感情の研究(2)罪悪感の裏側2013年05月19日 10時00分57秒

今回は罪悪感について。

罪悪感については、二年前に一度、書いたことがあるので、そちらも合わせてご参照ください。
罪悪感の三段階(1)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/06/

罪悪感の三段階(2)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/08/

嫉妬と同じく、罪悪感もしつこく居座る、イヤな感情で、それゆえに罪悪感はしばしば抑圧される傾向にあり、他の何かに転化されやすい。

嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを感じさせられると前回書いたが、人が罪悪感を感じるときは、文字通り、自分が「罪と悪の側にいる」ことを感じさせられる。

罪悪感に関して興味深いことは、罪悪感をよく感じる人とほとんど感じないか、まったく感じない人がいるということだ。上記の罪悪感の三段階(1)で、動物や犯罪者は罪悪感を感じないという話を書いたが、普通の人たちの中にも、自分が何をしても何を言ってもほとんど罪悪感を感じない人たちがいる一方、自分の言動の一つ一つが気になり、クヨクヨと罪悪感に悩む人たちもいる。

自分の言動に罪悪感を感じない人たちのよくあるタイプが、自分の言動をあまり深く内省せず、感じたままで物を言い、そしてすぐ忘れるタイプだ。こういうタイプの人は基本、他人の感情領域に鈍感で、「自分の言動はいつも正しい」と信じて疑わないタイプである。こういうタイプの人に、誰かが、「この間、あなた、私にこんなこと言ったでしょう? 私、すごくイヤな思いをした」みたいなことを言っても、たいていの返答は、「え? 私、そんなこと、言ったっけ?」か、あるいは、「そんなこと気にするなんて、あなたのほうがおかしいんじゃない?」みたいな返答となる。うらやましいほどの「短期記憶」(笑)である。

なぜこのタイプの人たちは、そんなに「自分の正しさ」を主張しなければならないのかといえば、それはそう主張しないと、反対の側、つまり、「罪と悪」の側に転落する恐れを非常に強くもっているからだ。本当は、そういった人は罪悪感をもっていないのではなく、何かについて非常に強い罪悪感があって、もしそれを感じたら、生きていくのが非常に辛くなるので、罪悪感を抑圧して、自分を正しい側に置くことで、精神のバランスを保っている。あるいは、普段はめったに自己主張しない人でも、特定の何かに関して、「自分の正しさ」をどうしても主張せずにいられないときがあれば、その背後に無意識の罪悪感があることを疑ったほうがいいかもしれない。「罪悪感と自分への非難」は、抑圧されると、「自分の正しさと他人への非難」に容易に転化されるものである。

精神の進化から考えれば、以上のような罪悪感を感じない人たちよりも、罪悪感を感じる人たちのほうが、進化しているとは言える。

つまり、他人の立場や気持を思いやる気持ちが芽生え、自分の言動を深く内省するようになるからこそ、罪悪感を感じるわけで、罪悪感は、より多くのことを感じられる感受性の進化と向上心と記憶能力の増加のおかげでもある。

しかし、より精神の進化が進んだにもかかわらず、人間界ではなぜか、罪悪感の強い人は罪悪感を感じない人たちよりも、不利な立場に置かれることが多い。その理由は、前回のときにも触れたけれど、一つは、罪悪感は常に人を後ろ向きにさせ、過去の重荷を背負わせ、自分の現在を否定し、前に向かうエネルギーを奪うからである。罪悪感を感じなければ、自由にできることが、いったん罪悪感を感じてしまうと、自分が何をしても、間違った、正しくない側にいるような気がするのだ。そして、これも以前に書いたことではあるが、それに追い打ちをかけるように、罪悪感はある種のトリックスター(悪戯もの)で、自分が無意識に何かに強く罪悪感を感じていると、ほとんど必ず誰かが鏡のように自分を批判しにやって来るという具合である。人間界でよくおこなわれるゲームの一つは、「私は正しい・あなたは間違っている」という罪悪感のなすりつけ合いである。

それから、罪悪感を感じるもう一つの主要な原因に、理想の自己イメージというものがある。自分に対してある種の理想的な善なる聖なる自己イメージをもつ場合、それにそぐわないことをすると、罪悪感を感じやすくなる。自分はよい人(母、父、夫、妻、子供、友人など)であるというイメージを強くもっていたり、自分がいつも正しく、清く、美しく、賢く、スピリチュアルでなければいけないと思ったりすると、自分にも周囲にもストレスを与える。人は、絶対的に善の人も絶対的に悪の人もいるわけではなく、関係によって善になったり悪になったりするだけである。イエス・キリストでさえ、ユダヤ社会にとっては「悪」であったのだ。

だから、私はいつも思うのである。人としての私たちはみな、精一杯生きてはいるけど、それでも不完全な生き物である。だから、自分の中にある冷たさ、間違い、愚かさ、優柔不断、気遣いのなさ、意地悪な気持ちを、ゆるしましょう、って。自分がいつも「よい、正しい、賢い、清い、美しい、高い、聖なる側にいる」と、思い込むのはやめましょう、って。もし次回、罪悪感を感じたら、とことん、「自分は本当に悪いやつ」と感じきるのも、よい方法である――私自身、この方法で、何度かしつこい罪悪感から解放された経験がある。自分の「悪」を受け入れたら、もう「よいふり」をする必要もなくなり、そうすれば、緊張がなくなり、ありのままの自分でリラックスしていられるものである。

それから、最後に、自分が社会の少数派に所属していると感じるときに、「自分の状態はおかしいのではないか」と罪悪感を感じる人たちがたくさんいる。しかし、本当のところは、あらゆる人は究極的には誰でも、「少数派お一人様」である。人としての私たちの存在のあり様は、決して他人と同じではありえず、色々なことが異なるのが普通である。人間は(動物とは違って)、お互いが違って、多様であるのが普通である。自分と他人を比較して、自分が他人のように考えたり行動できないことを責めたり、他人が自分のように考えたり行動できないことを責めても、百パーセントムダ! である。「北朝鮮化運動」(笑)――みんなが同じように考え・行動することを絶対善として、少数派を断罪しようとすることを、私はひそかにこう呼んでいる――は、人生の最大のムダと非効率である。

むしろ、人間関係や組織においては、違うもの同士が、どうしたらお互いの違いを認め合って、共通の仕事や何かを一緒にやっていくことができるのか、それを研究するほうがはるかに役に立つだろうと、思っている。

以上、罪悪感を感じやすい原因をまとめれば、

1他人の感情領域に敏感である
2自分の言動の内省と過去を記憶する能力と向上心の増加
3自分に対する高い理想的な自己イメージ
4自分と他人を比較し、少数派であることを感じる

罪悪感の裏側は、感受性、理想、向上心、記憶能力といった非常にポジティブなものである。だから、罪悪感を感じることそのものに罪悪感を感じる必要はないし、自分の中の負の部分を許せば、自分にネガティブに作用していた罪悪感がポジティブなものに変容するかもしれないのである。

最後に、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」から、若い頃の私の心に非常に響いた言葉を引用して、ご紹介したい。

「何かがわかった時には、それ以外のことについては自分が無知であることを認める、ということです。神聖な使命感を持ったならば、その裏側の罪と共に生き、その責任を受け入れることなのです」 (31ページ)

「自分の中にみにくいものの存在を許して認めてやれば、私達は美しいものを自由に作り出すこともできるのです。自分の愚かな部分を認めてやれば、私たちはどんな高い知恵でも得ることが可能になります」 (32ページ)



テストステロン(オス・ホルモン)中毒2012年07月23日 09時21分43秒

皆様、暑中お見舞い申し上げます。(8月は都合でブログをお休みします)

