生への未練2024年02月02日 07時35分01秒

[イベント】

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年2月18日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2024年2月29日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで



◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


[お知らせ]

遅くなりましたが、今年のブログを開始します。お時間があるときに、気楽にお付き合いください。


元旦の午後、母の家で家族全員でくつろいでいたとき、全員のスマホからいっせいに大音響の地震アラートが鳴り響き、その1、2秒後、ものすごい大揺れが家を襲った。すぐに家中の暖房を消したあと、そのあとどうすればいいか、パニックで行動が思い浮かばす、全員で固まっていたら、ほどなく揺れが止まり、テレビをつけると、テレビからは、「津波です。すぐ逃げてください」とアナウンサーの絶叫の声が聞こえてきた。震源地から遠く離れていて、海からも離れているので、津波の心配はなく、家も比較的新しいので、倒壊はないだろうと思ってはいたものの、それでも震度6弱の強烈な揺れは一瞬、家の倒壊の恐怖を呼び起こした。

「大地震が来る」と専門家はいつも警告し、日本ではどこでも地震は起こる可能性はあるので、地震が起こっても驚くことではないはずなのに、それでも個々の人間にとっては、地震はいつも突然来るものだ。大地震のときに湧く一瞬の恐怖心は、(私の場合)人生で経験する最大の恐怖心の一つで、ハートに突き刺さるようなイヤな感じである。地震の揺れが収まっても、そのイヤな感じがしばらく続くのもイヤなことである。そして、自分のところは被害がなくてホットしたあと、被災地の惨状を見ると、さらに胸が痛む。

その元旦の夜にそのイヤな感じについて考えてみた――考えても仕方のないことだけど、愚考が湧くのを止めることもできず、しばらくマインドのおしゃべりに付き合っていた。

たぶんそれは、諸々の恐怖心なのだろう。肉体が傷つくことへの恐怖、生が突然に終わることへの恐怖など、肉体の生への未練なのだろうと思い至った。自分の本質は不死であることは確信しているし、肉体年齢が70歳を超え、生きることに特別に強い未練があるわけでもないと思いながら、しかし実際は、まだ頑張って生きている(笑)母を残して死ぬわけにもいかないとか、やりかけの仕事があるとか、色々なことが片付いていないとか、人間としては未練が残っているような感じである。では、時計の針を進めて、今から10年後に突然に肉体の死を迎えそうになるときだって、もしそのとき、体が元気なら、何かをやっているはずで、やはり未練が残るにちがいない。

生への未練について考えていたら、日本の偉大な禅僧、一休(室町時代の禅師)が臨終のときに言ったとされる言葉、「死にたくない」を思い出した。それから、ダグラス・ハーディングの晩年のワークショップ(彼が車椅子生活になってからのワークショップ)のあとで、みんなでお茶を飲んでいるとき、ダグラスがぼそっと、「死ぬのはイヤなことだ」みたいなことを言って、その場にいた人たちが「ええ?!」と驚いたことがあった。彼ほどの人が口にする言葉とも思えなかったからだ。その中の誰かが彼の言葉の真意を尋ねたが、彼がどう答えたかは残念ながら記憶にない。

こんなふうに、地震のあと、ひとしきり生への未練について考えをめぐらし、最後に、ラメッシ・バルセカールの言葉、「人はどんなふうにいつ死ぬか、初めから決まっている」、つまり、「人の寿命や死に方は人知でコントロールできない」ということを改めて思い出して、なぜかほっとした。

そう、寿命は決まっているのだ。未練があろうがなかろうが、死に際にどんな思考が湧こうが、人の死によって、まわりがどれほど悲しもうが、(残務の後始末をさせられて)迷惑しようが、地震だろうが、何だろうが、病気になろうが、寿命なら死ぬ。そうでなければ、生きる。

私にとっての地震対策は、この単純な事実を受け入れて、一方で矛盾するようだが、日々、中心にいる(本質を見る)練習をすることだ。ダグラス・ハーディングがワークショップで日本に滞在していたとき、たまたま地震があり、そのとき彼は、「地震のときは、自分の中心にいなさい」とそうアドバイスしてくれた。今だに地震の大揺れのときに、情けなくも、中心にいることができない感じになるが、それでも日々練習する――寿命の終わりまで、日々平和に生きることができるように、そして、最後の瞬間に平和に死ぬためにも。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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仏陀の教え――「般若心経」(2)2023年12月23日 10時41分54秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。(1)から(17)


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



「般若心経」は、大乗仏教の教えの精髄をまとめたものとされ、仏陀の死後、数百年後に起こった大乗仏教運動の中で、出来上がったもの(作者未詳)らしい。

大乗仏教と小乗仏教の違いを、ものすごく簡易に言えば、小乗仏教は「修行者が自分だけの悟りを求める」仏教であり、大乗仏教は、仏教を一般庶民にも開放して広め、すべての人の救済を目指す仏教、みたいなことになるらしい(自分一人しか乗れない「小さい乗り物=小乗」と、大勢が乗れる「大きな乗り物=大乗」と考えるとわかりやすいかもしれない)。

それでは前回に引き続いて、私が「般若心経」とどう格闘したかの話を書いてみよう。「物質には実体がない」の文章に躓き、それから次に私が引っかかったのは、「無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽きることもなし」(漢文書き下し文)のところで、私がもっていいる、『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)の訳は、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」となっている。

