読んだ回数の多い本 ― 2013年03月16日 15時39分18秒
エンジェル・ダストさんが、毎回、アジャシャンティの「あなたの世界の終り」(ナチュラルスピリット発行)を読んだ回数を報告してくださるので(非常に対費用効果があって、よかったと思います)、私も今回は、(もう一回だけ、お金の話を書いているのだが、なかなか書き終わらないので)、今まで読んだ本で、読んだ回数の多い本(=対費用効果があった本)をご紹介することにする。
20代に読み始めたので、今日までダントツ回数の多い本は、
*「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)
*「奇跡を求めて」PDウスペンスキー(平河出版)
*「新約聖書」(日本聖書協会)
*「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス(地湧社)
*「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ(新潮文庫)
*「なぜあなたは我慢するのか」V・ハワード(日本教文社)
それ以後に出会った本と著者で、読書回数の多いものは、
*「ベントフ氏の超意識の物理学入門」イツアク・ベントフ(日本教文社)
*「ベントフ氏の超意識界探訪」イツアク・ベントフ(日本教文社)
(イツアク・ベントフ氏は、上記二冊だけを残して、飛行機事故で50代でお亡くなりになったようで、非常に残念に思った)
*ダグラス・ハーディング
*ラメッシ・バルセカール
*ニサルガダッタ・マハラジ
ニサルガダッタの「アイアムザット私は在る」(ナチュラルスピリット発行)は長いし重いので、あまり回数を読んだことはないが、最晩年の講話記録、Prior to Consciousness(意識以前)は、薄い本なので、私はこちらを愛読している。
*「不思議の国の相対性理論」ルイス・キャロル・イプシュタイン(新水社)
スピリチャルな本ではないけど、私が大好きな本の1冊である。アインシュタインの相対性理論を、非常にシンプルに解説している。
スピリチャルな本ではないけど、私が大好きな本の1冊である。アインシュタインの相対性理論を、非常にシンプルに解説している。
ここ4、5年では、
*The Thunder of silence (沈黙の雷鳴) (Joel S. Goldsmith)
*The Spiritual Power of Truth (真実の霊的パワー)(Joel S. Goldsmith)
あたりが、回数が多い。
(Joel S. Goldsmithは前にも紹介したことがあるが、20世紀前半に活躍したアメリカのキリスト教系の先生で、エックハルト・トールが彼を非常に高く評価しているせいか、再評価されつつあるようだ)
(一応、出版界の片隅で仕事もしているので、業界のための発言でもありますが)、自分に合うよい本に出会って、何十回も読むことができれば、本への投資は、対費用効果が非常に高い(I hope )。
[お知らせ]
*2013年3月23日(土曜日)「楽しいお金ワークショップ」(広島市)
詳細は下記へ
http://www.simple-dou.com/CCP037.html
*2013年3月24日(日曜日)「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
詳細は下記へ
http://www.simple-dou.com/CCP038.html
*「バーソロミュー―大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ」が、ナチュラルスピリットより再刊されました。目次等の詳細は下記へ。
http://www.simple-dou.com/CCP039.html
http://www.simple-dou.com/CCP039.html
*「1994年バーソロミュー・ワークショップ・試聴版MP3ファイル(東京会場)(京都会場)」が、下記のサイトより無料ダウンロードできます(1ファイル140MB録音時間約76分―ダウンロード時間はパソコンの性能にもよりますが、数分くらいです)
http://www.simple-dou.com/CCP010.html
God(神) か mammon(富の神)か ― 2013年03月27日 10時58分42秒
新約聖書マタイ伝に、キリストがお金について、というより、正確に言えば、mammon(富への強欲を象徴する神)について、述べた有名な言葉がある。
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは神(God)と富(mammon)に兼ね仕えることはできない」
(日本聖書協会発行新約聖書より)
このキリストの言葉も、前に紹介したResist no evil (悪に抵抗するな)と同じくらい有名で、同じくらい真意が理解されていないように感じられる言葉の一つである。「あなたがたは神と富に兼ね仕えることはできない」とは、本当はどういう意味なのだろうか? 清貧や財産放棄、禁欲的生活の勧めだろうか? なぜ神と富(への強欲)は両立しえないのだろうか?
