事。自分に関する出来事もあれば、世の中、世界に関する出来事もある。

そして、「善悪という二つのパワーを超越する」とは、日常的な言葉で言えば、そういった「日々起こる出来事に、これは善い、これは悪い、という善悪の判断をしない」ということである。そして、「出来事や人々を憎むな、許せ」ということでもある。

日々起こる出来事には、戦争、災害、コロナのようなパンデミック、物価高などの世界情勢や日本という国の情勢に関することもあれば、自分個人に関すること、失業、病気、事故、人間関係の問題など、あるいは財布やスマホを落とす、パソコンが突然壊れるなどの出来事もある。もちろん、お金をたくさん手に入れたとか、好きな人と結婚するとか、子供が生まれたとか、望む就職ができたとか、人間のマインドが判断する善い出来事の場合もある。ジョエル・ゴールドスミスが言っていることは、「そういった出来事にいちいち善悪判断をするな」、「関わっている人たちを許せ、憎むな。反対に、称賛もするな」ということである。

書くには、簡単であるが、これを日々実践するのは、けっこうな「修行」となるだろうと思う。なぜなら、私たちのマインドは、あらゆること、世界情勢から日本の経済政治状況、そして、自分の日常生活に起こる出来事について、いつも善悪判断するようにプログラミングされているからだ。

そもそも私たちの肉体の基層にある免疫機能は、体にとって「悪」、「非私的なもの」が体に侵入しないように常に警戒し、万一侵入したら、徹底的に戦うという機能を担っている。つまり、常に善悪判断をし、常に「私」と「非私」を分離し、区別するという仕事をしていて、そのおかげで、私たちは肉体の健康を保つことができている。

だから、ジョエル・ゴールドスミスのメッセージも含めて、一般的に非二元系の教えは、肉体の法則とは真逆なことを教えるゆえに、私たちはマインド・レベルで、「善悪判断を手放すこと」に困難を覚えるのである。

本書、The Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の中で、ジョエル・ゴールドスミスは、人間のマインドが「善悪という二つのパワーを超越する」困難を認めつつ、条件づけられた人間マインドをいかに超越するのかを、時には日常的事例をまじえ、あらゆる角度から説明している。

それでも彼の話を理解するのは簡単ではないだろうが、しかし、自分の本質、アイデンティティは一個の肉体・マインドではないと目覚めた人、あるいは目覚めつつある人、つまり、(キリスト教が言う)人の子から神の子に移行しつつある人たちは、「善悪という二つのパワーを超越する」ことの本当の知恵が浸透する可能性が生まれる。

「善悪判断を手放す」ことに関して、私自身はラメッシの「起こることすべては、神の意志である」が役に立っている。大きなことから小さいことまで(数日前は、パソコンの問題と奮闘して、半日も時間がつぶれ、昨日は朝から北朝鮮のミサイル発射とかで、スマホから大音響のJアラートが鳴り、体の免疫機能が一瞬、警戒態勢にはいった)、「起こることはすべて神の意志。ピリオド」。

そして、「覆水盆に返らず=起こったことは、元どおりにはならない」、老荘思想の哲学、「人生万事塞翁が馬=善いことは悪いことに変わり、悪いことは善いことに変わる」も、私がよく思い起こす言葉である。

マインドにストレスをかかえずに、問題を冷静に考えることができれば、なんとか状況を切り抜けられるだろうと楽観している――Jアラートは、「安全な場所へ避難してください」と言っているけど、万一ミサイルが自分のいる地域に飛んできた場合、物理的に安全な場所なんてあるのかと思う。ジョエル・ゴールドスミスが言うように、そんなときは、「平静にしている」、それが一番な気がする。

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)


















コメント

_ かとう ― 2022年11月04日 12時33分38秒

「関わっている人たちを許せ、憎むな。反対に、称賛もするな」とは?
ひとことで言い表せば「私」は「分離」していないということですね。
もっと正確に表現するならば「許せ」も「称賛」も、私が善悪に「分離」していることを前提にしている言葉ですから矛盾しています。
特に「許す」という言葉は「私」が混乱を招くので使わないことにしています。

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