どこかの県の中学校で昨年起こった、イジメが原因とされる自殺が、今頃マスコミで大きく報道されている。

私は、学校でのイジメ問題が起こるたびに、その当の学校の校長や教育委員会の人たちの発言、「イジメはなかったと認識している」みたいな発言にいつも驚く。人が集団で毎日集まる場所(学校、職場、家庭等)では、どこでもイジメが起こる可能性があるし、特に中学校では、ほぼすべての学校で、私が子供だった頃も、現在も、大なり小なりイジメが起こっている。

ほとんどの場合は、たぶん、暴力ざたにならない程度ですんでいるか、イジメられている子供が孤独に必死に耐えているか、耐えられない場合は、他の学校へ転校するかして、表ざたにならないだけである。

イジメはめったに起こらない特殊なことだと学校関係者が思っているかぎり、毎回毎回、「イジメはなかったと認識している」と馬鹿の一つ覚えの発言を繰り返して、自分たちの無能さをさらけ出す羽目となっている。

なぜ教育関係者そして親たちががイジメに対して無知無能かといえば、彼らがヒトという生き物が子供から大人まで、どれほど本当は闘争的か、他者をコントロールして優位な立場に立ちたいという願望にどれほど駆り立てられて生きているか、知らないからだ。学校の教師はいつも生徒をコントロールして、自分のパワーを感じたいと思っている。親はいつも自分の子供をコントロールして、パワーを感じたいと思っている。そしてまた、教師同士、親同士も、コントロール・ゲームをしている。こういった自分たちの中にもある闘争本能を理解しないかぎり、子供同士のイジメのメカニズムも理解できないはずであろう。

「闘争本能」それ自体は、ヒトの肉体に生まれつき備わっているもので、それそのものが悪いわけではないが、それがヒトの自我(エゴ)とタイアップして、他人を踏み台にして、自己存在感を高めようとするとき、他者へのイジメという形でしばしば現れる。

その闘争本能をつかさどるホルモンが、テストステロンと呼ばれているオス・ホルモン(男性ホルモン)で、小学生高学年から中学生頃の思春期に、特に男の子の体の中で大量にそのホルモンが出始めることが知られている。

テストステロン(男性ホルモン)の作用というのは、日常用語的に言うと、「自分の中のエネルギーを外側に発散して、自分のパワーを感じたい」という衝動であり、sexはその衝動の一番有名な表現である。


学校という場で許されるテストステロン(ちなみに、このホルモンは女性の体の中にもある)の表現は普通、勉強、スポーツ、芸術とほぼ三つの分野に限られていて、この分野でテストステロンの衝動をうまく昇華できる子供たちは、学校という場で、それなりの居場所を見つけて、自分の存在にある程度自信をもつことができる。

しかし、すべての子供たちがテストステロンを無害に昇華できるわけではなく、学校の方針や教師の教え方が自分に合わないなどの理由で、不安や退屈や苦痛を感じている子供たち、あるいは、何らかの事情でひどい心理的ストレスをかかえている子供たちは、ほとんどの場合、人間関係の中で、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとする。

イジメている子供たちには、自分たちが悪いことをしているとか、自分たちがイジメているという認識はほとんどないはずであり、ただあるのは、「どうだ、オレがどれほど強いか、わかったか」みたいなテストステロンの衝動による自己存在の確認だけである。

そしてイジメられている子供も、多くの場合、イジメられていることを否定するのは、「イジメられている」ことを認めると、「自分は弱い存在である」ことを自分でも認めることになるからだ。子供の自殺というのは、自分のパワーの最後の証明とある種の「復讐」の意味合いがあるのではないかと、私には感じられる。小学中学生の頃のすべての子供たちは、切ないほど、自分の存在(パワー)を他者に認めさせたいと思っている。

学校でのイジメの問題に対しては、大人が考える解決法よりも、子供たち全員に問題を考えさせ、解決法を自分たちで創造させるのが本当は一番効果があるだろうと私はそう思っているが、学校関係者が自分たちの保身や無能さのために隠し続けると、いつのまにか大人の世界の(動物的)政治問題になってしまい、問題がスパイラルに膨れ上がって、もう誰も止めることができない状態になる(以前紹介した「ハインリッヒの法則」が当てはまる)

さて、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとするのは子供だけでなく、一生この動物的闘争に中毒する人たちもいる。「国民の生活が第一」党(という冗談のような党名――本当は、「オレの権力闘争が第一」党にすべきであろうと思うけど)の党首にこのたび就任された民主党元代表の小沢一郎氏はその典型である。誰かとの権力争い、選挙などの戦いになるときだけ、テストステロンが最高潮に盛り上がる方なのだ。小沢氏は、「昨年の原発事故のあと、放射能の影響が怖くて、地元へお見舞いにも行かなかった」とか、「塩を買い占めるように命じた」とか、自分の妻からその臆病ぶりが暴露されたという話がネットに出ていたけれど、集団でイジメる子供たちも、集団で動物的権力闘争する大人たちも、みな本当は臆病である。

というよりも、人はみな臆病なのだ。私の観念によれば、それを認めることができる人は人間で、それを認めることができない人はサル脳状態である。それを認められるとき、テストステロンの衝動が動物的闘争から人間的闘争へと進化する可能性が開かれるのである。

で、もうすぐロンドン・オリンピック――テストステロンが一番美しく無害に昇華され、お金も稼げて、人々からの称賛も得られるのが、スポーツという分野である。オリンピックのメダルとは、孤独と苦痛に耐えて、(イジメとは違って、より弱いところへ向かうのではなく)、より高くより強いところに向かった人たちに与えられる称号である。

お勧めの本
「政治をするサル――チンパンジーの権力と性」フランス・ドゥ・ヴァール著(平凡社)
チンパンジーの世界とヒトの世界がどれほど似ているかを教えてくれる本

シマウマの婚活ルール2012年02月15日 10時06分49秒

いつだったかテレビで、シマウマの生態を見たことがある。シマウマは大人のオス一頭とその妻(妻が単数だったか複数だったかは失念)と娘たちで暮らしている。そして、若いオス(息子)たちは群れを離れて、別の群れの若いメス(娘)に求愛し、また新しいカップルが誕生して、という具合に種が存続していく。

面白いのは、その求愛というか婚活で、ある集団の若いメスに若いオスが近づいてくると、その集団のボス、つまり、父親は必ずその若いオスと戦うのである。娘はといえば、その戦いをのんきに眺め、もし若いオスが父親に勝てば、若いオスについていき、もし負ければ父親のところに残る。このルールに例外はない。

こんなことは動物の世界だけかと思えば、案外このルールは、人の中の動物的マインドにも根強く残っているようである。世間でいうところの「結婚適齢期」(ほとんど死語に近い言葉ではあるが)の娘をもつ女性が、「親が娘の結婚に反対するのは、儀式のようなもの。反対されて引き下がるような程度の男と、娘を結婚させたくない」と言う発言を私は聞いたことがある。そのとき私は思わず心の中で、「シマウマか……」とツッコミを入れたものだ。

清水義範さんの小説の中に、一般的な父親が娘にいだく感情がどんなものかをよく表した文章があり、それを紹介してみよう。

「そして、最終的には娘には好きな男ができて、その男に奪い取られてしまうのである。
そのことを空想すると、腸(はらわた)が煮えくりかえる。怒り心頭に発する。怒髪天を衝く。泣くに泣けない気持ちになる。いても立ってもいられない。神も仏もないのか、と思ってしまう。
 娘が好きになるほどの男だから、おそらく紳士的ないい青年だろうとは思うが、ひょっとするとそうじゃなくて、私の娘に何かエッチなことをする奴かもしれない。そんなことをチラリと考えるだけで胸がつぶれる。私のあの娘に、エ、エ、エッチなことをするとは、このバババ、馬鹿者め。下がれ下がれ下がれ、控えおろう、という気分になる」 (「親ごころ」-「似ッ非イ教室」より。講談社文庫)

