久しぶりに風邪 ― 2023年12月02日 09時15分55秒
[イベント】
◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」
2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
[お知らせ]
*『バーソロミュー1994年東京ワークショップ』がアマゾン・キンドル版として発売されました。
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(13)まで公開中。
ここ10日ほど、風邪をひいて、今もまだ完全には抜けていないが、なんとか普通にパソコン作業ができるくらいには回復した。幸い、熱はすぐにひいたものの、咳と痰が収まらない。こんなに長引く風邪をひいたのは、どれくらいぶりか、思い出せないほどだ。
普段は、「あ、喉がちょっと痛い」と感じたとき、私の場合は、ビタミンCや甘酒を取って、暖かくして一晩眠るとたいていは喉の痛みもひく。けれど、今回は、ビタミンCや甘酒も瞑想もQEも効かず、市販の薬も効いたかどうかわからず、体を起こしているのが辛くて、だらだらと寝込んでいた。
特に今回の風邪は、夜寝る前頃に、咳と痰がひどくなり、横になるとさらに咳と痰が止まらず、咳と痰のせいで、睡眠もなかなか自然にやって来ない。私の場合、体調が非常に悪いときは、超ネガティブな思考がよく湧き起こる。
たとえば、
「これくらいの風邪で寝込むなんて、我ながら、軟弱ぶりが情けない。世間の人はこの程度の風邪は、我慢して仕事しているにちがいない」とか。
「このままスーと死ぬと楽かも」とか。
思考はどんどんネガティブにみじめになり、人生で辛かったこと、罪深いことだけがフラッシュバックされ、本当に自分が最悪最低の人間だと思え、涙まで出て来る。
そこへさらに、スーパーいじめっ子エゴみたいなものが出現して、ネチネチとスーパー弱者エゴをいじめにかかったり、マインドの中はその他普段出現しないような人格が色々出現して、言葉のバトルを繰り広げる。
人間は多重人格が普通だと思っているので、色々な人格が出て来ることには驚かないが、ただ体の具合が非常に悪いときに、(私の場合)ネガティブなマインドが元気になって、あれこれの物語を語り出すのが不思議である。自分のマインドの中で、こういう会話(物語)を聞いていると、言葉で自分をいじめることには、ある種の中毒性があり、いくらでもひどい言葉を思いつく(苦笑)。一方で、いじめられて最悪最低の自分を感じることにも、快感というものがあることがわかる。最低最悪の自分を感じると、開き直って、「最低最悪で、文句あるか!」みたいに、突然、弱者エゴが強気に言い返したりして、なんか二人のお笑い芸人のコントのようだと、自分でも可笑しくなる。今は、スーパーいじめっ子エゴもスーパー弱者エゴも消散し、普通の人格に戻ってよかった。
風邪といえば、昔、愛読していた野口整体の『風邪の効用』(野口晴哉著 全生社発行)の中に書かれていたことを思い出した。
それは、たしか、風邪は治療するものではなく、「経過」するものであり、上手に経過すれば、健康によい効果がある。また「癌や脳溢血のような病気になる人は、それを発症する前の長年、風邪をひかない傾向がある」(本当にそうかどうか、正しいかどうかは、私にはわからないが)というような話だったと思う。今回、長引く風邪をひいて、肉体が癌や脳梗塞になる確率が少しは下がったのかも(!?)……
寒さが厳しい季節になり、皆様も心身温かくしてお過ごしください。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
最後の1冊とは? ― 2023年11月18日 10時31分53秒
[イベント】
◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」
2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
[お知らせ]
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(12)まで公開中。
今、『書楼弔堂-破曉』(京極夏彦著 集英社)という本を読んでいる。
時代背景は、明治30年代頃の話で、文明開化した東京の街にひっそりとある「書楼弔堂」という書店に縁あって来る人々と本の話である。読んでいると、明治という時代の文学的文化的雰囲気が立ち上ってくるような本である。
そして、元仏教修行僧の弔堂店主が、様々な客と、本について、文学について、人生について、文明について、あるいは仏教の悟りについてかわす会話が興味深い。特に本についての店主の考え方は、なるほどとうなるものがある。
「本は墓のようなもの」
「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます」
