「差別するな」は正論ではあるけれど…2023年10月16日 09時48分12秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(7)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



先日公開した『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、長年、日本に住んでいる在日韓国人の人が、「自分は日本に長年住んで、差別を受けてきたが、(スピリチュアルな学びの中)で、差別する人たちも愛することが重要だと学んできた。しかし、日本人の差別意識がなくならないのはどうしてなのか?」という質問をバーソロミューにしている。

それから、今年の初めだったか、ネットで美輪明宏さんが、政府高官の同性愛に対する嫌悪発言に対してコメントしているのを読んだ。美輪さんが人気絶頂だった若い頃、同性愛であることを公表したら、人気は凋落するは、道で石を投げつけられるはで、ひどい差別を受けたそうである。でも美輪さんはありのままの自分を受け入れることを決心し、そういった差別に負けないように、強く生きてきたという話である。美輪さんは最後に、「犯罪を犯したわけでもなく、人を傷つけるわけでもなく、ただ同性を愛したからといって、それの何がいけないの?」という主旨の言葉でコメントを締めくくっていた。

それから、つい先日、生まれつき両腕と両脚がない先天性四肢欠損症の障害がある乙武洋匡さんが、「半袖を着てテレビに出演しただけで、『気持ち悪い』『長袖を着ろ』とコメントが来るけど、これが俺の身体だ。母から産んでもらった、大事な俺の身体だ。誰に恥じることもない。隠すこともない。これからも、この身体で生きていく。みんなの助けを借りながら」と発言しているのを読んだ。

在日外国人、性的少数者、身体障害者の人たちが経験しているこういった差別的言動は、別に日本の中だけでなく、世界共通、人類共通、そして、歴史上すべての地域と時代にもあることは、様々な時代と地域の話を読んだり、歴史を少し学んだだけでも、明らかなことである。リベラル派の人たちは「差別感情はいけない」、「差別するな」と言うし、それはもっともな正論ではあるし、社会の法律や制度が差別を少なくする方向へ進むのは正しいことだと、私ももちろんそう思っている。しかし、特定の何かに対する差別的感情(=「あれは、気持ち悪いとか」とか、「ああいう物(人)は見たくもない」のような感情や嫌悪感も含めて)は誰の中にもあるものではないだろうか? 私にもあるし、これを読まれている皆さんにだってあるだろうし、そして、「差別はいけない」と言っているリベラル派の人たちの心の中にだって、そして、差別された経験のある人たちにさえ、何かあるはずだ。

だから私は「差別するな」と言う前に、人がもつ人類共通の差別感情の起源はどこから来ているのか、なぜ人は人を差別するのか、そのあたりを理解することから始めるほうが、個人の人生にとっては役立つのではないかと思っている。それで、今日は、人間がもつ差別感情について、私が理解したことを分かち合ってみたい。

人がもつ他者への差別感情とはどこから生まれるのか? この問いに関して、あるとき参考になる話を読んだことがある。それは人の話ではなく、アリの話である。アリという生き物は、匂いにとても敏感で、自分の巣の中に、別の種類のアリが入り込んだときは、「異なる匂い」によって察知し、すぐにみんなで殺してしまうそうだ。

こういう状況のアリたちの感情(みたいなもの)を推測すれば、たぶんこんな感じだ。

「おーい、ここに変な匂いの奴がいるぞ。こいつは俺たちの仲間ではない。こんな奴をのさばらせておいたら、どんどん増殖して、俺たちが少数派になってしまったら大変だ。さっさとやっつけてしまおう!」

アリを殺し(暴力)へと駆り立てるものは、異種のものが増えて、強大になり、自分たちの生存への脅威になることへの恐怖心であろう。この話を読んだとき、「ああ、人間が他の人間に対してもつ差別感情の起源も、恐怖心なのかも」と、私は納得した――「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心。

それに加えて、人間には高度に発達した物事を区別し分析するマインドの機能がある。区別し分析するマインドの機能と集団生存本能(=自分たちの集団が生き延びるために、敵を攻撃する本能)のタイアップで、人類は他の生き物を凌駕し、地球の生き物の頂点にたった(つまり、生き物の勝ち組になった)わけである。だから、そう簡単には、「自分たちとは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を、人のマインドからは追い出すことはできないのだと、そう今では私は理解している。

さらにそれに加えて、人間のエゴは集団の中の階級制度が大好きで、その中で上にあがったり、下に落ちたりという階級ゲームに中毒している。誰かを自分よりも下や上に見なければ、気が済まないエゴの性質、エゴの平等嫌い(笑)、それも差別感情を助長する。

まとめれば:
*「異なる匂いの者」への恐怖心。
*区別し、分析するマインドの能力。
*エゴが中毒している階級ゲーム。

この三つがタイアップして、人のマインドの中に差別感情が増殖するのではないかと。

私が自分の人生で、「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を強く感じた瞬間を思い出す。それは20代のときに、アメリカで暮らしていたときの話だ。あるとき、知人の日本人の女性が彼女が付き合っている黒人のボーイフレンドを紹介すると言って、一緒に連れてきたことがあった。私はそれまで黒人の男性とすぐ間近かに対面したことがなく、しかも彼女のボーイフレンドはバスケットボール選手並みのとても大柄な男性だったので、最初に会ったとき、自分の前にそびえたつ感じで立っていたその黒人の男性を見上げたとき、一瞬強い恐怖心(何か非常に自分とは異なる生き物を見たような感じ)を感じたものだ。でも彼はとても感じのよい人だったので、話しているうちにその恐怖心はすぐに消えたが、それでも、「自分が人種に対して差別感情などないリベラルな人間だ」とそのときまで信じていたので、その一瞬の「恐怖心」はかなりショックだった。

バーソロミューは、『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、人は差別する側の痛み、そして差別される側の痛み、その両方の痛みに気づくことが重要だと言っている。もし私たちがスピリチュアルな探求者であれば、その痛みの気づきが、スピリチュアルな進化を推し進めるということになるのだろう。

