On Having No Head (2) ― 2025年11月07日 09時07分36秒
[ひよこ豆様:ご質問への回答]
今回の本は、紙の書籍です。現在のところ電子書籍版は未定です。
[イベント]
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◎2025年12月1日(月)出張シンプル道コンサルティング(東京)
◎リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都新宿区)
2025年11月30日(日曜日)午後1時20分より午後4時半頃まで
◎オンライン「私とは本当は何かを見る実験の会」
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究──実験と瞑想の会」
2025年11月13日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
〔Youtube]
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(24)
2 On Having No Headとの出会い
今回は私とOn Having No Head ―Zen and the Rediscovery of the Obvious「頭がないことについて――禅と明白なるものの再発見」(仮称)(1994年に『心眼を得る』というタイトルで出版された本の再版)との「出会い」について書いてみたい。
まさに「出会い」――その出会いは、今から37,8年前に起きた。たまたま読んでいた本に、On Having No Headの翻訳された一節が紹介されてあったのだ。私はその文章を何度も読み返しては、「頭がない」とか、なんか変なことを言っているなあと思いながら、でも何かとてつもなく重要なことを語っているという印象をもった。それでなんとか原書の本を手に入れ、初めから読み始め、紹介されていた「指差し」実験をやってみた。最初は???だったが、何度かやったとき、突然開眼した(笑)。
「そういうことだったんだ!」と、過去に私が理解できずに格闘してきた『般若心経』、J.クリシュナムルティ、『なまけ者の悟り方』などの言わんとしたことの要点が一気に見えた(感じがした)。
そして、ハードな修行が嫌いで、坐ってやる瞑想もほとんどやる気がでない私を喜ばせたことは、いわゆるハーディングのワークは:
*辛い修行不要
*先生と宗教的信仰不要
*お金と時間不要
*先生と宗教的信仰不要
*お金と時間不要
という点だった。ただ「見ればいい」。その手軽さ気軽さが何よりも私の気質に合っていた。
そして、私がOn Having No Headも含めてハーディングの本を何冊か読んで最初に理解したことは:
*スピリチュアルな人たちが話題にする「悟り」とか「目覚め」とか「完璧さ」とは、目標ではなく、出発地点だということだ。私たち全員が本質的には「すでにそれ」であり、「そこから出てきている」。
*だから、人として私たちがスピリチュアル的に何かになる―たとえば、「悟った人」、「目覚めた人」、「完全な人」、「スピリチュアル的に何か高い境地にいる人」になることは、どんなに努力してもあり得ない。人間としての自分は永遠に不完全な存在であり、それでOKなのだと。
*だから、人として私たちがスピリチュアル的に何かになる―たとえば、「悟った人」、「目覚めた人」、「完全な人」、「スピリチュアル的に何か高い境地にいる人」になることは、どんなに努力してもあり得ない。人間としての自分は永遠に不完全な存在であり、それでOKなのだと。
以上のことを理解して、自分を何かの理想の高見に引き上げようとするスピリチュアル的努力は一切無駄で、「要するにまあ、人は自分のしたいこと、楽しいと思うことをして好きに生きればいいのだ」ということを改めて(それまでもそう思って生きていたが)確信した。
最初の数年、On Having No Headも含め、数冊のハーディングの本(の原書)を熱心に読み、それからは熱が冷め、時折読んではハーディングが言わんとしていることを少し考えるくらいだった。もしハーディングその人に直接出会わなければ、彼の本を私が翻訳したり、「頭がない方法」を他の人たちと分かち合うなどという活動は起こらなかったことだろう。
ハーディングその人との出会いも偶然で突然だった。たぶん1994年のことだったと思うが、彼がまだ生きていて(当時85歳)ワークショップなどの活動をやっていると知り、なぜかこの人にどうしても会いたいという衝動のようなものを感じた。それでその年の夏のワークショップに参加するために、はるばるアイルランドまで飛んでいった。
彼のワークショップは、その当時日本で流行していた、自己啓発やチャネリング系のセミナーやワークショップとはまったく異質ものだった。しかもワークショップの金額が格安で驚いた。そのワークショップでは、何かを教える先生と何かを学ぶ生徒という関係もなく、長年ワークをやった経験者と初心者という区別もなく、何かを達成することも獲得することも引き寄せることもなく、ただ「在る」だけの時間がゆるく平和に流れていた。
そのワークショップでハーディングから、「よかったら、私の本は何冊もあるから、日本で出版してほしい」と言われた。内心、英語が難解すぎて自分の能力に余るし、その他様々な理由から無理とは思っていたものの、著者から翻訳を頼まれるなんて機会もそうあることではないと思い直し、一番薄い本(The Little book of life and Death、『今ここに、死と不死を見る』)を翻訳して出版することにした。本当は、On Having No Headにしたかったのだが、私がハーディングに出会った頃、ちょうど日本の別の出版社が翻訳権を買ったばかりということで、残念ながらその願いはかなわなかった。
そして今、長い間絶版だったOn Having No Headの再版がようやく実現することとなり、ほっとしている。たぶんOn Having No Headへの私の理解も翻訳能力も30年前よりは多少向上した( I hope)と思われるので、様々なことが30年の時を経て成熟した状況での出版となり、喜んでいる。
今、改めてOn Having No Headを読み直してみると、特に第4章「話を現代化する」の内容を当時私は本当にはよく理解していなかったことがわかる。ヴィジョンは変わらないが、理解のほうは長い間、実験を練習し、ハーディングの言葉を読みながら、少しずつ湧き起こった感がある。
そして、ハーディングも書いているように、そしていつも言っていたように、実験そのものはシンプルであるのに、そのヴィジョンを生きることは決して簡単ではないし、多くの困難や障害にも出会う。まして、このヴィジョンを分かち合うことはなおさらだ。
それでも、なぜか続いた不思議な縁……最初に開眼したあの日と同じように、今この瞬間もこのヴィジョンは、無知という「神秘」(あえてこの言葉を使えば)に包まれて、平凡に普通に輝いている(合掌)。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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