最近読んだ本から2012年05月01日 08時03分00秒

「密閉国家に生きる」バーバラ・デミック(中央公論新社)
アメリカのジャーナリストが、北朝鮮から脱北してきた人々へのインタヴューを元に、北朝鮮の普通の人々の生活を描いた本。本書によると、日本のテレビにたまに映るピョンヤン以外の地方の様子は、まるで日本の敗戦直後か、それよりももっとひどい状態である。死体がころがり、孤児、売春婦がうろつき、人々は飢えと必死で戦っている。気が弱い者たちは、その戦いに負けて死に、気が強い者たちは、たくましく闇市場で儲けるか、脱北を試みる。こういう本を読むと、実質すでにシステムが崩壊している国が、なぜいまだ国家として成り立っているのかという疑問が残る。たぶん、政治的な意図で、中国やアメリカが必死で支えているのだろうが、もういつまでもつかのかという感じである。

「幸せなご臨終」中村仁一 (講談社)
もしこの著者の本を、父が倒れる前に読んだなら、父の介護・看病もまた違ったものになったかもしれないと思った。著者は、介護・看病の現場で蔓延している介護される側に迷惑な親切と延命治療について警告している――父の場合、特別な延命治療はしなかったものの、あとで思い返すと、「迷惑な親切」で、かえって苦しめた場合があったのかもしれない。

「人は食べることができなくなったら、自然に食べないままにしておくのが、一番苦しみがない」と著者の考えは、たぶんそうなのだ。それにもかかわらず、まわりで介護する側が、「食べさせること=善」、あるいは「少しでも長く生きること=善」という呪縛から逃れることが、とても難しいのである。たぶん、一番いいのは、自分(の人間マシン)をどういう状態で死なせたいのかを、元気なうちに身近な人に遺言しておくことであろう。人工呼吸等の延命治療、栄養点滴、胃ろう、心臓マッサージ等々をやるのかどうか……そういったものをできるだけやらないほうが、「幸せなご臨終」を迎えられそうだと、私自身はそう思っている。

「歪笑小説」 東野圭吾 (集英社)
どんな業界にも「裏の世界」というか、「裏の顔」があるということを、人は生きていくなかで、悲しくも知ることになる。出版業界もその例外ではない。一般にはハイブラウ(学問・教養のある人たち)の世界であるというイメージがあるが、中味はけっこうサルの世界だったりもする(ようだ)。サルたちが自分たちはハイブラウな人間でハイブラウな仕事をしていると思いこむとき、観察眼のある人たちが見たら、けっこう笑える話がたくさんみつかるのだ。「歪笑小説」は、大手出版界のそんな作家センセイたちと編集者たちが織り成す抱腹絶倒の日々を、おそらく著者の実体験もかなり交えながら、描いた短編集。

「1Q84」 村上春樹 (新潮社)
やっと「1Q84」を読み終えた。第一巻は発売直後に買って読んで、その時点ではまだ続きを読もうという情熱があり、でも、買ってまで読むこともないだろうと思い、ずっと図書館の本を待って、ようやく2巻、3巻を続けて読むことができた。正直な話、私は村上春樹さんの小説のファンではなく(彼のエッセイは、小説よりはるかに面白く読めるが)、彼の小説を面白く読めたことがない。それでも「1Q84」を読んでみようと思ったのは、「1Q84」発売直後のインタヴューで、彼が、「ノルウェーの森」は自分が本当に書きたかった小説ではなく、「1Q84」こそ、自分が本当に書きたかった小説だと言ったからだ。

それから、同じインタビューで、彼は自分の文学的野心についてこう語った。「時代を経て、長い間読まれる文学(小説)は、文章が読みにくいものが多い。一方大衆文学は読みやすいが、歴史には残らない。私は、読みやすく、かつ長い間読み継がれる小説を目指している」と、まあだいたいこんなような主旨の内容だったと思う。これはものすごい文学的野心だ。読みにくい小説でかつ長い間読み継がれている小説といえば、たとえば、「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)とか、(おそらく「1Q84」というタイトルはここから来たと思われる)「1984年」(ジョージ・オウエル)とか、「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)、あるいは、日本人の小説家であれば、夏目漱石などが私には思い浮かぶ。

で、「1Q84」の読後感であるが、「なんだかなあ……」という感じである。文句なく読みやすく、ミステリー小説のようにスラスラ読めたが、だけど、やっぱり「なんだかなあ……」なのである。読みにくいけれど、時代を経て読まれる小説にはたいてい存在する「ガツン」というインパクトがない――少なくとも、私にとっては。残念なことに、私には彼の小説を読み解いたり、面白いと感じるセンスがないのだ。

大雑把な印象でいえば、村上さんは、文化や国を超えて、現代という時代の底を流れる人々の心象風景を絵画のように切り取ってスタイリッシュに(かっこよく)描くのが非常にうまいとは言えると思うし、だから、彼の小説は世界中で読まれるのではあろうけれど。

「あの人はなぜあなたを疲れさせるのか」アルバート・J・バーンスタイン (角川書店)
世の中には非常に魅力的でカリスマ的でさえあるのに、なぜか関わる人たちを非常に疲れさせる人たちがいる。著者は、他人の感情をたくさん吸うことで、生き生きするような人たちをEmotional Vampire (感情吸血鬼)と名づけ、彼らの手口とその対策を本書で紹介している。感情吸血鬼の人たちが、無能で、引きこもっているようなタイプであれば、それほど被害はないのだろうが、彼らは非常に活動的で、ある意味で有能で(有能に見せる能力があり)、社会のあらゆる領域に生息していて(中には社会的に地位の高い人たちもいる)、人に非常に好かれる性質をも合わせもっていることが、知らずに「被害」が拡大する原因ともなる。

本書では、感情吸血鬼を、反社会的吸血鬼、演技性吸血鬼、自己愛性吸血鬼、強迫性吸血鬼、偏執性吸血鬼の五種類に分類している。吸血鬼の活動は、必ずしもいつも反社会的なわけではなく、偉業になったり、悪業になったり、様々である。共通していることは、彼らと関わるまわりの人たちは疲れ果て、混乱し、干上がってしまうということである。

昨年亡くなったアップル社のスティーブ・ジョブズ氏の伝記を読んでいたら、彼はまさにこの中の自己愛性吸血鬼のタイプだということがわかった。本書の説明によれば、自己愛性吸血鬼とは、「私しか見えないタイプ。自分は世界一賢く、才能にあふれていると信じている。歴史に名を残す偉業を達成するのはこのタイプ」である。確かにスティーブ・ジョブズ氏は「歴史に名を残す偉業を達成した」。

