感情の研究(1)―嫉妬の可能性2013年05月02日 06時29分52秒

人間は、感情の生き物だとはよく言われるし、実際その行動の多くが好き嫌いによって左右されている。感情は、ときには喜ばしく、とくには苦しく、ときには切なく、ときには恥ずかしいものでさえもある。

「私とは何か」の目覚めの教えでは、多くの賢者の方々は感情・思考レベルをあまり語らない。たぶんその理由は、本質から見れば感情・思考レベルはどうでもいいことであり、そういう話に時間を割くのがもったいないということもあるのだろう。それにもかかわらず、「私とは何か」を探求している多くの人たちが、感情・思考レベルで混乱して、そのことが「私とは何か」を認識し、それを生きる障害になっているように感じることがある。

感情・思考の解放から目覚めへ導く方法として、今まで、バイロン・ケイティの四つの質問、セドナ・メソッドを紹介してきた。バイロン・ケイティもセドナ・メソッド(ザ・リリース・テクニックをいう名称もある)の創始者であるLester Levenson (1909――1994)も素晴らしい賢者で、彼らの生きた目覚めがこれらの方法には注入されているので、感情・思考の混乱に悩む人たちにはお勧めしている。

このブログでは、これから数回にわたって、人間の感情の中でとりわけしつこく居すわる感情、「嫉妬」と「罪悪感」について、それらがどう発生し、居すわるのか、そのメカニズムへの理解を提供したいと思っている。

まず今回は「嫉妬」について。

人間がもつ感情の中で、嫉妬は一番やっかいであり、イヤなものであり、恥ずかしくさえある。そのため、他の感情に比べて、嫉妬ははるかに自分の中で気づかれにくく、抑圧される傾向にある。

なぜ嫉妬は恥ずかしさを喚起するのかといえば、それは嫉妬には、正当な理由がないからだ。それが他の否定的な感情とは異なるところである。たとえば、人が何かや誰かに怒りを感じるときは、表向きには、一応自分を納得させる理由がある。「あの人が私にこんなことをした(言った)から、私は怒っていて、だから私が怒るのは当然だ」と。自分の怒りにプライドさえいだき、他の人たちにもその怒りをしゃべりまくる人もいる。

しかし、自分が誰かや何かに嫉妬を感じるときは、そういう正当な理由がない。つまり、相手が自分に何かをしたわけでもないのに、自分の中で、他人の所有物、境遇、才能、美貌、収入などに嫉妬が突然湧きおこるのだ。怒りとは違って、相手にまったく非がない。嫉妬を感じる人はそのことを無意識には知っている。嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを強く意識させられる。だからこそ、嫉妬を感じることは辛く、恥ずかしくさえあり、だからこそ、それは抑圧されたり、他の何か(相手に対する怒りや嫌悪感、軽蔑、批判など)に転化されることが多い。

最近読んだサイトの投稿に、要約すると次のような話があった。

ある母親からの投稿で、自分の息子と同じ塾に通っている息子の友人についてである。息子のその友人は、塾からの宿題も免除され、家庭ではゲームで好きに遊ぶことも許されていて、夜も早々と寝てしまうという。それなのに、塾での成績は抜群である。ところが我が息子は、塾の宿題を毎晩夜遅くまでやっとの思いでやって、しかも家庭ではゲームも禁止、それなのに成績は友人にはるかに及ばない。息子は友人を称賛しているが、その母親は塾の対応を疑い、塾に抗議しようかと思っている。

とまあ、以上のような内容である。「おいおい、お母さん、本気ですか?」とツッコミを入れたくなる内容であり、当然、「お母さん、あなたがおかしいです」というコメントがたくさんついていた。このお母さんが自分と息子を同化して、息子の友人(とその家庭)に嫉妬をしているのは、明らかであり、嫉妬を外側への批判に置き換える典型的な例である。しかも、堂々とこういう文章を書いて投稿するあたりが、自分の嫉妬に完全に無意識である。