「迷いもさとりもない」、「老いも死もない」と前半で言っておきながら、後半で、「迷いも悟りも、老いも死も尽きることがない」と真逆のことを言って、お互いに打ち消しあって、まったく何も言っていないことになり、ナンセンスな文章ではないかと、私の常識思考は言い、私は読みながら、いつも怒りすら(笑)覚えたものだ。この当時、「Aは存在しないが、Aは存在する」みたいな理性にはまったくナンセンスな文章を、私のマインドはまったく受け入れることができなかった。

それでも私は、「不」「無」「空」のようなネガティブな漢字ばかりが散りばめられているテキストになぜか愛着を感じ、手放すことができず、一年に最低は1回か2回、儀式のように読んでは、ため息をついていた。

スピリチュアルな探求を始めたあとも、時々は、「般若心経」を読み返し、あるとき、「たぶん、般若心経は、私たちの常識が理解する観点とはまったく異なる観点で、この世界を語っているにちがいない」という思考が思い浮かんだ。この頃にはスピリチュアルな文献に特有なあちこちで矛盾する表現も、なんとか受け入れられるぐらいには、、私の二元的常識的思考はかなり薄くなっていった。

そして、大学の講義で「般若心経」を最初に読んだときから、およそ15年くらいたったときに、ダグラス・ハーディングの著作と実験に出会い、初めて、色即是空、空即是色の一瞥を得たのだ。彼の開発した実験によって、自分の目の前にある色の世界(物質世界)と自分側にある空(本質)の世界がピッタリと一つであることが信じられないほど簡単に見えたのだ。その最初の衝撃は、「ええ!まさか!?」という感じだった。

もちろん、長年の????が解消したあと、また新しいたくさんの????も生じたが(シンプル堂という物体のプログラミングはいつも???が湧くようにできている)、長年の疑問とストレスがとりあえず解消できて、うれしかったものだ。

「般若心経」は確かに、世界を真逆に語っていた。そのことを、簡単に説明すれば、普通、常識思考では、前回も書いたように、「感じられるもの(こと)」が現実である。私が自分の指で、体のどこかをつねる。すると痛みが生じて、それは人間としての自分にはとても「現実」に感じられる。しかし、「般若心経」の観点から言えば、感じられるからこそ、それは「現実ではない=幻想」なのである。なぜなら、感じられるものは、すべて一時的で永遠ではないからである。だから、五感が対象的にとらえるすべてのもの(こと)、そして、感じられる感情や思考も、全部、「現実ではない=幻想」であり、感じられないもの、五感でとらえることができないもの(空)こそ、「現実」なのだ。

そして、私を悩ませていた、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」のところも、空(本質)の観点と色(物質)の観点という、二つの真逆な観点から、さとり、迷い、老い、死を語っている。空(本質)から見れば、「さとり、迷い、老い、死」などというものは永遠にまったく存在していない。しかし、色(物質)の世界では、永遠に「さとり、迷い、老い、死」が尽きることがない。「さとり、迷い、老い、死」はあくまでも、色(物質)の世界で、人間が創造した観念にしかすぎないのだ。

最近、「般若心経」を読んでいると、時々一つの風景(イメージ)が思い浮かぶ。それは、こんな風景だ――仏陀と仏陀の高弟たちがみんなで瞑想をしている。そして、瞑想が終わると、その中の一人、観自在菩薩が、自分が、今、深く瞑想に入っていって、気づいたことを話し始める。

「私が深く自分の本質(般若波羅蜜多=知恵の完成)について、瞑想していましたところ、五大元素から構成されているこの世界は、そのどれも究極的には実体がない空っぽであることがわかりました。だから、私たちが感じる苦しみにも、実体がないのです」

そのあとの「シャーリプトラよ」で始まる部分は、別の高弟であるシャーリプトラ(舎利子)に話かける形で、観自在菩薩の言葉を受けて、それをもっと詳しく補足するように、仏陀が言葉を続けている(と私にはそう感じられる)。

その部分で、注目すべき言葉は、無苦集滅道(苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない)という部分で、それは下記の仏教の有名な四諦(したい)の否定である。

苦=人生は苦に満ちている
集=その苦は、迷いによる業が集まって原因となっている。
滅=迷いを断ち尽くした永遠に平和な境地が理想である。
道=その理想に到達するためには、道によることが必要である。

四諦をもっと平たく言えば、「私たちの苦は、私たちの過去からの業により、それらから解放されるために、人は厳しい修行の道を歩くことが必要である」ぐらいであるが、しかし、仏陀はここであっさり自ら四諦を否定し、「皆さん、苦集滅道なんて必要ありませんし、真理を知ることも、悟りを得ることもないのです」と宣言する。

そして、ここからフィナーレに向かって、仏陀の言葉はさらに、パワーアップしてくる。「悟りを得ることなんて、ないわけですから、求道者たちは自分自身の本質(般若波羅蜜多)に(すでに)安住し、だから、不安や恐れがないのです」

そして、最後に、般若波羅蜜多(智慧の完成)がどれほど比類なきほどの素晴らしいものかを称えるために、求道者がいつも覚えておける形で、次のマントラで締めくくられている。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)完全に彼岸に行ったのです。
ああ、般若波羅蜜多(智慧の完成)は、なんと素晴らしいことか!