それから、最近目についた吸血鬼としては、出会い系サイトで知り合った何人かの男性を騙してお金を巻き上げて殺した罪で、死刑判決が出た女性だ。彼女は、自己愛性吸血鬼と演技性吸血鬼(永遠のヒロインタイプ。スポットライトを浴びていないと死んでしまう。誰もが思わず惹きつけられる強烈な魅力の持ち主)の混合タイプで、やはり「悪業」によって歴史に名を残した。「1Q84」に登場する新興宗教の導師は、自己愛性吸血鬼と偏執性吸血鬼(陰謀がポリシータイプ。目に見えないことやありもしないことを信じる。偉大や宗教家や哲学者、芸術家はこのタイプ)の混合タイプである。

スピリチュアルな世界では、「自分を愛する」ことを強調するあまり、一歩間違って、「自分を愛する=エゴを甘やかす」と錯覚すると、自己愛性吸血鬼に感染しやすい。このことはよく心したいものである。

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あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」(本体価格1900円―好評発売中―ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)

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ワンネスへの希求と挫折2012年04月20日 10時47分24秒

最近、スピリチュアル系の本で、非常によく使われる言葉にワンネス(oneness)という英語がある。――ピッタリな日本語訳がなかなか見つからないのだが、「一つであること」という訳はよく使われている。「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」(本体価格1900円――発売されました――ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の中にも何度か出てきている。

人という種は、スピリチュアルな探求をしている人たちでもしてない人たちでも、いつも切ないほどにこのワンネスを希求し、そういったワンネスの希求が様々な人間ドラマを生み出している。

先日、ある投稿サイトに次のような話が出ていた。二人の若い女友達の間で起こったちょっとした事件である。

投稿した女性は、もうすぐ結婚予定で、そんなある日、友人が遊びに来たので、婚約者から買ってもらった結婚指輪をはめてその友人に見せていた。たまたま彼女がその指輪をはずしてテーブルに置いたとき、その友人が何気なくそれを手にとって自分の指にはめるという事件というかハプニングが起こってしまった。友人が自分の結婚指輪をはめているのを見たその女性は驚愕しパニックに陥り、あとでそれを思い出すと怒りと悲しみでいっぱいになり、ついには友人に怒りのメールを送り、結婚式も近いというのに、その事件のせいで、非常に憂鬱になっている――とまあ、だいたいそんなような話だったと記憶している。

言ってみれば、女友達の間のたわいもない諍い(いさかい)なのだが、深く読めば、彼女は若い女性特有のワンネス(oneness)の希求とその挫折を語っているのである。

その女性は指輪を友人に見せた時点でおそらく、指輪の素晴らしさと自分の幸福を友人にも同意してほしかった、つまりワンネスへの希求が無意識にあったはずだ。「ねえねえ、この指輪どう、素敵でしょう? 今、わたし、すっごく幸せなの。あなたもそう思うでしょう?」みたいな。

ところが、彼女のそのワンネスへの希求の結末は、彼女の望むようにではなく、まったく予想外に展開して彼女を驚愕させることになった。しかし、少し賢明に状況を見てみれば、別の形では彼女のワンネスへの希求は実現したことがわかる――その友人が指輪をはめたという事実によって。

人、特に女性、特に若い女性には、「自分が美しいと感じるものに触れたい」という無意識の本能的願望がある。だから、その友人が投稿者の女性の結婚指輪に手を伸ばして、それをはめてみたということは、「わあ、素敵な指輪、こんな指輪を買ってもらって、もうすぐ結婚だなんて、あなた、幸せね」という同意を彼女なりに表現したわけだ。

だから、もしその投稿女性がそういうふうに状況を見ることができれば、ワンネスへの希求が実現して、本当は喜ぶべきで、何も悲しむべき話でもないのだが、エゴが物事を解釈すると、状況はどんどん悪化し、この女性のエゴは、結婚の喜びも人間関係も自分自身でぶち壊しているというわけである。

世の中の人たちが、特に親しい人間関係に対してもっている愚痴・不満・不平とは、ワンネスを希求したあげく、その結末をエゴが解釈することによるものである。ちなみに、私たちのエゴは常にワンネスを希求しながら、実際はワンネスを嫌悪しているという奇妙な絶対矛盾に陥っている。

では、スピリチュアルな探求をしている人たちはどうかといえば、やはり多くの人たちはワンネスの理想的状態を希求することで、ある種のストレスに陥っている。なぜストレスかといえば、ワンネスとは根源的な「既成事実」であるゆえに、その状態に「なろう」と頑張ることは、いわば、蛇足であり、かえってワンネスの事実から離れることになるからである。そして、私たちが肉体、思考・感情といった現象的次元で、誰かや何かとのワンネスを求めて、仮に一体感のようなものが得られたとしても、それは一時的なものにしかすぎない。反対に、一時的に否定的感情や思考がわこうが、それこそ喧嘩や対立があろうが、それさえも、根源的なワンネスを壊わすわけでもなく、時と場合によっては必要なことかもしれないのである――先ほど例にあげた投稿者の話でいえば、ひょっとしたら、二人の人間関係は終わるほうが、双方にとってよりよいために、そういう事件が起こったのかもしれないのである。

そのことを理解したなら、現象次元でのワンネスの積極的追求をやめることができ、ワンネスを象徴する喜びなどの感情が自然に来たらそれもOK、否定的感情がわいてもそれもOKとなり、他人も自分自身もあるがままにしておくという贅沢を味わうことができるのである。

ワンネスへの激しい希求がどれほどストレスで暴力的になるかの具体的証拠を見たければ、究極のワンネス希求国家、お隣の北朝鮮の状況がそれを物語っている。国民全員を金(キム)一族への崇拝という「たった一つ」の思想に無理やり統一しようとする不可能をやろうとするゆえに、約700億円ものお金(8割の北朝鮮国民の一年分の食費に相当)を愚行につぎ込んで、そのストレスを外に向かって発散せざるをえないのである――今回はそのストレス発散(ミサイル打ち上げ)さえ失敗に終わり、さあ、これからお隣さんはどういう暴走に走っていくのだろうか……

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「アジャシャンティ」(3)―輪廻転生2012年04月08日 08時56分35秒

今回は、「輪廻転生」についてである。

実は、「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」本体価格1900円 ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の本の中で、輪廻転生はまったくテーマではないし、アジャシャンティもこの輪廻転生について話すことにほとんど関心がない。にもかかわらず、本の最後に収録されているインタヴューで、インタヴュアー(原書出版社の代表兼編集者で、アジャシャンティの長年の友人かつ生徒)が、何とかこの話題を引き出し、それに対して、アジャシャンティも長年の信頼関係のよしみで、ではまあ、仕方なくという感じで、輪廻転生を思い出したときの話を語っている。

いわゆるスピリチュアルと名のつく教えのどこか――それらがどれほど違う種類と内容の教えであっても――に関わっているほとんどの人たちが共通して関心をもっていることが、この輪廻転生とカルマという話題である。なんとなくの印象でいうと、21世紀になってから、スピリチュアル系タレント(っていうのか)の人たちが、テレビ番組で「過去生(前世)」の話を軽く語りだしてから、「過去生(前世)」はかなり日常語になった感があり、スピリチュアルな業界にいたっては、輪廻転生はもはや常識でさえある。