このような無意識の「嫉妬」はトリックスター(悪戯もの)でもある。万一このお母さんが、他人のコメントを読んでも目が覚めず、本当に塾に抗議したら、そのことは、自分の人生と息子の人生に対して大きな逆風となって、あとで跳ね返ってくる可能性がある。

世の中にはあらゆるものに恵まれている(ように見える)人たちはたくさんいる。しかし、私たちの嫉妬という感情は、すべての人に向くわけではない。このことは嫉妬について重要なポイントである。私たちは普通、芸能人やスポーツ選手がどれほど金持ちでも美貌でも豪邸に住んでいても嫉妬を感じることがない。学者がどれほど頭がよくても、ノーベル賞をもらっても、嫉妬することもない。

つまり、嫉妬とは、心理的・物理的に同じコミュニティ(友人、同じ世代、職場、家族、学校、近所、業界、その他サークル等)に所属する(あるいは所属していると思っている)相手に対していだくもので、普通、まったく無関係で無関心な相手には、嫉妬を感じることができない。

さらに言えば、嫉妬を感じるためには、「相手と自分は平等で同一であるはず」という観念も必要である。嫉妬とは、「本来同一で平等であるはずの人」がそうでないと気づくときに感じるショックでもある。ある意味では、私たちは嫉妬を感じる対象に非常に人間的愛情いだいている。

それから最後に、嫉妬の一番重要な点は、人が強く嫉妬を感じるときは、その裏には可能性があるということである。反対から言えば、自分の中に可能性のないことには、人は嫉妬を感じないものなのだ。嫉妬の裏側にあるものは、「可能性」である。

そのことを理解するとき、嫉妬を感じることに、否定的な気持ちや恥をほとんど感じなくなる。「そうか、これは可能性なのか」と。自分の嫉妬を受け入れていけば、しだいに、嫉妬を感じることも少なくなり、時期がくれば可能性が花開く道が自然に開けてくる。究極的には、「私とは何か」の目覚めが、嫉妬からの解放を強力に推し進める。なぜなら、(私たちのエゴは信じないけれど)「あらゆる瞬間に私たちの本質には、必要なものがすべてある」からだ。反対に、嫉妬に対してまずい対処は、嫉妬を抑圧したり、先の投稿者の例のように、無意識に外側に転化していくことである。

以上嫉妬が生じるメカニズムをまとめれば、
*同じ心理的物理的コミュニティに所属
*「同一で平等であるべき」という観念と相手に対する愛情
*可能性

さて、嫉妬についてよくある俗説として、「女は男より嫉妬深い」とか「女の嫉妬は怖い」(笑)などとよく言われるが、まったく誤解である。嫉妬に性は関係ない。男の嫉妬の悲劇を描いた有名な作品として、シェークスピアの「オセロ」、モーツアルトのライバルの音楽家の目からモーツアルトの生涯を描いた映画「アマデウス」、そしてそれほど有名ではないが、ユダの目からイエス・キリストを描いた太宰治の短編「駆け込み訴え」などが、私には印象に残っている。これらの作品では、男の嫉妬の切なさと悲劇が見事に描かれている。

新約聖書に題材をとった「駆け込み訴え」は、数年前に読んだ話で、太宰治の作品を読むのは、数十年ぶりであった(若い頃、私は太宰治を愛読していた)。太宰治は人の惨めさを描くのが本当にうまい。想像するに、非常に嫉妬深い人だったような気がするし、そしてたぶん、聖書もかなり読んだのだろうけど、彼はイエスではなく、ユダに共感して、イエスの教えは彼の救済にはならなかった――1948年、入水自殺(享年39歳)。

[伝言]
ニサルガダッタのPrior to Consciousness の特徴は、

*「アイアムザット」よりかなり短い。
*最晩年の講話録(死ぬ前の2年間の講話録)
*ニサルガダッタが末期の癌の中で、最後の気力を振り絞って話している。
*「アイアムザット」よりも、さらに内容が純化し、本質的なことだけに話を絞っている。