『金剛般若心経』の中で、スブーティ長老が仏陀に、「これらのあなたの言葉を、後世になっても、真実だと思う人が誰かいるのでしょうか?」と尋ねる場面がある。それに対して仏陀は、「心配しなくても大丈夫。後世になっても、必ずこれらの言葉が真実だと思う人たちがいるにちがいない」と予言している。

その予言どおり、仏陀亡き後、2千5百年後の今日でも、仏陀の言葉が真実だと思う人たちは少数ながらも存在し、そして今から2千5百年後にもいるはずである。その系譜に参加させてもらう縁を得て、仏陀の勝手弟子として、この上もなくその縁を私はありがたく感じている。合掌


ダグラス・ハーディングが、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット刊)第21章「チャオの夢」というエッセイの中で、一万回「般若心経」を読経した僧が、夢の中で仏陀と語り合うという形で、「般若心経」の世界を格調高く語っている。


[お礼]
今年も貴重な時間を割いて、ブログを読んでくださった皆様、またシンプル堂のYouTubeを視聴してくださった皆様、そして、様々なご支援をしてくださった皆様、ありがとうございました。今年も、平和に、無事一年を終わることができそうで、ほっとしています。それでは皆様、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は、1月の終わりか、2月の初め頃から、ブログを再開する予定です。

[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








仏陀の教え――「般若心経」(1)2023年12月11日 14時29分47秒

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◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで

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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



もし歴代の有名なスピリチュアルな先生から一番好きな先生を選ぶとしたら、私は迷わず仏陀を選ぶと思う。

と書くわりには、私は仏教と仏陀の教えを系統的に学んだわけでもなく、私が知っている仏陀の教えは、唯一愛読している『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)とその他わずかに読んだ仏教関係の本、そして、またダグラス・ハーディングの著作から学んだことに限られている。だから、私は深い信仰をもった仏教徒というわけではなく、ただ仏陀の教えに共感する、勝手弟子であり、気ままに自由に彼の教えを理解している。そして、仏陀もそれをゆるしてくれるものと確信している。

仏陀の教え、「すべては空(くう)である」は非常に自分になじむ。「何かがある」ことよりも、「何もない」ほうが私の気質にははるかにしっくりくる。「何かがある」ことは興味深いが、複雑だし、楽しくもあるが、それをめぐる争いも多い。なによりも、何かが「ある」ことの喜びは一時的で長続きしないし、そして、人間のマインド自体が「ある」ことにはすぐ飽きる。

他の所でも書いた話だが、私が睡眠を愛するのは、眠ると、すべてが一時的に「なくなる」からだ。目覚めているとき、あれほど騒いでいたマインドも、マインドによる苦しみも、熟睡したとたんになくなってしまう。まだスピリチュアルにまったく興味のない頃から、私にはこのことが非常に不思議だった。

ちょうどそんなことを考え始めていた頃、私は大学の講義で「般若心経」と出会い、それは後々考えてみると、最初のスピリチュアルな一撃であった。本当は隅のほうで、居眠りでもしていようという授業だったはずが、受講生がほんの5、6人しかいず、全員が前列一列に並ばされ、居眠りするわけにもいかず、私はそれこそ毎回、口をぽかんと開けた状態で、教授の話を聴かされた状態だった。

なぜ、「口ぽかん」の状態かというと、私は「般若心経」の中の言葉、そしてその教授の説明もまったく何も理解できなかったからだ。生涯初めて、そんな難解なテキストに出会い、衝撃を受け、しかも、それが仏教の最高の経典とされ、世界中の仏教僧が毎日、読経していると知り、その人たちはこの内容を理解して読経しているのか、とすごく驚きもした。

ところがまったく理解できなかったことが、逆に私の中の何かを目覚めさせ、私はこの講座が終わったあとも(たぶん昭和50年頃=1975年頃の話)、そのテキストを捨てることなく持ち続け、時々読み返しては、「なぜこんなに熱心に読んでも、理解できないのだろうか?」とパズルを解くように考えたものだった。

特に最初のほうの、「色不異空」ここでまず私は躓いた。私がもっている『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)は、この部分を次のように訳してある。「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである」。

同じように、色即是空 空即是色の訳も、前の文章をまとめるように、次のように訳されている。「(このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ、実体がないということは、物質的現象なのである」

この文章を読んで、「物質的現象に実体がないって、どういうこと? だって、物質って、目に見えるし、触れば、硬いし、ちゃんと実体があるじゃないの」と、私の常識的未熟な思考はいつも抗議したものだ。

私たちの常識的思考にとっては、「実体がある」とは五感で感じられることである。現象世界では、それを「現実」と呼んでいる。自分の肉体(だと思っているもの)が、怪我をしたり、病気になったり、誰かに殴られたりしたら、苦痛を感じるし、それが常識思考にとっての現実(実体)である。常識思考にとっては、「感じられること(もの)」それが現実(実体)である。

物質的現象は、「実体がない」とか、「幻想」と言うには、あまりにリアル(現実)ではないか? 私のマインドは、「般若心経」を読むたびにストレスを感じ、頭の中には100個もの????が点灯したものだった。(次回へ続く)


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
























ゴキブリが教えてくれたこと2023年10月31日 07時48分44秒

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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(10)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



今、『Master Key to Self-Realization』 という、ニサルガダッタ・マハラジの師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの講話をまとめた本(出版時期未定。たぶん、来年)を翻訳している最中である。本書については、来年詳しく紹介する予定だが、先日翻訳していた箇所はかなり心にひっかかった。