私の長年の見聞では、娘が結婚するとき、親と娘の間で、何かの騒動が起きなかったほうが珍しかったので、たぶん、大多数の父親が今書いたような感情構造をもっていると言って間違いないことだろう。

今私の人間マシンと同年代の人たちは、子供が結婚する年頃であり、そういった同年代の人たちを見て、多少は私も親ごころというものを解することができるようになってきた――若い頃は、子供の結婚に反対する親、そもそも成人した大人がしたいということに反対する「種族」は、私にとっては理解不能だった。

先ほどの清水さんの作品の中の父親の感情を別なふうに表現すると、子供とは親にとって「貴重な花」なのだ――長年、水をやり、肥料をやり、暑さから寒さから守り、お金と時間をかけて丹精をこめて育てたすえにやっと美しく咲いた花。ようやく花(子供)が美しく咲いて、これからはゆっくりとその花(子供)を楽しもう・鑑賞しようと思っているところへ、どこの「馬の骨」(と昔の親はよくこの言葉を使ったものだ)ともわからん奴が、自分の美しい花(子供)に忍びよって、勝手に断りもなしに、その花を持ち去ろうとしているのだ。親にしてみれば、その馬の骨に向かって、「一体お前は、何の権利があって、私の花を勝手に持ち出そうとしているのか? お前はこの花の成長に一円だって、支払っていないだろうが?」という憤懣やる方ない怒りがわき、自分の花に対しても、「今まで、これだけの愛情をこめてお前を大事に育ててきたのに、あんな馬の骨のほうが私よりいいとは、どういうことだ。お願いだから、もう少しの間、お前の美しさ・かわいさを私に独占させてくれ」という悲しい気持ちに駆られるのである。親にしてみれば、人生の不条理そのものである。しかし、若い頃の子供にそんな親の気持ちが通じるはずがなく、子供は親より外の世界の人間関係に夢中になる。

一般的に親がこういう気持ちに駆られているらしいのは、よく見かける風景だったのだが、こう思ったあとで、自分を振り返ることができるかどうかが、動物的マインドと人間マインドを分けるのである。人間マインドが機能している父親なら、泣く泣くこういう理解にいたるはずだ。「いやいや、自分だって、昔、よそ様の花々を勝手に持ち出して、エ、エ、エッチなことをたくさんして、おかげで父親にもなれたのだ。したし方がない、人生とはこういうものだ」と。

しかし、最初に紹介したシマウマの婚活ルールと親である女性の発言にも、動物的とはいえ、その中に何がしかの実用的知恵というものがある。親という種族は押しなべて保守的である。つまり、子供がしたいということ、特にそれがある種のリスクがあるようなことにはたいてい反対する。しかし、反対しても反対しても、もし子供が親の反対を突破すれば、最後にはあきらめて応援する親も多い。

私が思うに、もし親が反対したせいで、やめてしまえることなら、結婚にしても、その他のことにしても、「その程度の縁」なのである。つまり、たぶん、やめるほうが正解なのである。(今、読んでいる本、「非道徳教養講座」平山夢明著 光文社―の中の「賢い親の裏切り方」という文章の中で、著者は、映画監督になるという夢をどうしてもあきらめることができず、勤めていた会社をやめたとき、親に勘当された話を書いている。親に勘当されてもやりたいもの、それを著者は「魂の納得」と呼んでいる)

ということで、若い世代の皆さんの中で、婚活や夢の実現のために活動している人は、シマウマ親対策も忘れずに!



罪悪感の三段階(2)2011年08月02日 11時29分58秒

ようやく時間が取れるようなったので、「罪悪感の三段階」の続きを書いてみたい。

そもそも「罪悪感」という感情の起源は、どこにあるかということを考えてみると、実のところ、それは動物から人間に進化する過程で発達した高度の認識能力の副産物である、と私は思っている。その能力とは、「自意識と記憶と比較」である。

自意識=(人間としての)自分は人とは違うことに気づく能力
記憶=過去(自分の言ったこと・したこと)を覚えている能力
比較=何かと別の何かを比較する能力、現在と過去や未来を比較する能力。

「自意識と記憶と比較」の能力それ自身は、生活し、仕事をし、対人関係を築くうえでは、必要不可欠な能力であり、だから、「自意識と記憶と比較」の能力が高いことは、本当は喜ぶべきことなのである。

ところが、この高度の認識能力に、いわゆる「エゴ」がからみつくと、それが巨大な罪悪感を生み出す原因となる。そのメカニズムとはこんな感じだ。

たとえば自分と他人の違いを認識して、

「私は〇〇である・あなたは△△である」という事実があるとしよう。それは人としてお互いが何かにおいて、違っているという単純な事実の認識にすぎない。しかし、ここにエゴが入ってきて、もし自分のまわりがみんな「△△派」であれば、なんとなく、自分だけが「〇〇派」であることが、何か悪いことのように感じられてくる場合がある。小さいことから大きいことまで、自分と他人の違いの単純な認識にエゴがからむときに、比較が罪悪感を無意識のうちに生み出していくのである。

それから、私たちのエゴが自分に、ポジティブなイメージを与えるときも、罪悪感が発生しやすい。「私は善人である、親切である、頭がいい、仕事ができる、賢い、美しい、かわいい、ポジティブである」などの強い自己イメージがあるとき、自分の人生でその自己イメージに反することが起るとき、罪悪感が生じやすい――どうして自分はこんなに善人で、親切なのに(賢いのに、ポジティブなのに)、こんなひどいことが起こるのか、どうしてこんなヘマやミスをしてしまうのか、みたいな。

特に、日本人の場合は、文化的社会的条件付けとして、自分を「善人」(=よい隣人、よい妻・夫、よい友人、よい子供・親等)、「まわりとの和を乱さない人」だと思いたがる、というより、そうでなければいけないと思っている人たちが多い。「いい人」「善人」の自己イメージが強すぎると、自分が言ったこと、したこと、そして自分の存在そのものが、人を傷つけたのではないか、何か場違いのことをしたのではないかとか、いつもまわりの空気を気にしたり、過去をクヨクヨと考えこんだりするようになる。

もししつこい罪悪感に悩むときがあれば、おそらくは、その悩みの根幹に、「ポジティブな自己イメージ」への固執があるかもしれず、その処方箋の一つは、「もしかしたら自分って相当悪いやつ(否定的)なのかも(実際それがあらゆる人間関係の事実であろう――関係によっては、誰もが、ときには「悪い人、悪い親、悪い友人、悪い子供、悪い恋人、悪い妻・夫、悪い嫁・姑」になり、状況によっては否定的になる場合もある)と、自分の「悪」や否定性を認めて、「善人イメージ」や「ポジティブ・イメージ」を手放せば、あっさりと罪悪感が消えることもある(前にご紹介した様々なワークも役に立つだろうと思う)。ポジティブによせ、ネガティブにせよ、どんな自己イメージも、それは私たちの本質ではない。

このように罪悪感は、実に百害あって一利なしである(刑務所に入っている方々は、一度は罪悪感に目覚めたほうがいいとは思うが)。にもかかわらず、社会・文化全体を覆う罪悪感の罠というか網は非常に強力なものがあり、罪悪感は、嫌悪感同様にある種のトリックスター(イタズラもの)で、様々に形を変え、私たちの心の中に忍び込もうとする。私たちの多くがそれに無意識であり、だから、それを教えてくれるために、時々、自分がもっている罪悪感を鏡のように映す誰かが現れることは、不思議なことだが、経験的にも事実である。で、知るわけである。「ああ、私はこんなことに罪悪感をもっていたのだ」と。