感情の研究(2)罪悪感の裏側2013年05月19日 10時00分57秒

今回は罪悪感について。

罪悪感については、二年前に一度、書いたことがあるので、そちらも合わせてご参照ください。
罪悪感の三段階(1)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/06/

罪悪感の三段階(2)
http://simple-dou.asablo.jp/blog/2011/08/

嫉妬と同じく、罪悪感もしつこく居座る、イヤな感情で、それゆえに罪悪感はしばしば抑圧される傾向にあり、他の何かに転化されやすい。

嫉妬を感じるとき、人は自分が劣等な側にいることを感じさせられると前回書いたが、人が罪悪感を感じるときは、文字通り、自分が「罪と悪の側にいる」ことを感じさせられる。

罪悪感に関して興味深いことは、罪悪感をよく感じる人とほとんど感じないか、まったく感じない人がいるということだ。上記の罪悪感の三段階(1)で、動物や犯罪者は罪悪感を感じないという話を書いたが、普通の人たちの中にも、自分が何をしても何を言ってもほとんど罪悪感を感じない人たちがいる一方、自分の言動の一つ一つが気になり、クヨクヨと罪悪感に悩む人たちもいる。

自分の言動に罪悪感を感じない人たちのよくあるタイプが、自分の言動をあまり深く内省せず、感じたままで物を言い、そしてすぐ忘れるタイプだ。こういうタイプの人は基本、他人の感情領域に鈍感で、「自分の言動はいつも正しい」と信じて疑わないタイプである。こういうタイプの人に、誰かが、「この間、あなた、私にこんなこと言ったでしょう? 私、すごくイヤな思いをした」みたいなことを言っても、たいていの返答は、「え? 私、そんなこと、言ったっけ?」か、あるいは、「そんなこと気にするなんて、あなたのほうがおかしいんじゃない?」みたいな返答となる。うらやましいほどの「短期記憶」(笑)である。

なぜこのタイプの人たちは、そんなに「自分の正しさ」を主張しなければならないのかといえば、それはそう主張しないと、反対の側、つまり、「罪と悪」の側に転落する恐れを非常に強くもっているからだ。本当は、そういった人は罪悪感をもっていないのではなく、何かについて非常に強い罪悪感があって、もしそれを感じたら、生きていくのが非常に辛くなるので、罪悪感を抑圧して、自分を正しい側に置くことで、精神のバランスを保っている。あるいは、普段はめったに自己主張しない人でも、特定の何かに関して、「自分の正しさ」をどうしても主張せずにいられないときがあれば、その背後に無意識の罪悪感があることを疑ったほうがいいかもしれない。「罪悪感と自分への非難」は、抑圧されると、「自分の正しさと他人への非難」に容易に転化されるものである。

精神の進化から考えれば、以上のような罪悪感を感じない人たちよりも、罪悪感を感じる人たちのほうが、進化しているとは言える。

つまり、他人の立場や気持を思いやる気持ちが芽生え、自分の言動を深く内省するようになるからこそ、罪悪感を感じるわけで、罪悪感は、より多くのことを感じられる感受性の進化と向上心と記憶能力の増加のおかげでもある。

しかし、より精神の進化が進んだにもかかわらず、人間界ではなぜか、罪悪感の強い人は罪悪感を感じない人たちよりも、不利な立場に置かれることが多い。その理由は、前回のときにも触れたけれど、一つは、罪悪感は常に人を後ろ向きにさせ、過去の重荷を背負わせ、自分の現在を否定し、前に向かうエネルギーを奪うからである。罪悪感を感じなければ、自由にできることが、いったん罪悪感を感じてしまうと、自分が何をしても、間違った、正しくない側にいるような気がするのだ。そして、これも以前に書いたことではあるが、それに追い打ちをかけるように、罪悪感はある種のトリックスター(悪戯もの)で、自分が無意識に何かに強く罪悪感を感じていると、ほとんど必ず誰かが鏡のように自分を批判しにやって来るという具合である。人間界でよくおこなわれるゲームの一つは、「私は正しい・あなたは間違っている」という罪悪感のなすりつけ合いである。

