親子関係は切ないもの2012年02月03日 08時36分22秒

先月、父がついに旅立ってしまった。亡くなる前は病院通い、そして亡くなったあとは葬儀等で、あわただしい一年の始まりであった。

親が死んだら、どんな感情がわくのだろうかと思っていたのだが、今は哀しいというよりも、父が点滴・チューブの苦痛から解放されて、そしてその父の苦痛を見る苦しみも終わって、ほっとしたというのが非常に正直な気持ちだ。

大正生まれの父は、人は家族・親族・国家に尽くすべきという強固な戦前的家父長的人生観をもち、その観念どおり、縁ある人たちに尽くして一生を生きた。それに対して、私(だけでなく、子供たち全員)は、そういった父の観念を嫌って、誰一人何一つ父の言うことに従わず、自分勝手に生きてきたので、父の頭の中にはたぶん、「なんで誰もオレの言うことを聞かないんだ???」があったにちがいない。ちょうどS新聞(父の愛読紙)とA新聞が表面的論調ではしばしば対立するように、父と私(たち)は、若い頃は激しく、お互いに歳をとってからは穏やかに言い争いをし、そして、しだいに言い争うこともなくなり、最晩年はほとんど食べ物の話ばかりするようになった。

しかし、考え方、価値観、生き方、趣味など、あらゆることが違っているにもかかわらず(おいしいものをいっしょに食べるのが好きというのが、家族全員で唯一共通しているところだ)、父と私(たち)はなぜかピッタリな親子なのだ。何がどうピッタリなのかを言葉にして説明することは難しいが、自分の運命の展開にお互いが寄与し合ってきたというか、あるいは、お互いが自分の人生映画の中で欠かせない登場人物となって、喜びと苦しみを与え合ってきたというか……

あらゆる親子関係にはある種の「切なさ」がある。「切ない」という感情は非常に複雑な感情だ。おそらくその切なさの根底にあるのは、ある種の「恋愛感情」であろうと、私は感じている。それは、「決して成就しない恋愛」ともいえるし、あるいは、「はじめから成就している恋愛」ともいえるかもしれない。親子として一体感を感じようとする運動と、その中で埋没しないようにまた分離感へ動こうとする運動が、複雑にからみあって生まれる濃厚で味わい深い感情。単なる愛情でも憎しみでも怒りでも喜びでも悲しみでも好き嫌いでもなく、それらが全部合わさったような「切なさ」に、人はしばしば「中毒」する。だから、この「中毒」が重症となって手に負えなくなるとき、セラピー等の場所でそれに対処する必要が生じたり、また小説家であれば、それをテーマに小説を書いたりする必要性が生じるのであろう。

もちろん実際に一体とか分離があるわけではなく、人生映画が起こるために、人が映画に没頭するために、そうした「一体感」とか「分離感」という幻想が生まれるわけだ。

最後の五ヶ月間、父にずっと心で伝えたことは、「長年父親役をやってみんなを支えてくれて、ありがとうございました。お疲れ様でした。そして親孝行ができなくてごめんなさい」ということだった。たぶん、父(の役割をした存在)も私の感謝と謝罪を受け入れて、平和に源泉へ帰っていったと確信している。




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