それは、本の最終章の中で求道者の献身について書かれている箇所で、要約すれば、「求道者は、あらゆる生き物の幸福に献身すべきであり、すべての生き物との一体化を感じる境地になるまで、献身しなさい」という主旨の内容だ。人間に関しては、すべての人を同じ本質をもつものとして礼拝する。それから、蠍や蛇などの危険動物も、殺してはならず、ただ遠くからそっと眺めるだけで、放っておきなさい。それから、ロバなどの動物は適切な世話を与え、大切にする。ここまでは賢明な話で、まあ理解できる(実践できる)話に思える。

さて、(私にとっての)問題はその先だ。さらに、「母が子供にお乳をあげるときに喜びを感じるように、人は自分の体から虫が血を吸っているときに満足感を感じるようになるべき」という主旨の話が書かれてある。これは私には非常にハードルが高い、ほとんど無理ゲ―(笑)である。正直に言うと、私は虫と名の付くものが全部苦手である。もちろん憎んではいないけど、できれば、目にしたくないもの。

他の生き物たちに対するシッダラメシュヴァール・マハラジの話の肝は、「もし人が生き物に敵意や嫌悪を持たなければ、彼らは人間を攻撃することはない」、つまり、もし人がそういう意識状態であれば、蠍や蛇は人に嚙みつかず、虫は人を刺さず、ゴキブリは人を困らせないという結論のようであるが、私には経験的にまだそれを実証できない(人間に関しては、たぶんそうだとは感じているが)。

同じインドのアドヴァイタの先生でも、ラメッシ・バルセカールは一応、シッダラメシュヴァール・マハラジ→ニサルガダッタ・マハラジの系譜に入るにもかかわらず、彼は(私が記憶するかぎり)自分の教えの中で、他の生き物との一体感とか、そういうことを強調したことはなかったと思う。また、何かに対する人の好き嫌いは、その人の(自分の意志ではコントロールできない)プログラミングにもとづき、それそのものが神の意志であり、人はそれを受け入れるしかないとも、彼は教える。私はむしろこういったラメッシの考え方に共感する。

「生き物の幸福とは何か」を突き詰めて考えるとわけがわからなくなるし、果たして相手が望むこと(喜ぶ)ことをしてあげること(することをゆるすこと)が、必ずしも相手のために、そして全体のためにならないときもあるのではないかという疑問も起こる――母の介護で、日々そのジレンマに直面している。私は自分に実践できる範囲で、自分の目の前にいる生き物(人間も含む)を傷つけないようにと心がけるが、それだって、いつも成功するとはかぎらないので、自分の「有罪」を受け入れている。

虫に関して、数年前のある日、私は奇妙な体験をした。それは、私がロバート・アダムスの『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本の作業をやっていた頃のことで、「ゴキブリ、南京虫など、命に優劣をつけてはいけない」という主旨の話を彼が語っている箇所で、そのとき、「ロバート・アダムスは自宅にゴキブリを見つけたら、どうするんだろうか?」という疑問がふとわいたのだ。

すると、なんと、まるでその答えのように、夕食を食べ終わって、ふと目の前の壁を見たら、大きなゴキブリが一匹、壁に貼り付いているではないか! 自宅でゴキブリを見たのは、もう20年以上ぶりで、私は本当にびっくりして、しばらくゴキブリを眺めていた。大昔であれば、さっさと殺虫剤で殺すか、掃除機で吸い取るかしただろうが、もうそうする気も起きない。どうしたらいいかまったくわからないので、一晩そのままにして、朝になってまだそこにいたら、そのとき改めて考えることにした。

ゴキブリが突然、出現した理由を眠る前、あれこれ考え、「家の中をもっと清潔にせよ!」というメッセージかもしれないと思い、翌日は、家中の大掃除をすることにした。翌朝、そのゴキブリはどこかへ消えてしまい、私は家中を大掃除したが、ゴキブリは見つからなかった。それでも私は、ゴキブリが増殖する恐怖に負けて、ずる賢くも「ゴキブリ〇〇」をいくつか仕掛けておいた。2週間経過して、その中を見たが、一匹も入っていなかった。たぶん、あのゴキブリは私に、「虫に敵意をいだくな!平等な存在として見よ!」と教えるために、まるで無の中から(!?)出現したかのようだった。

あれから数年、幸いというか、あの日以来ゴキブリを見ていない。そしてあの日以来、私は虫に対して前よりかなりやさしい(笑)。今生の終わりまでには、自分の体に止まった蚊に、やさしく血を吸わせてあげるくらいの境地にはなれるかも……


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)














「差別するな」は正論ではあるけれど…2023年10月16日 09時48分12秒

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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(7)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



先日公開した『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、長年、日本に住んでいる在日韓国人の人が、「自分は日本に長年住んで、差別を受けてきたが、(スピリチュアルな学びの中)で、差別する人たちも愛することが重要だと学んできた。しかし、日本人の差別意識がなくならないのはどうしてなのか?」という質問をバーソロミューにしている。