これは非常に奥深い問題である。なぜなら、私たち人間は、キリストの時代でも(ユダは、わずかなお金と引き換えにキリストを売り、歴史に悪名を残した)、現代でも、スピリチュアルを学んでいる人たちでも、そうでない人でも、程度の差はあれ、ほとんどの人がお金に深く依存・執着しているからである。なぜ私たちがお金にそれほど執着するかといえば、お金は、人間クラブ(と人間動物園)の中の最大のパワーを、象徴しているからである。人間クラブの中では、ほとんどすべてのものがお金で買える――おそらく人間関係や人間的愛情さえも。
人がスピリチュアルな道にいなければ、人がmammonに仕えようが、何に仕えようが、問題でもないが、もしスピリチュアルな道にいるなら、自分がいつmammonの弟子になるのかは、一人ひとりが自分の中に、注意深く誠実に見るべきことであり、また自分を生かしている究極のパワーが、mammonなのか、神なのか、それとも他の何なのかを問うべきである。私たちは一番パワーがあると信じているものを、一番信頼しているはずである。
ここで注意すべきことは、キリストの「God か mammonか」の言葉を、表面的に解釈して、清貧や財産放棄の勧めみたいに、受け取る誤解や、お金と現実的に付き合わないことが、スピリチュアル的であるというような誤解、あるいは、仕事やビジネスをしてお金をたくさん稼いだりすることが、問題であるというような誤解も起きやすいということである。
日常的にいえば、お金をたくさんもっていることや稼ぐことが、mammonに仕えることではなく、お金のせいで、惨めになったり不幸になったり心配したり、あるいは優越感や劣等感を感じたり、お金で他人をコントロールしたり、あるいは、お金のことで人を困らせたり苦しめたりすることが、mammonに仕えることであると、私自身はそう理解している。
だから、貧乏な人たちでもmammonに仕えている人はたくさんいるし、お金のために犯罪を犯す人や払うべきお金を払わないような人は、非常に強欲ということで、mammonの最大の弟子である。
先日読んだネットの記事の中で、ある不動産会社の社長が、自分たちが管理している賃貸物件の30%で、きちんと毎月家賃が払われないなどの支払いに関する問題が起きていて、その損失が年間数千万円になると話していた。
30%も、動物園の住民(笑)がいるんだ(!)と、私は驚いたが、実際、マンションの管理費、学校の給食費、自治会費など、払うべきお金が支払われないという話を見聞すると、だいたいどこでも平均10%以上は、mammonの弟子たちがいて、対策に苦慮している。こういったmammonの弟子たちは、払うべきものを払わないですめば得だと思うのだろうけど、それが将来どれほどの負債になって自分に戻ってくるのか、知らないのだ。
人間クラブでは、mammon以外にも、人が信を置いている小神たちがたくさんいる――人間関係、仕事、肉体のパワー・美貌、知識、名誉、地位、各種快楽、そしてスピリチュアルな各種テクニックやパワーなど。一個の肉体精神として、ほとんどの人がそれらをかき集めて、人間クラブでの安全で安定した暮らしを目指すものだが、そういったもののどれも究極の信頼を置くには足りないと、幸運にも気づくときに、神の王国への扉が開くのである――本当は、神の王国の扉はいつも開いているのだが、その入口を誰も見ないというだけの話である。ここでいう神の王国とは、「私の本質」のことで、だから、神を信頼するとは、別の言い方をすれば、「私の本質」を信頼するということである。
ダグラス・ハーディングは、「私の本質」の神秘、パワーについて、次のように語っている。
「もし霊的成長ということがあるとすれば、何よりもこれ(=私の本質)への信頼が成長するということです。これ以外の何も信頼しないでください。そうすれば、あらゆるものを利用することができます」
「信頼するとは託すということですね?それで私はこの神秘に託します。それは信頼に足ります。それは決して失敗しません。それは道徳経が『決して枯れることがない底なしの井戸』と表現したもののようです。神秘と信頼性はいっしょにすすみます」 (「顔があるもの 顔がないもの」より)
ハーディングのこれらの言葉は正しい。しかし、神(私の本質)のようにつかみどころのない、(人間マインドにとっては)あやふやに見えるものへの信頼が、育つのは時間がかかり、だから私たちは何十年にわたって小神たちと戯れ、希望と失望、挫折を繰り返して、ようやくこの理解に到達するのが、普通であろう。
God(神) か mammon(富の神)か、その他の小神たちか――どこに究極の信頼を置くのか、スピリチュアルな道にいる人は、このことを試される機会がしばしばある。幸運にも神の王国への道を選ぶ選択が起こり、神への信頼が育てば、ハーディングも言うように、お金も含めて、この世俗世界のあらゆるものを楽しみ、利用することができるようになる。
[お礼と伝言]
(エンジェル・ダストさんのコメントの受付は、前回で終了させていただきました。「あなたの世界の終り」をたくさん読んでいただき、また今までコメントを寄せていただき、ありがとうございました)
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは神(God)と富(mammon)に兼ね仕えることはできない」
(日本聖書協会発行新約聖書より)
このキリストの言葉も、前に紹介したResist no evil (悪に抵抗するな)と同じくらい有名で、同じくらい真意が理解されていないように感じられる言葉の一つである。「あなたがたは神と富に兼ね仕えることはできない」とは、本当はどういう意味なのだろうか? 清貧や財産放棄、禁欲的生活の勧めだろうか? なぜ神と富(への強欲)は両立しえないのだろうか?
