『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』(3) ― 2025年12月03日 15時28分37秒
[お知らせ]
『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』
(ダグラス・ハーディング著 ナチュラルスピリット発行)
定価:1,870円(税込み)ページ数:163ページ
発売予定時期:2025年12月中旬
[イベント]
イベントの詳細・予約は下記へ
オンライン「非二元の探究──実験と瞑想の会」
2025年12月14日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年12月18日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
〔Youtube]
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(24)
3『頭がないということ』に書かれている内容について
(1)20代の長い熱心な探求を経て、30代の初めに、ハーディングが自分には「頭がない」ことを発見した経験。
(2)「頭がないこと」がどういう意味があるかについて、様々な角度からの考察
(3)「頭がない方法」と禅との共通性
(4)「頭がない方法」とその他の伝統的宗教との共通性
(5)『頭がない方法』を実践することについて
(6)「知らないこと」のパワー
(7)「自己覚醒する存在(神)」の神秘と奇跡について
(2)「頭がないこと」がどういう意味があるかについて、様々な角度からの考察
(3)「頭がない方法」と禅との共通性
(4)「頭がない方法」とその他の伝統的宗教との共通性
(5)『頭がない方法』を実践することについて
(6)「知らないこと」のパワー
(7)「自己覚醒する存在(神)」の神秘と奇跡について
以上の内容が、非常にコンパクトにまとめられている。
私が「頭がない方法」を実践(練習)し始めてから、35年以上の年月がたつ。この間、ハーディングが4章「話を現代化する」で書いていたことと似たようなことを私も経験し、それはときには苦痛で、時には驚きで、ときには喜びであった。そしてこの間、私は謎解き大好き人間なので、彼の????の言葉の謎解きに没頭し、その謎を考えることは苦痛ではなく、長い間の私の娯楽(笑)だった。
たとえば、本の中や実際のワークショップ、その他一緒にお茶を飲んでいたときなどに、私が最初????と思ったハーディングの言葉には、思い出せば次のようなものがある。
*私が自分自身を見れば、「頭がない」。
*私が飲むお茶は味がするが、他の人たちが飲んでいるお茶は(私にとっては)味がしない。
*目の前のチョコレートが、ここに消えたとたん、視覚から味覚に変わることは、何という不思議か!
*私が目を閉じれば、世界が消滅し、目を開ければ、世界が再創造される。
*時間(時計)が読めないところでは、時間がない。
*私が飲むお茶は味がするが、他の人たちが飲んでいるお茶は(私にとっては)味がしない。
*目の前のチョコレートが、ここに消えたとたん、視覚から味覚に変わることは、何という不思議か!
*私が目を閉じれば、世界が消滅し、目を開ければ、世界が再創造される。
*時間(時計)が読めないところでは、時間がない。
これ以外にもたくさんあるが、あまりにも当然のことを言いながら、それが本当は当然ではないという驚愕というか不思議というか。私にとっては彼の言葉は「禅問答」、公案だった。
ハーディングは生涯非常にたくさんの本を書き、ワークショップその他でたくさんの話をしたが、結局彼が一番伝えたいことは何なんだろうかとちょっと考えてみた。それはたぶん、上記に書いた(6)、(7)に行き着くだろうと、私は感じている。ハーディングは10代の頃から、「私」と世界がそもそもどうして存在するのか非常に不思議に思っていたという。存在、「在る」ことの不思議、それが彼の探求の始まりだった。そして長い探求を経て、中心には「頭がないこと」を発見し、さらにその中心について深く深く探求研究し、「私」と世界の存在の神秘と奇跡という答えにたどり着いた。
しかし、彼が『頭がないということ』の4章で語った神秘と奇跡は、普通の人たちが思い描く神秘と奇跡とはまったく異なる。ふわふわした霧に包まれたような神秘ではなく、明白な現実に支援されている神秘と奇跡。それをハーディングは有名なヴィトゲンシュタイン(オーストリア・ウィーン出身の哲学者。1889年~1951年)の言葉を引用しながら、次のように述べている。
〔世界がどうであるかは、より高いものにとってはまったくどうでもいい。神が姿をあらわすのは、世界のなかではない……世界がどうであるかということが、神秘なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。」(『論理哲学論考』ヴィトゲンシュタイン著 丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫 2014 p.143)。さらに私なら、これを次のように発展させるだろう。「真に神秘的事実は、『神』(またの名を「自己覚醒する存在」)が存在し、神の出現後、神の世界が存在していることは、それほど注目すべきことではなくなり、当然のことになったことである](4章『話を現代化する』125P)
冬休みにゆっくりと読むにふさわしい本なので(しかも、薄い!)、ぜひ多くの皆様に読んでいただければ、うれしく思います。
[今年出版された本]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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販売サイト
『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』(2) ― 2025年11月07日 09時07分36秒
[ひよこ豆様:ご質問への回答]
今回の本は、紙の書籍です。現在のところ電子書籍版は未定です。
[イベント]
イベントの詳細・予約は下記へ
◎2025年12月1日(月)出張シンプル道コンサルティング(東京)
◎リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都新宿区)