だから、私が「輪廻転生は真実ではない」と言うと、よく驚かれてしまう。私は、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール、ダグラス・ハーディングなど、輪廻転生を明確に否定するどちらかといえば少数派の教えの系譜にいる。輪廻転生の否定を、ニサルガダッタ・マハラジほど、シンプルに簡単に説明した人はいないので、まずはその説明を最初に紹介してみたい。

ラメッシ・バルセカールの処女作、「The Pointers From Nisargadatta Maharaj――ニサルガダッタ・マハラジの教え」という本の「There Can’t be Re-birth--輪廻転生(生まれ変わり)はありえない」で、マハラジは、輪廻転生はありえないと明言し、伝統的ヒンズー教の修行僧をショックに陥れている。

マハラジの説明を要約すれば、

「生まれたもの、対象的に生まれた肉体は、やがては『死に』、そのあと、分解し、完全に崩壊する。生命力は、肉体を離れ、外側の空気と混じる。感覚のある生き物の対象的部分は破壊され、同じ肉体として生まれ変わることは決してない。そして、対象物ではない意識はまったく『物』ではないので、それゆえ、非対象的な何かとしての意識は、『生まれる』ことも、『死ぬ』ことも、『生まれ変わる』こともできない。これらは、疑う余地のない事実ではないだろうか?」

つまり、マハラジの問いは、「そもそも輪廻転生すべき(生まれ変わるべき)何か実体が、ありますか?」という問いである。

では、アジャシャンティの説明はどうかといえば、彼は自分がある時期、過去生をたくさん思い出した時の話をし、「それは、朝目覚めて、『わお!自分が50もの過去生を同時に思い出した夢を見た』というようなものであり、そういった経験は夢の性質をもち、目覚めとは本質的には無関係である。しかし、もし誰かが私に尋ねれば、過去生と多くの人々が呼ぶようなものを自分が経験したことは事実なので、それを否定はできない」と、そう説明をしている。さらに、彼は、過去生とは実は過去ではなく、自分にとっては同時生のようなものであった、と語っている。

私自身も過去生(と当時はそう思っていた)のようなものをたくさん思い出した時期がある――スピリチュアルな探求を始めてまもない頃の20代の後半のことで、しばらくはこの教義にはまっていた。のちに、ダグラス・ハーディング、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカールなどの教えと出会って、輪廻転生の教義は捨て去ってしまったし、その時期以後はめったにそういう類の映像を見ることもなくなった――アジャシャンティも言うように、そういう映像やイメージは、霊的目覚めとかスピリチュアルな本質とは無関係であるが、それでも、あの映像は何だったのか時々考えたみたことがある。

本当のところ今でもよくはわからないが、なんとなく感じたことを想像的に書くと、それは宇宙映画館で映画を見るようなものではないか、ということである。その映画館には、過去・現在・未来のあらゆる生き物によって見られている(今、目の前で見ている現世映画も含めて)映画が常に「同時」上映されているとしよう。理論的には人はどの映画も見ることができるが、しかし、私たちがDVDレンタルショップで映画のDVDを借りるときのように、実際は膨大な数の映画から、人はほんのわずかな映画にしか心惹かれないし、理解することができない。

人々が過去生とか未来生とか呼んでいる映像は、たとえて言えば、シリーズで続いている映画のようなものだ。自分は、今見ている現世映画であれこれのセリフや感情・思考を与えられた主役をやっている。で、現世映画の主役である自分が宇宙映画館で別の映画を見て、なぜかその物語にとても親近感を感じ、その主役や登場人物、物語のあらすじをとてもよく知っている気がしたとしよう。それも当然で、自分が見たその映画は、自分が出ている現世映画のシリーズの前作(次回作という場合もある)だったのである。

シリーズの前作なので、当然内容にも詳しいというわけである。しかし、自分とシリーズ前作の映画の主役やその他登場人物はまったく無関係で、別人であり、映画は一回一回、全部俳優を入れ替えて新たに作られている。つまり、自分が前作に出演したわけではないのである。ただ同じシリーズなので、似たような場面があり、似たようなセリフや感情・思考が自分に割り振られているというわけだ。がそれは、「過去生の自分」でも、「自分の過去生」でもないし、以上私が書いた想像話も、映画の中でまた映画を見るというような話である。

もちろん、輪廻転生を真実なものとする教えや意見もたくさんあり、現在では科学的に調査・研究もされているそうである。なので、もしこのテーマにご興味がある人たちがいれば、最終的には誰の意見も考えも(私がここで書いた考えも含めて)も鵜呑みに信じず、自分で探求し考え抜くことをお勧めする。

輪廻転生――スピリチュアル系の人々がこの教義を好きなのは、たぶんそれを信じることがロマンチックに感じられるからなんだろうと思う。私の愛聴歌手の一人、サラエボ出身のヤドランカという歌手が日本語で歌った「信じているの」という歌は、まさに「生まれ変わり」を「信じる」ことをロマンチックに唄った歌で、その中にこういうフレーズがある。

「今度 生まれ変わるときにも あなたと会いたい どこかの街で たとえ姿変わっていても わかるのよ 二人の愛は永久(とわ)のもの♪♪♪♪」

すでに亡くなった親しい縁のあった人たちを思い出す感傷的な夜に、このフレーズを聴くと、私でも涙がでる。最近では、(1、2月は忙しくてほとんど悲しむ余裕がなかった)父のことを思い出して(つまり、完全映画モードの変性状態になって)、時々この歌を聴いている。

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2012年4月15日(日)午後
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「アジャシャンティ」(2)スピリチュアルな誤解――「霊的目覚め」2012年03月23日 10時41分52秒

アジャシャンティが、「あなたの世界の終わり―目覚めの「あと」のプロセス」本体価格1900円 ナチュラルスピリット発行―4月中旬から下旬発売予定)の本の中で、一貫して強調しているもう一つのことは、霊的目覚めとは、「一人の個人」が目覚めるのではなく、目覚めが、「一人の個人から」目覚めるということである。目覚めるのは、個人ではなく、目覚めそれ自身が目覚めることである。

霊的な道にいるほとんどの人たちは、たいていある地点まで、「一人の個人としての『私』が、目覚める(とか、悟る)」という観念をもっている。さらに、「もし私が目覚めたら(悟ったら)、私は始終至福に包まれ、人生で間違いをおかすこともなく、いつも完璧で、大勢の人たちに愛されて、いつも幸せだろう」みたいな観念さえもっている人たちもいる。こういった観念こそ、霊的目覚め(悟り)に関する最大の誤解であるのだ――私自身は、1980年代後半に、ダグラス・ハーディングの本を最初に読んだときに、この誤解を解消することができた。

