秋のお祭り2008年09月08日 20時29分40秒

去年、今年と、秋になると政変が起こる。

政変といっても、日本の場合は、マスコミや一部の識者が批判するだけで、全国の交通が止まったり、デモや暴動があったり、自衛隊が出動したりということもなく、いたって平穏で、平和で、ありがたいことである。

去年の安倍さんに続いて、政権を放棄した福田さんは、私が見るに、まだ前の小泉政権が残した不運の影響下にある。人気下落の原因となった後期高齢者医療制度(私もよく知らなかったが、小泉政権のときに決めた制度らしい。)の問題にしろ、年金記録の問題にしろ、別に福田さんのせいではなく、たまたま、発覚したのが、彼の政権中というのが、不運なのである。福田さんにしてみると、「別に私がしたことでもないのに、なんで私の政権中に問題が次から次へと出てくるのか?」という感じで、嫌気がさしたのであろう。元々、福田さんは、首相になって何がしたいということがあるわけでもなく、ただ親子二代首相になるという、ぼんやりとした夢をもっていたようなので、「夢がかなって、よかったですね」、という感じだ。

エネルギー的に見ると、小泉政権の時代は、自民党は非常に求心的(陰性的)、つまり、小泉さんのカリスマ性と人気と強い信念で、自民党の実力以上にエネルギーを集めて、その結果が前回の衆院選の圧勝である。そして、その小泉政権が終わったあとは、自民党の実力以上に集められたエネルギーは出て行こうとする(遠心的・陽性的になる)ので、当然、組織はしだいに求心力がなくなり、誰がトップになってもしまりがなくなり、以前は表に出なかったミスや不都合・混乱が外に出やすくなる。(カリスマ的人物が去ったあとの混乱は、政治組織だけでなく、国家、企業、宗教組織、家庭、また現代だけでなく、過去の歴史においても、よく見られる現象である)

今もし、このままの状態で、選挙をやれば、二代続けて、政権を放り出したということで、自民党には圧倒的マイナスのイメージがあり、不利である。しかし、そこは、試合巧者の自民党、大々的に総裁選という大花火を打ち上げて、そのマイナスのイメージを完全に払拭する作戦に出た。

この手法は、小泉さんが首相になる前頃から、自民党が使い出した方法で、マスコミを利用して、国民の関心を一気に自分たちに引きつける頭のいい方法である。小池元防衛大臣も出して、女性で初めての総裁候補ということで話題を作るあたりが、企画がうまい。(今回の総裁選の企画を立てているのは、小泉さんか……)

さらに、自民党総裁選というのは、党内にある対立エネルギーを身内のゲームで解消できて、選挙のときには、一丸となって挙党体制で、のぞむことができるという効果もある。対照的に、民主党代表選に出たい人たちがいたにもかかわらず、代表戦を封印した民主党は、党内に対立エネルギーのくすぶりを残している。

ということで、さあ、どうなるか、秋の政治=お祭り――自民党の戦術が勝つのか、民主党小沢さんの執念が勝つのか――どっちが勝っても、私の生活にはまったく関係ないけど、政治家の皆さんには健康に留意して、「政」(まつりごと)に頑張っていただきたいものだ。

欲望が邪魔2008年09月23日 09時45分40秒

先日、大リーグで8年連続200本安打という大リーグ・タイ記録を作ったあとの、イチロー選手のインタヴューのコメントが、なかなか面白かった。

彼のコメントの中で、特に「欲望が邪魔だった」という言葉と、「170本あたりから、恐れと戦うのが大変だった」という主旨の言葉が、私には印象に残っている。

「欲望が邪魔」と理解しているあたりが、さすがイチロー選手である。

彼は今回のインタヴューの中で、「欲望が邪魔」について説明はしていなかったが、たぶん次のようなことだと思う。

「200本ヒットを打ちたいという欲望」=「200本ヒットを打てないかもしれないという恐れ」

つまり、欲望があるから、恐れが生まれ、恐れが生まれると、体の自然の力・リラックス感が失われ、結果として、ヒットが出にくくなる。だからリラックスして、体に最高のパフォーマンスをさせるために、「200本打ちたい欲望=恐れ」を考えないようにするのが、大変だったということだろう、と私は勝手に解釈した。

最近は、スピリチュル系の本にも、「欲望・願望は、目標達成の最大の障害」という話がたまに書かれているが、それはなかなか、理性には理解がむずかしい。「願望しなくて、どう目標に達成するのか?」と理性は、必ず疑問に思うものだ。

その疑問を解く一つの鍵が、「欲しい」という観念である。実は、「欲しい」という観念の裏側には、「欠乏・不足」があり、「欠乏・不足」しているので、「欲しがる」というわけだ。実際、英単語の「欲しい」を表す「want」という言葉の元々の意味は、「欠乏・不足」という意味でもある。だから、私たちが、「私は――が欲しい」と思うたびに、実際は、「私は――が欠乏している」という状況を強化し続けているのである。

さらには、「want」がありすぎると、実際はたくさんもっているにもかかわらず(先進国に住んでいるほとんとの人が、みな、すでにたくさんもっている)、「欠乏している」という心理状態から解放されず、みじめで不幸なスパイラルに陥るわけである。(10年ほど前のベストセラー「神との対話」という本に、「私は――が欲しい」と思うとき、「――を欲しがる私」が創造されると書かれてあったと確か記憶している)

I want to have 200 hits.(私は200本ヒットを打ちたい=私は200本ヒットを打つことに欠乏している=200本ヒットを打ちたがる私が生まれる)

I want A.(私はAが欲しい=私はAに欠乏している=Aに欠乏している私が生まれる)

そのAを欲しがっているかぎり、私たちは、どんどんAから遠ざかってしまうという奇妙な事態となってしまうようなのである――「欲望=欠乏=恐れ」という方程式は、考えてみるにあたいすることだ。


さてでは、「願望しなくて、どう目標に達成するのか?」といえば、それは目標を欲望する代わりに、目標を達成するために必要だと自分が思うプロセスを、一つひとつくつろいで、ただやるだけのことである。イチロー選手であれば、目の前の打席でいつもと同じ平常心で打席に立つだけであり、私たちであれば、目の前のやるべきことを、一つひとつ、ただこなしていくだけである。

結果を「欲しがらず」に行動・行為すること――それが、人間の理性には最難関のチャレンジなのかもしれない。