2025年11月30日(日曜日)午後1時20分より午後4時半頃まで
◎オンライン「私とは本当は何かを見る実験の会」
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究──実験と瞑想の会」
2025年11月13日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
〔Youtube]
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(24)
2 On Having No Headとの出会い
今回は私と『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』(On Having No Head ―Zen and the Rediscovery of the Obvious)(1994年に『心眼を得る』というタイトルで出版された本の再版)との「出会い」について書いてみたい。
まさに「出会い」――その出会いは、今から37,8年前に起きた。たまたま読んでいた本に、On Having No Headの翻訳された一節が紹介されてあったのだ。私はその文章を何度も読み返しては、「頭がない」とか、なんか変なことを言っているなあと思いながら、でも何かとてつもなく重要なことを語っているという印象をもった。それでなんとか原書の本を手に入れ、初めから読み始め、紹介されていた「指差し」実験をやってみた。最初は???だったが、何度かやったとき、突然開眼した(笑)。
「そういうことだったんだ!」と、過去に私が理解できずに格闘してきた『般若心経』、J.クリシュナムルティ、『なまけ者の悟り方』などの言わんとしたことの要点が一気に見えた(感じがした)。
そして、ハードな修行が嫌いで、坐ってやる瞑想もほとんどやる気がでない私を喜ばせたことは、いわゆるハーディングのワークは:
*辛い修行不要
*先生と宗教的信仰不要
*お金と時間不要
*先生と宗教的信仰不要
*お金と時間不要
という点だった。ただ「見ればいい」。その手軽さ気軽さが何よりも私の気質に合っていた。
そして、私がOn Having No Headも含めてハーディングの本を何冊か読んで最初に理解したことは:
*スピリチュアルな人たちが話題にする「悟り」とか「目覚め」とか「完璧さ」とは、目標ではなく、出発地点だということだ。私たち全員が本質的には「すでにそれ」であり、「そこから出てきている」。
*だから、人として私たちがスピリチュアル的に何かになる―たとえば、「悟った人」、「目覚めた人」、「完全な人」、「スピリチュアル的に何か高い境地にいる人」になることは、どんなに努力してもあり得ない。人間としての自分は永遠に不完全な存在であり、それでOKなのだと。
*だから、人として私たちがスピリチュアル的に何かになる―たとえば、「悟った人」、「目覚めた人」、「完全な人」、「スピリチュアル的に何か高い境地にいる人」になることは、どんなに努力してもあり得ない。人間としての自分は永遠に不完全な存在であり、それでOKなのだと。
以上のことを理解して、自分を何かの理想の高見に引き上げようとするスピリチュアル的努力は一切無駄で、「要するにまあ、人は自分のしたいこと、楽しいと思うことをして好きに生きればいいのだ」ということを改めて(それまでもそう思って生きていたが)確信した。
最初の数年、On Having No Headも含め、数冊のハーディングの本(の原書)を熱心に読み、それからは熱が冷め、時折読んではハーディングが言わんとしていることを少し考えるくらいだった。もしハーディングその人に直接出会わなければ、彼の本を私が翻訳したり、「頭がない方法」を他の人たちと分かち合うなどという活動は起こらなかったことだろう。
ハーディングその人との出会いも偶然で突然だった。たぶん1994年のことだったと思うが、彼がまだ生きていて(当時85歳)ワークショップなどの活動をやっていると知り、なぜかこの人にどうしても会いたいという衝動のようなものを感じた。それでその年の夏のワークショップに参加するために、はるばるアイルランドまで飛んでいった。
彼のワークショップは、その当時日本で流行していた、自己啓発やチャネリング系のセミナーやワークショップとはまったく異質ものだった。しかもワークショップの金額が格安で驚いた。そのワークショップでは、何かを教える先生と何かを学ぶ生徒という関係もなく、長年ワークをやった経験者と初心者という区別もなく、何かを達成することも獲得することも引き寄せることもなく、ただ「在る」だけの時間がゆるく平和に流れていた。
そのワークショップでハーディングから、「よかったら、私の本は何冊もあるから、日本で出版してほしい」と言われた。内心、英語が難解すぎて自分の能力に余るし、その他様々な理由から無理とは思っていたものの、著者から翻訳を頼まれるなんて機会もそうあることではないと思い直し、一番薄い本(The Little book of life and Death、『今ここに、死と不死を見る』)を翻訳して出版することにした。本当は、On Having No Headにしたかったのだが、私がハーディングに出会った頃、ちょうど日本の別の出版社が翻訳権を買ったばかりということで、残念ながらその願いはかなわなかった。
そして今、長い間絶版だったOn Having No Headの再版がようやく実現することとなり、ほっとしている。たぶんOn Having No Headへの私の理解も翻訳能力も30年前よりは多少向上した( I hope)と思われるので、様々なことが30年の時を経て成熟した状況での出版となり、喜んでいる。
今、改めてOn Having No Headを読み直してみると、特に第4章「話を現代化する」の内容を当時私は本当にはよく理解していなかったことがわかる。ヴィジョンは変わらないが、理解のほうは長い間、実験を練習し、ハーディングの言葉を読みながら、少しずつ湧き起こった感がある。
そして、ハーディングも書いているように、そしていつも言っていたように、実験そのものはシンプルであるのに、そのヴィジョンを生きることは決して簡単ではないし、多くの困難や障害にも出会う。まして、このヴィジョンを分かち合うことはなおさらだ。