それからもう一つよくある誤解として、霊的目覚めをある種の神秘体験や至福体験、あるいは何かの超常的能力をもつことだと勘違いすることである。

目覚めは、変性された特別な状態ではなく、今ここのあるがままの現実を単純に自然に認識することである。アジャシャンティが言うように、通常の人の意識、「私は一人の人間である」とそれにまつわる苦悩こそ(そしておそらく喜びも)、むしろ変性された状態であり、目覚めるとはその変性状態から目覚めることである。だから、もし私たちがいわゆる個人的苦しみに苦悩しているのであれば(あるいは個人的達成に歓喜しているのであれば)、そのときはある種の変性状態にあるということである。

世界中のスピリチュアルの世界で、こういった誤解された観念に対応すべく、目覚め(悟り)を神秘体験や至福体験として「販売」する一部の傾向があるようだが――おそらくそういった種類の修行やワークを熱心にやれば、様々な体験をすることは確かなことであろう――アジャシャンティは、目覚めることなく、神秘体験や至福体験を追い求める傾向に警鐘を鳴らしている――とはいえ、アジャシャンティ自身、自分の先生の警告をほとんど聞かなかったように(というより、聞けなかったように)、私たちはその時期その時期で自分にピッタリな体験、教えや先生に出会うのは間違いのないことで、だから、神秘体験や至福体験志向の修行やワークを楽しくやっている人たちは、それはそれでOKなことである。

目覚めそれ自身は、シンプルで自然な事実ゆえに、現在世界中で、自分の本質に目覚めるという体験をしている人たちがたくさんいる。が、問題は、その目覚めが人生で機能するようになるためには、時間がかかるということである。なぜ時間がかかるかといえば、私たちは目覚めるという体験をしたからといって、エゴ的な傾向からそんなに簡単に抜け出せないからである。

アジャシャンティが言うように、目覚めには、個人的エゴ(人)にとっては利益になること、喜ばしいことは何一つないゆえに、だからエゴ的傾向にまた戻るという地上的重力(と、彼はエゴ的傾向をそう表現している)と目覚めの間で、長い間行ったり来たりの状態が続くのである――それを本書の中で、アジャシャンティは、「目覚めの『あと』のプロセス」として、様々な角度から描写している。

以上本書は、要約すれば、目覚めが人生で機能するようになるために、目覚めそれ自身が人を、「その人の世界の終わり」まで連れていく(エゴにとってはヤバイ、しかし存在にとっては喜ばしい)プロセスを描いた本なのだが、「あなたの世界の終わり」などというあまり売れそうにないタイトルのわりには、アメリカではよく売れている(らしい)。日本でも、「あなたの世界の終わり」というタイトルに怯えずに、こういった本を必要としている方々に広く読んでいただければ、と思っている――皆さんもよくご存知のように、本一冊読んだくらいで、「あなたの世界」がそう簡単に終わったりはしませんから(もし本にそれくらいのパワーがあったら、どれほど簡単かとは思うけど)、どうかご安心を!(次回、もう一回だけ、本書で触れている内容を取り上げます。本の目次は、発売後、シンプル堂サイトで公開予定です)


関連サイト
「アジャシャンティ」公式ホームページ
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ナチュラルスピリットのサイト
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(発売後、下記サイトに本の目次を掲載予定)
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「アジャシャンティ」(1)‐スピリチュアルな落とし穴‐「プライド(優越感)」2012年03月10日 10時12分38秒


3月か4月に、アジャシャンティのThe End of Your World(「あなたの世界の終わり」ナチュラルスピリット発行‐邦訳タイトルは現時点では未定)がようやく発売予定となったので、本書が扱っている内容に関していくつか、数回にわたって取り上げてみよう。

本による情報では、アジャシャンティはアメリカの北カリフォルニアに生まれ、子供の頃から青年期まで自転車競技に熱中し、大人になってからは禅の先生について禅の修行に励む。25歳と32歳頃に覚醒体験があり、1996年より、自分の先生の要請で教え始め、現在はカリフォルニアを中心に広範囲で教えている。以上がアジャシャンティの簡単なプロフィールである。
 
本書、The End of Your World(「あなたの世界の終わり」)のテーマは、「いかにして目覚めるか」ではなく、むしろ、霊的覚醒体験や神秘体験などをした人たちが、スピリチュアルな道において、どんな行き詰まり、袋小路に陥ってしまうのか、どうやって目覚めから「転落」してしまうのかに、焦点を当てて語っている。アジャシャンティは、自分が覚醒体験をしたあとでどういう落とし穴に落ちてしまったのか、自分自身の経験からも多くを語っているので、非常に説得力のある話が本書では展開している。

本書の中でアジャシャンティは、スピリチュアルな探求者たちがよく陥る落とし穴として、特に、「プライド(優越感)」、「無意味感」、「空虚感」に言及しているが、ここでは、「プライド(優越感)」について、取り上げてみたい。

「プライド」と人々がよく言うところのものは、スピリチュアルに特有なものではなく、人間であることに特有なものである。人間はプライドの生き物である。なぜなら、プライドにおいて、人は、「他人とは違う自分」を実感できるからである。

プライドの形は、明確に他人と自分を比較する顕著な「優越感」から、自分でもそうとは知らずに「飼っている」非常に微妙なものまで、様々なタイプがある。

たとえば、世の中の人々がよく口にしたり心で思っていたりする、「私は、こんなに頑張って生きています(仕事をしています、家事をやっています)」も、プライドの一種であり、「私はあなたのことを心配している」(=あなたは、私が心配してあげなければならない程度の人だ)も、プライドの変形であり、自分が自分に言う「自分の将来が心配だ」(=今の自分から見ると、将来の自分は、心配な状況に陥るだろう)も、プライドの微妙な変形である。

スピリチュアルな探求を始めた最初の頃、私たちはまず自分の中にある明確にネガティブなもの――怒り、憎しみ、みじめさ、強欲等に気づく。こういったものは、苦痛を感じやすく、簡単に気づきやすい。しかし、プライドに関してはそう簡単ではない。なぜなら、私たちは自分を高く評価すること、自分を肯定することを教えられ、プライドとはそういったある種の自己肯定感と非常に密接にリンクしているからだ。スピリチュアルの多くの教えでは、自分を高く評価すること、自分を肯定することは、非常によい(善)ことだとされ、そのため、自己肯定感に隠れてプライドが微妙な形で自分の中に住むつくことになる。

なかには、こう尋ねる人たちもいるかもしれない。「自己肯定感やプライドの何が悪いですか?」と。自己肯定感やプライドは、別に悪いものではない。自己肯定感やプライドは、実際に人生においては肯定的に作用する場合も多い。人は自分のプライドや矜持を維持するためなら、非常に努力することができるからだ。