最終的には、個人的行為者は誰もいない、起こったことすべては神(私の本質)の意志であると心から認識できれば、ラメッシ・バルセカールも言うように、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消え、罪悪感とプライド(と憎しみと嫉妬)が消えるとき、「すべてはあるがままで完璧」という「神の王国」に、自分が「すでに」住んでいることに気づくのだ。

ついでに言えば、罪悪感がなくて、たとえば、「私(たち)は絶対正しく、おまえ(たち)は絶対間違っている」というようなプライドだけが残ると、動物的意識状態となり、独裁ゴリラ国家、罪悪感のない犯罪者、そしてさらに、それにスピリチュアルがからむと、(90年代の日本を騒がせたような)カルト宗教が生まれる。プライドだけを残して、「神の意志」や「導師(グル)や教祖の意志」を信じると、スピリチュアルな活動は、非常に「あぶなく、あやしい方向」へ向かっていく可能性のあることを(イスラム原理主義はその象徴的代表である)、スピリチュアルを学んでいる人たちは、十分に心に留めておくべきであろう。

(観念的)まとめ
動物的意識―――罪悪感なし・プライドあり
人間的意識―――罪悪感あり・プライドあり
神的意識―――罪悪感なし・プライドなし





罪悪感の三段階(1)2011年06月11日 08時40分26秒

世の中には、風変わりな殺人者がいるもんだと思ったのは、先日、「人を殺すとはどういうことか」(美達大和著 新潮社発行)という本を読んだときのことだ。

殺人者の贖罪本にしては、その端正な文章のうまさが印象的な本で、本を読みすすんだとき、私はその理由を納得した。おそらく殺人者にしてこれほどのインテリで読書家もそうはいないかもしれない。しかも、この人は刑務所に入ってから読書家になったのではなく、殺人者になる前から無類の読者家でインテリだったのだ。幼い頃は、金持ちの坊ちゃんにして、神童、しかし、父親の事業失敗で、貧乏のどん底に、それから、大人になってからは、仕事で成功し、殺人犯で捕まるまでずっと、年収は億を超え、一ヶ月(一年間にではなく、一ヶ月に、である)に、単行本を100冊から200冊、週刊誌20誌、月刊雑誌60誌から80誌も読むほどの、読書の日々を送った人なのである。当然、その殺人も、激情に駆られて突発的に、というものではなく、計画的に冷静に論理的に行ったのである。

本書では、著者の改心改悛の情、そして、著者が持ち前の鋭い観察眼で観察した様々な受刑者仲間、犯罪者の生態が描写されている。以前から、私はそう確信していたのだが、本書でも、受刑者の多くは自分が犯した罪への罪悪感がないということが書かれている。以前別の死刑囚の方の文章を読んだときも、そう書かれてあったし、刑務所にいた体験があるロシアの文豪、ドストエフスキーも刑務所体験を描写した文章の中で、そう書いていた。

重大な犯罪を犯しながら、罪悪感がないし、反省もない――おそらく、これは普通の人には信じ難いことであろう。彼らが本当に反省することは、「自分がドジを踏んで、警察につかまったこと」なのだそうだ。

私の観念によれば、他人にひどい行為をしても罪悪感がわかないのは、彼らが動物的意識に支配・憑依(動物的催眠状態)されているからなのである。動物(食物連鎖においては人間も)は自分よりも弱いものを餌にして、生きている。自分よりも弱いものを蹴散らして、生き延びている。何をしても生き延びること=善、なのである。どんな動物も、餌を捕獲して食べる前にもあとにも、「かわいそうなことをした」とか、「ああ、こいつにも親や子供がいるんだな」とか、「ああ、死ぬ瞬間の表情が苦しそうだ」などと絶対に思うことはなく、餌を食べたあとは、満足感だけで、罪悪感はわかないはずである。万一子供を殺されたシマウマの母親が、ライオンに向かって、「なんでうちの子を食っちゃたのよ」と尋ねるなら(実際の動物界ではありえないことであろうが)、「そこでウロウロしていたのが、悪いんだろ。子供を亡くしたくなかったら、逃げる教育をしっかりしておくことだな」とでも答えることあろう。

著者が、刑務所の中で他の受刑者に、「なぜ人を殺したのか?反省はしないのか?」と尋ねまわっても、多くの受刑者が、「そいつがそこにいたのが、悪い」とか、「オレに逆らったのが、悪い」みたいな動物的意識の論理で答えているのが興味深いところだ。

では、なぜ著者には深い罪悪感がわき起こったのかといえば、それは裁判の最中に、検察官が殺人現場の情景を読み上げたときに、天啓のごとく、突然に自分が殺した被害者との同化が起こり、「被害者の立場に立つ」ことを余儀なくされ、衝撃を受けたからだ。そのとき、著者は人生で初めて自己嫌悪を感じたという。その裁判が始まる前までは、著者にはまったく罪悪感がなく、自分がやったことの正当性を疑うこともなかったというから、それが起こったのは、著者個人の意志ではなく、まさに宇宙の計らい(神の意志)なのであろう。かくして、動物意識の憑依から突然に目覚め、人間化への進化を余儀なくされた著者は、罪悪感と自己嫌悪に苦しむようになったのである。

人間化するとは、別の言葉で言えば、動物的意識よりも多種多様で複雑な感情をもつことであり、そのために動物的意識状態よりも心に葛藤と混乱をかかえることが多くなる――それが人間であることの苦しみと喜びである。動物的意識は、ある意味で単純であり、それゆえ、(たとえ犯罪を犯しても)それほど悩まず、苦しまないのである。刑務所に入る前の美達氏のように「私は絶対に正しい」といういわば百パーセントの自己肯定感(プライド)が緩衝装置となって、罪悪感と自己嫌悪感(反省心)を全部吹き飛ばしてしまうのである。

次回は、罪悪感と自己嫌悪感を再び(そして自己肯定感さえ)失う神化へのプロセスと、自分の内側と外側の様々な場所で出会う可能性がある動物意識的プライドとどう付き合っていくのかについて書く予定である。





アスペルガー症候群――共感能力の違い2010年06月10日 12時01分48秒

アスペルガー症候群という名前の病気がある。どういう病気か簡単に言ってしまうと、脳に障害があるせいで、他人とコミュニケーションをとるのが困難になるという病気だ。しかし、ある特定の分野ではかなりの能力があるため、多くの人は普通に社会生活を送っている。アスペルガー症候群の人は、幸か不幸か、対人関係にエネルギーを使わない(使えない)分だけ、自分の得意分野に一点集中して、エネルギーを投資しているとも言え、―点豪華主義の脳をもっているわけである。

最近、マスコミでもこの病気を取り上げることが多くなり、病気の認知度があがり、また企業の中でも、アスペルガー症候群の人たちの特殊な能力を、仕事に生かそうという動きもあるらしい。

医学的にはアスペルガー症候群ではない人でも、他人の気持ちがほとんど理解できないアスペルガー症候群的な人たちは多くいて、昨年のブログで言及した、達成マインドは発達しているのに、理解マインドが発達していない人の中にも、アスペルガー症候群的な人たちはたくさんいる。

アスペルガー症候群やアスペルガー症候群的な人な一般的な特徴は、

*特定のことに対する抜群の記憶と能力。
*それ以外のこと、他人に対する無関心、無理解。
*世の中で言うところのKY(空気を読まない・読めない)
*他人の心を想像・理解する共感能力の欠如。(共感能力はないけど、反社会的でもなければ、他人や世の中を憎んだりしているわけでもない。内面は、心優しい人が多い)