それから、罪悪感を感じるもう一つの主要な原因に、理想の自己イメージというものがある。自分に対してある種の理想的な善なる聖なる自己イメージをもつ場合、それにそぐわないことをすると、罪悪感を感じやすくなる。自分はよい人(母、父、夫、妻、子供、友人など)であるというイメージを強くもっていたり、自分がいつも正しく、清く、美しく、賢く、スピリチュアルでなければいけないと思ったりすると、自分にも周囲にもストレスを与える。人は、絶対的に善の人も絶対的に悪の人もいるわけではなく、関係によって善になったり悪になったりするだけである。イエス・キリストでさえ、ユダヤ社会にとっては「悪」であったのだ。

だから、私はいつも思うのである。人としての私たちはみな、精一杯生きてはいるけど、それでも不完全な生き物である。だから、自分の中にある冷たさ、間違い、愚かさ、優柔不断、気遣いのなさ、意地悪な気持ちを、ゆるしましょう、って。自分がいつも「よい、正しい、賢い、清い、美しい、高い、聖なる側にいる」と、思い込むのはやめましょう、って。もし次回、罪悪感を感じたら、とことん、「自分は本当に悪いやつ」と感じきるのも、よい方法である――私自身、この方法で、何度かしつこい罪悪感から解放された経験がある。自分の「悪」を受け入れたら、もう「よいふり」をする必要もなくなり、そうすれば、緊張がなくなり、ありのままの自分でリラックスしていられるものである。

それから、最後に、自分が社会の少数派に所属していると感じるときに、「自分の状態はおかしいのではないか」と罪悪感を感じる人たちがたくさんいる。しかし、本当のところは、あらゆる人は究極的には誰でも、「少数派お一人様」である。人としての私たちの存在のあり様は、決して他人と同じではありえず、色々なことが異なるのが普通である。人間は(動物とは違って)、お互いが違って、多様であるのが普通である。自分と他人を比較して、自分が他人のように考えたり行動できないことを責めたり、他人が自分のように考えたり行動できないことを責めても、百パーセントムダ! である。「北朝鮮化運動」(笑)――みんなが同じように考え・行動することを絶対善として、少数派を断罪しようとすることを、私はひそかにこう呼んでいる――は、人生の最大のムダと非効率である。

むしろ、人間関係や組織においては、違うもの同士が、どうしたらお互いの違いを認め合って、共通の仕事や何かを一緒にやっていくことができるのか、それを研究するほうがはるかに役に立つだろうと、思っている。

以上、罪悪感を感じやすい原因をまとめれば、

1他人の感情領域に敏感である
2自分の言動の内省と過去を記憶する能力と向上心の増加
3自分に対する高い理想的な自己イメージ
4自分と他人を比較し、少数派であることを感じる

罪悪感の裏側は、感受性、理想、向上心、記憶能力といった非常にポジティブなものである。だから、罪悪感を感じることそのものに罪悪感を感じる必要はないし、自分の中の負の部分を許せば、自分にネガティブに作用していた罪悪感がポジティブなものに変容するかもしれないのである。

最後に、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」から、若い頃の私の心に非常に響いた言葉を引用して、ご紹介したい。

「何かがわかった時には、それ以外のことについては自分が無知であることを認める、ということです。神聖な使命感を持ったならば、その裏側の罪と共に生き、その責任を受け入れることなのです」 (31ページ)

「自分の中にみにくいものの存在を許して認めてやれば、私達は美しいものを自由に作り出すこともできるのです。自分の愚かな部分を認めてやれば、私たちはどんな高い知恵でも得ることが可能になります」 (32ページ)