ネットには、特定の人(たち)への差別的言動、ヘイト・スピーチを繰り返す人の話がよく書かれていて、最近では、(お金と時間はかかるが)発信者を特定でき、損害賠償を請求できるようになっているという――数日前の新聞にも、在日コリアン3世の人へのヘイト・スピーチを繰り返していた男性に2百万円近い損害賠償金が請求されたという記事が掲載されていた。私はこういう発言を繰り返す人たちは、ものすごく大きな恐怖心と、誰かを自分よりも下なものとして貶めたい劣等感に苦しんでいるのではないかと想像する。自分よりも誰かを下だと貶めて攻撃することで、自分が強い人間だと思い込みたいエゴの快感に中毒しているのだと思う。

最後に、世の中の差別的感情・言動に加担しないために、政治的ではたぶんないスピリチュアルな探求者として何ができるだろうかと考えたとき、私自身は、先ほどバーソロミューが言ったように、差別する側の痛み、差別される側の痛み、それをそのつど感じ尽くすことではないかと思う。私が長年感じてきたことは、(そのことは科学的には証明できないが)、自分の心の痛みに、いわゆる気づきの光を与えるとき、そのことは、世の中に出まわっている無意識の差別感情が暴力的言動へと実現するパワーを弱めるのではないか、ということである。



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)












特権階級だったんだ!(苦笑)2023年10月03日 08時54分17秒

[お知らせ]

◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(5)まで公開中。



文学賞に特別関心があるわけでもないし、賞をとった作品を積極的に読むわけでもないが、このあいだ芥川賞を受賞した作家、市川沙央さんのインタビューが大手新聞やネットに掲載されていたのをたまたま目にして、何回か読むこととなった。

先日ネットに出ていたインタビューでは、その受賞作品の一部も掲載され、私はそれを読んで、「私って、特権階級だったんだ!」(苦笑)とちょっと驚いた。

[私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。](『ハンチバック』より――(注)マチズモ=男性(力)優位主義 (注)ハンチバック=hunchback=脊柱後湾症)

私は明らかに、この小説の主人公が言うような、「目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性」を充分満たしている。人生の活動の中で、他の何よりも読書という行為に時間を使ってきて、それを「特権」だと思ってみたこともなかった。

子供の頃思ったことは、読書は、一番お金がかからず、他人も必要としない行為なので、それはどちらかといえば、お金のない、他に趣味のない、人付き合いの苦手な人が最低楽しめることなんだろうというくらいの認識で、読書している自分に優位性を感じたことなど一度もなかった。

大人になって、周囲が頑張って働く頃になっても、私は読書中心の生活を変えようともせず、ときには、「いいですね。そんな優雅な読書三昧な生活が送れて」みたいな皮肉の一つや二つも言う人も現れたが、私は一切の罪悪感を感じることもなく、「そんなにうらやましいなら、あなたもやれば」みたいに、心の中で冷たく言い返したものだった。

だから、「読書に多くの時間が割けることが、うらやましい」と思われる程度のことは多少想像できた。しかし、この小説の主人公が思うような、普通に読書することが憎しみの対象になるとは、今まで想像したこともなかった。

そして、もし普通の読書という行為が憎まれる対象になるなら、どんなことだって、普通に行われているあらゆる行為が憎しみの対象になりうるだろうし、それをちょっと想像したら、無限にリストがあがる。

二本の足で普通に歩ける「特権」が憎い。
手に茶碗をもって食べることができる「特権」が憎い。
料理を作ることができる「特権」が憎い。
外に働きに行ける「特権」が憎い。
普通に話せる「特権」が憎い。
普通に見たり、聞いたりできる「特権」が憎い。

以下、無限に続けることができる。

もしいわゆるこういった特権をもっている「普通人」が、こういう発言を聞いたら、驚いて、「ええ? そんなこと、何が特権なもんですか! 本当は、料理なんて作りたくないし、外に働きにも行きたくないですよ。手でお茶碗が持てることも、二本の足で歩けることも普通なことで、特権じゃないです!」と強い反論&反感が返ってくることだろう。

インタビューによれば、市川沙央さんご自身も難病を患い、車椅子の生活を送っているそうだ。そして彼女は、「この社会には障害者はいないことになっている」と言い、その一つの例として、金融機関のATMはまったく車椅子対応になっていない(つまり、車椅子に座った状態では、画面がよく見えないそうだ)ことを指摘していた。

金融機関のATMについてのこの指摘も初めて知ったことだ。たぶん、こういうことなのだと思う。この世の中で何かのシステムを最初に作るとき、大多数の「普通の人」が使うことを想定して作るわけで、その大多数から外れる人たちのことはほとんどかまったく想定されていない。それは意地悪とか差別というより、どちらかといえば、システムは普通仕様に作るのが一番安上がりで、時間がかからないからではないかと思う。多様な要素を組み込んだシステムを作るのは、たぶん、お金と時間がかかるのだ。

もちろん、そうすると、当然、その普通仕様のシステムから外れた少数の人たちにとっては、そのシステムは自分には合わないので、そのシステムの恩恵をほとんど受けることができず、社会の片隅で辛い思いをして生きることになる――身体的知的な障害者の人たち、在日外国人の人たち、性的少数者の人たち、学校教育システムから落ちこぼれる子供たち、その他。

今はそれでも、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの存在も、それらの当時者や支援者の人たちが自分たちの置かれた辛い状況を発言するようになり、以前よりはるかにその存在は知られるようになり、それはそれで、社会的に見れば進歩(歯がゆいほどの遅々とした進歩であるが)なのだと思う。つまり社会が、システムから外れた少数の人たちの存在を多少でも認めることができる、心の余裕、経済的余裕ができたということである。

その証拠に、経済的に貧しい国ほど、そして政治が独裁的な国ほど、その国の普通仕様のシステムから外れた少数の人たちは抑圧され、それこそ存在しないことにされ、中には、性的少数派であることが法律的処罰の対象となる国すらある。それは、そういった国には経済的そして精神的余裕がないので、多様性を認めることができないからである。

『ハンチバック』の著者の方は、「障害者がいないことになっている社会」にかなりの怒りをもっていると感じられたし、彼女だけでなく、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちが無視されていることへの怒り、悲しみの声は、今は特にネットにはたくさんでているし、大手新聞でさえとり上げることが多くなっている。

いちおう見た目普通(中身は全然、普通じゃないことが多いが)側のシンプル堂が、彼らの苦しみや悲しみを本当にはわかるはずもなく、余裕があるときにただ想像するだけだが、見た目普通側の言い訳をちょっとすれば、いわゆる普通仕様のシステムに適応している人たちだって、なんとかシステムから振り落とされないように必死で生きているだけで、ほとんどの人は様々な苦しみを抱えて生きている。