それでも、なぜか続いた不思議な縁……最初に開眼したあの日と同じように、今この瞬間もこのヴィジョンは、無知という「神秘」(あえてこの言葉を使えば)に包まれて、平凡に普通に輝いている(合掌)。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』(1) ― 2025年10月26日 10時04分46秒
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◎2025年11月29日(土)と12月1日(月)出張シンプル道コンサルティング(東京)
◎リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都新宿区)
2025年11月30日(日曜日)午後1時20分より午後4時半頃まで
◎オンライン「私とは本当は何かを見る実験の会」
2025年11月9日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究──実験と瞑想の会」
2025年11月13日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
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U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(24)
今回からもうすぐ出版が予定されているダグラス・ハーディング(1909~2007)著、『頭がないということ――禅と明白なことの再発見』(On Having No Head ―Zen and the Rediscovery of the Obvious)(1994年に『心眼を得る』というタイトルで出版された本の再版)を紹介したい。
今まであちこちでハーディングの教えや彼について書いてきたので、重複する話が多くなるが、本ブログの読者の皆さんのために下記の三つに重点をおいて書く予定である。
1On Having No Headが書かれた経緯
2On Having No Headとの出会い
3On Having No Headに書かれている内容について
2On Having No Headとの出会い
3On Having No Headに書かれている内容について
1On Having No Headが書かれた経緯
ダグラス・ハーディングは第二次世界大戦後、建築の仕事を休んで、大著『The Hierarchy of Heaven and Earth ―A New Diagram of Man in the Universe (天と地の階層――宇宙における人間の新しい図解)を書きあげた。出版界に縁のなかった彼であるが、その原稿を読んだ当時のイギリス文学界の重鎮C.S.ルイス(イギリスの作家。1898~1963)がその内容を絶賛し、彼の後押しで1952年にそれは出版された。それから、大衆的雑誌、『サタデー・イブニング・ポスト』から原稿の依頼がきて、その依頼に応じて書いた2つの原稿の一つがOn Having No Headだった。
二つのうち一つの原稿は雑誌に掲載されたが、On Having No Headの元となった原稿は、友人たちが「『私には頭がない』なんていう書き出しで始まる文章は一般雑誌にはふさわしくない」と警告したので、当時会員だった仏教協会に頼んで出版してもらった。これは1960年代の話である。
初期の頃の版には下記の3つの文章が掲載されていた。
第1章 真に見ること
第2章 「見ること」を理解する
第3章 禅を発見する
第2章 「見ること」を理解する
第3章 禅を発見する
それから、1980年代に第4章「話を現代化する」を付け加え、この章では彼が30代の初めに自分には「頭がないこと」を発見してから40年以上、「頭がないことを」を自ら実践し、それを他の人たちとも分かち合ってきた経験の詳細が語られている。具体的には、単純なヴィジョンの背後にある奥深い神秘、キリスト教、仏教、インドのアドヴァイタなどの教えと深く共通する点、そして、日常生活への影響、他の人たちに伝えることの困難、そして「頭がないこと」を実践する人たちに降りかかる障害について、幅広く様々な角度から書いている。
ハーディングは本書のあとも様々なことをテーマにたくさんの本を書いたが、On Having No Headには、それらすべての本の内容が要約されていると言っても過言ではない。短い本(約100ページ)の中に非常にコンパクトに内容がまとめられ、そして、一般雑誌向け原稿だったということもあり、彼の文章にしては比較的平易な文体で書かれている(と思う)。(←比較すれば、『The Hierarchy of Heaven and Earth』の本などは、最初読んだとき、宇宙人が書いた英語かと思ったくらい、ハーディングの英語は私には難解に感じられたし、今でも難解である)
On Having No Headでハーディングは、中国、日本の著名な禅僧たちの言葉にも言及しているので、欧米では禅を学ぶ人たちの間でも広く読まれ、現在まで彼の本の中では一番売れているロングセラーとなっている。
[今年出版された本]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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秋の神輿祭り ― 2025年10月03日 10時29分34秒
[ハム様へのご質問の回答]
ラメッシ・バルセカールの本の翻訳は、いちおう予定はありますが、出版が実現するかどうかは現時点ではまだ未定です。期待しないで待っていただければありがたく思います。(シンプル堂)
[新刊案内]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
昔は、政治のことを政(まつりごと)と呼んでいた時代があった。そして、政(まつりごと)は祭り事でもあったのだ。その「祭り事」の意味は、現代私たちが普通に使っている「祭り」という言葉とは、意味が異なるが、しかし、国政の政治家とは祭りの神輿の一番上に乗る人たちと考えるとわかりやすい。