「本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」
「どれだけ無価値な内容が書き連ねられていたとしても、百人千人が無用と断じたとて、ただ一人の中に価値ある何かが生まれたならば、その本は無価値ではございますまい」(「臨終」より)
本とは、他人が過去に書いたもので、それはすでに死んでいて、だから、「墓」なのだ。しかし、誰かがその死んでいるものを読むとき、読むという行為によって、本は復活し、その読者独特の何かが生まれる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。
私も、『書楼弔堂-破曉』を読んだおかげで、私の中に新たに何かが湧き上がり、だから、今このような文章を書いているというわけである。
それから、無価値な本は1冊もないというのも、うなづける。確かに、個々の人にとって価値がある本とない本があるのは事実である。しかし、本は、一人でも本当に読む人がいれば、それで価値があると、私は常日頃そう思ってきた。本の価値を創造するのは、読者のほうなのである。
さて、本書の中で、本読みにとって、「最後の1冊」、つまり、「この1冊さえあれば、他の本はいらないという本とは、何か?」ということがたびたび、話題になっている。店主は、「本当は、本は1冊あればよいのです」とも言う。そして、人は最後の本に巡り会うために、本探しをする、とも。そこで私も、「自分にとっての最後の1冊とは?」と考えてみたが、答えがでない。
そして、思った。たぶん、本当に人を満足させる最後の1冊とは、物質的本ではなく、「私」という本なのだと思う。「私」という存在は物語&情報製造マシンである。毎瞬毎瞬、無の中から、物語&情報を創造(捏造?)する。そして、私たちはその物語&情報をお互いに語り合う。たぶん、私たちは、自分が語る物語&情報も、人が語る物語&情報も本当には理解しないが、それでも、お互いが語る物語&情報を聞くことで、ちょうと本を読んだときのように、また何かが自分の中に湧き起こる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。
たとえ本を読まなくても(読めなくなっても)、人は「私」という本を読み続ける。ただ、人によって、「私」を深く読む人と表面的にしか読まない人がいるだけの違いだろう。だから、「私」さえ在れば、最後の本を探さなくてもいいし、そもそも、本さえ読まなくてもいいのだ。とはいえ……まだ、(私にとっては)本を読むことは楽しい。今年は、ものすごく久しぶりに京極夏彦さんの小説にはまって、楽しい時間を過ごしている。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
ゴキブリが教えてくれたこと ― 2023年10月31日 07時48分44秒
[お知らせ]
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(10)まで公開中。
今、『Master Key to Self-Realization』 という、ニサルガダッタ・マハラジの師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの講話をまとめた本(出版時期未定。たぶん、来年)を翻訳している最中である。本書については、来年詳しく紹介する予定だが、先日翻訳していた箇所はかなり心にひっかかった。
それは、本の最終章の中で求道者の献身について書かれている箇所で、要約すれば、「求道者は、あらゆる生き物の幸福に献身すべきであり、すべての生き物との一体化を感じる境地になるまで、献身しなさい」という主旨の内容だ。人間に関しては、すべての人を同じ本質をもつものとして礼拝する。それから、蠍や蛇などの危険動物も、殺してはならず、ただ遠くからそっと眺めるだけで、放っておきなさい。それから、ロバなどの動物は適切な世話を与え、大切にする。ここまでは賢明な話で、まあ理解できる(実践できる)話に思える。
さて、(私にとっての)問題はその先だ。さらに、「母が子供にお乳をあげるときに喜びを感じるように、人は自分の体から虫が血を吸っているときに満足感を感じるようになるべき」という主旨の話が書かれてある。これは私には非常にハードルが高い、ほとんど無理ゲ―(笑)である。正直に言うと、私は虫と名の付くものが全部苦手である。もちろん憎んではいないけど、できれば、目にしたくないもの。
他の生き物たちに対するシッダラメシュヴァール・マハラジの話の肝は、「もし人が生き物に敵意や嫌悪を持たなければ、彼らは人間を攻撃することはない」、つまり、もし人がそういう意識状態であれば、蠍や蛇は人に嚙みつかず、虫は人を刺さず、ゴキブリは人を困らせないという結論のようであるが、私には経験的にまだそれを実証できない(人間に関しては、たぶんそうだとは感じているが)。