だから、多くの人たちは意地悪や差別からいわゆる少数派の人たちを無視しているわけではなく、単に心の余裕がなく、自分の問題や苦しみでいっぱいで、色々なことに気づかないだけなのだ。自分自身や自分の身近な人間が、なにかのきっかけで障害者になったとか、引きこもったとか、子供が不登校になったとか、障害のある子供が家庭に生まれたとか、そういう状況になって初めて、「ああ、普通じゃないって、こんなに大変なんだ」と、ようやくやっと気づくというわけである。

もし『ハンチバック』の主人公が、私の目の前に現れて、「のん気に好きなだけ本を読むことができる特権的立場にいるシンプル堂さんに、私の苦しみがわかりますか?」と迫って来たら、私は正直に、「わからないと思います」と答えるだろう。でも、もしそのとき私に心の余裕があれば、相手の立場にたってみることだろう。そうしたら、私も本がすごく好きなので、「本がものすごく好きで、たくさん読みたいのに、物理的制約で読めない彼女の苦しみの感情を少しは理解するだろうと思う。でも、別れたら、彼女の怒りも苦しみもまたほとんど忘れてしまうことだろう。

私たちの多くは、こんな感じで、世の中の苦しみをなるべく見ないよう、考えないようにして(そうすると、生きることがどんどん辛くなるから)、心の平安を保っている。

だから、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの人権活動をしている一部の人たちが、「おい、そこの鈍感な奴ら、私たちの存在、苦しみ、人権を無視するな! 私たちの存在を認めろよ!」みたいに、批判的攻撃的に出てこられたりすると、「もうこれ以上、私に世の中の苦しみを見させないで。私はもう自分の苦しみでいっぱいだから」とちょっと引いてしまう気持ちになるのは、よくありがちなことである。こういった普通の人たちの鈍感さや気づきのなさ、余裕のなさに対して、寛容や赦しを望むことは、少数者への無視・差別容認ということになるのだろうか……

さて、インタビューの中で、市川沙央さんは、「どうしたら小説家になれますか?」という質問に対して、「私には小説を書き続けるしかなかった(つまり、他にできることがなかったという意味)」と答えていた。私はその回答に非常に納得した。

もし人生で、「これしかない」、「これしかできない」、「これしか能がない」、「これしか関心がない」みたいな状況が運命的に降ってきたなら、それは誰にとっても特権(=非常に恵まれた状況・立場)なんだと思う。なぜなら、そのとき、たくさんのものから迷いながら選択しなくてもよく、ただ「これしかない」ということだけにしたがって、エネルギーを集中すればいいからだ。そしてたいてい、その結果は、私の経験から言えることは、吉となる。

シンプル堂という人間物体は、活字を読むしか本当に能がなく(他の能力は読書に付随して出てきたもの)、それはたぶんある種の「特権」であったかもしれないように、市川沙央さんの「書き続けるしかない」という状況も、ある意味では他の人がもっていない「特権」なんだと思う。そして、その特権的状況の中で、彼女は「障害者がいないことにされている」怒りと絶望を創造力へと爆発させて、そのパワーが芥川賞受賞という運命を引き寄せたと、私には感じられた――『ハンチバック』は未読なので、この小説の主人公の運命がどうなったかは知らないが。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)




















動物園に人権はない(苦)2023年09月21日 07時36分38秒

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*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(4)まで公開中。

◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年9月24日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月1日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで



先日、母の家で、みんなで夕食後にNHKのニュースを見ていたときのことだ。その日のトップニュースは、大手タレント事務所創始者の性加害について、その事務所が記者会見を開いた話だった。J社のトップタレント二人と元社長、そして弁護士の4人が並んでいる姿を見たとき、なんか東山紀之さんが主演した『刑事7人』の一場面のようだった――しかし、展開はドラマのように颯爽というふうにはいかず、グダグダ会見だった。

そして、東山さんが、「僕も夢をあきらめて……」と言ったとき、家族全員が、「えー、東山さん、タレントやめるんだ!」と思わず声がもれた。私たち家族は、彼が主演している『大岡越前』のシリーズを飽きるほど毎日見て、「また新しいシーズンも作るのかなあ」とかそんな話をしていたからだ。私が過去10年間で一番時間的に見たドラマが、東山さんが主演したこの『大岡越前』シーズン5と6で、各エピソードは、もうこれ以上見るのが苦痛なくらい何度も何度も見たものだ。だから、新しいシーズンをちょっと待ち望んでいた。

そんなに『大岡越前』を見ている理由は、私たちがこのドラマを特に好きなわけではなくて、母が東山紀之さんの大大大ファンで、母は一人ではドラマをほとんど見ることができないので、付き合って見ているというわけだ。母はもうドラマのあらすじも何も理解できないが、自分が好きなタイプの男性がテレビに出ているときは、比較的静かに画面を眺めている(笑)

特に好きなドラマでも、好きな俳優さんでもないのに、ずっと長い間ドラマを見ていると、なんとなく親近感がわくのは不思議なものである。だから、先日のJ社の記者会見での東山さんは痛々しかった。所属の人気タレントをマスコミの攻撃の矢面に立たせ、そしてそのタレントに夢をあきらめさせるって、J社の人権無視(立場の弱い者を虐める)の姿勢は全然変わっていないじゃないかという感じである。そして、質問をしているマスコミの人たちも、相手が弱い立場に立ったとたん、たぶん、視聴者の関心を惹くという理由なのか、下司な人権無視のセクハラ的な質問を長時間ダラダラとタレントたちに浴びせたという話がネットに出ていた(私はNHKのニュースの部分しか見てないが)。

自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視――J社もそれを取り巻くマスコミも、「これからも何も変わりませんよ(=自分たちがこれからも無事存続でき、お金が儲かりさえすれば、人権なんてどうでもいい)」という印象を与えた記者会見であった。

そして、「自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視」って、J社やマスコミだけでなく、もしそこが動物園的組織であれば、日本の多くの組織、そして家庭の中にさえよく見かける風景である。いちおうは人間クラブ以上の世界に住んでいる者も、心の中では動物園に堕ちることだってある。だから、私はこの記者会見を見て、キリストの有名な言葉を思い出し、改めて自分の胸に刻んだ。

*なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目には梁(はり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。(マタイ7章3-4)(この言葉の解釈とは、「他人の欠点・罪を非難する前に、まず自分の中にある欠点・罪を見なさい」くらいか)。

ドラマの中の大岡越前(彼は実際に江戸時代に実在した人物。1667-1751)は、勇気と知恵と心の優しさ、そして公正さを合わせもつ名奉行だった(権力を持つ側で、めったにこういう人物が現実には存在しないからこそ、300年たってもまだドラマになるのだと思う)。

さてさて、東山さん、被害者の救済(確か、被害者の人たち一人一人と話し合っていくみたいな主旨のことを、彼は言ったと記憶している)とJ社の社長をまかされて、経験もないのに大丈夫なのか? たぶんうまくはいかないとは思うけど、自分が『大岡越前』シーズン6放送の前に視聴者に向けた言葉を思い出して、ダメ会社の再建に奔走する社長を頑張って「演じて」!

「感染症にしても詐欺にしても、人間が生活していく上で起きることは昔も今も大差ないんじゃないでしょうか。戦国時代の武将を描くような物語とは違い、この作品は市井の人々に寄り添うお話なので、現代の皆さんに共感していただきやすい時代劇だと思います。忠相の『大岡裁き』は、厳しさだけでなく、庶民に心を寄せる愛情を併せ持っています。さまざまな問題があるなかで、人と向き合う越前の姿を、ぜひご覧いただきたいです」(『大岡越前』シーズン6放送前の東山さんの言葉より)TVガイドhttps://www.tvguide.or.jp/news/news-1513268/)



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)







マインドにも夏季休暇2023年09月06日 14時51分56秒

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*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
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*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
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◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年9月24日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで

2023年9月28日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで ←予約受付終了しました。



◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月1日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで



ジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)をご購入・ご購読してくださった皆様、ありがとうございます。


夏は涼しいよりはどちらかと言えば、暑いほうが夏らしく好きだが、それにしても暑い暑い夏だった(毎日最高気温が35度を超えた――小中学の頃の記憶では、昔は暑いというのは、30度を超えることだったが、今では、30度は涼しい感じである)。だから、いつもよりも外出を控え、散歩も控え、昼間はエアコンの効いた部屋で読書と昼寝を楽しみ、その合間に瞑想と仕事を少しするといった、ゆるい日々を過ごしている。元々引きこもり派なので、それが特に苦というわけでもない。

ブログを更新しようと思いつつ、8月はなんのせいか、どうも自分の文章を書く(=自分の中から出て来る言葉をまとめる)気力をなかなか集められなかった(言葉が上がってきても、散らばってまとまらない感じ)。それでマインドにも夏季休暇を与えるべく、目を閉じてやる瞑想をいつもよりも長い時間やっている。瞑想をすると、この世俗世界がどんどん遠くに行き、言葉の世界が遠くなり、この世界のすべてのことがどうでもよくなる(笑)。でもたいてい、20~30分くらい経過すると、昼寝モードになったり、反対に世俗的な雑念が浮かび始めたり、ときには、「今日の夕食のことだけど……」と家族がいきなり部屋の外で声をかけてくるので、すぐに瞑想から出て、「ああ、今日の夕食ね……」と、マインドにスイッチが入り、世俗モードになる――誰でもなく、何の属性もストレスもない場所からまた戻って来て、誰かになり、日々この世の苦しみと楽しみを味わうわけである。

皆様にも、私は瞑想をお勧めしているが、瞑想の目的とは、まず第一に、マインドを静める、そして第二に、「私の本質」に目覚める、つまり、その二つの目的を合わせれば、「マインドを静めて、自分の本質に目覚める」ということになる。

そして瞑想法は、たぶん、色々な流派によって様々あると思うが、自分に合うもの、そして、どこでも(電車の中でも、会社でも、仕事の合間でも)、毎日実践できるシンプルなものをお勧めする。(目を閉じて座ってやる瞑想が苦手な方は、歩いたり、体を動かしたりしながらおこなう瞑想を探すとよいと思う)

瞑想を熱心に始めたときに、よく起こりがちなことが、かえって、自分のマインドの雑念に気づいたり、外の世界を耐え難いほどうるさく感じたりということがあり、自分の瞑想が間違っているのかと感じることがある。これはむしろ自分の静けさが深まったというふうに理解すべきで、瞑想に関しては、「進歩」(本当は何の進歩もないけど)と考えてもいいと、私はそう理解している。あるいは世の中の苦しみ、他人がかかえる悲しみ・苦しみにより敏感になるということも起こるかもしれないが、それも自分の中の「慈悲」が深くなっているというふうに理解していいと思う。

そして、瞑想とは、一時的に、世界から、そして人間であることから、引退することでもある。いつも誰かであること、何かであることは疲れることである(と思いませんか?)たとえ、ほんの5分でも、誰かでない場所、誰でもない場所、一切の属性がない場所で憩うことは、ストレスの多い世俗社会で生きるのにも役立つはずである。

本日、ようやく言葉がまとまりました(!)


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)







神がいない風景2023年08月07日 10時28分55秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(16)まで公開中。


*チャンネル登録はこちら(シンプル堂)


皆様、猛暑お見舞い申し上げます。


ジョエル・ゴールドスミスの本が、ようやく今月中旬に発売されることとなった。「赦し」とか「カルマ」とか、イエス・キリストの山上の垂訓とか、テーマが「熱すぎる」(笑)と感じる方は、購入して、少し涼しくなってから、読んでもらえればうれしく思います。

今回、最後に、本書『静寂の雷鳴』の中で、私が非常に印象を受けた彼の言葉を紹介しよう。それは:

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」

その前後の部分を引用すれば:

「神のパワーはそれができるすべてをすでにやっていて、それは意識のエデン的状態の中で活動していますが、二つのパワーの世界の中では活動することができません。ですから、私たちや私たちの隣人たちがどれほど善人で道徳的で善意の人であっても、私たちも彼らも罪、死、事故、戦争を免れないのです。何度も何度も次の質問が尋ねられてきました。「もし神がいるなら、どうしてこんなことが可能なのか?」と。その答えは驚くべきものです――「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」。創世記の第2章に神はいません。原因と結果の法則――カルマの法則――である主神だけがいるのです。私たちが原因と結果の法則を超えるとき、もはや法則の下ではなく、恩寵の下、言い換えるなら、創世記の第1章の中で生きていて、そこには人間的悪も人間的善も存在しません。罪もなく、純潔もなく、ただ神だけが存在します」( 8 章 「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」)

ジョエル・ゴールドスミスが上記の引用で言っている「人間的風景」とは、「二つのパワー、善悪のパワーが戦っている風景」、さらにもっと具体的に言えば、私たちがマインドの中で、「私は正しく、お前は間違っている」という「私」対「あなた」の戦争をしているとき、そして、世界の一部を激しく否定している(憎んでいる)ときのことである。そういうマインド風景のときには、「そこには神はいない」。

さて、神は普遍的存在であり、どこでもいつでも誰の背後にもいるはずなのに、これはどういうことだろうか?