では神輿を担ぐのは誰かと言えば、仲間の政治家であったり、マスコミであったり、一般国民であったりする。だから、神輿の上にいる政治家の皆さんは、「私は〇〇をやります」、「私は〇〇を達成します」と勇ましく叫ぶけれど、彼らの言葉はまず実現しない。なぜなら、実際神輿を動かしている人たちは別の人たちであり、そもそも根本的に日本という国を動かしているのは、政治家の言動ではなく、国民の思考と労働力である。国民が考え、働かないかぎり、国家はまわっていかない。
さて先日、真山仁さんという作家の方のインタヴュー記事をネットでたまたま読んだ。彼の最新作『アラート』(新潮社)についてのインタヴューで、本書は日本を守るために防衛費の増額が絶対必要という信念の(女性)政治家が主人公(←ただし、「私は奈良の女です」の、あの女性政治家がモデルではないとのこと)の小説だそうだ。そして、たまたま今自民党総裁選のさなかということで、総裁候補についても話題が及んだ(私は真山仁さんの本は何冊か読んだことがあるが、この『アラート』は未読)。
今回自民党総裁選に立候補している5人の中で一番人気の候補について、真山さんは、「彼は神輿が軽いから、誰でも担ぎたがる」と評していたが、言い得て妙である。
「軽い」ので、党内でも党外でも、老人も中年も若者も、「誰でも担ぎたがる」。つまり、人気がある。比較して言えば、たった一年で首相の座を引きずり降ろされた石破さんは、「神輿が重すぎて、誰も担ぎたがらない」。特に党内での不人気(嫌われぶり)は致命的で、まあ、今までずっと本ばかり読んで考えてきた人の弊害で、人間関係をうまく築くことができなかったのだろうと思う。
老人人口が30%も占める体力のない老人大国では、担ぐ神輿は軽いほうが好まれ、いいのかもしれない。でも担いでいる人たちは信念も体力もなく適当に担いでいるので、軽い神輿であっても、あっちへふらふら、こっちへふらふら迷走し、あげく神輿に乗っている人が落っこちるなんて事故も起きる可能性も。そして、アイドルを追いかけるように、その迷走神輿を追いかけているマスコミは何かが起きるたびに大騒ぎし、「お祭り」状態になる。
そんなつまらない想像をする程度しか私は政(まぐりごと)には関心がないけれど、それより今年も大好きなリンゴ(シナノドルチェ、シナノスイーツ、名月、秋映など)の季節(私にとってはリンゴ祭りの状況)が来て、スーパーにリンゴが豊富に手頃な値段で並んでいるのを見てほっとし、感謝している今日この頃である。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』2 ― 2025年09月02日 06時19分52秒
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2025年9月21日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究─世界の出現」
2025年9月13日(土曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年9月18日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年9月18日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
[
新刊案内]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
[電子書籍版発行]
*『頭がない男』電子書籍版
価格:1,980円(税込み)
知られざる天才哲学者、ダグラス・ハーディングの生涯と哲学をイラストと文章で描いたグラフィック伝記。
〔Youtube]
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(20)
今年の3月から開始したU.G.クリシュナムルティの『悟りという謎』(The Mystique of Enlightenment)という本のYouTube 番組も、先日の20回目でだいたい三分の一が終わった。正直に言えば、翻訳しながら彼の言っていることは理解不可能なことも多いし、彼がインドの霊的伝統、そしてスピリチュアルな修行そのものを激しく否定する言葉は、一部の人たちには不快感さえ与えるかもしれないとは思う。そしてまた彼の生まれ育ち、人生は、私たちのように普通の生活を送っている者たちにとっては、あまりに特異で想像しがたく、共通することがほとんどない。
彼がそれほどインド的伝統的霊性やスピリチュアルな修行を否定する背景には、彼の子供時代の生育環境が非常に影響していると私は感じる。前にも書いたが、無理やりやらされたことは、あとでそれに対する反発が非常に強くなる。普通だったら、平凡で楽しい子供らしい日々を送れたはずが、何一つ子供らしく遊ぶことも許されず、修行、修行、修行の日々。
しかし、彼は同時に並外れた知性、すべてを疑う反骨精神にも恵まれていた。その知性と反骨精神で自分のまわりの大人たちを冷静に冷徹に観察し、悟りやら何かを求めて瞑想修行をしている人たちは何かおかしいと次第に思うようになる。
そして長年の探究、苦しいほどの自己質問(自分の質問を自分へ問うこと)を経て、彼は最後に、自分の覚醒体験は、自分がやらされた修行とは何の関係もないことを理解し、自分の長年の修行は無用だった、そして、悟りを求めて多くのことを犠牲にして修行をしているインド人は、無駄なことをやっていることに気づく。
『悟りという謎』はそんな彼が仕方なく話したことをまとめた本なので、「私の話を聴くことは無駄だし、誰の話も役に立たない」という、いつも身も蓋もない話になる。
それでも彼が「私の話を聴くことは無駄だし、誰の話も役に立たない」以外に、繰り返し語っていることがある。それは「一人一人の人間はユニークであり、途方もない知性に恵まれている」ということだ。そして、その知性が活動することがゆるされている状態が、彼がいういわゆる「自然の状態」ということになる。
3章「人間の外にはパワーはない」の冒頭でも彼はこう言っている。
「私が話すことの全目的は、一人一人の個人のユニークさを人々に指摘することである。文化とか文明とかあなた方が呼んでいるものは、常に私たちを一つの枠組みに合わせようとしてきた。人間はまだまったく人間ではない。私はそういった人間を『ユニークな動物』と呼んでいる。人が文化という重荷を背負っているかぎり、その人間は『ユニークな動物』に留まる」(『悟りという謎』より)