共感能力――つまり、他人の心を想像したり、理解したり、自分を他人の立場に置いて考える能力が、他の動物にはない人間の大きな特徴の一つだと言われている。

人間の社会では、人は一般的共感能力があるという前提で集団が運営されているので、他人と関わるあらゆる場面で人は、「こう言えば、この人はこう感じるはずだから、これは言わないでおこう」とか、「今、この状況で自分がこういう言動をするのはまずい」とか、「あの人は言葉ではああ言っているけど、本当はこう思っているに違いない」というような、他人の心を類推する作業をやるように暗黙に求められている(本当は、みんな面倒くさいとは思っているけど)。

ところが、脳の障害のためにこういった類推作業をしないというか、できないのが、アスペルガー症候群も含めた自閉症の人たちで、彼らは、共感能力が前提となっている社会の中での人間関係に困難を覚えている。

以前見たあるアメリカ映画で、アスペルガー症候群らしい天才学者が、酒場で、女性に一目ぼれして、いきなりその女性に、「僕とsexしませんか?」(正確なセリフではないかもしれないが、だいたいこんな表現)と言って、女性にびんたされ、呆然する場面があった。

彼は、自分がなぜ女性の気分を害したのか、まったく理解できない。彼にしてみれば、悪意があるわけでもなく、からかっているわけでもなく、相手の女性を魅力的に感じ、純粋にそうしたいと思ったから、単純に相手に尋ねただけのことだ。しかし、世の中の一般常識では、アメリカでも日本でも、初対面の女性に向かって、いや、初対面ではなくても、「僕とsexしませんか?」は、たとえ、丁寧に尋ねてもまずい……はず。

自我が形成される前の子供たちは、みな多かれ少なかれ、自分の感じたままを大人に言ったりするものである――「嫌い」「臭い」「あれ、欲しい」とか、「ヤダー」「あっちへ行って」とか――大人が言えば、ヒンシュクを買うような言葉でも、子供が言えば、ほほえましく聞こえたりもする。

普通の子供は、成長するにつれて、他人の気持ち・行動を少しずつ想像・理解・予測できるようになり(自分がこう言えば、こう行動すれば、相手はこう感じるだろう、こういう反応をするだろうみたいな)、また言葉は、それが使われる文脈・状況に応じて意味が変わることも理解するようになる。

以前読んだ自閉症関係の本にこういう話が書いてあった。

「ご飯を食べに行こう」と誘われて、その場合の「ご飯」は「白米」ではなく、「食事全般」の意味であることを理解できなかったとか、

ホテルの部屋で、
「お客様の声をお聞かせください」というアンケート用紙の文字を見て、
実際に声を出して叫んでみたりとか、

私は読みながら笑ってしまったのだが、実際の場面では、そういったいわばコミュニケーションの断絶は深刻な問題となる可能性がある。

実は、この共感能力は障害がない普通の人々でも、非常に個人差がある――いつも過剰に他人の気持ち・感情を想像・理解しようとする人(一般的に女性が多い)から、まったく想像・理解できない・しない人(一般的には男性が多い)まで――それは、一人一人の人間の脳は、それぞれ得意と不得意があり、一人一人まったく違ういわばある種のコンピュータ・システムのようなものだからだ。

私たちが対人関係で感じるストレスとは、この人間コンピュータ・システムの共感能力の違いに由来していることが多く、それは、要約するとほとんど、「どうしてあなたは(あの人は)、私が感じるように、私が気を使うように、私が行動するように、感じたり、気を使ったり、行動してくれないのか?」みたいな不満となる。

その「どうして?」の答えは、実に簡単だ――単純に、その人の現在のシステムでは「そうすることができない」、というものである(将来は、そうすることを学ぶかもしれないが)

そして、その不満への対応も簡単である――あきらめるか、あるいは、どうしても相手に理解してもらうことが必要なときには、相手(のコンピュータ・システム)が理解できる言語、説明、表現を工夫するか、である。工夫しだいでは、コミュニケーションがうまくいくかもしれない。

まあ、アスペルガー症候群や自閉症ではないとしても、対人コミュニケーションは誰にとっても決して簡単な分野ではない。そして、対人コミュニケーションは、いつも絶対的に正しい対応というか正解というものはなく、いつも学びの連続である。学び続けるうちに、しだいに、「どうしてあなたは(あの人は)……」的な愚痴が減り、理解と工夫が増え、さらに進化すれば、それぞれユニークで不思議な人間マシン(自分のものも、他人のものも)の多様さを楽しみ、驚く余裕さえもつようになれるかもしれない。

参考図書

「ひとりひとりこころを育てる」メル・レヴィーン著(ソフトバンククリエイティブ)
一人一人の子供(と大人も)は脳の機能にそれぞれ特徴と違いがあり、そのせいで学校(や職場で)能力を発揮できなかったり、落ちこぼれていくことを、たくさんの事例から説明している。人間コンピュータの脳の機能を解説したかなり専門的な本であり、教育関係の仕事をしている人や小中高の子供を持つ人にお勧めしたい。

「ぼくには数字が風景に見える」ダニエル・タメット著(講談社)
抜群の暗記力と語学力をもつアスペルガー症候群の著者が、自分の半生を語った本。

「動物感覚」テンプル・グランディン著 (日本放送出版協会)
人間の気持ちは理解できないが、動物の気持ちは理解できるという人が書いた本。著者は、家畜の立場にたって、家畜をどうしたら苦しめずに飼育できるかを研究し、それをアドバイスする仕事をしている。

「自閉っ子、こういう風にできてます! 」 ニキ・リンコ著(花風社)
自閉症で翻訳家として活躍する著者が、自閉症の人はどんなふうに世界を見て、感じるのかを語った本。





神マインドに目覚める(1)2010年02月07日 18時26分15秒


今月、ラメッシ・バルセカールの本(「誰がかもうもんか!?――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え――本体価格2,500円+税 ISBN978-4-903821-66-5 C0010 ナチュラルスピリット発行」)が出版されるのに合わせて、昨年の人間マインドの話の続きで、「神マインドに目覚める」とはどういうことかについて、少し書いてみたい。

神マインドとは、One Mind (分離・分裂のない一なる心)ということで、インドのアドバイタ哲学でいうところのConsciousness (意識)と同じ意味である。

動物マインド・人間マインドの世界では、「私の肉体」と「あなたの肉体」、「私の考え」と「あなたの考え」、「私(主体)」と「私が見ている対象(客体)」は、すべて全然別ものであるという認識が基本である。人間界は、「私」対「あなた」という二元論にもとづいて構築されている。

動物マインド・人間マインドは、他人とは異なる個人的自分が拡大していくこと――つまり、「個人的自分の」達成・理解・創造・物理的領域が増えること、拡大することが喜びである――「私」がそれを達成しました、「私」がそれを理解しました、「私」がそれを創造しました、「私」の支配領域が拡大しました、「私」がそれを引き寄せました、等々思えるとき、人の自己(=エゴ)は拡大した喜びを感じる。(物質的世界での領域拡大に喜びを感じるのが、政治的マインドである))

人間界では、One Mind (分離・分裂のない一なる心)の中にお互いが他人とは異なる「自分のマインド領域」(=エゴ)を設定するせいで、それは当然他人のマインドとある種の対立・軋轢を生むことになる。また人間マインドと動物マインドの世界は、達成・理解・創造の能力が人それぞれで異なるので、限りなく不平等の世界である。「私」と「あなた」の見た目は、境遇、運、能力、外見、地位、その他諸々において異なり、そのことが劣等感・優越感・罪悪感を生む――それが、人間界の最大の苦しみの一つである。