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」――この言葉をもっと正確に言えば、「神は存在するが、人間的風景な中では神(の恩寵)は働くことはできない」ということであろう。

つまり、神(の恩寵)は、私たちの「個人的意志=物事はこうあるべき」というような意志や「利己的欲得」があるところでは、働かないということでもある。だからこそ、ジョエル・ゴールドスミスは、たとえば、「どうか神様、私に〇〇を送ってください」というような、あるいは、「どうか神様、私たちに勝利をもたらしてください」というような嘆願的祈りは、神に届かないと言っているのである。

神様にお出ましいただくためには、私たちのほうで人間的風景から抜け出し(=物事の善悪判断を手放す)、神がいるところへ行かねばならないということであり、ここで役立つ概念は、「明け渡し」である。私的に言えば、「神様、この状況は仕方ありませんね」と常にあきらめる(笑)。長い人生の経験から言えば、(悪いと思われる)状況に抵抗しなければ、なんとかそれを切り抜ける知恵とパワー(神の恩寵)が出て来る感じ……である(神がどこにいるか確信できない方は、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット発行)の第14章「神を信じること」で、ダグラス・ハーディングが間違えようもなく、その場所を正確に説明しているので、参照いただければと思う)。

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)















誰(何)にとっての、悪(人)なのか……2023年07月26日 06時02分26秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。

悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。

もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。

ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。

共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。

さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。

スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。

悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。

であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか? 

その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。

非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。

今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。

「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)

彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私のを赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。

「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。

関連ブログ

「好き嫌いと善悪」2008年2月19日



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)


















私がいない!2023年07月02日 09時04分07秒

皆様、暑中・大雨、お見舞い申し上げます。

[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年7月13日(木曜日)午後2時から午後4時
2023年7月16日(日曜日)午前9時から午前11時


オンライン「非二元の探究―思考の性質」
2023年7月20日(木曜日)午後2時から午後4時
2023年7月23日(日曜日)午前9時から午前11時 


[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」(正式タイトル未定)が、
8月下旬出版予定となりました。今後、タイトル、価格が決まりましたら、順次お知らせします。

*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(11)まで公開中。


先日の晩のことだ。夜の11時頃に、隣の部屋から母の叫び声が聞こえてきた。私が母の部屋へ行くと、母がベッドに腰かけて、何か叫んでいる。

よく聞くと、「私がいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ。どこへ行けばいいのか、わからないから、困っている。もしかしたら、私は死んだのかもしれない」みたいな言葉を繰り返している。

母が夜に目を覚ましたときに、叫ぶことはよくあることで、いつもはたいてい、「お腹すいた」、「夕食食べてない」、「(オ)シッコに行きたい」、「誰もそばにいない」、「〇〇さん(母の昔の友人の名前)に会いに行く」というような、ごく日常的な平凡な言葉だ。それが先日の晩は、「私はいない。不思議だ。私を探しにいかなくちゃ」と、いきなり形而上学的スピリチュアル的悩み(笑)になっている。

母はスピリチュアルとか宗教とか、人間の心理にさえまったく関心がなく、非常に外向きな人だったで、今まで母から「私」に関する悩みや言葉など聞いたことがない。私は生涯初めて母から聞いたその形而上学的言葉にびっくりし、「ほら、お母さんの『私』はそこにいるよ」と言いながら、母にわかるように、母の体を強く触りながら言った。それでも母は、「違う、違う。私がいない。私は死んだのかもしれないけど、向こうにいるかもしれないから、探しに行く」と言い張り、立ち上がって、部屋から出ようとする。

なんとか説得して、ベッドに戻しても、まだ「私がいない。不思議だ。探しにいかなくちゃ」を繰り返し、そうこうしているうちに疲れて寝入ってしまった。

介護は大変なことも多いけど、時々可笑しいことが起こる。母をここ数年間見てきて思うことは、人間の精神は非常に複雑で、その中にたくさんの人格があるということである。私が「母」として知っていた人は、そのほんの一部であったことがわかる。今は、母という人格は完全に、それこそ「死んで」しまっている。

今後また母が「私がいない!」と言うのかどうかはわからないけど、最晩年、母からスピリチュアルな人格が出てきて(笑)、「私」をめぐって会話ができたら、楽しいかもしれない。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















最近読んだ本から2023年06月11日 09時26分11秒

[ お知らせ]
1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(8)まで公開中。


1『お金のむこうに人がいる』田内学(ダイヤモンド社)

(実は、前回のブログのタイトル、『言葉の向こうに人がいる』は、本書のタイトルから借用させてもらった)。本書は、元外資系金融のトレーダーだった人が、専門用語を使わずに、お金や経済、金融についての疑問を解き明かした本である。著者は、「自分は長年、トレーディングの仕事をしながら、お金のことをとことん考えてきた。自分の頭で考えるときに、専門用語は必要なかった。専門家が専門用語を使うときは、相手をごまかそうとするときだ」と書いている。まったくそのとおりだ。新聞やネットに出ている経済や金融の専門用語や専門的説明がわからなくても、まったく問題ではない。自分で「お金とは何か」「経済とは何か?」を考えれば、いいだけなのである。

そうはいっても、素人には、ゼロからお金や経済について考えることは難しいかもしれない。そんなときに何か考える材料が欲しいという人には、本書はピッタリである。著者は、様々な質問を通じて、お金に関する社会の常識は本当か?という問いを読者に突き付ける。本書を読み終えたときには、老後資金問題、日本国の借金問題などに、「ああ、そういうことか!」と新鮮な発見があることだろう。そして、なによりも、自分がお金のやりとりをするとき、その向こうにいる「人」を意識するようになることだろう。