それから、今年の初めだったか、ネットで美輪明宏さんが、政府高官の同性愛に対する嫌悪発言に対してコメントしているのを読んだ。美輪さんが人気絶頂だった若い頃、同性愛であることを公表したら、人気は凋落するは、道で石を投げつけられるはで、ひどい差別を受けたそうである。でも美輪さんはありのままの自分を受け入れることを決心し、そういった差別に負けないように、強く生きてきたという話である。美輪さんは最後に、「犯罪を犯したわけでもなく、人を傷つけるわけでもなく、ただ同性を愛したからといって、それの何がいけないの?」という主旨の言葉でコメントを締めくくっていた。

それから、つい先日、生まれつき両腕と両脚がない先天性四肢欠損症の障害がある乙武洋匡さんが、「半袖を着てテレビに出演しただけで、『気持ち悪い』『長袖を着ろ』とコメントが来るけど、これが俺の身体だ。母から産んでもらった、大事な俺の身体だ。誰に恥じることもない。隠すこともない。これからも、この身体で生きていく。みんなの助けを借りながら」と発言しているのを読んだ。

在日外国人、性的少数者、身体障害者の人たちが経験しているこういった差別的言動は、別に日本の中だけでなく、世界共通、人類共通、そして、歴史上すべての地域と時代にもあることは、様々な時代と地域の話を読んだり、歴史を少し学んだだけでも、明らかなことである。リベラル派の人たちは「差別感情はいけない」、「差別するな」と言うし、それはもっともな正論ではあるし、社会の法律や制度が差別を少なくする方向へ進むのは正しいことだと、私ももちろんそう思っている。しかし、特定の何かに対する差別的感情(=「あれは、気持ち悪いとか」とか、「ああいう物(人)は見たくもない」のような感情や嫌悪感も含めて)は誰の中にもあるものではないだろうか? 私にもあるし、これを読まれている皆さんにだってあるだろうし、そして、「差別はいけない」と言っているリベラル派の人たちの心の中にだって、そして、差別された経験のある人たちにさえ、何かあるはずだ。

だから私は「差別するな」と言う前に、人がもつ人類共通の差別感情の起源はどこから来ているのか、なぜ人は人を差別するのか、そのあたりを理解することから始めるほうが、個人の人生にとっては役立つのではないかと思っている。それで、今日は、人間がもつ差別感情について、私が理解したことを分かち合ってみたい。

人がもつ他者への差別感情とはどこから生まれるのか? この問いに関して、あるとき参考になる話を読んだことがある。それは人の話ではなく、アリの話である。アリという生き物は、匂いにとても敏感で、自分の巣の中に、別の種類のアリが入り込んだときは、「異なる匂い」によって察知し、すぐにみんなで殺してしまうそうだ。

こういう状況のアリたちの感情(みたいなもの)を推測すれば、たぶんこんな感じだ。

「おーい、ここに変な匂いの奴がいるぞ。こいつは俺たちの仲間ではない。こんな奴をのさばらせておいたら、どんどん増殖して、俺たちが少数派になってしまったら大変だ。さっさとやっつけてしまおう!」

アリを殺し(暴力)へと駆り立てるものは、異種のものが増えて、強大になり、自分たちの生存への脅威になることへの恐怖心であろう。この話を読んだとき、「ああ、人間が他の人間に対してもつ差別感情の起源も、恐怖心なのかも」と、私は納得した――「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心。

それに加えて、人間には高度に発達した物事を区別し分析するマインドの機能がある。区別し分析するマインドの機能と集団生存本能(=自分たちの集団が生き延びるために、敵を攻撃する本能)のタイアップで、人類は他の生き物を凌駕し、地球の生き物の頂点にたった(つまり、生き物の勝ち組になった)わけである。だから、そう簡単には、「自分たちとは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を、人のマインドからは追い出すことはできないのだと、そう今では私は理解している。

さらにそれに加えて、人間のエゴは集団の中の階級制度が大好きで、その中で上にあがったり、下に落ちたりという階級ゲームに中毒している。誰かを自分よりも下や上に見なければ、気が済まないエゴの性質、エゴの平等嫌い(笑)、それも差別感情を助長する。

まとめれば:
*「異なる匂いの者」への恐怖心。
*区別し、分析するマインドの能力。
*エゴが中毒している階級ゲーム。

この三つがタイアップして、人のマインドの中に差別感情が増殖するのではないかと。

私が自分の人生で、「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を強く感じた瞬間を思い出す。それは20代のときに、アメリカで暮らしていたときの話だ。あるとき、知人の日本人の女性が彼女が付き合っている黒人のボーイフレンドを紹介すると言って、一緒に連れてきたことがあった。私はそれまで黒人の男性とすぐ間近かに対面したことがなく、しかも彼女のボーイフレンドはバスケットボール選手並みのとても大柄な男性だったので、最初に会ったとき、自分の前にそびえたつ感じで立っていたその黒人の男性を見上げたとき、一瞬強い恐怖心(何か非常に自分とは異なる生き物を見たような感じ)を感じたものだ。でも彼はとても感じのよい人だったので、話しているうちにその恐怖心はすぐに消えたが、それでも、「自分が人種に対して差別感情などないリベラルな人間だ」とそのときまで信じていたので、その一瞬の「恐怖心」はかなりショックだった。

バーソロミューは、『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、人は差別する側の痛み、そして差別される側の痛み、その両方の痛みに気づくことが重要だと言っている。もし私たちがスピリチュアルな探求者であれば、その痛みの気づきが、スピリチュアルな進化を推し進めるということになるのだろう。

