絆(きずな)時代の苦痛2013年10月19日 08時25分10秒

 2011.3.11の東日本大震災以後、「絆」  という言葉と、「あなたは一人ぼっちではない」 というメッセージがやたらマスコミから流れて来た気がしている。

私は子供の頃からかなりひねくれているので、  「絆」  とか「あなたは一人ぼっちではない」のメッセージが過度に強調されるたびに、「いやいや、『絆』には、苦痛という代償が伴い、しかも、どこまで絆を積み上げても、人の孤独は癒やされないものだ」と思うのである。

もちろん、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」の大量のメッセージのおかげで、多くの人たちが、自分の家族や自分が出会う人たちに、今までよりも、より親切でやさしくしようと心がけるようになったとしたら、それはよいことではあるし、そんなことは災害時でないときから、人としては心がけるべきことだ。

しかし、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちでない」の強調が、災害時に感じた自分たちの無力と寂しさの裏返しであるとしたら、 「絆」  と「あなたは一人ぼっちではない」が、「絆を感じるべき」とか、「あなたは一人ぼっちであるべきでない」というように、人間関係への依存と執着をさらに強化するメッセージとして働く可能性もあるのでは、と私には感じられる。

それに加えて、現在は、他人とのコミュニケーション・ツールが安価で非常に普及し、簡単に誰とでも「つながり」を築くことができ、連絡が取れる時代である。 だから、かえってなおいっそう、子供から大人まで人々の孤独感と疎外感が全体では強まっているというのが、私の印象である。下手をすれば、人間関係をもっていなかったり、絆を感じなければ、何か自分が人として欠落しているように感じさせられる、雰囲気さえある。

調査によれば、多くの中高生が一日に数時間を、メールや無料電話で、友人たちとのやりとりに費やしているそうである。数時間とは、尋常ではない時間である。そんなふうに友人たちとつながっていないと、不安になるのだという。

集団の中での自分の評判や立ち位置を気にするというのは、人間の中の動物的本能・意識によるものである。なぜなら人類は、集団の力によって生き延びてきた、生物としての長い歴史があるからである。メールや無料電話に極度にはまっている子供たちは、そういったツールによって、動物意識に強く憑依されているともいえる。 だから、若い子供たちがいとも簡単に本当に動物状態になって、罪悪感もなしに(罪悪感をもたないのが、動物意識の特徴である)、仲間内で、いじめから殺人まで、残酷な行為をやってしまうのも、理解できる話である。

このように、絆はときには、残酷で、苦痛なものでもある。そういった絆の苦痛を癒やすのが、孤独である。人間関係が仮になくても、自分がいれば本当は十分なのである。「あなたがいなければ、生きていけない」という嘘は、恋愛歌などでは、まるで愛の証のように高らかに歌われるが、それは本当は、私に言わせれば、動物的「脅迫」(笑)である。

誤解がないように言えば、私が人と人の絆を否定しているわけではない。「絆」は広い意味で、二つのものの間の「関係」という考えにたてば、人はあらゆる絆に囲まれて生きている。今このブログを読んでいる皆さんと、私も何らかの絆があり、本を読む読者と著者にも絆があり、初対面の人と出会っても、そこに絆がある。たった今食べたばかりのリンゴを介して、私はそれを作った人との間に絆がある。というように、現代社会では、そういった絆なしには、ほとんどの人は生きていくことができない。

自由と平等があるところでの絆は楽しく、お互いが一時的であれ、長期的であれ、理解し合い、絆を楽しむことは、人間意識の中でもっとも贅沢で甘美な経験である。そして、親しい絆の関係が終わるとき、それを悲しむことができるのも、人間意識の特権である。

最終的には、スピリチュアルな道にいる人にとっての人間関係・絆の形態とは、アジャシャンティが「あなたの世界の終わり」(ナチュラルスピリット発行)で述べているようなものである。

人々が自立し、自立を通じて、お互いにある種の親密さを発見するというものです。そこが私が人々と出会う場所であり、その場所で全体として、能力があるものとして、そして彼らが自分でもっているとは思っていないかもしれない能力をもつものとして、私は彼らを見るのです。彼らがそこに立ち、自分自身の内なる十分さを発見し始めるとき、そこで私たちは出会うのです。私は彼らの不十分さの中で、彼らが自分には能力がないと思っているその場所で彼らと出会うのではありません」(「あなたの世界の終わり」238~239ページ  )

つまり、アジャシャンティがここで言っているのは、「私は、あらゆる人を自分と同等の能力をもった存在として見る」ということである。彼がまた警告していることは、導師(グル)や先生などを自分より高い台座に乗せて、自分よりもパワーがあるものとして、崇拝したり執着したり、依存関係を作らないように、ということでもある。あるいは、弟子や生徒や信者に依存しないように、ということでもある。

人間同士の絆――それが自然に起こればハッピーであるが、なくてもけっこうなものである。なぜなら、アジャシャンティが言うように、私たち全員が一人一人十分な能力をもつものであり、そして、スピリチュアルな人たちがよく言うように、「すべてはワンネス(一つ)であるからだ」――人間のいかなる努力も作為も修行もなく、すでに現実として。
 
 
[お知らせ]

201310月26日(土曜日午後)
「人をめぐる冒険ワークショップ」(広島市)
  http://www.simple-dou.com/CCP037.html

2013年10月27日(日曜日午後)
「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
   http://www.simple-dou.com/CCP037.html                                            

2013年11月23日(土曜日午後)
「楽しいお金」ワークショップ(大阪市)
http://www.simple-dou.com/CCP038.html

2013年11月24日(日曜日午後)
「私とは本当に何かを見る」ワークショップ(大阪市)
http://www.simple-dou.com/CCP040.html

 



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