2『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』(オリバー・ハックマン)東邦出版
(本書は、『ネガティブ思考こそ最高のスキル 解毒剤』というタイトルで最近復刊されたようだ)。

最近、世界的ベストセラーになっている『限りある時間の使い方』(こちらの本は未読)の著者の以前の本の邦訳本である。

本書『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』は、ジャーナリストである著者が、世界の様々なスピリチュアル、精神療法(心理学)の先生(著名なエックハㇽト・トールにも会いに行き、そのときの様子も掲載されている)を訪問し、また瞑想キャンプにも参加しながら、いわゆる「ポジティブ・シンキング」と呼ばれている考え方が何をもたらすのか、実証的に考察した本である。

最初に登場するのは、著名なポジティブ・シンキングの先生で、1万5千人もの人たちが集まるその集会の雰囲気は、あとで紹介するトランプ元大統領の集会にそっくりである。「俺たちに不可能はない!」的メッセージの連呼は、集会の参加者(信者)たちにある種の陶酔をもたらし、まあ、言葉は悪いが、「ポジティブ・シンキング馬鹿」を生み出す。

私が本書に書かれたエピソードでもっとも印象に残ったのは、目標達成についての章のヒマラヤ登山の話である。ヒマラヤ登山では、どれほど頂上に近づいても、危険が差し迫っているときには、引き返す勇気が一番大切という話である。そのルールを破って、ある登山グループが危険をかえりみず、登山を強行し、登頂には成功(目標達成に成功)したものの、そのあと遭難するという有名な事故が昔あったそうだ。

この話を読んで、私が真っ先に思い浮かんだことは、現在、マイナンバー・カードと健康保険証(そして、将来は運転免許証など)を、リスクの検証もほとんどやらずに、一本化しよう(「リスクは分散する」って、現代のリスク管理の基本ではなかったっけ?)という目標達成に躍起になっている日本政府の姿である。このプロジェクトの現在の最高トップである河野大臣は、「猪突猛進」という言葉がぴったり当てはまる人で、「なにがなんでも俺はやる抜く」的ポジティブ・シンキングの持ち主という印象がある。今でさえ、マイナンバー・カードの問題点が日々報道されているが、目標達成に執着するあまり、もっと大きな問題をばらまくことになるような感じ……

その他本書に、「目標達成をイメージする」(成功哲学では、非常に有名な方法)は、かえって、目標達成を妨害するという実験など、興味深い話が多く掲載されている。経験的にも、著者が提唱する、ネガティブ・ケイパビリティ(「否定的なことを受容する能力」くらいの意味)のほうが、はるかに心の平和に役立つだろうと私も思っている。ただ、本書も、著者のポジティブ・シンキング嫌いという偏見が多少かかっている感じもあり、それこそ「盲信」しないで、読むことをお勧めする。


3『アンダークラス』(相場英雄)小学館

ネット通販のおかげで、私たちは「できるだけ安いものをできるだけ早く」手に入れることができる消費王国の時代を謳歌している。本書は、私たちの快適な消費ライフを背後で支えているブラックな世界(階級の上の世界に所属する者たちが、階級の最底辺層=アンダークラス=世に言うブラック企業とそこで低賃金で働かざるを得ない人々を搾取する世界)を、ミステリーの形で描いた本だ。本書は、娯楽本なので、弱者に心を寄せるヒーローたちがいて、彼らは、弱者を利用し、罪に陥れようとする上層階級の人間を執拗に追い詰め、最後には真実を明らかにする。しかし、現実には、ヒーローはそうそう登場しないものだ。

本書を読んだせいばかりではないが、通販で買い物するとき、最近気分があまり晴れないときがある。だからといって、通販での買い物をやめることもできず、まあ、自分にできることは、自分がこれを手にした背後に、様々な人たちの労働があったこと=「自分が払ったお金の向こうに人がいる」ことを思い起こすことくらいだけど。


4『トランプ信者潜入一年――私の目の前で民主主義が死んだ』(横田増生)小学館

2020年のアメリカ大統領選のときに、著者はトランプ陣営の選挙スタッフとして潜入し、トランプ元大統領を熱狂的に支持するトランプ教の人たちを取材しながら、アメリカという国の現在を浮かび上がらせている。トランプ元大統領とは、1で話題にした「ポジティブ・シンキング」のまさにサンプルのような人であり、彼の中にそれこそ「ポジティブ・シンキング」の欠陥を見ることができるかもしれない。

つまり、自分の中に否定的なものを見ることを絶対的に拒否する反動で、自分の外側(自分とは意見が異なる側)を全部「敵」と認定し、「悪」として攻撃する。こんなにウソを並べたて、自分の好き嫌いを声高に叫び、他者を攻撃することを喜びとする人が、国家の最高権力者になったことも驚きだが、本書でさらに興味深いのは、トランプさんの言葉に酔いしれるいわゆるアメリカの「トランプ信者」たちの様子だ。アイドルに陶酔することで自分たちがかかえる本当の惨めさ覆い隠し、それはかつてヒットラーに心酔したドイツ国民に似ている感じがあり、アメリカもそろそろ「終わりの国」であることを印象づけている。著者は最後に、「民主主義の死」について警告しているが、アメリカの子分のように長年振る舞っている日本だって、民主主義は相当にあやうい。


5『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己)亜紀書房

人は、自分が生まれ落ちた家庭環境、そして地域環境の文化的価値観の束縛を受ける。もし私たちが一生、生まれた場所から移動しないで、その場所で生活し続けるとしたら、生涯その文化的価値観を絶対のものと考え、それ以外の生き方、価値観はないと思い込むことだろう。

私が自分の家と生まれた場所を離れて、最初にわかったことは、世の中には色々な家庭(地域)環境があり、色々な親がいて、色々な家庭がある、ということだった。そして、人は自分が生まれ落ちた家庭の価値観に相当束縛されていることにも気づいた。

それから、文化人類学という学問を学んだおかげで、私たちが当然だと思っている日本という国の文化的価値観も絶対的なものではなく、世界には無数の文化があり、それぞれの文化にはそれぞれの固有の価値観があることを知って驚いた。文化や価値観の多様性に私の目を最初に開いてくれたのが、文化人類学という学問だったのだ。