同じインドのアドヴァイタの先生でも、ラメッシ・バルセカールは一応、シッダラメシュヴァール・マハラジ→ニサルガダッタ・マハラジの系譜に入るにもかかわらず、彼は(私が記憶するかぎり)自分の教えの中で、他の生き物との一体感とか、そういうことを強調したことはなかったと思う。また、何かに対する人の好き嫌いは、その人の(自分の意志ではコントロールできない)プログラミングにもとづき、それそのものが神の意志であり、人はそれを受け入れるしかないとも、彼は教える。私はむしろこういったラメッシの考え方に共感する。
「生き物の幸福とは何か」を突き詰めて考えるとわけがわからなくなるし、果たして相手が望むこと(喜ぶ)ことをしてあげること(することをゆるすこと)が、必ずしも相手のために、そして全体のためにならないときもあるのではないかという疑問も起こる――母の介護で、日々そのジレンマに直面している。私は自分に実践できる範囲で、自分の目の前にいる生き物(人間も含む)を傷つけないようにと心がけるが、それだって、いつも成功するとはかぎらないので、自分の「有罪」を受け入れている。
虫に関して、数年前のある日、私は奇妙な体験をした。それは、私がロバート・アダムスの『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本の作業をやっていた頃のことで、「ゴキブリ、南京虫など、命に優劣をつけてはいけない」という主旨の話を彼が語っている箇所で、そのとき、「ロバート・アダムスは自宅にゴキブリを見つけたら、どうするんだろうか?」という疑問がふとわいたのだ。
すると、なんと、まるでその答えのように、夕食を食べ終わって、ふと目の前の壁を見たら、大きなゴキブリが一匹、壁に貼り付いているではないか! 自宅でゴキブリを見たのは、もう20年以上ぶりで、私は本当にびっくりして、しばらくゴキブリを眺めていた。大昔であれば、さっさと殺虫剤で殺すか、掃除機で吸い取るかしただろうが、もうそうする気も起きない。どうしたらいいかまったくわからないので、一晩そのままにして、朝になってまだそこにいたら、そのとき改めて考えることにした。
ゴキブリが突然、出現した理由を眠る前、あれこれ考え、「家の中をもっと清潔にせよ!」というメッセージかもしれないと思い、翌日は、家中の大掃除をすることにした。翌朝、そのゴキブリはどこかへ消えてしまい、私は家中を大掃除したが、ゴキブリは見つからなかった。それでも私は、ゴキブリが増殖する恐怖に負けて、ずる賢くも「ゴキブリ〇〇」をいくつか仕掛けておいた。2週間経過して、その中を見たが、一匹も入っていなかった。たぶん、あのゴキブリは私に、「虫に敵意をいだくな!平等な存在として見よ!」と教えるために、まるで無の中から(!?)出現したかのようだった。
あれから数年、幸いというか、あの日以来ゴキブリを見ていない。そしてあの日以来、私は虫に対して前よりかなりやさしい(笑)。今生の終わりまでには、自分の体に止まった蚊に、やさしく血を吸わせてあげるくらいの境地にはなれるかも……
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
マインドにも夏季休暇 ― 2023年09月06日 14時51分56秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(18)まで公開中。
◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」
2023年9月24日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年9月28日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで ←予約受付終了しました。
◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」
2023年10月1日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
ジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)をご購入・ご購読してくださった皆様、ありがとうございます。
夏は涼しいよりはどちらかと言えば、暑いほうが夏らしく好きだが、それにしても暑い暑い夏だった(毎日最高気温が35度を超えた――小中学の頃の記憶では、昔は暑いというのは、30度を超えることだったが、今では、30度は涼しい感じである)。だから、いつもよりも外出を控え、散歩も控え、昼間はエアコンの効いた部屋で読書と昼寝を楽しみ、その合間に瞑想と仕事を少しするといった、ゆるい日々を過ごしている。元々引きこもり派なので、それが特に苦というわけでもない。