しかし、神マインドの世界では、すべてが真逆になっていく。神の世界に目覚めるとは、個人的「自分」が限りなく縮小していくプロセスを体験していくことであり、何がどう起っても、一なるもの、神の意志、One Mind(本質的意識)の機能のせいであるという理解が始まっていくことである。

神マインドの世界では、自分が何かを達成・理解・創造した、あるいは何かに失敗したと、そうエゴ的には思えても、そう見えても、「一なるものの意志、神の意志で、それが起こりました」としか、本当は言うことができない。(日常的には、こういう言語の使い方はできないので、「私がそれをやりました、Aさんがそれをやりました、Bさんがそれをやりました」と表現せざるを得ない)

よって、神の世界には、完全なる平等がある。「私」と「あなた」の見た目がどれほどどう異なろうと、世俗の境遇がどう違おうと、本質は一つである。この世界のあらゆる人、生き物、無生物さえ、すべての本質は一つである。

人が自分だと思っている、すぐ真下に見える(ラメッシの用語を使えば)肉体・精神機構も、その他無数の肉体・精神機構(どんな極悪人やダメな人も賢者や聖人)も、さらにいえば、(天使や悪魔や守護霊やチャネリングのエンティティ、各種振り子等の)エネルギー情報体も、すべてはOne Mind、同じ意識でできている。

One Mind、意識の別名が、「私は在る――I AM」であり、その場合の「私」は「個人的人間的私」のことではなく、すべての存在に共通する「神なる私」である。よって、「私は在る――I AM」に目覚めることは、

ダグラス・ハーディングの言葉を借りれば、

「あらゆる存在に対して、私は心から言う。『ここでは、私はあなたです』」
 
実は、人間マインドは、タテマエでは平等と平和を愛するとは言うが、本当は平等も平和も好きではない―― 人間マインドは、「他人よりもほんの少し」でも、世の中でのいいポジションを得たいと思い、そのために奮闘することが喜びだ。この世のあらゆるものと一つ、あらゆるものと平等という事実は、人間マインドを決して喜ばせるものではない。

だから、神マインドの世界――「私は在る―I AM」に目覚めること(それは、決して訓練して達成するべきものではなく、すでにそうである事実に気づくためのものである)は、決して、個人が自分で望んで選んだわけではなく、ただ神の意志に導かれて、そっちのほうへ行かされてしまうのである。

ラメッシ・バルセカールの言葉を借りるなら、

「人のエゴは、自分が消滅の道を歩いているとも知らずに、霊的探求をしているのです。もしエゴがそれを知っていたなら、霊的探求を選ばなかったことでしょう。」
 
「もし人に選択の自由があるとすれば、悟りではなく、100万ドルを追求するように、私はお勧めします。なぜなら、100万ドルを得れば、それを楽しむ人がいるが、悟りを得ても、それを楽しむ人はいないからです。しかし、事の真実はといえば、人は人生で自分が何を追求するかを選択することはできないのです」
 
神マインドの世界――私自身の体験を語れば――「私は在る―I AM」に目覚めることは、それは何よりも自然で平和な感覚である。それは(あらゆる人間的思考や感情にもかかわらず)主体と対象が一つであるというシンプルな事実であって、信仰ではなく、あえていえば、純粋な第一人称の科学である。だから、別に他者との一体化感で、感情的に盛り上がるわけではない(たまに、そういう気持ちになるときもあるけれど)。

しかし、そのシンプルで奥深い神の世界の面白さに目覚めるつれて、私の中ではこれぞ本当の「科学研究」って感じが、最近ますますしてきている。

次回は、ラメッシの教えをもう少し詳しく説明してみよう。

*20世紀を代表するインドの聖者ラマナ・マハルシの言葉
(神の世界についての究極の理解を要約したものとして、よく引用される言葉)

創造もなく、破壊もない
誕生もなく、死もない
運命もなく、自由意志もない
いかなる道もなく、いかなる達成もない
 
神の世界に目覚めるための参考図書

 *    「アイアムザット――私は在る」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット)

*    「あるがままに」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット)

*    「覚醒の炎」シュリ・プンジャジ(ナチュラルスピリット)

*    「ポケットの中のダイヤモンド」ガンガジ(徳間書店)

*    「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)

*    「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)

 *    J.クリシュナムルティ(たくさん出版されています)

 * A Course in Miracles (奇跡のコース――日本語版未刊)

 

 


人間マインドの研究(3)2009年11月28日 13時29分31秒

今回は、人間マインドの第三段階「創造マインド」について。

「創造マインド」とはどういうマインドかというと、「今までにないオリジナルなものを創造しようというマインド」のことである。

それが普通の人の中で少し働くときは、「直感」や「工夫」という形で現れ、「創造マインド」に自分の人生をほとんど全部乗っ取られてしまった天才とか狂人の場合は、たいてい後世になって評価される大発明・発見・創造の形で現れる。

「創造マインド」は「達成マインド」に似ているようで、実は全然種類が違うマインドである。この二つの違いはどこにあるかというと、

*「達成マインド」は、すでに確立された既成の価値観の中で働くマインドであるのに対して、「創造マインド」は既成の価値観を超えたところで働く。

*「達成マインド」では、プロセスと時間が重要であり、「創造マインド」はしばしば突然に働く。

*「達成マインド」は、他人に学ぶことが可能であるのに対して、「創造マインド」はただ自分の情熱から湧き出てくるものである。

*「達成マインド」には、「自分」という観念が強固に必要であるのに対して、「創造マインド」においては、「自分」という観念は邪魔なだけである。だから、自意識が強すぎると(「私がそれを成し遂げる」みたいな)、「創造マインド」は働きにくい。

*「達成マインド」の喜びは、社会に認められている価値あることを自分が達成できた喜びであるのに対して、「創造マインド」の喜びは、新しいものを創造できた純粋な喜びである(たとえ、それによって社会的金銭的報酬を得ないとしても)

たとえば、

どこかの経営者が、「数年以内に当社の売り上げを2倍にする」という目標をもつとしたら、それは、「達成マインド」の世界である。なぜなら、「売り上げ倍増」と言ったら、誰もがその価値を理解し、賞賛するからだ。

同じように、「金メダルを取る」、「東大に合格する」、「もっと商売が繁盛する」「自分の資産や収入を2倍にする」、「英語が話せるようになる」等々、そんな目標もすべて「達成マインド」の世界である。そういった目標は、すべて今の社会と時代の中ですでに確立された価値観の範囲に収まっている。

では、「創造マインド」の情熱とはどんなものかといえば、

*「太陽や他の惑星が地球のまわりを回っている」とみんなが信じている時代に、「地球が太陽のまわりを回っている」というコペルニクスの説を支持したガリレオ。

*子供の頃から音楽があふれるように湧いてきたというモーツアルト。

*空飛ぶ金属の物体(飛行機)を誰も見たことがない時代に、飛行機を創造しようと夢見たライト兄弟。

*人間は、神によって創造されたというキリスト教的思想が常識の時代に、「人はサルから進化した」と進化論を唱えたダーウィン。

*誰にとっても、時間と空間は同じものと信じられていた時代に、時間と空間は、絶対的なものではなく、速度が異なれば、それぞれ異なった時間と空間となることを証明したアインシュタイン。

*そして、もし現代、いわゆる円盤のような空飛ぶ乗り物を作ろうと夢見る人がいれば、そんな人もやはり天才か狂人であろう……

他にも、「創造マインド」が働いた例は歴史から無数に取り上げることができるが、「創造マインド」が創造したものの特徴の一つは、その時代と社会は、それをほとんど理解しないということにある。「創造マインド」による創造は、理解されないばかりか、ときには冷笑され、さらに時にはバッシングされ、昔であれば、幽閉されたり、死刑になったり、殺されたりした。