本書は、ボルネオの狩猟採集民「プナン」でフィールドワークをした人類学者が、プナンの人たちには、「ありがとう」や「ごめんなさい」という観念も、それに相当する言葉もないことに衝撃を受け、それがいったいどういうことなのか、プナンの人たちと一緒に暮らした日々を綴りながら、哲学的思索をした本である。

たとえば、プナンの人たちが著者にお金を借りに来る。でも一言の「ありがとう」もなければ、返金もまずない。また、著者から物を借りて、返ってきたときには、壊れていても、「ごめんなさい」もない。そもそも「借りる」という観念がないのだ。あるいは、著者が不在中に勝手に物をもっていく。プナンでは、物を所有するという観念がほとんどなく、もっているものはすべて必要な人に分け与えるのがよいとされている。

プナンの人たちの価値観とは、「人々が生き続けて、共同体が存続すること」というきわめてシンプルなもので、それに役立たないものは、儀式も儀礼も観念も物も所有しない。死者への敬意や愛情すらなく、人が死んだら埋めて、さっさと忘れるのがよいとされる。明日も過去もなく、「個人には何の責任もない」とか、「今、生きていること、それだけが重要」って、なんだかラメッシ・バルセカールの教えをみんなで実践しているような民族(笑)である。

もちろん、彼らの価値観も多くある文化的価値観の一つであり、絶対的価値観でもないし、日本のような社会では、「ごめんなさい」、「ありがとう」とういう言葉は、ある種の潤滑油の役割もあると思う。でも、こんなふうに人が生きている社会もあるんだということを知れば、次回人から、「ごめんなさい」、「ありがとう」を言われなくても、「ああ、プナン的か」と思って、あまり腹もたたなくなるかもしれない。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)












言葉の向こうに人がいる2023年05月18日 10時41分33秒

[ お知らせ]
1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(4)まで公開中。


ここ数年、政治家や官僚など社会的地位がある人たちのセクハラ、パワハラ的言葉が非難されたり、炎上したりする話がよくネットに出ている。政治家や官僚、その他社会的地位などがある男性たち、権力者のセクハラ、パワハラなどは、大袈裟に言えば、歴史の始まりからあり、今に始まったことではないが、最近の違いは、社会(とくにその中の女性たちが)が以前よりはるかにセクハラ、パワハラ的言動、ついでに言えば、差別的言動に非常に敏感になっていることだ。

最近読んだ記事で興味深かったのは、某県の副知事が、海外のイベントで、関連団体の女性代表に、「(あなたは)また違う男の人を連れ回しているね」と言ったことで、セクハラ的言動をされたと、その女性から訴えられ、そして、反省し(反省させられ)、謝罪した(謝罪させられた)という話である。

その副知事さんは、自分が気づいた事実として、何気なく言った言葉が相手からセクハラ認定され、たぶん驚いたのではないかと思うが、この人のその反省の意味が、「ああそうか、『また違う男の人を連れ回しているね』という言葉そのものが、使ってはいけないセクハラ的言葉なのだ」とただ学習するだけだと、またいつか地雷を踏む可能性がある。

この状況での何が一番問題かと言えば、私が思うに、まずはその言葉そのものより、海外の公のイベントの場で、公けの立場で出合っている者同士の関係(この場合は、副知事と団体代表という立場で)、仕事とはまったく無関係の、言う必要のない話を相手の女性にふっていることだろう。

それに加えて、女性が、「また違う男の人を連れ回しているね」の言葉(ついでにさらに言えば、「連れている」ではなく、「連れ回す」も、否定的なニュアンスが含まれることが多い)を聞いて不快になったということなので、それはたぶん、副知事さんが無意識に込めたかもしれない、「君は、遊び人だね」とか、「外国人の男たちとチャラチャラしおって」みたいな侮蔑の意味を相手に感じ取られて、それが一番の致命傷になったのではないかと想像する。

一般的に言って、女性は言外の意味を察するのが得意である(ときには、察しすぎて疲れるものだ)。仮に男性が、「〇〇さんはまた違う男の人を連れ(回して)いるね」に、「あなたはモテるんだね」という純粋な誉めの気持ちを込めて発した場合、セクハラとは認定されない場合もあるだろう。

では、こういった状況で、代表が男性で、副知事さんが女性だった場合、同じように、「あなたは遊び人だね」とか、「外国の女とチャラチャラして」という言外の意味を込めて、「また違う女の人を連れ回しているね」と副知事さんが言った場合、セクハラで訴えられる可能性はどのくらいあるだろうか? たぶん、少ないだろうと予想できる。その理由はまず、男性は言外の意味を感じることが不得意な人たちが多い。そして、男性の場合、「また違う女の人を連れ回しているね」という言葉で、モテる男と認定されたようで、むしろうれしいかもしれない。

「〇〇さんはまた違う女(男)の人を連れてるね」ぐらいの言葉は、世間ではよく聞く言葉で、ときには相手に面と向かって冗談ぽく言う人さえいるし、様々な下記のような言外の意味をこめることが可能だ。

「〇〇さんは遊び人だね」
「〇〇さんは、それほどハンサム(美人)じゃないのに、意外にモテるんだね」
「〇〇さんはモテて、うらやましい」
「〇〇さんは、あんなに遊び歩いて、大丈夫?」

私がなんでこんなどうでもいい話をくだくだ書いているかというと、言葉とは単に、言葉それだけで意味が完結するわけではなく、状況、言葉を発する人の立場、受け取る人の立場、双方が抱いている観念や感情によって、様々に解釈が可能で、それが人と人のコミュニケーションを複雑で難解なものにしているという事実に、もっと人が気づくべきではないかと思っているからだ。

日本の政治家、官僚の皆さん、社会的に地位が高い、特に男性の皆さん、特に昭和文化を背負っているような方々は、一方的にしゃべることに慣れているせいか、あるいは、地位のある自分に得意になってしゃべるせいか、「自分が発する言葉の向こうには人がいる」ことをまったく考慮にいれない人たちが多い。つまり、しゃべる前に、自分がこの発言をしたら、聞いている人(たち)はどう感じるのか、さらに、今の時代の国民の風潮として、その発言は許されるのかどうか、ということを考えないので、自分が無意識に思っていることが、ぽろっと出て、セクハラ、パワハラ、差別発言と認定されてしまうのだ。