しかし、もし人がスピリチュアルな道にいるなら、プライド、あるいはプライドとリンクした自己肯定感はある種の行き詰まりへと導く可能性が大きい。その理由は私が思うには、二つあり、一つはスピリチュアルの根幹に関わる理由だ。それは、スピリチュアルとは、あらゆる生きとしいけるものの本質的平等、百%の民主主義という(観念や理論や理想でではなく)事実に基づいているからである。だから、人の本質に関するあらゆる優越観念や劣等観念、あらゆる種類の上下観念は、スピリチュアルな根本的事実に反している。何かについてのプライドとは最も微妙な形での分離感であり、本質が一つであるという事実に(あえて言えば)違反している。それが、プライドが霊的な意味で行き詰まりを引き起こす第一の理由である。

それから二番目の理由として、プライドとは常に、「自分が過去に達成(経験)した何か、過去の自己イメージに関する何か、今まで築きあげてきた何か」に関わっている。つまり、プライドをいだくというのは、いつも過去に手を伸ばして、その膨大な過去という荷物をいっしょに引っ張って歩くようなものだ。当然、そんな重荷を背負っていたのでは、今、歩いている現実の風景を楽しむこともできなければ、毎瞬毎瞬の現実にうまく対処する能力も減っていく。

プライドに関して、以上に書いたことを知的に理解することは困難ではないだろうが、問題は、最初にも書いたように、プライドとは実に様々な観念(特に、善だと自分が信じている観念)に変形していて、自分でも気づかずに住まわせているというか飼っていることが多いことだ。だから、もし人が知的な知識としてではなく、実際に自分の中に潜んでいる変形されたプライドに本当に気づくときは、非常に驚くことになる――善だと信じていたことが、実は自分のプライドだったのだ、と。

アジャシャンティも、25歳の覚醒体験のあとに自分の中から予期せずに出てきた優越感(プライド)に驚き、それを取り除こうとして、奮闘・苦闘して失敗した話を語っている。アジャシャンティは、そういった優越感(プライド)がわき起こることは、霊的探求者にはよくあることで、しかも、人はそれを自分の意志の力では取り除くことができないと言っている。

優越感(プライド)だけでなく、人間のあらゆる執着、中毒は個人の意志の力では取り除くことができないと、経験から私もまたそう理解している。この理解、つまり、人間のあらゆる執着、中毒は、個人の意志の力では取り除くことができないという理解は、ある意味では朗報でもある。アジャシャンティは、本書の中で、自分の意志のドン詰まりまで来たいくつかの経験を語り、そういった経験を「荒々しい恩寵」と呼んでいる。

アジャシャンティも強調しているように、スピリチュアルな道ではプライドは起こるのが普通で、それに執着するのも人としては普通であろう。そして、おそらく、それを否定したり、変形して何かの善なる観念に仕立てあげることも、よく起こることだ。いずれにせよ、人がスピリチュアルな道を歩き続けるかぎり、「荒々しい恩寵」か「優しい恩寵」がやって来て、人がいだくプライドの本質を教えてくれることになっている(ようである)。

「アジャシャンティ」公式ホームページ
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シマウマの婚活ルール2012年02月15日 10時06分49秒

いつだったかテレビで、シマウマの生態を見たことがある。シマウマは大人のオス一頭とその妻(妻が単数だったか複数だったかは失念)と娘たちで暮らしている。そして、若いオス(息子)たちは群れを離れて、別の群れの若いメス(娘)に求愛し、また新しいカップルが誕生して、という具合に種が存続していく。

面白いのは、その求愛というか婚活で、ある集団の若いメスに若いオスが近づいてくると、その集団のボス、つまり、父親は必ずその若いオスと戦うのである。娘はといえば、その戦いをのんきに眺め、もし若いオスが父親に勝てば、若いオスについていき、もし負ければ父親のところに残る。このルールに例外はない。

こんなことは動物の世界だけかと思えば、案外このルールは、人の中の動物的マインドにも根強く残っているようである。世間でいうところの「結婚適齢期」(ほとんど死語に近い言葉ではあるが)の娘をもつ女性が、「親が娘の結婚に反対するのは、儀式のようなもの。反対されて引き下がるような程度の男と、娘を結婚させたくない」と言う発言を私は聞いたことがある。そのとき私は思わず心の中で、「シマウマか……」とツッコミを入れたものだ。

清水義範さんの小説の中に、一般的な父親が娘にいだく感情がどんなものかをよく表した文章があり、それを紹介してみよう。

「そして、最終的には娘には好きな男ができて、その男に奪い取られてしまうのである。
そのことを空想すると、腸(はらわた)が煮えくりかえる。怒り心頭に発する。怒髪天を衝く。泣くに泣けない気持ちになる。いても立ってもいられない。神も仏もないのか、と思ってしまう。
 娘が好きになるほどの男だから、おそらく紳士的ないい青年だろうとは思うが、ひょっとするとそうじゃなくて、私の娘に何かエッチなことをする奴かもしれない。そんなことをチラリと考えるだけで胸がつぶれる。私のあの娘に、エ、エ、エッチなことをするとは、このバババ、馬鹿者め。下がれ下がれ下がれ、控えおろう、という気分になる」 (「親ごころ」-「似ッ非イ教室」より。講談社文庫)

私の長年の見聞では、娘が結婚するとき、親と娘の間で、何かの騒動が起きなかったほうが珍しかったので、たぶん、大多数の父親が今書いたような感情構造をもっていると言って間違いないことだろう。

今私の人間マシンと同年代の人たちは、子供が結婚する年頃であり、そういった同年代の人たちを見て、多少は私も親ごころというものを解することができるようになってきた――若い頃は、子供の結婚に反対する親、そもそも成人した大人がしたいということに反対する「種族」は、私にとっては理解不能だった。

先ほどの清水さんの作品の中の父親の感情を別なふうに表現すると、子供とは親にとって「貴重な花」なのだ――長年、水をやり、肥料をやり、暑さから寒さから守り、お金と時間をかけて丹精をこめて育てたすえにやっと美しく咲いた花。ようやく花(子供)が美しく咲いて、これからはゆっくりとその花(子供)を楽しもう・鑑賞しようと思っているところへ、どこの「馬の骨」(と昔の親はよくこの言葉を使ったものだ)ともわからん奴が、自分の美しい花(子供)に忍びよって、勝手に断りもなしに、その花を持ち去ろうとしているのだ。親にしてみれば、その馬の骨に向かって、「一体お前は、何の権利があって、私の花を勝手に持ち出そうとしているのか? お前はこの花の成長に一円だって、支払っていないだろうが?」という憤懣やる方ない怒りがわき、自分の花に対しても、「今まで、これだけの愛情をこめてお前を大事に育ててきたのに、あんな馬の骨のほうが私よりいいとは、どういうことだ。お願いだから、もう少しの間、お前の美しさ・かわいさを私に独占させてくれ」という悲しい気持ちに駆られるのである。親にしてみれば、人生の不条理そのものである。しかし、若い頃の子供にそんな親の気持ちが通じるはずがなく、子供は親より外の世界の人間関係に夢中になる。

