哲学の本と宗教の本 ― 2009年09月16日 11時55分38秒
先日、コメントを寄せていただいた方から、チャールズ・サンダース・パースをご紹介してもらった(どうもありがとうございました)。
今まで名前を聞いたことも、本を読んだこともない著者で、図書館に本があった(「現象学1」勁草書房)ので、借りて読んでみた。(正確に言うと、「読んだ」というより「見た」に近い)
せっかくご紹介いただいたパースであるが、非常に正直な話、私はこういう哲学系の本を読むのを苦手にしている。若いとき、ニーチェ、サルトルなどをよく理解できないまま愛読していたこともあるし、ここ10年間でもカント、ヘーゲルの本にも挑戦してみた。しかし、ほとんどまともに読めたことがない。
どうして自分は哲学の本が苦手なのか……
それは実は私の読書方法と関係があるようなのである。若いときから、私は本をたくさん読んできたのだが、実は、飛ばし読みの名人なのである。難解なところ、わからないところは、飛ばして読む。たいていの本は、それで問題ないし、もしその本が再読の価値があると思えば、二度目、三度目に今度は時間をかけて、わからないところをていねいに読む。
そもそも本を最初から順序だって読まないことも多い。たいてい、まず、目次、それから前書き、それから、後書き、それから、一番面白そうな章から読み、退屈な章は、時間がないときは、読まないこともよくある。私はこんなふうに自由きままに、好き勝手に本を読んできた。
ところが、こういう本の読み方は、哲学の本を読むにはまったく向かないのである。
私の感じによると、哲学の本は、1行目を理解しないと、2行目以後は理解できないし、1ぺージ目を理解しないと、それ以後のページはほとんど理解できない。1行目から4行目が理解できなくて、5行目が理解できるとか、1章から4章まで、理解できなくて、5章が理解できるとか、そういうことはほとんど起こらないのである。
そのため、哲学の本を読むには、1行1行を順にていねいに考えぬく根気と忍耐力が必要で、わからないからといって、飛ばして読んではいけないのだ。たとえていえば、富士山の頂上へふもとから歩いて登るようなもので、哲学の本を読むことは、哲学者が真理の頂上へ歩いて登った思考の道を自分も同じように考えて歩くことなのである。
哲学にとっては、考えることと言葉は最大に価値のあるもので、だから、哲学者は毎日、山の頂上をめざして、考えぬき、その思考の痕跡を価値あるものとして、文章に書き残す。
それとは対照的なのが宗教の本である。宗教(ここでいう宗教とは、神を信じる宗教でも、現世利益を約束する宗教でもなく、私とは何か、真理とは何かを探求する科学としての宗教である)にとっては、考えることと言葉は、真理を示すための単なる指標にすぎないので、考えることと言葉に究極の価値をおかない。おそらくそのためだろうと思うが、宗教系の本は、論理的に構成されていないものや適当に言葉が散らばっている感じの本が多い。
だからこそ、1行目から4行目が理解できなくても、5行目はわかる、1ページから10ページまでは理解できなくても、20ページ目、100ページ目はわかる、どこから読んでもいい、というようなことが可能になるのである。哲学の本と違って、宗教の本を読むのには、思考力より、直観力や好き・嫌いみたいなもののほうが大事となる。
このように哲学も宗教もどちらも真理の頂上を目指しているが、まったく方法論を異にしている。
哲学系の人が言葉や考えることをどう思っているのか、少し長いが、池田晶子さん(哲学系の文章を書く異色の作家だったが、昨年亡くなられた)の文章を引用してみよう。
「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値あることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉が人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるものは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている」(「君自身に還れ」池田晶子・大嶺顕著 本願寺出版社発行ページ40)
と、池田さんは嘆いているが、哲学の言葉が好きなのか、宗教の言葉が好きなのか、はたまた携帯電話から流れる言葉が好きなのか、それはもって生まれた脳の志向(つまり、遺伝)によるもので、ほとんど訓練でどうにかなるものではないだろうと、私は思うのだ。私が見るに、哲学遺伝子が入っていないほとんどの日本人の脳は、哲学の本や言葉を楽しく感じられるようにはできていない。
それでも、難解だった本、さっぱりわからなかった本が、ある日突然わかったという読書体験も色々とあったので、私もまだ哲学の本を完全にあきらめたわけではない。死ぬまでのいつか、哲学言語を理解する遺伝子が突然どこからか飛んでくるかもしれないと思い、カントやヘーゲルの本を今でもちゃんと本棚の隅に保管してある。