ブログを更新しようと思いつつ、8月はなんのせいか、どうも自分の文章を書く(=自分の中から出て来る言葉をまとめる)気力をなかなか集められなかった(言葉が上がってきても、散らばってまとまらない感じ)。それでマインドにも夏季休暇を与えるべく、目を閉じてやる瞑想をいつもよりも長い時間やっている。瞑想をすると、この世俗世界がどんどん遠くに行き、言葉の世界が遠くなり、この世界のすべてのことがどうでもよくなる(笑)。でもたいてい、20~30分くらい経過すると、昼寝モードになったり、反対に世俗的な雑念が浮かび始めたり、ときには、「今日の夕食のことだけど……」と家族がいきなり部屋の外で声をかけてくるので、すぐに瞑想から出て、「ああ、今日の夕食ね……」と、マインドにスイッチが入り、世俗モードになる――誰でもなく、何の属性もストレスもない場所からまた戻って来て、誰かになり、日々この世の苦しみと楽しみを味わうわけである。
皆様にも、私は瞑想をお勧めしているが、瞑想の目的とは、まず第一に、マインドを静める、そして第二に、「私の本質」に目覚める、つまり、その二つの目的を合わせれば、「マインドを静めて、自分の本質に目覚める」ということになる。
そして瞑想法は、たぶん、色々な流派によって様々あると思うが、自分に合うもの、そして、どこでも(電車の中でも、会社でも、仕事の合間でも)、毎日実践できるシンプルなものをお勧めする。(目を閉じて座ってやる瞑想が苦手な方は、歩いたり、体を動かしたりしながらおこなう瞑想を探すとよいと思う)
瞑想を熱心に始めたときに、よく起こりがちなことが、かえって、自分のマインドの雑念に気づいたり、外の世界を耐え難いほどうるさく感じたりということがあり、自分の瞑想が間違っているのかと感じることがある。これはむしろ自分の静けさが深まったというふうに理解すべきで、瞑想に関しては、「進歩」(本当は何の進歩もないけど)と考えてもいいと、私はそう理解している。あるいは世の中の苦しみ、他人がかかえる悲しみ・苦しみにより敏感になるということも起こるかもしれないが、それも自分の中の「慈悲」が深くなっているというふうに理解していいと思う。
そして、瞑想とは、一時的に、世界から、そして人間であることから、引退することでもある。いつも誰かであること、何かであることは疲れることである(と思いませんか?)たとえ、ほんの5分でも、誰かでない場所、誰でもない場所、一切の属性がない場所で憩うことは、ストレスの多い世俗社会で生きるのにも役立つはずである。
本日、ようやく言葉がまとまりました(!)
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
神がいない風景 ― 2023年08月07日 10時28分55秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。
8月中旬発売予定となりました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(16)まで公開中。
ジョエル・ゴールドスミスの本が、ようやく今月中旬に発売されることとなった。「赦し」とか「カルマ」とか、イエス・キリストの山上の垂訓とか、テーマが「熱すぎる」(笑)と感じる方は、購入して、少し涼しくなってから、読んでもらえればうれしく思います。
今回、最後に、本書『静寂の雷鳴』の中で、私が非常に印象を受けた彼の言葉を紹介しよう。それは:
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」
その前後の部分を引用すれば:
「神のパワーはそれができるすべてをすでにやっていて、それは意識のエデン的状態の中で活動していますが、二つのパワーの世界の中では活動することができません。ですから、私たちや私たちの隣人たちがどれほど善人で道徳的で善意の人であっても、私たちも彼らも罪、死、事故、戦争を免れないのです。何度も何度も次の質問が尋ねられてきました。「もし神がいるなら、どうしてこんなことが可能なのか?」と。その答えは驚くべきものです――「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」。創世記の第2章に神はいません。原因と結果の法則――カルマの法則――である主神だけがいるのです。私たちが原因と結果の法則を超えるとき、もはや法則の下ではなく、恩寵の下、言い換えるなら、創世記の第1章の中で生きていて、そこには人間的悪も人間的善も存在しません。罪もなく、純潔もなく、ただ神だけが存在します」( 8 章 「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」)
ジョエル・ゴールドスミスが上記の引用で言っている「人間的風景」とは、「二つのパワー、善悪のパワーが戦っている風景」、さらにもっと具体的に言えば、私たちがマインドの中で、「私は正しく、お前は間違っている」という「私」対「あなた」の戦争をしているとき、そして、世界の一部を激しく否定している(憎んでいる)ときのことである。そういうマインド風景のときには、「そこには神はいない」。
さて、神は普遍的存在であり、どこでもいつでも誰の背後にもいるはずなのに、これはどういうことだろうか?