だから、「創造マインド」がありすぎることは、決して、人をこの世的には幸福にするものではないけれど、そういう運命に生まれついている人たちが少数ながらいるのである。

ついでに言えば、世の中に出回っている、「天才児を育てる」とか「天才の秘密を教える」とか「創造性を育てる」みたいな本は、「達成マインド」の訓練の話に関するもので、そういうものを読んで、勉強したからといって、運命的に「創造マインド」の世界で生きている天才のようになれるわけではない。(そもそも天才になりたいとか、天才のようになりたいという願望をもつとしたら、そんな苦しむ人生をわざわざ人は望むのか?!という感じである)

しかし、天才ほどではないにしても、自分の生活の中で、多少創造マインドを働かせたいと思うなら、自分がやっていることを何であれ楽しむようにすれば、そして、ときには非常識に考えることを怖れなければ、思いがけず、色々いい案が浮かぶことがある。あるいは、何か大変な状況に陥って、普通の理性の判断が役立たないときにも、直感が危機からの脱出を助けてくれる場合もある。いずれにせよ、直感や創造力育成は、直接やろうとしてもあまり効果がないように、私は感じている。

天才たちの苦闘――自分のまわりで、そんな天才のような人(自分の人生が「創造マインド」によって乗っ取られた人)にはめったに出会えないが、先日読んだ本「リンゴが教えてくれたこと」(日本経済新聞社)の著者、リンゴ農家の木村秋則さんという人は、たぶんそういう天才の一人だ。

無農薬無肥料でリンゴを作ろうとした彼の人生は、本に詳しく書かれているが、その苦労は想像を絶するものがある。誰にもその夢を理解されないばかりか、農薬・肥料メーカーから受けたバッシング、周囲からの冷笑、貧乏のどん底、しかもリンゴそのものが10年ちかく実をつけない。自殺を考えたときに、突然閃いたヒント――まるで物語のようである。

まあ幸運にも、木村さんの創造の対象がたまたまリンゴという日常的なものであったので、成功したときには、みんなが、マスコミさえその素晴らしさを理解することができ、賞賛したわけである。

さて、今まで、動物マインドについて、そして3回にわたって、人間マインドの種類について私なりに簡単に解説してみた。

私の考えによれば、あらゆる人はすべてのマインド(動物マインド、人間マインド、神マインド)をもっていて、ただそれぞれの使用の割合の違いとその人がどのマインド主導で生きているかが、その人の現在の知性を決定している。

そして、知性とは、別の言い方をすれば、「喜びの質」でもある。人間は、どんなマインド主導で生きている人でも、誰も彼もが人生に喜びを求めている。おそらくは「喜びの質」が、その人の人生の縁と運を導くのである――だから、自分は何に喜びを感じるのか? 何が楽しいのか? 何が人生の喜びなのか? 正直に観察することは、自分の知性を理解するのに、一番簡単な方法ではないかと、私はそう思っている。

来年は、神マインドの世界を非常に日常的にかつわかりやすく語る、敬愛するインドの師ラメッシ・バルセカール(2009年9月に92歳で逝去された)の新刊も出る予定なので、その機会に「神マインド」について書いてみたいと思っている。「達成」にも「理解」にも「創造」にも少々飽きた人たち(!?)には、楽しい神の世界が待っています……

人間マインドの研究(2)2009年11月18日 10時50分42秒

今回は前回の続きで、人間マインド第二段階、「理解マインド」について。

「達成マインド」と「理解マインド」の違いをいえば、「達成マインド」は、非常に狭いこと、つまり、自分の達成したい目標と方法にしか関心がないのに対して、「理解マインド」は、自分の差し迫った目標以外にも多くのことに関心をもち、それを理解しようという熱意をもっている、ことである。

不思議なことに、「達成マインド」が非常に発達している人でも、必ずしも「理解マインド」に恵まれているとは限らないことがある――だから私は、この二つのマインドは機能が違うマインドなのだということに、あるとき気づいた。「達成マインド」のところで止まっている人は、人生のどこかでたいてい挫折を味わうようになっているようで、その挫折のおかげで、「理解マインド」が目覚めることが多い。

「理解マインド」とは、別に言えば、コミュニケーション・マインドともいうことができ、一般に「理解マインド」が発達している人ほど、いろいろな物や人とコミュニケーション可能となる。「理解マインド」に特に恵まれた代表的な人たちは、教育者、カンセラー、心理学者、小説家、ボランティア、福祉関係の仕事、接客業に従事している人たち、などである。

「理解マインド」を育成するのは、やる気があればそれほど難しいことではない(と私自身はそう思っているが、実際は、理解するという行為に無関心な人たちが多い)。様々なことに関心をもって、色々な本を読むこともその簡単な方法の一つであるし、また、「自分の考えや価値観は正しい」という立場から一時的に降りて、自分とは異なる立場、価値観、考え、あるいは、嫌いだ、共感できない、批判したいと自分が思う人の立場、価値観、考えに立ってみることも、非常に役に立つ。

たとえば、

自分が人間なら、動物、植物、機械(パソコン、車等)の立場にたってみる、
自分が女なら、妻なら、男や夫の立場に、男なら、夫なら、女や妻の立場にたってみる。
自分が親なら、子供の立場に、子供なら、親の立場にたってみる。
自分が老人、中年なら、若者の立場に、若者なら、中年、老人の立場にたってみる。
自分が経営者なら、従業員の立場に、従業員なら、経営者の立場にたってみる。
自分が善良な市民なら、ヤクザや犯罪人の立場にたってみる。
自分が日本人なら、北朝鮮や中国の立場に立ってみる。
等々。

そういう思考習慣を続けていくと、物事にはあらゆる観点があり、人の価値観は多様で、誰の観点も価値観も、さらにいえば、常識さえも絶対的に正しいわけでも間違っているわけでもないことに気づく。

理解するとは、別に自分と異なる価値観や考えに共感することでも、また賛成することでもなく、ただ違っている価値観や考えが存在することを受け入れるということである。

「理解マインド」がある程度あれば、無用な対立・争いを避けることができ、人間関係のストレスが軽減し、また今の時代についてもよりよく理解でき、時代の変化も受け入れることができるはずである。

実は、大人になってからの私は、この「理解マインド」に中毒し続けた――自分自身も他人も人生もあまりに不可解だったので、それをなんとか理解しなければいけないと奮闘し続けた。そして、今は、どんな物事や人に対する理解さえも相対的で、物事に対する絶対的に正しい理解は存在しないという理解にようやくたどり着いた感じである。特に最近は、今日の理解は、明日には通用しないかもしれないことを、日々実感している。(ちなみに、当ブログ、及び私の著書は、人間の中のこの「理解マインド」に向けて書かれています)

さて、最近私は、今、日本を代表する二つのリーディング・カンパニーの経営者の本を読んでいた。

1冊はユニクロ(ファーストリテイリング)の経営者、柳井正氏の「1勝9敗」(新潮社)で、もう1冊は、楽天の経営者、三木谷浩史氏の「成功のコンセプト」(幻冬舎)という本だ。二人の生まれ育ちも、会社の業種も全然違うのに、経営に関する考えが非常に似ていることが興味深かった。二人とも、「時代のニーズにあった商品とサーヴィスを低価格で提供する」することをモットーとし、そのために常にスピードと実行で組織を変革し、社員にも高い志と目標を求める。

おそらくこの二つの会社が成功している理由の一つが、この二人の経営者が並外れた「達成マインド」を持っているだけでなく、すぐれた理解力、今の時代がどういう時代なのかという時代理解力、そして、自分の会社の失敗を理解する力をも持ち合わせているからだと私には感じられた。(柳井氏の「1勝9敗」とは、自分がやったことは10回やって9回は失敗したという意味である)