ネットには、特定の人(たち)への差別的言動、ヘイト・スピーチを繰り返す人の話がよく書かれていて、最近では、(お金と時間はかかるが)発信者を特定でき、損害賠償を請求できるようになっているという――数日前の新聞にも、在日コリアン3世の人へのヘイト・スピーチを繰り返していた男性に2百万円近い損害賠償金が請求されたという記事が掲載されていた。私はこういう発言を繰り返す人たちは、ものすごく大きな恐怖心と、誰かを自分よりも下なものとして貶めたい劣等感に苦しんでいるのではないかと想像する。自分よりも誰かを下だと貶めて攻撃することで、自分が強い人間だと思い込みたいエゴの快感に中毒しているのだと思う。

最後に、世の中の差別的感情・言動に加担しないために、政治的ではたぶんないスピリチュアルな探求者として何ができるだろうかと考えたとき、私自身は、先ほどバーソロミューが言ったように、差別する側の痛み、差別される側の痛み、それをそのつど感じ尽くすことではないかと思う。私が長年感じてきたことは、(そのことは科学的には証明できないが)、自分の心の痛みに、いわゆる気づきの光を与えるとき、そのことは、世の中に出まわっている無意識の差別感情が暴力的言動へと実現するパワーを弱めるのではないか、ということである。



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)












マインドにも夏季休暇2023年09月06日 14時51分56秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(18)まで公開中。


◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年9月24日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで

2023年9月28日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで ←予約受付終了しました。



◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月1日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで



ジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)をご購入・ご購読してくださった皆様、ありがとうございます。


夏は涼しいよりはどちらかと言えば、暑いほうが夏らしく好きだが、それにしても暑い暑い夏だった(毎日最高気温が35度を超えた――小中学の頃の記憶では、昔は暑いというのは、30度を超えることだったが、今では、30度は涼しい感じである)。だから、いつもよりも外出を控え、散歩も控え、昼間はエアコンの効いた部屋で読書と昼寝を楽しみ、その合間に瞑想と仕事を少しするといった、ゆるい日々を過ごしている。元々引きこもり派なので、それが特に苦というわけでもない。

ブログを更新しようと思いつつ、8月はなんのせいか、どうも自分の文章を書く(=自分の中から出て来る言葉をまとめる)気力をなかなか集められなかった(言葉が上がってきても、散らばってまとまらない感じ)。それでマインドにも夏季休暇を与えるべく、目を閉じてやる瞑想をいつもよりも長い時間やっている。瞑想をすると、この世俗世界がどんどん遠くに行き、言葉の世界が遠くなり、この世界のすべてのことがどうでもよくなる(笑)。でもたいてい、20~30分くらい経過すると、昼寝モードになったり、反対に世俗的な雑念が浮かび始めたり、ときには、「今日の夕食のことだけど……」と家族がいきなり部屋の外で声をかけてくるので、すぐに瞑想から出て、「ああ、今日の夕食ね……」と、マインドにスイッチが入り、世俗モードになる――誰でもなく、何の属性もストレスもない場所からまた戻って来て、誰かになり、日々この世の苦しみと楽しみを味わうわけである。

皆様にも、私は瞑想をお勧めしているが、瞑想の目的とは、まず第一に、マインドを静める、そして第二に、「私の本質」に目覚める、つまり、その二つの目的を合わせれば、「マインドを静めて、自分の本質に目覚める」ということになる。

そして瞑想法は、たぶん、色々な流派によって様々あると思うが、自分に合うもの、そして、どこでも(電車の中でも、会社でも、仕事の合間でも)、毎日実践できるシンプルなものをお勧めする。(目を閉じて座ってやる瞑想が苦手な方は、歩いたり、体を動かしたりしながらおこなう瞑想を探すとよいと思う)

瞑想を熱心に始めたときに、よく起こりがちなことが、かえって、自分のマインドの雑念に気づいたり、外の世界を耐え難いほどうるさく感じたりということがあり、自分の瞑想が間違っているのかと感じることがある。これはむしろ自分の静けさが深まったというふうに理解すべきで、瞑想に関しては、「進歩」(本当は何の進歩もないけど)と考えてもいいと、私はそう理解している。あるいは世の中の苦しみ、他人がかかえる悲しみ・苦しみにより敏感になるということも起こるかもしれないが、それも自分の中の「慈悲」が深くなっているというふうに理解していいと思う。

そして、瞑想とは、一時的に、世界から、そして人間であることから、引退することでもある。いつも誰かであること、何かであることは疲れることである(と思いませんか?)たとえ、ほんの5分でも、誰かでない場所、誰でもない場所、一切の属性がない場所で憩うことは、ストレスの多い世俗社会で生きるのにも役立つはずである。

本日、ようやく言葉がまとまりました(!)