一般的に親がこういう気持ちに駆られているらしいのは、よく見かける風景だったのだが、こう思ったあとで、自分を振り返ることができるかどうかが、動物的マインドと人間マインドを分けるのである。人間マインドが機能している父親なら、泣く泣くこういう理解にいたるはずだ。「いやいや、自分だって、昔、よそ様の花々を勝手に持ち出して、エ、エ、エッチなことをたくさんして、おかげで父親にもなれたのだ。したし方がない、人生とはこういうものだ」と。

しかし、最初に紹介したシマウマの婚活ルールと親である女性の発言にも、動物的とはいえ、その中に何がしかの実用的知恵というものがある。親という種族は押しなべて保守的である。つまり、子供がしたいということ、特にそれがある種のリスクがあるようなことにはたいてい反対する。しかし、反対しても反対しても、もし子供が親の反対を突破すれば、最後にはあきらめて応援する親も多い。

私が思うに、もし親が反対したせいで、やめてしまえることなら、結婚にしても、その他のことにしても、「その程度の縁」なのである。つまり、たぶん、やめるほうが正解なのである。(今、読んでいる本、「非道徳教養講座」平山夢明著 光文社―の中の「賢い親の裏切り方」という文章の中で、著者は、映画監督になるという夢をどうしてもあきらめることができず、勤めていた会社をやめたとき、親に勘当された話を書いている。親に勘当されてもやりたいもの、それを著者は「魂の納得」と呼んでいる)

ということで、若い世代の皆さんの中で、婚活や夢の実現のために活動している人は、シマウマ親対策も忘れずに!



親子関係は切ないもの2012年02月03日 08時36分22秒

先月、父がついに旅立ってしまった。亡くなる前は病院通い、そして亡くなったあとは葬儀等で、あわただしい一年の始まりであった。

親が死んだら、どんな感情がわくのだろうかと思っていたのだが、今は哀しいというよりも、父が点滴・チューブの苦痛から解放されて、そしてその父の苦痛を見る苦しみも終わって、ほっとしたというのが非常に正直な気持ちだ。

大正生まれの父は、人は家族・親族・国家に尽くすべきという強固な戦前的家父長的人生観をもち、その観念どおり、縁ある人たちに尽くして一生を生きた。それに対して、私(だけでなく、子供たち全員)は、そういった父の観念を嫌って、誰一人何一つ父の言うことに従わず、自分勝手に生きてきたので、父の頭の中にはたぶん、「なんで誰もオレの言うことを聞かないんだ???」があったにちがいない。ちょうどS新聞(父の愛読紙)とA新聞が表面的論調ではしばしば対立するように、父と私(たち)は、若い頃は激しく、お互いに歳をとってからは穏やかに言い争いをし、そして、しだいに言い争うこともなくなり、最晩年はほとんど食べ物の話ばかりするようになった。

しかし、考え方、価値観、生き方、趣味など、あらゆることが違っているにもかかわらず(おいしいものをいっしょに食べるのが好きというのが、家族全員で唯一共通しているところだ)、父と私(たち)はなぜかピッタリな親子なのだ。何がどうピッタリなのかを言葉にして説明することは難しいが、自分の運命の展開にお互いが寄与し合ってきたというか、あるいは、お互いが自分の人生映画の中で欠かせない登場人物となって、喜びと苦しみを与え合ってきたというか……

あらゆる親子関係にはある種の「切なさ」がある。「切ない」という感情は非常に複雑な感情だ。おそらくその切なさの根底にあるのは、ある種の「恋愛感情」であろうと、私は感じている。それは、「決して成就しない恋愛」ともいえるし、あるいは、「はじめから成就している恋愛」ともいえるかもしれない。親子として一体感を感じようとする運動と、その中で埋没しないようにまた分離感へ動こうとする運動が、複雑にからみあって生まれる濃厚で味わい深い感情。単なる愛情でも憎しみでも怒りでも喜びでも悲しみでも好き嫌いでもなく、それらが全部合わさったような「切なさ」に、人はしばしば「中毒」する。だから、この「中毒」が重症となって手に負えなくなるとき、セラピー等の場所でそれに対処する必要が生じたり、また小説家であれば、それをテーマに小説を書いたりする必要性が生じるのであろう。

もちろん実際に一体とか分離があるわけではなく、人生映画が起こるために、人が映画に没頭するために、そうした「一体感」とか「分離感」という幻想が生まれるわけだ。

最後の五ヶ月間、父にずっと心で伝えたことは、「長年父親役をやってみんなを支えてくれて、ありがとうございました。お疲れ様でした。そして親孝行ができなくてごめんなさい」ということだった。たぶん、父(の役割をした存在)も私の感謝と謝罪を受け入れて、平和に源泉へ帰っていったと確信している。




シンプルな数学的解決法2011年12月15日 09時26分31秒

今年は本をあまり読まないというか、読めない年だった。いろいろ忙しかったせいもあるし、読みたい本が見つからなかったせいもあるし、読み始めても、なぜか数ページで読み飽きるということも多かった。

そこで、本を読む代わりに何かをしようと思い、突然、「そうだ、数学をやろう」と思い立った。(前にも書いたことがあるが)、小学中学高校生のとき、私は算数・数学が大好きだった。あのときの情熱が何だったのか、もう一度体験してみたいと思ったのである。

幸い、今は大人向けの数学再学習書がたくさん出ているので、数か月前にその中の一冊を買って、中学1年の数学から始め、現在は高校受験の問題を時々解いている。

数学の問題は、一見複雑に見える。しかし、複雑に見えるものを、シンプルなプロセスや要素に分解して、それをまた組み立てるというところに、数学の楽しさがある。少なくても、私にとってはそれが楽しい。自分が出した答えが間違っているときでも、解説を読めば、どこでどう間違えたのか、理解できる。

子供の頃、私が算数・数学が好きだったのも、たぶんこの単純明快さがその理由で、それに比べて、大嫌いだったのが国語だ。「次の小説を読み、主人公○○の心情はどれか、A BCDの中からもっとも適切なものを選べ?」みたいな問題が、どうしても苦手だった。自分の答えが間違っていたとき、先生の解説を聞いても、解説書を読んでも、どう考えても、なぜ自分が選んだ答えが間違っていたのか、わからないことがほとんどだった(あとで、大学を卒業してかなりたった頃、「国語入試問題必勝法」という小説(清水義範著)を読んで、これを高校時代に読むことができたらよかったのにと思ったものだ)。

大学に入ってからは、数学をぱったりとやめてしまったし、数学についてよく言われるように、確かに、「数学ができないからといって、人生で困ることは何もなかった」。それでも、10代の頃に算数・数学を勉強したおかげで、複雑に見えることをシンプルに考える習慣がついたことはよかったことだと思っている。