インドにかぎらず、どこの社会や文化にも一人ひとりのユニークな知性を抑圧しようとする途方もない圧力がある。それはなぜなのか? もし興味があれば、それを問いかけて、自分の知性からの答えを待てば、なぜ私たちが人間動物という「不自然な状態」で生きているのか、そして、U.G.のいう「自然の状態」への理解が開かれるかもしれない。
これから3章は、インド人の教授らしい人がU.G.に質問し、それに彼が答えるという形式で進行する。そのインド人の教授がインドの霊性や文化を一生懸命持ち上げよう(笑)と質問するのに対して、U.G.は、「インドの霊性や文化なんて経済的貧困しかもたらさなかった」とバサバサ切り捨てている(←現在インドは昔よりかなり豊かになったが、このインタビューがおこなわれた1980年当時はまだ貧しかった)。
こんな感じの話ですが、あと残り三分の2、気が向いたらご視聴ください。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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『チ.地球の運動について』(1)――権力者対異端 ― 2025年07月25日 10時08分22秒
[新刊案内]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。付録に、『シンプル道の日々3』(2022年~2024年)も掲載しています(総文字数約20万字。新書版2冊くらいの分量です)。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
今日の話は、『チ。地球の運動について』についてである。すでに見た人たちもいるだろうけど、簡単にこのアニメを説明すると、15世紀のヨーロッパを背景に、地動説の研究に情熱をかける人たちと、そういった人たちを異端として迫害する教会との戦いを描いた作品だ。ちなみに、「チ。」の意味は、「知、地、血」と三つの意味がある。このアニメの原作者、魚豊(うおと)さんのインタヴューによれば、彼は知(知性)と血(暴力)の関係に関心があったという。「戦い」といっても、戦闘シーンは少なく、登場人物たちの会話がなかなか奥深くて楽しい(←政治家や政治家候補の皆さんが語る、他人の関心を得ようとする作為された言葉とは違って、みな自分の本気をしゃべっている)。
私がこのアニメを見て一番印象的に感じたことは、権力者対異端という、歴史上いつの時代にもどこの地域にもある対立である。ある意味では、人類の歴史とは「権力者対異端」の戦いといっても過言ではない。
権力者とは、その時代と地域において、お金(税金)を集める権利、それをどう使うのかの自由、そして人々に命令するパワーをもつ人たちの集団であり、異端とは、権力者が自分の権利、自由、パワー、権威を脅かすと決めつけている人たちのことだ。
権力者たちの異端狩りの一番の根本的動機は「恐怖」、つまり自分たちが享受してきた特権を失うことで、それは何としても食い止めなければならない。このアニメの中で教会がそれほど執拗に地動説研究者を迫害するのは、もし地動説が正しいとなれば:
*天動説が正しいとする彼らの神学がゆらぎ、
*教会の権威に傷がつき、
*人々から教会税を集金したり、彼らの生活を支配したりするパワーを失う、
*教会の権威に傷がつき、
*人々から教会税を集金したり、彼らの生活を支配したりするパワーを失う、
ということを恐れてのことだ。もちろん表向きは、「社会の不安をあおる人類の敵を滅ぼすことは、神のための仕事だ」と自分たちがやっていることを正当化し、人々にもそう思い込ませようとする。このアニメの中で異端審問官のノヴァクは、「悪魔と結託してこの世界を変えようとする輩を迫害するのは、人類のため、神のため」と信じて疑わず、どんな残酷な拷問でさえ平気で行なう。信仰になった「恐怖」ほど残酷さを生み出すものはない。
歴史上の権力者は、(特定の宗教の)教会、軍、共産主義、絶対王政、民主的政権と、時代と地域によってどんな人たちでもありえ、そして今名前を挙げた権力者は、すべて反対の異端にもなりうる――宗教(キリスト教は長い間、多くの国で異端であった)、共産主義、民主派など。
では、現在の権力者対異端は、それぞれの国で違うが、たとえば:
中国では、中国共産党が権力者、それに対する異端とは民主派運動の人たち、チベット独立運動の人たちなど、そして台湾も中国にとっては異端だ。
中東の権力者イスラエルにとって、最大の異端はハマスであり、イスラエルがあれほどガザで残酷になれるのは、ハマスへの彼らの「恐怖心」のせいだと私は感じる。
アメリカは、トランプさんが大統領になってから異端狩りが激しい。彼にとっては、保守的価値観をもつ純粋な白人以外、すべて異端のようだ――移民の人たち、外国人留学生&労働者、性的少数派の人たちなど。彼はアメリカを保守的価値観をもつ純粋な白人の王国にしようと躍起だが、彼の言動そのものがアメリカの凋落を象徴している。
では、日本はどうかと言えば:
日本の権力者は誰かというと、長年政権与党の自民党のように見えるが、この国の本当の権力者は、たぶんその自民党を背後で動かしてきた人たちだろう。彼らが作り出した、「他人の言うことを聞いて、善人で真面目に働いてさえいれば、人は幸せになれる」という価値観がものすごくこの国の国民を束縛している。それはまるで「チ。」の中でたびたび出てくる、「教会の言うことを真面目に信じていれば、死後天国へ行ける」という信仰に似ている。
私は子供の頃からずっと「異端」であったので、「善人で真面目に働いてさえいれば、人は幸せになれる」という大人たちの信仰をいつも疑っていた。なぜなら、周囲の大人たちはみんな善人で真面目に生きていたのに、ほとんど誰も幸せではなかったからだ。そして私はずっと「異端」をつらぬき、幸いなことに迫害されることもなく、この年まで生き延びてきた。でも最近の私は昔よりはるかに人の言うことを聞く、真面目に働くよい子になっている(笑)。
ということで、権力者対異端の戦いは、現代の時代でもずっと続いているのだ。