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)







神がいない風景2023年08月07日 10時28分55秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(16)まで公開中。


*チャンネル登録はこちら(シンプル堂)


皆様、猛暑お見舞い申し上げます。


ジョエル・ゴールドスミスの本が、ようやく今月中旬に発売されることとなった。「赦し」とか「カルマ」とか、イエス・キリストの山上の垂訓とか、テーマが「熱すぎる」(笑)と感じる方は、購入して、少し涼しくなってから、読んでもらえればうれしく思います。

今回、最後に、本書『静寂の雷鳴』の中で、私が非常に印象を受けた彼の言葉を紹介しよう。それは:

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」

その前後の部分を引用すれば:

「神のパワーはそれができるすべてをすでにやっていて、それは意識のエデン的状態の中で活動していますが、二つのパワーの世界の中では活動することができません。ですから、私たちや私たちの隣人たちがどれほど善人で道徳的で善意の人であっても、私たちも彼らも罪、死、事故、戦争を免れないのです。何度も何度も次の質問が尋ねられてきました。「もし神がいるなら、どうしてこんなことが可能なのか?」と。その答えは驚くべきものです――「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」。創世記の第2章に神はいません。原因と結果の法則――カルマの法則――である主神だけがいるのです。私たちが原因と結果の法則を超えるとき、もはや法則の下ではなく、恩寵の下、言い換えるなら、創世記の第1章の中で生きていて、そこには人間的悪も人間的善も存在しません。罪もなく、純潔もなく、ただ神だけが存在します」( 8 章 「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」)

ジョエル・ゴールドスミスが上記の引用で言っている「人間的風景」とは、「二つのパワー、善悪のパワーが戦っている風景」、さらにもっと具体的に言えば、私たちがマインドの中で、「私は正しく、お前は間違っている」という「私」対「あなた」の戦争をしているとき、そして、世界の一部を激しく否定している(憎んでいる)ときのことである。そういうマインド風景のときには、「そこには神はいない」。

さて、神は普遍的存在であり、どこでもいつでも誰の背後にもいるはずなのに、これはどういうことだろうか?

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」――この言葉をもっと正確に言えば、「神は存在するが、人間的風景な中では神(の恩寵)は働くことはできない」ということであろう。

つまり、神(の恩寵)は、私たちの「個人的意志=物事はこうあるべき」というような意志や「利己的欲得」があるところでは、働かないということでもある。だからこそ、ジョエル・ゴールドスミスは、たとえば、「どうか神様、私に〇〇を送ってください」というような、あるいは、「どうか神様、私たちに勝利をもたらしてください」というような嘆願的祈りは、神に届かないと言っているのである。

神様にお出ましいただくためには、私たちのほうで人間的風景から抜け出し(=物事の善悪判断を手放す)、神がいるところへ行かねばならないということであり、ここで役立つ概念は、「明け渡し」である。私的に言えば、「神様、この状況は仕方ありませんね」と常にあきらめる(笑)。長い人生の経験から言えば、(悪いと思われる)状況に抵抗しなければ、なんとかそれを切り抜ける知恵とパワー(神の恩寵)が出て来る感じ……である(神がどこにいるか確信できない方は、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット発行)の第14章「神を信じること」で、ダグラス・ハーディングが間違えようもなく、その場所を正確に説明しているので、参照いただければと思う)。

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)















誰(何)にとっての、悪(人)なのか……2023年07月26日 06時02分26秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。

悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。

もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。

ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。

共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。

さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。

スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。

悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。

であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか? 

その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。

非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。

今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。

「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)

彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私のを赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。

「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。

関連ブログ

「好き嫌いと善悪」2008年2月19日



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)


















私がいない!2023年07月02日 09時04分07秒

皆様、暑中・大雨、お見舞い申し上げます。

[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年7月13日(木曜日)午後2時から午後4時
2023年7月16日(日曜日)午前9時から午前11時


オンライン「非二元の探究―思考の性質」
2023年7月20日(木曜日)午後2時から午後4時
2023年7月23日(日曜日)午前9時から午前11時 


[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」(正式タイトル未定)が、
8月下旬出版予定となりました。今後、タイトル、価格が決まりましたら、順次お知らせします。

*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(11)まで公開中。


先日の晩のことだ。夜の11時頃に、隣の部屋から母の叫び声が聞こえてきた。私が母の部屋へ行くと、母がベッドに腰かけて、何か叫んでいる。

よく聞くと、「私がいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ。どこへ行けばいいのか、わからないから、困っている。もしかしたら、私は死んだのかもしれない」みたいな言葉を繰り返している。

母が夜に目を覚ましたときに、叫ぶことはよくあることで、いつもはたいてい、「お腹すいた」、「夕食食べてない」、「(オ)シッコに行きたい」、「誰もそばにいない」、「〇〇さん(母の昔の友人の名前)に会いに行く」というような、ごく日常的な平凡な言葉だ。それが先日の晩は、「私はいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ」と、いきなり形而上学的スピリチュアル的悩み(笑)になっている。

母はスピリチュアルとか宗教とか、人間の心理にさえまったく関心がなく、非常に外向きな人だったで、今まで母から「私」に関する悩みや言葉など聞いたことがない。私は生涯初めて母から聞いたその形而上学的言葉にびっくりし、「ほら、お母さんの『私』はそこにいるよ」と言いながら、母にわかるように、母の体を強く触りながら言った。それでも母は、「違う、違う。私がいない。私は死んだのかもしれないけど、向こうにいるかもしれないから、探しに行く」と言い張り、立ち上がって、部屋から出ようとする。

なんとか説得して、ベッドに戻しても、まだ「私がいない。不思議だ。探しにいかなくちゃ」を繰り返し、そうこうしているうちに疲れて寝入ってしまった。

介護は大変なことも多いけど、時々可笑しいことが起こる。母をここ数年間見てきて思うことは、人間の精神は非常に複雑で、その中にたくさんの人格があるということである。私が「母」として知っていた人は、そのほんの一部であったことがわかる。今は、母という人格は完全に、それこそ「死んで」しまっている。