スピリチュアルを学び始めた20代後半頃、学んだスピリチャルな知識は実際はあまり役にたたず、むしろ私は数学的に物事を考えることが多かった。

「数学的に考える」というと難しく聞こえるが、実際は非常にシンプルだ。解決すべき問題や状況が起こったとき、その問題や状況に関わる要素と可能な選択肢を書き出してから、自分にできる行動を考えることである。そうすると、ほとんどの場合、ある特定の問題や状況に対して、自分が具体的にできることは非常に限られていることがわかる。せいぜい2つか3つの選択肢しかないことがほとんどで、選択が少なければ少ないほど人は迷わずにすむ。

それから、それらの選択肢の中から、選ぶ基準、つまり、何を優先するのかの基準を列挙する――自分の喜び(自分の好み)、義務、自分の(金銭的)利益、(関係者)全体の利益など。そうやって考えていくと、たいてい(時には答えが決定されるまで長い時間がかかるかもしれないが)、その状況での正しい「答え」にたどり着くというわけである。選択肢と優先規準を書き出す方法は、住宅選びとか職場選びなどにも簡単に応用できることである

それから、20代の頃よくリストアップしたことは、「自分が欲しいもの」とそれに対する熱意の度合いと努力する能力についてだ。たとえば、何かが欲しいとして、「自分はそれを100%欲しいのだろうか?」「それを手に入れるために努力する能力が自分にあるのだろうか?」と問いかけてみる。

こう問いかけると、ほとんどのもの(こと)を、自分は100%の情熱で欲しいわけではなく、それを欲しがっている理由は、「なんとなく」とか、「それが価値があるとみんなが言っているから」といった、どうでもいいような理由であり、またほとんどのことに対して、努力する能力が自分にはないこともわかった。

努力する能力がないことを理解すれば、100のうち90のことを簡単に「あきらめる」ことができ、本当に欲しいもの10のために頑張ることができる。20代の頃に私が身につけた一つの能力が、「あきらめる」という能力だった。簡単に「あきらめる」。後悔せずに「あきらめる」。そして、万一何かに対して100%の情熱があれば、そのために努力する能力はすでに自分に内在していることにも気づいた。つまり、100%の情熱=努力する能力、なのである。

「シンプルに考える」というのは、別の言い方をすれば、悩む時間、心配する時間をなるべく減らすということでもある。このことはまったくスピリチュアル以前のことで、どちらかといえば、ビジネス関係の本に書いてあることが多い。

*悩まずに、具体的に考える・行動する。
*心配せずに、(必要な)気遣いをする。

悩むことと考えることの違い、心配することと気遣うことの違いが明確にならないかぎり、その混同の上にどれほどスピリチュアルな知識・観念を積み上げても、かえって混乱がひどくなるばかりである。だから、相互矛盾するような様々なスピリチュアルな知識・観念で混乱してしまったときには(そういう人たちはけっこうたくさんいるように感じるし、スピリチュアルを学んでいるたいていの人たちが、ある程度は経験することでもあろう)、学んできたスピリチュアルな知識を一度全部わきにおいて、シンプルに数学的に考えてみることを私はいつも勧めている。

もちろん人生そのものは、いつだって数学や論理を超えているし、予期せぬこと、一度も考えてみたことがないこと、どう論理的に考えても奇妙な不思議なことが起こるのも、人生である。論理と不思議という組み合わせ、私はそれをとても愛している。

[お礼]
一年間、ブログをお読みいただいた皆様、コメントをお寄せいただきました皆様、そして、お会いした皆様、ご縁に感謝いたします。またマホロバアートの読者の皆様には、長い間のご支援とご愛顧に心からお礼を申し上げます。そして、時代は、いよいよ(何が「いよいよ」なんだか、私にもよくわからないですが)2012へ◰◰◰

それでは、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は1月下旬から再開する予定です。




ギリシャの危機・日本の危機2011年11月22日 20時25分17秒

1990 年代の後半のある年の夏、一度ギリシャに行ったことがある。ギリシャがまだユーロに加入する前のことだ。美しいエーゲ海の夕日と安価でおいしい食べ物とワイン、そして、陽気でのんびりとした人々の印象を今でも鮮明に覚えている。

最近、マスコミでやたらギリシャ危機が報道されるのを見て、(私の印象では)のんびりとしていたあのギリシャに何が起こったのか?と不思議に思い、何人かの経済専門家の書いた記事、本を読んで、「ギリシャ悲劇」を大まかに理解した。

悲劇の発端は、ギリシャがユーロに加入したところから始まる。たとえていうと、こんな感じの話になる。

生活レベルが中の下くらいのギリシャという家庭があった。生活は厳しかったが、貧しいながらものんびりと暮らしていた。あるとき、(娘か息子の結婚によって)そのギリシャ家に突然金持ちの親戚(ドイツやフランスなど国)ができた。そこでギリシャ家は思ったのである。「今日から私たちは金持ちの仲間だから、それなりの恥ずかしくない生活をしなければ」と。とはいえ、ギリシャ家はそれほど稼いでいるわけではないので、よりよい暮らしに必要なお金を金持ちの親戚に借金することにした。

その親戚(ユーロの金持ち各国)は、金持ちであるだけでなく、気前もいいので(しかし、本当はずる賢い)、ギリシャ家に向かって、「もちろん、これからは親戚なので、あなたにどんどんお金を貸してあげますから、好きなだけ借りてください。あなたは私たちの仲間になったのだから、ぜひもっといい暮らしをしてください」と親切に応じてくれた。

今まで、貧乏で信用がなかったので、お金を借りることに苦労していたギリシャ家は、裕福で親切な親戚が今までより安い金利でお金を貸してくれるという話に舞い上がって、イケイケドンドンでお金を借りまくって(つまり、ギリシャ国債を海外に売りまくって)、見かけ上の生活レベルの向上を推進した。時代は、アテネ・オリンピック前後の話で、オリンピック・バブルとも重なって、どれだけお金を借りても、「景気がいいんだから、借りた金はいつだって返せるさ」みたいな楽観論が国を支配し、ギリシャ家の人々は他人からの借金で、浮かれた生活を送っていた――暖かい国の人たちは、何事においてもたいてい、「なんとかなるさ」とよくも悪くも楽観的だ。

もちろんギリシャにかぎらずバブル景気というのは、永遠には続かない。景気はしだいに下降を始め、リーマン・ショックがやって来て、観光産業もその他の産業もどん底へ。気前のよかった親戚もさすがに、ギリシャ家の放漫経済運営と借金の踏み倒しを心配し始めて、今度はもっと質素な生活をするように苦言を呈するようになり、それに反発してギリシャ家の人たちが怒っているというわけだ。

同じような問題が、イタリア、スペインなどのヨーロッパの中流国にも波及して、それが今、世界が騒いでいるヨーロッパ経済危機の問題である。

現在のヨーロッパの経済危機、そしてアメリカのサブプライム・ローンの問題で浮き彫りになったのは、お金を貸す側の狡猾さと借りる側の無知と見通しの甘さだ。先日、90年代からリーマン・ショックまでの、世界の金融業界の裏側と彼らの驚くべき錬金術を描いた「インサイドジョブ――世界不況の知られざる真実」というドキュメンタリーDVDを見ていた。その中の一人の登場人物曰く、「何もないところから、大金を生み出す誘惑に誰も勝てない」のだそうだ。