これは非常に奥深い問題である。なぜなら、私たち人間は、キリストの時代でも(ユダは、わずかなお金と引き換えにキリストを売り、歴史に悪名を残した)、現代でも、スピリチュアルを学んでいる人たちでも、そうでない人でも、程度の差はあれ、ほとんどの人がお金に深く依存・執着しているからである。なぜ私たちがお金にそれほど執着するかといえば、お金は、人間クラブ(と人間動物園)の中の最大のパワーを、象徴しているからである。人間クラブの中では、ほとんどすべてのものがお金で買える――おそらく人間関係や人間的愛情さえも。
人がスピリチュアルな道にいなければ、人がmammonに仕えようが、何に仕えようが、問題でもないが、もしスピリチュアルな道にいるなら、自分がいつmammonの弟子になるのかは、一人ひとりが自分の中に、注意深く誠実に見るべきことであり、また自分を生かしている究極のパワーが、mammonなのか、神なのか、それとも他の何なのかを問うべきである。私たちは一番パワーがあると信じているものを、一番信頼しているはずである。
ここで注意すべきことは、キリストの「God か mammonか」の言葉を、表面的に解釈して、清貧や財産放棄の勧めみたいに、受け取る誤解や、お金と現実的に付き合わないことが、スピリチュアル的であるというような誤解、あるいは、仕事やビジネスをしてお金をたくさん稼いだりすることが、問題であるというような誤解も起きやすいということである。
日常的にいえば、お金をたくさんもっていることや稼ぐことが、mammonに仕えることではなく、お金のせいで、惨めになったり不幸になったり心配したり、あるいは優越感や劣等感を感じたり、お金で他人をコントロールしたり、あるいは、お金のことで人を困らせたり苦しめたりすることが、mammonに仕えることであると、私自身はそう理解している。
だから、貧乏な人たちでもmammonに仕えている人はたくさんいるし、お金のために犯罪を犯す人や払うべきお金を払わないような人は、非常に強欲ということで、mammonの最大の弟子である。
先日読んだネットの記事の中で、ある不動産会社の社長が、自分たちが管理している賃貸物件の30%で、きちんと毎月家賃が払われないなどの支払いに関する問題が起きていて、その損失が年間数千万円になると話していた。
30%も、動物園の住民(笑)がいるんだ(!)と、私は驚いたが、実際、マンションの管理費、学校の給食費、自治会費など、払うべきお金が支払われないという話を見聞すると、だいたいどこでも平均10%以上は、mammonの弟子たちがいて、対策に苦慮している。こういったmammonの弟子たちは、払うべきものを払わないですめば得だと思うのだろうけど、それが将来どれほどの負債になって自分に戻ってくるのか、知らないのだ。
人間クラブでは、mammon以外にも、人が信を置いている小神たちがたくさんいる――人間関係、仕事、肉体のパワー・美貌、知識、名誉、地位、各種快楽、そしてスピリチュアルな各種テクニックやパワーなど。一個の肉体精神として、ほとんどの人がそれらをかき集めて、人間クラブでの安全で安定した暮らしを目指すものだが、そういったもののどれも究極の信頼を置くには足りないと、幸運にも気づくときに、神の王国への扉が開くのである――本当は、神の王国の扉はいつも開いているのだが、その入口を誰も見ないというだけの話である。ここでいう神の王国とは、「私の本質」のことで、だから、神を信頼するとは、別の言い方をすれば、「私の本質」を信頼するということである。
ダグラス・ハーディングは、「私の本質」の神秘、パワーについて、次のように語っている。
「もし霊的成長ということがあるとすれば、何よりもこれ(=私の本質)への信頼が成長するということです。これ以外の何も信頼しないでください。そうすれば、あらゆるものを利用することができます」
「信頼するとは託すということですね?それで私はこの神秘に託します。それは信頼に足ります。それは決して失敗しません。それは道徳経が『決して枯れることがない底なしの井戸』と表現したもののようです。神秘と信頼性はいっしょにすすみます」 (「顔があるもの 顔がないもの」より)
ハーディングのこれらの言葉は正しい。しかし、神(私の本質)のようにつかみどころのない、(人間マインドにとっては)あやふやに見えるものへの信頼が、育つのは時間がかかり、だから私たちは何十年にわたって小神たちと戯れ、希望と失望、挫折を繰り返して、ようやくこの理解に到達するのが、普通であろう。
God(神) か mammon(富の神)か、その他の小神たちか――どこに究極の信頼を置くのか、スピリチュアルな道にいる人は、このことを試される機会がしばしばある。幸運にも神の王国への道を選ぶ選択が起こり、神への信頼が育てば、ハーディングも言うように、お金も含めて、この世俗世界のあらゆるものを楽しみ、利用することができるようになる。
[お礼と伝言]
(エンジェル・ダストさんのコメントの受付は、前回で終了させていただきました。「あなたの世界の終り」をたくさん読んでいただき、また今までコメントを寄せていただき、ありがとうございました)
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