この二人の経営者ほどではないにしても、人がもし「達成マインド」と「理解マインド」をバランスよく持ち合わせれば、今の時代と世の中にピッタリと合い、仕事、健康、人間関係等に困ることなく、それなりの成功を得て、人に嫌われることなく、「自分が達成したことと、自分の人生をひそかに喜べる」立場と心境になれるだろうと、思う。

私の観念によれば、このあたりが霊的進化(精神的成長)の折り返し点で、この世的観点でいえば、進化は本当はここで止まるほうがいいのかもしれない……もし進化が、自分でコントロールできるものであるならば……でも、実際は、進化を誰もコントロールすることはできず、霊的進化は人の意志とは無関係に(多くの場合はイヤイヤながら)起り続ける。

次回は、人間マインドの最終段階、「創造マインド」について書く予定です。

人間マインドの研究(1)2009年10月30日 13時21分37秒

数ヶ月前、ゴリラ・マインドとチンバンジー・マインド、まとめて言えば、人の中にある動物的マインドについて書いてみた。今回はその続きで、人間マインドについて書いてみよう。

(人の中にある)動物的マインドと人間マインドが、最大に違うところは、「自分が望むものを得るために、何に、誰に、頼るのか?」というところにある。

動物的マインドにとっては、自分の精神的物質的幸福は、すべて外(他者)から来るものである。だから、他人(世間一般)と人間関係が非常に重要であり、自分の精神的物質的幸福を得るために、他人をなんとかコントールしなければいけないと思っている。もちろん、他人も世の中もめったに自分の思い通りにならないので、動物的マインドが強く作動している人は、人間関係、世の中の状況、その他あらゆることに不満と愚痴が多い。不満と愚痴からさらに動物状態へ退化すれば、極度の怒り、憎しみへ、そしてさらに暴力へと転落していく。

もし人が、動物的マインドを一歩抜け出して、人間マインドに向かえば、最初に開発されるマインドが、「達成マインド」であり、私はこれを勝手に「人間マインド第一段階」と呼んでいる。

「人間マインド第一段階」は、自分の精神的物質的幸福は、他人に頼らず、自力で得ると信じるマインドである。何事もすべては、「自分の力で獲得すべきこと」であり、自力で達成したことに喜びを感じる。動物的マインドにとって重要なのは、他人や世間(なぜなら、そこに自分の幸福の源泉があるから)であるが、達成マインドにとっては、一番重要なことは、自分の力、そして自分が達成すべき目標と方法論である。

私たちが、子供の頃、学校で受ける教育は、この「達成マインド」を最初に訓練するためのものだが、残念ながらというべきか、学校教育はそれにあまり成功していない。子供の多くは、小学高学年くらいに、勉強やスポーツなど、学校での訓練を苦痛に感じるようになり、早々と「達成マインド」の訓練から脱落してしまっている。

なぜ「達成マインド」の訓練は困難かといえば……

私が思うに、動物的マインドと人間マインドの間には、大きなギャップがあるからである。動物的マインドは、ある種、動物的本能にもとづき、本能的であるゆえに、いわゆる「努力」がいらない。それは基本的に「食と性と人間関係」以外に関心がなく、その本能は生物の歴史と同じくらい古い。それは未来のいつかに結果がでる「達成」には無関心である。

しかしながら、今の時代、人々は、「達成マインド」が発達した人たちのほうが、この世の中を有利に生きていけることを理解し始め、またこの「達成マインド」が非常に発達した代表的な人たち、スポーツ選手、企業家、ビジネスマンなどは、一般に高収入で、その人たちはこの世の中で高い評価を受けていることもよく知っている。

そこで、出版界は、こういった人々の関心、つまり、「どうしたら自分が望むもの、自分の目標を、できるだけラクして簡単に達成するか」に応えるべく、勉強本、ビジネス、スピリチュアル系の成功哲学、引き寄せの法則本など、達成マインド育成用の本を多種提供している。が、次から次へ似たような本が書店にあふれているということは、本を読んでも、多くの人が「達成マインド」の訓練にあまり成功していないことを物語っている。

「何かの目標を立てて、それを達成する」――子供にしろ、大人にしろ、そのことは多くの苦痛(苦労)と犠牲を伴うものだ。子供の頃、試験のたびに、私はイヤイヤ、テレビやマンガや本を我慢したものだし、大人になって何十年たった今でも、締め切りのある作業(幸い、ほとんどないけど)や目標を決めてそれに向かうことが本当は苦痛である。

私の経験でいえば、「目標を達成したときの喜びと(物質的あるいは精神的)報酬」と「それを達成するための苦痛」を秤にかけて、喜びと報酬が苦痛よりも大きいだろうと、脳が判断するときに、人は「達成マインド」を起動できるのではないかと思っている。

あるいは、こういう言い方もできるかもしれない――「何かを達成する苦しみ」と「何かを達成しない苦しみ」を秤にかけて、「何かを達成する苦しみ」が、「何かを達成しない苦しみ」よりも小さいと脳が判断するとき、人は「達成マインド」を起動できる、と――私はこれを、「最小苦痛の選択法則」と呼んでいる。

わかりやすので、スポーツ選手を例にとってみると、何かのスポーツ選手が、オリンピックでメダルを取るために、ものすごくハードな練習をしているとしよう。おそらく、練習が苦痛のときや記録が伸び悩んでいるときは、「メダル獲得という目標をやめることができたら、どれだけラクだろうか」と思ったりすることもあるはずだ。しかし、その選手の脳の中で、「メダル獲得を達成する喜びと報酬」>「メダル獲得を達成する苦しみ」、あるいは、「メダル獲得を達成しない苦しみ」>「メダル獲得を達成する苦しみ」であるかぎり、その人はより少ない苦痛に向かって、メダル獲得のために邁進せざるをえないのである。

ということで、何かを達成しようと思うことは二つの「苦しみ」の間でもがくことにもなるので、私はなるべく「達成事項」を増やさないように心がけてはいるが、しかし、まあ、仕事をして生活するためには色々なことを「達成」しなければいけないことも事実である。

どうすれば一番ストレスなく無理なく物事を達成できるか、私が到達した結論はといえば……

達成とはどんな未来の遠大な目標も今日の小さい目標も、すべてはプロセスから成っている。3つのプロセスで終わるものもあれば、10のプロセスで終わるものもあれば、100のプロセスや1000のプロセスが必要なものもある。大きな目標であれ、小さい目標であれ、1つ1つのプロセスを確実にやっていくその終着点に目標の達成があるのである――そのために役立つ、昔からある便利でシンプルな道具と方法がある――手帖にメモやプロセスを書いて、終わったことから線を引くという方法である。

小さい目標、簡単な目標が確実に実行できるようになると、数ヶ月単位、数年単位の目標を達成するマインドも少しずつ自然に育っていくものだが、反対に、小さいことが確実にできる前に、大きな目標を掲げるとたいてい挫折する――単純にいえば、遠大な目標や夢を達成できる前にまず、日々の小さい約束・連絡・物事がきちんとできるようになる必要がある―小さいことを確実にやり続けること、それが本当は一番困難なことなのである。


次回は、人間マインド第2段階「理解マインド」について書く予定です。

参考図書

「キッパリ!」上大岡トメ著 (幻冬舎)
達成マインドを訓練するための非常に基本的事柄が、イラストと簡単な文章で書かれている。何年か前に大ベストセラーとなった本。本書に書かれていることを、もし続けることができれば(←←これが困難なわけであるが)、かなりの効果があるだろう。どちらかというと女性向き。

[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年11月15日(日)午後(名古屋)

ご予約・詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html