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」――この言葉をもっと正確に言えば、「神は存在するが、人間的風景な中では神(の恩寵)は働くことはできない」ということであろう。
つまり、神(の恩寵)は、私たちの「個人的意志=物事はこうあるべき」というような意志や「利己的欲得」があるところでは、働かないということでもある。だからこそ、ジョエル・ゴールドスミスは、たとえば、「どうか神様、私に〇〇を送ってください」というような、あるいは、「どうか神様、私たちに勝利をもたらしてください」というような嘆願的祈りは、神に届かないと言っているのである。
神様にお出ましいただくためには、私たちのほうで人間的風景から抜け出し(=物事の善悪判断を手放す)、神がいるところへ行かねばならないということであり、ここで役立つ概念は、「明け渡し」である。私的に言えば、「神様、この状況は仕方ありませんね」と常にあきらめる(笑)。長い人生の経験から言えば、(悪いと思われる)状況に抵抗しなければ、なんとかそれを切り抜ける知恵とパワー(神の恩寵)が出て来る感じ……である(神がどこにいるか確信できない方は、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット発行)の第14章「神を信じること」で、ダグラス・ハーディングが間違えようもなく、その場所を正確に説明しているので、参照いただければと思う)。
「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
誰(何)にとっての、悪(人)なのか…… ― 2023年07月26日 06時02分26秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。
8月中旬発売予定となりました。
本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。
もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。
悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。
もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。
ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。
共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。
さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。
スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。
悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。
であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか?
その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。
非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。
今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。
「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)
彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私の罪を赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。
「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。
関連ブログ
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
私がいない! ― 2023年07月02日 09時04分07秒
皆様、暑中・大雨、お見舞い申し上げます。
[イベント]
*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」(正式タイトル未定)が、
8月下旬出版予定となりました。今後、タイトル、価格が決まりましたら、順次お知らせします。
8月下旬出版予定となりました。今後、タイトル、価格が決まりましたら、順次お知らせします。
*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(11)まで公開中。
先日の晩のことだ。夜の11時頃に、隣の部屋から母の叫び声が聞こえてきた。私が母の部屋へ行くと、母がベッドに腰かけて、何か叫んでいる。
よく聞くと、「私がいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ。どこへ行けばいいのか、わからないから、困っている。もしかしたら、私は死んだのかもしれない」みたいな言葉を繰り返している。
母が夜に目を覚ましたときに、叫ぶことはよくあることで、いつもはたいてい、「お腹すいた」、「夕食食べてない」、「(オ)シッコに行きたい」、「誰もそばにいない」、「〇〇さん(母の昔の友人の名前)に会いに行く」というような、ごく日常的な平凡な言葉だ。それが先日の晩は、「私はいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ」と、いきなり形而上学的スピリチュアル的悩み(笑)になっている。
母はスピリチュアルとか宗教とか、人間の心理にさえまったく関心がなく、非常に外向きな人だったで、今まで母から「私」に関する悩みや言葉など聞いたことがない。私は生涯初めて母から聞いたその形而上学的言葉にびっくりし、「ほら、お母さんの『私』はそこにいるよ」と言いながら、母にわかるように、母の体を強く触りながら言った。それでも母は、「違う、違う。私がいない。私は死んだのかもしれないけど、向こうにいるかもしれないから、探しに行く」と言い張り、立ち上がって、部屋から出ようとする。
なんとか説得して、ベッドに戻しても、まだ「私がいない。不思議だ。探しにいかなくちゃ」を繰り返し、そうこうしているうちに疲れて寝入ってしまった。
介護は大変なことも多いけど、時々可笑しいことが起こる。母をここ数年間見てきて思うことは、人間の精神は非常に複雑で、その中にたくさんの人格があるということである。私が「母」として知っていた人は、そのほんの一部であったことがわかる。今は、母という人格は完全に、それこそ「死んで」しまっている。
今後また母が「私がいない!」と言うのかどうかはわからないけど、最晩年、母からスピリチュアルな人格が出てきて(笑)、「私」をめぐって会話ができたら、楽しいかもしれない。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
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