今まで名前を聞いたことも、本を読んだこともない著者で、図書館に本があった(「現象学1」勁草書房)ので、借りて読んでみた。(正確に言うと、「読んだ」というより「見た」に近い)
せっかくご紹介いただいたパースであるが、非常に正直な話、私はこういう哲学系の本を読むのを苦手にしている。若いとき、ニーチェ、サルトルなどをよく理解できないまま愛読していたこともあるし、ここ10年間でもカント、ヘーゲルの本にも挑戦してみた。しかし、ほとんどまともに読めたことがない。
どうして自分は哲学の本が苦手なのか……
それは実は私の読書方法と関係があるようなのである。若いときから、私は本をたくさん読んできたのだが、実は、飛ばし読みの名人なのである。難解なところ、わからないところは、飛ばして読む。たいていの本は、それで問題ないし、もしその本が再読の価値があると思えば、二度目、三度目に今度は時間をかけて、わからないところをていねいに読む。
そもそも本を最初から順序だって読まないことも多い。たいてい、まず、目次、それから前書き、それから、後書き、それから、一番面白そうな章から読み、退屈な章は、時間がないときは、読まないこともよくある。私はこんなふうに自由きままに、好き勝手に本を読んできた。
ところが、こういう本の読み方は、哲学の本を読むにはまったく向かないのである。
私の感じによると、哲学の本は、1行目を理解しないと、2行目以後は理解できないし、1ぺージ目を理解しないと、それ以後のページはほとんど理解できない。1行目から4行目が理解できなくて、5行目が理解できるとか、1章から4章まで、理解できなくて、5章が理解できるとか、そういうことはほとんど起こらないのである。
そのため、哲学の本を読むには、1行1行を順にていねいに考えぬく根気と忍耐力が必要で、わからないからといって、飛ばして読んではいけないのだ。たとえていえば、富士山の頂上へふもとから歩いて登るようなもので、哲学の本を読むことは、哲学者が真理の頂上へ歩いて登った思考の道を自分も同じように考えて歩くことなのである。
哲学にとっては、考えることと言葉は最大に価値のあるもので、だから、哲学者は毎日、山の頂上をめざして、考えぬき、その思考の痕跡を価値あるものとして、文章に書き残す。
それとは対照的なのが宗教の本である。宗教(ここでいう宗教とは、神を信じる宗教でも、現世利益を約束する宗教でもなく、私とは何か、真理とは何かを探求する科学としての宗教である)にとっては、考えることと言葉は、真理を示すための単なる指標にすぎないので、考えることと言葉に究極の価値をおかない。おそらくそのためだろうと思うが、宗教系の本は、論理的に構成されていないものや適当に言葉が散らばっている感じの本が多い。
だからこそ、1行目から4行目が理解できなくても、5行目はわかる、1ページから10ページまでは理解できなくても、20ページ目、100ページ目はわかる、どこから読んでもいい、というようなことが可能になるのである。哲学の本と違って、宗教の本を読むのには、思考力より、直観力や好き・嫌いみたいなもののほうが大事となる。
このように哲学も宗教もどちらも真理の頂上を目指しているが、まったく方法論を異にしている。
哲学系の人が言葉や考えることをどう思っているのか、少し長いが、池田晶子さん(哲学系の文章を書く異色の作家だったが、昨年亡くなられた)の文章を引用してみよう。
「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値あることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉が人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるものは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている」(「君自身に還れ」池田晶子・大嶺顕著 本願寺出版社発行ページ40)
と、池田さんは嘆いているが、哲学の言葉が好きなのか、宗教の言葉が好きなのか、はたまた携帯電話から流れる言葉が好きなのか、それはもって生まれた脳の志向(つまり、遺伝)によるもので、ほとんど訓練でどうにかなるものではないだろうと、私は思うのだ。私が見るに、哲学遺伝子が入っていないほとんどの日本人の脳は、哲学の本や言葉を楽しく感じられるようにはできていない。
それでも、難解だった本、さっぱりわからなかった本が、ある日突然わかったという読書体験も色々とあったので、私もまだ哲学の本を完全にあきらめたわけではない。死ぬまでのいつか、哲学言語を理解する遺伝子が突然どこからか飛んでくるかもしれないと思い、カントやヘーゲルの本を今でもちゃんと本棚の隅に保管してある。
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