今後また母が「私がいない!」と言うのかどうかはわからないけど、最晩年、母からスピリチュアルな人格が出てきて(笑)、「私」をめぐって会話ができたら、楽しいかもしれない。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















イエス・キリストのこと2022年12月24日 10時11分06秒

ここ数年間、ジョエル・ゴールドスミスの本の翻訳出版のため、聖書(新約&旧約聖書)を読むことが多かった。最近は、もうキリストの教えでお腹いっぱい(笑)で、かなり限界に近い(でもまだジョエル・ゴールドスミスの本の最終編集作業が残っているので、もう少し頑張らないと、です)。

イエス・キリストについて、長い間、私は一つのことが気になっていた。なぜ彼は磔を逃げなかったのか? ということだ。つまり、私が思った疑問は、イエス・キリストほどの霊能力、予知能力があれば、自分が磔にされる危険性はあらかじめ察知できただろうに、なぜ逃げなかったのだろうか? 彼を愛するマグダラのマリアと二人で遠くへ逃げて、暖かい家庭でも作ったほうがよかったのではないか(笑)……イエス・キリストについての物語を読むたびに、時々そういったどうでもいい疑問が心に浮かんだものだ。

昔読んだミステリーだったと思うが、イエス・キリストとマグダラのマリアが実は結婚していて、子孫が現在まで生き残っているというヨーロッパに伝わる伝説を織り込んだ話があった。イエスとマリアが一緒になって子孫を作ったという話は、私だけでなく、多くの人たちも考えたことだったのだと知った。

しかし、「イエス・キリストが磔で死ぬ」、この悲劇の物語がなければ、イエス・キリストの教えはこれほど世界に広まらなかったことだろうし、イエス自身も自分が磔で死ぬ意義を悟って、「神様、わかりました。仕方ありませんね」という感じだったのだろう。

イエスの磔をめぐる物語の登場人物で、私には特にピラトとユダが興味深い。その理由は、この二人はどこの世界にもどこの時代にも、そしてたぶん、どこの組織にも見かける平凡な人たちだからだ。ピラトは古代ローマ帝国からユダヤ属州に派遣された行政長官で、「面倒なことにかかわりたくない、責任はとりたくない」という小心な役人というイメージだ。保守的ユダヤ教徒から、「『神の王国』とか言いまわっているイエスという男がいるから、逮捕しろ」と訴えられて、「宗教的もめごとなんて、ああ、面倒!」と思いながら、保守派の圧力に押されて、イエスを逮捕する。

もちろん、イエスの弁明、「『私の王国』はこの世のものではない」をピラトが理解できるはずもなく、「『王国』などと言う人間は、国家に反逆的な人間で、危険人物である」と、結局はイエスの磔を決める。そのときでさえ、自分が責任を取るのが嫌で、ユダヤの大衆に、「お前たちは、この男をどうしたいのか?」と尋ねる始末だ。「いいですか、磔を決めたのは、私ではなく、皆さんが望んだことですからね。それをよく覚えていてくださいね」みたいな感じで、小心で臆病な役人の典型である。実際、彼はイエス・キリストの奇跡の能力を聞いて、あとで自分に天罰がくだるのを恐れたのかもしれない。

もう一人の人物、ユダはイエスの側近だったが、イエスの教えをまったく理解せず、自分を、他の弟子やイエスと比較して嫉妬に苦しみ、しかも、『王国』とか言い出すイエスにしだいに疑心暗鬼を募らせ、ついにイエスをお金で「売る」ことを決心する。嫉妬心と疑心暗鬼がタイアップするユダの内面は、前にも紹介した、太宰治(若い頃の私の愛読作家の一人)の小説、『駆け込み訴え』によく描かれている。

ピラトとユダ
――あまりにその思考と行動が平凡で、むしろ親近感さえわく――ああ、こういうタイプの人、よくいるいるみたいな、ああ、自分にもこういう思考や感情あるかも、みたいな。

イエス・キリスト――二千年間、その誕生日が世界中で祝われるスーパー・ヒーロー。もしイエス・キリストが蘇って、2千年後の地球を見たら、きっと驚愕することだろう。自分の生誕の地は平和どころか常に紛争の地であり、キリスト教徒同士が戦争でお互いを殺し合い、仏教の国(日本)でも、自分の誕生日がケーキを食べながら祝われ、そして、キリスト教の宗教教団が信者から金集めに奔走し、そこの信者の多くが苦しんでいる。聖なるキリストという名前を使い、金集め集団と化しているのを見たら、鞭をもって乗り込み、怒りまくるかも……イエスは気性の激しい人だったようで、新約聖書に、イエスが寺院から商人を鞭で追い出したエピソードが確かあった。

そんなこんなクリスマスの季節に、過去に読んだイエス・キリストについての話を色々と思い出した。

それでは皆様、イエス・キリストの教えに無知でも、ケーキを平和に食べるくらいはイエスもゆるしてくださると思うので、楽しいクリスマス、そして、楽しい年末年始をお過ごしください。一年間、このブログを読んでいただいた皆様、そして様々なご支援をしてくださったすべての皆様に感謝を捧げます。来年は1月の終わり頃からブログを再開する予定です。


[新刊発売]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)