そんな錬金術師たちの魔の手が、私のところへも伸びてきている(笑)。ここ数年、買い物しているお店でよくこう声をかけられる。「クレジット・カード、お作りになりませんか?」クレジット・カードの誘いとは、「借金をもっとせよ」という誘いだ。どんだけ、世界にはカネが余っているんだか……

さて、ヨーロッパ危機と言いながら、実は、ヨーロッパ各国の債務は、GDP比で日本よりはるかに少ない。騒がれているギリシャでも借金はGDPの1・2倍(120%)くらいである。日本はといえば、国家の借金がGDPの2倍近くで、先進国最大である。それなのに、なぜ日本危機はまだ騒がれないかといえば、日本の場合は、国にお金を貸しているのは、外国ではなく、ほとんど日本国民だからである。

しかし、その日本国民も急速に老いつつあり、国家を財政的に支えるよりも、国家に支えてもらわなければならない人たちが急増している。自分の親が介護を必要とするようになったからかもしれないが、「老い」が、日本の目下の最大の問題・危機であることを実感する日々である。両親のまわりではどこでも、「老人の介護と病気」、そしてそれを支えている人たちの精神的肉体的負担と疲労が話題だ。

しかも、危機といっても、国家全体の老いも、個人の老いも誰も止められない。せいぜい自分にできることといえば、老親をユーモアと平和をもって見守り、親を介護するだけの体力を養い、自分がネタキリになる確率をできるだけ減らそうと思うくらいだ。ということで、運動嫌いだった私も、最近は運動を前よりも積極的にやるようになり、現在のお気に入りの運動は、音楽を聴きながらやる「踏み台昇降運動」で、自宅には踏み台がないので、売れ残った自著が入ったダンボールで代用している――お金がかからず、自宅で簡単にでき、脚力向上にも効果があるので、皆様にもお勧めします。

[お知らせ]

ただそれだけ――セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え」カリヤニ・ローリー著 発売中 
ナチュラルスピリット発行 定価1800円+税

目次はシンプル堂のサイトに掲載してあります
http://www.simple-dou.com/CCP034.html

セイラー・ボブ・アダムソンの公式サイト
http://www.sailorbobadamson.com/

ナチュラルスピリットのサイト
http://www.naturalspirit.co.jp/

スピリチュアル・ブック専門店
ブッククラブ回
http://www.bookclubkai.jp/









「ただそれだけ」2011年11月02日 11時34分19秒

ようやく11月20日すぎに、 「ただそれだけ――セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え」(カリヤニ・ローリー著 ナチュラルスピリット発行 本体価格1800円 ISBN978-4-86451-022-6 C0010)が発売されるということなので、本書について簡単に紹介したい。

本書は、オーストラリアの賢者、セイラー・ボブ・アダムソン(1928年生まれ)に関する初めての邦訳本であり、前半が彼の生涯の伝記、後半が教えと、二部構成になっている。書いたのは、ボブ本人ではなく、娘のような存在であるらしい長年の友人が、ボブについて丹念に情報を集めて編集した本であり、ボブに対する彼女の愛情があふれている――なぜ、名前の前にセイラー(水兵)というあだ名がつくのかというと、彼は長い間、船に乗る仕事をしていたので、AAの会(いわゆる「アルコール中毒無名者の会」)の時代からずっと、セイラー・ボブと呼ばれていたからだ。

今でこそ国際的にも著名な賢者ではあるが、彼の青年時代は、酒と暴力に明け暮れ、絶望的な日々を送っていたことが記されている。それから、アルコール中毒からの更正をめざして、AAの会に入り、そのあと関心をスピリチュアルに移し、様々な教え、先生の元で一心に修行に励む日々を送る。その間、生涯のパートナーとなる妻との出会いと一時的な別れ(アダムソン夫妻は時々別居している)があり、そして、最後の師であるニサルガダッタ・マハラジとインドで出会い、「自分の本質について」の理解を得る。しかしその後、オーストラリアに戻ってからも、人生の苦難は続くが、それらを平静に乗り越え、ようやく50代後半から仕事も安定し、それと同時に、自分の理解を分かち合う活動を始める。といったところが、大まかな生涯だ。

若い時代の彼は膨大なエネルギーをもてあまし(誰でも若い頃はそういう傾向があるものだが)、そのエネルギーをどう表現したらいいのか、極度の混乱と苦痛状態にあった。私自身にも若い頃、自分の中で飛び跳ねるエネルギーを、どう方向づけていいのかわからず、極度の躁鬱状態だった時期がある。私の場合は数年だったが、ボブの場合は十年以上その状態が続いた。極度の苦しみがあるとき、人はその苦しみをなんとかしたくて、スピリチュアルな道に入ることが多く、そういう意味では、極度の苦痛が人生の転換点となる場合もある。とはいえ、AAの会でボブの友人たちの何人かは自殺し(ボブ自身も自殺を真剣に考えたことがあった)、自殺への道とスピリチュアルへの道と何がそれを分けるのかは、不可思議なことである。

後半は、ボブへのインタヴュー、集会での訪問者たちとの対話から抜粋されていて、彼はタイトルどおり、まさに「私たちの本質は意識そのものであり、分離は幻想である」という、ただそれだけ(Only That)を語り続けている。彼の教えは、ニサルガダッタ・マハラジの教え、インド・アドヴァイタ(非二元論)の教えの系統を引いているといえるだろうが、ボブ本人は、自分はどんな伝統にも属していないと言い、禅、アドヴァイタ、その他自分が学んだ様々な教えの言葉を自由に引用しながら語る――日本の江戸時代の禅師、「不生の知恵」(生まれないものの知恵)を説いた盤珪はお気に入りのようである。現在でもボブは、週に3回メルボルンの自宅での集会を続けているという。

本書には、ボブがニサルガダッタ・マハラジの教えやその人柄・思い出について語った部分もあり、「アイ・アム・ザット私は在る」(ナチュラルスピリット)の本からは、おそらく知ることができないであろうニサルガッタ・マハラジの人間的部分もかい間見ることができる。インド・アドヴァイタの教えを学んでいる方々、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカールの本の読者の方々には、たぶん楽しく読め、かつアドヴァイタの教えのシンプルな基本を確認できる本(本文は、230ページ弱の薄い本)である。

関連サイト

セイラー・ボブ・アダムソンの公式サイト
http://www.sailorbobadamson.com/

ナチュラルスピリットのサイト
http://www.naturalspirit.co.jp/

(発売後、下記サイトに本の目次を掲載します)
シンプル堂サイト
http://www.simple-dou.com/