さて、このアニメの登場人物たちの中で、私にとって一番興味深く、共感を感じたのはオクジーである。彼は下級国民の出身で無学で文盲で、「教会の言うことを真面目に信じていれば、死後天国へ行ける」と心から信じていた人間だ。ところが、運命によって地動説を研究する人たちと出会い、仕方なくその流れに巻き込まれてしまう。誰にバカにされても決して怒ることなく、素直に従う青年。視力が抜群によく、剣が強いので、その能力を生かして、縁の下の力持ちとなって、地動説研究者を支える。研究者たちの影響で文字の読み書きを学び、最後には地動説について本まで書くという成長ぶりだ。
第12話 『俺は、地動説を信仰してる』では、オクジーの素晴らしい言葉の連打が胸を打つ。彼は、こっそり地動説を研究している修道士バディー二の下働きをしているが、二人のところへも異端審問の魔の手が伸び、二人が最後の別れの挨拶をするときの会話だ。
他人のことなど一切配慮せず、自らの野心のために地動説を研究してきたバディー二が、「私はみすみす情報を(他人には)渡さない」と、地動説の研究はあくまでも自分だけのものと主張する姿に、オクジーは珍しく異論を唱える。
「他人を排除すると間違いに気づきにくくなるのではありませんか? そしてそれは研究にとってはよくないのでは?」
「キャスト伯(←天動説の権威)は、自分が間違っている可能性を信じ、受け入れました。自からが間違っている可能性を肯定する姿勢こそ、学術や研究には大切なのではありませんか?」
「第三者からの反論が許されないなら、それは信仰です。反論してもらうためには他人が必要です」
「天動説と地動説などの対立が現実を前へ向かわせるのです」
「第三者からの反論が許されないなら、それは信仰です。反論してもらうためには他人が必要です」
「天動説と地動説などの対立が現実を前へ向かわせるのです」
珍しく自分に反論するオクジーの言葉は傲慢なバディー二のハートにも響いたようで、二人のハートの触れ合いは最後の美しい悲劇へとつながっていく。
そしてオクジーは、バディー二が逃げる時間を稼ぐために、そして地動説という自分の信仰のために、死ぬ覚悟をして異端審問官と戦う。
信仰と科学の違い、なかなか考えさせられるエピソードだった。
第12話について詳しく解説したサイト
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
最近読んだ本から ― 2025年05月25日 08時56分33秒
〔新刊お知らせ]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。付録に、『シンプル道の日々3』(2022年~2024年)も掲載しています(総文字数約20万字。新書版2冊くらいの分量です)。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
『欧米に寝たきり老人はいない』宮本顕二・宮本礼子(中央公論新社)
前回のブログでも紹介した本。肉体年齢60歳を超えた人、そして高齢の親がいる人たちに読んでもらいたい本。
『笑わない数学1&2』NHK「笑わない数学」制作版(KADOKAWA)
NHKで放送された番組の書籍版。数学の難問に挑む数学者たちの姿が生き生きと描かれている。数式はたくさん出てくるが、文章は読みやすい。
過去10年間、私が一番たくさん読んだジャンルの本がたぶん数学だ。スピリチュアル系の本よりはるかにたくさん読んでいる。数学が私にとって興味深い理由は、数学者たちの情熱、「こんなことを考え続ける人がいるんだ!」という驚き、そして、数学に関する発見・証明は、時代と地域を超えた普遍的なものであり、そして最後に、数学の世界に人間の感情が入らないからだ。地上のゴタゴタから逃げるのに、非二元スピリチュアルと数学はよい逃避場所(笑)となる。
一方で、天才数学者たちの人生そのものは波乱万丈である。自分たちの数学理論の秘密をもらしたという理由で弟子を殺したピタゴラス、20歳で決闘で死んだガロア、その他研究に没頭するあまり精神が崩壊する人たちなど。
数学に関心がある人は非常に少数だと思うので(それでも本の出版件数から推測すれば、非二元スピリチュアルよりはるかに多数のはず)、今までブログの中で数学の本は紹介してこなかった。おまけに私がこれだけ数学の本を読んではいるのに、数学をほとんど理解もしていないので、わかりやすく説明もできない。「好き」と「能力」のミスマッチ、とても悲しくはあるが、それでもめげずに(笑)私は今日も数学の本を読んでいる。そして、数学への関心が広まってほしいとも思っている(お金はかからないので、老後の趣味にお勧めです)。
その他一般向けのお勧めの数学の本
『数式のない数学の本』矢沢サイエンスオフィス編著(株式会社ワン・パブリッシング)
数学がいかに私たちの生活に入り込んでいるか、数式を一切に使わずに説明している。
『素数の音楽』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
『数学が見つける近道』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
『数学が見つける近道』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
最近私が非常に好きなイギリスの数学者のエッセイ。数学の魅力が深く味わえる。翻訳も非常にいい(感じがする)。
『フェルマー最終定理』サイモン・シン(新潮社)
17世紀にフェルマーが残した数学界最大の「超難問」は、いかにして解かれたか。数学者ワイルズが完全証明するまで、3世紀にわたった数学を巡る「歴史ドラマ」を分かりやすく感動的に描く。
『死にそうだけど生きてます 』ヒオカ(CCCメディアハウス)
『死ねない理由 』ヒオカ(中央公論新社)
『死ねない理由 』ヒオカ(中央公論新社)
4人家族で世帯年収が百万円にも満たない貧困家庭(おまけに父親が暴力男)で育った女性が、親族の中で初めて大学まで進学したものの、卒業後も安定した仕事を見つけられず、常に体調不良で、おまけに「貧困な者は身の程を知れ」という世の中のバッシングに怯えながら暮らす日々を綴ったエッセイ。
著者のように、貧困家庭で育った人たちが貧困の苦しみを書くと、批判やバッシングが多く来るという話をよく聞く。世の中の人たちは、貧乏な環境から成功者になった人たちの物語は大好きなのに、貧乏な環境から抜け出そうと奮闘している人たちには、冷たいのはどういうわけなんだろうか? 「貧困な者は身の程を知れ」とは、どんな人たちが言うのだろうか? 親族なのか、同世代の人たちなのか、それとも年上、年下世代なのか?