こんなことを書いている私だって、言葉によるコミュニケーションは決して得意ではなかったし、今でも日々学ぶという感じである。30代になってから、ようやく他人の心を思いやる余裕が出てきて、「人は言葉に非常に弱い(傷つきやすい)生き物である」ことを知るようになった。そして、しゃべる前に相手の存在を意識するようになり、それからは、できるだけ他人を傷つけないように、言葉を使うことを心がけるようになった。それでも、今でもたまに、「地雷」を踏むし(苦)、言葉を仕事の道具としている立場のため、私の言葉で人を不快にすることがあることは、避けられないだろうとも、自覚している。

最近では、「コミュニケーション障害(略して、コミュ障などともいうらしい)」という言葉があるくらいで、人と人のコミュニケーションの困難さは一般にも知られるようになった。自分自身の経験から言えることは、コミュニケーション能力とは、生まれつきのものではなく、ある程度は練習によって上手になる、逆に言えば、練習しないとうまくはならないということで、このことはほとんど理解されていない気がする――発達障害や自閉症などの脳の機能のせいで、コミュニケーションがうまくいかないという人たちもいるが、その人たちでさえ、学習によって、ある程度はコミュニケーション能力は改善すると言われている。

そして、ついでに言えば、スピリチュアルな目覚めとコミュニケーション能力は必ずしも一致しない。つまり、自分の本質に目覚めたからと言って、他人との言葉によるコミュニケーション能力が一気に上がるというわけではない。

そのよい事例が、ダグラス・ハーディングとラメッシ・バルセカールだ。確かに彼らは実人生でも優秀な人だったが、さて、コミュニケーション能力に関しては、ハーディングは30代で自分の本質に目覚めてからも、自意識なく普通に人と話せるまで、10年以上の年月がかかったと伝記にあるし、ラメッシ・バルセカールも、元々人としゃべるのが好きではなく、目覚めた当初もほとんど人としゃべらない人だったと書かれている。それがお二人とも、私がお会いした80代の頃は、自分が出会う人と誰とでも打ち解けて話していたので、彼らにしても長い年月をかけて、少しずつ他者とのコミュニケーションを学んでいったのだということがわかる。

ということで、ハーディングの言うところの人間クラブは様々な人たちがいて、コミュニケーションはときには、非常に困難で苦痛のことも多いが、「言葉の向こうには人がいる」、さらに、その「人」の背後には、すべてに共通する本質があるということを心に留めて、お互いに人間クラブでの修行(笑)に(ときにはイヤイヤ)励みましょう。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















チャットGPTで金儲け(!?)2023年05月02日 08時56分15秒

[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年5月14日(日曜日)午前9時から午前11時
2023年5月18日(木曜日)午後2時から午後4時


オンライン「非二元の探究―ラメッシ・バルセカールの教え」
2023年5月21日(日曜日)午前9時から午前11時 


[お知らせ] 
「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」が完成しました。動画は(1)から(27)です。
(一つの動画は15分くらいです) 

シンプル堂youtubeサイト

[新刊情報] 

「バーソロミューとの旅(上)日本編」(バーソロミュー著 ナチュラルスピリット発行)


「バーソロミューの旅日記(上)日本編」が新しいタイトルで復刊されました。シンプル堂が「バーソロミューの思い出」を寄稿しています。



前回のブログで、「チャットGPTを使って金儲けする人がでるだろう」という話を書いた。最近のネットにボチボチそういう系列の記事が出てきている。

この間読んだ記事は、「チャットGPTを使って、15分で本を書き、キンドルで売って、月額数十万円から百万円を売り上げる」というような内容のもので、その記事を書いたライターさんは、新書版くらいの分量の自己啓発系の本を実際にチャットGPTを使って15分で書き上げたそうだ。

「15分で1冊を完成」、であれば、タイトルと簡単な章立てさえ企画できれば、一日に最低でも数冊、一か月に100冊も完成できる。そして、もしそれらの本がすべてキンドルでたくさん売れるとしたら、まさに「夢の錬金術!」である。

しかし、その記事を読み終わって、はたと考えたことがあった。それはもしライターさんがチャットGPTを使って、15分で本を書けるとしたら、読者が(どんな分野であれ)自分の読みたい本(文章)をチャットGPTに無料で書いてもらうこともでき、わざわざ有料でキンドル版の本を買うこともないのではないか、と。

自己啓発、健康、美容、純文学、ミステリー、スピリチュアルなど、どんな分野だって、チャットGPTはこなすであろう。

たとえば、「探偵が30代女性で、場所は北海道のどこかで、殺人件数は3件(以下、数十の条件を入れる)の東野圭吾風の新作ミステリーをお願いします」とか、「村上春樹風の新作小説で、最後に笑えるものをお願いします」とか、「『死ぬ日まで幸福でいる私流10のルール』というタイトルの自己啓発書をお願いします」とか。あるいは、有名な文豪の未完の小説の続きを書かせるとか。こんなふうに、チャットGPTに無数に自分のために本というか文章を書かせることができる。まあ、そうやって自分で遊ぶ分には、チャットGPTは充分に楽しいものだろう。

しかし、1冊の本を読むという行為=読書とは、私の考えによれば、活字という媒体を通じて、その本を書くに至った著者の想い、経験と交流・対話するということである。読まれていないときは、紙の本はただの物だし、電子書籍はただの電子データであるが、私が本を開き、読み始める瞬間に、活字の背後の著者の想い・経験と交流することになる。さてさて、チャットGPTによって書かれた本には、その想いや経験が欠落しているので、では、本の背後のどんな想いと交流することになるのだろうか? たとえば、ライターさん(この場合は、著者ではなく、本の体裁を整える編集者みたいな存在だ)の「チャットGPTに本を書かせて、金儲けしよう!」という想い(笑)だろうか……

数年前に、AIが小学6年生の知性を超えたということで、教育界に衝撃が走った話を書いたことがあるが、チャットGPTの登場でわずか数年で、AIは小学6年生からいきなり大学教授(!)になった感じだ。もはやAIとの競争時代ですらなく、人間はAI様にお仕えする召使いや助手の地位に成り下がりつつある。

2019年4月20日
AI(人工知能)との競争時代


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)