いわゆる親ガチャ、環境ガチャを乗り越えるのは本当に大変、と私もそうは思う。でも30歳を超えたら(著者はたぶん、今30歳前後)、自分の貧困を社会や政治や生まれた環境のせいにしないほうがいいのも、私の経験からは言える。なぜなら、親や社会のせいにしたところで、運命は決して好転しないからだ。
そして一方で、貧困に苦しんでいる人たちを批判・バッシングする行為は、そういった批判・バッシングは自分に影響することも私たちが知っておくべきことだ。『怠け者の悟り方』(タデウス・ゴラス著)から引用すれば:
〔今、あなたがある人に、「必要以上の援助を君は受け取るべきではない」と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです〕(p44)
さて、『死ねない理由』の中で、彼女は、最近は、自分の好きなことにお金を使ってもいいんだと思えるようになり、好きな音楽家のコンサートなどに行っているという。そして、そういった「推し活」(自分が好きな人たちを応援する活動)が、自分が「死ねない理由」になっているとも。著者には好きなことをたくさん見つけて、生き続けてほしいと思う。
『愚道一休』木下昌輝(集英社)
室町時代の禅師一休(1394~1481)という人は、酒と女を愛した破壊僧というイメージ、そして、子供の頃から頓智とユーモアにあふれていた明るい人というイメージが強い。しかし、本書で描かれている一休は、後小松天皇(1377~1433)の落胤(らくいん)という複雑な血筋を背負い、仏道を深刻に求道する暗い一休である。「無漏の悪と無漏の善」をめぐる一休と彼の友&敵たちの会話が興味深い。
(無漏=仏道で「悟りの境地」)
*本書で紹介されている一休の歌
嘘をつき地獄に落つるものならば無き事つくる釈迦いかがせん
(嘘をついて地獄に堕ちるというなら、嘘ばかり並べ立てた釈迦はどうなるのだろうか)
今動画で紹介している、U.G.クリシュナムルティも「仏陀はウソつき」(笑)と言っている。
『修道士カドフェルシリーズ』エリス・ピーターズ(光文社)
私にとっては、ミステリーが面白いかどうかは、探偵役の人物が好きになれるかどうかにほとんどかかっている。
本シリーズ(昔途中まで読んでいた)では、12世紀のイングランドのある地域にある修道院を舞台に、そこで起こる数々の事件を鮮やかに推理するカドフェル修道士がとても魅力的だ。カドフェル修道士は、若い頃は十字軍遠征に出かけて、あちこちを旅してまわり、現在は、修道院で薬草を育て、いわばお医者さん的仕事をしている。聖俗の両方の智慧を合わせもつ彼は、政治、経済(金銭問題)、身分制度、男女関係の複雑さを読み解き、事件解決に奔走する。修道院という小さな世界にも、現代の人々がかかえるのと同じような問題がすべてあることに驚かされる。
最近の私の娯楽は、『修道士カドフェルシリーズ』の小説を読んでから、イギリスで昔テレビ放映されたこのシリーズをネットで見ることだ。
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』 ― 2025年04月01日 10時30分12秒
[新刊発売お知らせ]
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
ナチュラルスピリット発行)発売。
ナチュラルスピリット発行)発売。
ニサルガダッタ・マハラジの師の本、初邦訳!
価格:本体1800円+税
ページ数:176ページ*『頭がない男』電子版が販売開始!
価格:1,980円(税込み)
知られざる天才哲学者、ダグラス・ハーディングの生涯と哲学をイラストと文章で描いたグラフィック伝記。
[ お知らせ]
先日より、YouTube で、U.G.クリシュナムルティ(1918 ~2007)の『悟りという謎』(原書タイトル「The Mystique of Enlightenment」の翻訳を公開している。
U.G.クリシュナムルティはこのブログで過去に一度だけ話題にしたことがあり、そのときも書いたが、インドの賢者で私が好きな3人の一人だ。
もう一人のクリシュナムルティ――U.G.クリシュナムルティ(2014年11月23日)
有名なJ.クリシュナムルティのほうは、若い頃5年間、熱心に読んだものの、相性がそれほどよくなかったせいか、正直にいって、彼にはあまり親近感がわかない。しかし、なぜか、U.G.クリシュナムルティには親近感がわき、一時期熱心に彼の本を読んだものだ。本当は紙の本を企画すればいいのだけれど、もう新たに紙の本を企画するだけの体力と忍耐が、年々減少している(紙の本は企画してから、完成までに数年の時間がかかる)。
幸い、彼の本には著作権がない(彼のすべての本に、「自分の教えには著作権がない」ことを公言するU.G.の言葉が掲載されている)ので、このたび、長年読んだ、「The Mystique of Enlightenment」の翻訳を公開することにした。
改めて彼の本を読むと、彼の存在、言葉から一番伝わってくるのは、「怒り」だ。いわゆる賢者の中で、これほど怒っている人も珍しい。何に対する怒りだろうか? 大きく言えば、つまらないものをありがたがっているインド的霊性への怒り、自分の話は役に立たないと言っているのに、自分の話を聞こうとやって来る人たちへの苛立ち、そして、ひょっとしたら、子供の頃に強制的に学ばされた宗教教育にも怒っているのかもしれない。
彼は、20代の頃、自分以上に悟りを得るために努力した人はいないはずだと思っていたくらいだから、幼少期から10代の頃、それはものすごい修行をした(させられた)のだろうと想像する。子供の頃にイヤイヤ強制されたことは、大人になってから怒りがわくほどのトラウマを残すことがあり、私にもいくつかイヤな思い出(私の場合は、先生に強制されたこと)がある。
そんなU.G.クリシュナムルティが語ることなので、彼が語ることが何かに役立つというより、彼の話はすべて、「悟りや解脱を求めるすべての探求者がやっていることは、すべて無駄」、「グルも役に立たず、他人の話も役に立たない」、そして、「自分に起こったこと(49歳のときに、彼自身は「災難」と呼ぶ、強烈な覚醒体験が起こった)は、探求とはまったく無関係」という身も蓋もないところへ収斂していく。
彼は、彼の本を出版したいという人たちにこう言ったと伝えられている。「私の教えを広めるためではなく、金儲けのために本を出版しなさい」。
最後に、「The Mystique of Enlightenment」という本のタイトルについてであるが、直訳すれば、「悟りという神秘」くらいだが、「悟りなどというものはない」、「神秘などはない」と彼が語っていることとは真逆なタイトルで、いかにも本を売るためにつけたタイトル(笑)。
本当は、本書につけるべき正しいタイトルは、「The Mistake of Enlightenment」(悟りという間違い)くらいであるべきで、YouTube のタイトルも、大胆に誤訳して、「悟りという間違い」にしようかと一瞬思ったのだけれど、妥協して、『悟りという謎』にすることにした。たぶん、彼の言葉はほとんど役に立たないだろうし、また私が最後まで、「The Mystique of Enlightenment」の訳を公開できるかどうか(そこまで体力がもつかどうか)未定であるが、興味が湧きましたら、視聴ください。
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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「ディストピア」と「ユートピア」 ― 2025年02月05日 09時20分15秒
[ イベント]
◎リアルの会「非二元の探究――主体を科学的に探求する」(東京都文京区)
2025年3月2日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
2025年3月2日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
◎オンライン「非二元の探究――主体を科学的に探求する」
2025年2月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
[ お知らせ]
昨年末に話題にした本、『三体』の続き、『三体Ⅱ(暗黒の森)上・下』(劉慈欣著 早川書房)を超走り読みした。いわゆる「ディストピア」(暗黒郷)のジャンルに入る本で、三体文明が地球に迫ってくる暗い未来の地球が描かれている。地球が暗いだけでなく、すべての文明、宇宙全体が暗い「暗黒の森」であると教える内容になっている。
なぜ「暗黒の森」なのかと言えば、下記の宇宙文明の二つの公理によって、
1.生存は文明の第一の欲求である。
2.文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質の総量はつねに一定である、
「ここにいるよ!」と叫んで自分の存在を曝す生命(=文明)は、別の狩人(=文明)によって消滅させられるからだ。
つまり、この公理の意味とは、宇宙の物質の総量(=使える資源)は限られているので、文明同士は常に相手を滅ぼそうと待ち構えている狩人のようなものである。だから、文明は自分たちの宇宙における位置が知られることを何よりも恐れている。それが、人類が他の異星文明に「出会わない」理由であると。
そして、人類が宇宙の本質が黒暗森林であることに気づかなかったのは、人類に愛があるからだという。そして、最後の最後に、第Ⅰ部に登場した地球文明を愛している三体文明の監視員が再び登場し、三体文明にも愛はあるのだが、生存戦略に役立たないので抑圧されてきたと語る。
と、最後まで読むと、「愛があるなんて、人類って案外、いい生き物じゃないか」(笑)と思えるから不思議だ。
小説家、作家、文学はどちらかと言えば、「ディストピア」(暗黒郷)を描くほうが好みというか、彼らのマインドは人間の一番暗い想念を吸収することに長けている。そして、一般的には暗い話のほうが物語の展開としては面白い。最近も、「出産」をテーマにした別の「ディストピア」の本を読んでみた。
少子化が止まらない日本で、10人子供を産んだら、一人を殺してもいい「権利」を得る社会を描いた『殺人出産』(村田沙耶香著)(講談社)。同じ著者の『コンビニ人間』にはまだユーモアがあったが、『殺人出産』には救いがない。たぶんこれほど極端なシステムは実現しないだろうが、日本という国が人口減少で、国家存続の危機ともなれば、(強制とまではいかなくても)若い女性たちに出産を強く奨励するシステムは将来的にはありうるかもと、想像した。なぜかといえば、宇宙公理第一、「生存は文明の第一の欲求である」を国家に当てはめれば、「生存は国家の第一の欲求である」とも言えるからだ。
「ディストピア」(暗黒郷)の反対に、「ユートピア」(理想郷)という言葉がある。私の長年の読書と見聞によれば、スピリチュアル系の人たちは、「ユートピア」(理想郷)がこの宇宙のどこかにあると考えるほうを好む。どこかに「完全なる愛と平和」が実現している惑星があるのではないかと。スピリチュアル系の人たちが好む異星人ジャンルの本には、愛と平和を実現している異星人がたくさん登場して、地球を優しく見守っているという話がたくさん描かれ、小説『三体』とは正反対の宇宙像を提供している。
さて、宇宙は「暗黒の森」なのか、それとも「愛の森」なのか……
たぶん、私が思うには、「ディストピア」(暗黒郷)も「ユートピア」(理想郷)も一人一人が、あるいは特定の地域が経験する世界にしか存在しない。どんな時代のどんな瞬間にも、世界には、いや宇宙には、「ディストピア」(暗黒郷)と「ユートピア」(理想郷)を経験している存在(人類だけでなく異星人も含めて)がいるだろうし、そして地域があるにちがいない。
私にとっての「ユートピア」とは、大昔からずっと同じで、「ユートピア」とは熟睡しているとき、そして瞑想などで、マインドの活動が止まるとき。それが私にとっての「ユートピア」である。そして、最悪の「ディストピア」の時期は、たぶん20代前半の頃だったと思う。その時期はまさに「暗黒の森」という言葉がぴったりの時期だった。最近の一番ひどい「ディストピア」は、真夜中に快適な熟睡が突然に妨害されて、動きまわる母を追いかけては叱りつけて、何度も寝せようとするときだろうか……真夜中に人を叱りつけるなんて最低最悪の気分になる。
20世紀科学界の賢者、アインシュタインは、「神は微妙で奥深いかもしれないが、意地悪ではない」という言葉を残している。もし神が意地悪でなければ、神の作った宇宙も意地悪ではなく、宇宙は暗黒の森ではないだろうと推測できる。またダグラス・ハーディングも、「世界の背後にあるパワーは愛である」という言葉を残している。
そして、いちおうスピリチュアル系に属している私としても、20世紀の賢者たちの言葉に、宇宙は全体としては「暗黒の森」ではないほうに、人生を賭けている。真夜中に「ディストピア」を経験しているときでも、それも「愛かも」……しれない。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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