政治家の人生ゲーム ― 2009年09月07日 11時52分46秒
いつのまにかまた政治スポーツの季節がめぐってきて、日本の政治家たちは真夏の日本を元気に走り回っていた。
事前の予想どおり、衆議院選挙は民主党圧勝に終わり、民主党小沢代表代行の「長年の夢(政治権力の頂点に立つこと)がかなった」(祝)、選挙結果となった。
今回の選挙をスポーツとしてみた場合、自民党は、まったく運と戦略に恵まれなかった。どれほど運と戦略が悪かったかを思いつくままに列挙してみると、
*4年前の衆院選挙で小泉さんが圧勝したとき、彼が作った政権は自民党政権ではなく、「郵政民営化政権」で、彼は自分の人生ゲームに勝利する(郵政民営化を実現する)ために、自民党の組織を実質的に崩壊させてしまった。で、郵政民営化を実現したあとは、もはやその「郵政民営化党」の役割も終わり、「自民党・郵政民営化党」はそれ以後は求心力と中味のない党になってしまった。つまり、「自民党をぶっつぶす!」と常々言っていた小泉さんは、自分の人生ゲームのために、自民党をとことん利用したあげく、本当に4年前に自民党をぶっ壊してしまったのである。
*「選挙の風」というのはバブルのようなもので、4年前の自民党の300議席のうち、100議席くらいは小泉さんの人気が引き起こしたバブルな議席で、それはバブルが終われば、当然はじけてしまうものである。バブルというのは、はじけるときは、たいてい以前よりもずっと収縮してしまう傾向がある。つまり、バブルで獲得した100議席は、減るときはそれよりももっとずっと多く減ってしまうということである。
*以上のような4年前の遠因に加え、麻生首相自身にも運がなく(就任早々、世界的経済危機が襲い)、何兆円のお金を全国民にばらまく(定額給付金)という愚策で、国民の人気を得ようとして失敗し(長年多種多様なマンガを愛読しているという麻生首相は、マンガから大衆の本音の感情や時代の風を読むことを学ばなかったのだろうか)、国民の支持率はあがらす、党内の支持も分裂していた。
*そしてきわめつけは、選挙中に、自民党は、民主党に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、自ら民主党に力を与えてしまった。(批判とは常に相手に力を与えることを、政治家の方々はほとんど知らないようである)
だから、今回の民主党の圧勝は、民主党が支持されたというより、自民党が戦う前からすでに負けていたというほうが近い。それでもあえて、今回の選挙に関して、民主党の強運を一つあげれば、献金問題で小沢さんの秘書が逮捕され、民主党にピンチが襲ったとき、小沢さんが代表を退いて、裏に引っ込んだことで、最大のピンチが最高のチャンスになったことであろうか。
前にも書いたことがあるが、小沢さんという人は、表にでると力が出ない人なのだ。命令言語(ゴリラ言語)は得意でも、マスコミ向けに丁寧にしゃべったり、対等の議論をするのが、この人は得意ではない。作り笑いを浮かべ、精一杯、ていねいにしゃべろうとするが、自分にふさわしくない人を演じているので、どこかきごちない。
でも、裏に回った小沢さんは、水を得た魚のように、自分の大好きな得意分野(選挙と人事)に集中し、思い切り力をふるうことができたはずだ。そして。表の仕事は、従順な鳩山代表にまわし、要するに、民主党は、小沢さんが奥へ引っ込んで以後、適所適材に人材を配置し、組織力が格段によくなったのである。
ということで、かつての自民党のライバルたちを苦しめ、夢がかなった小沢さんにとってはおめでたい選挙結果となったが、しかし、民主党にとっては、308議席という圧勝は内心少々憂鬱な数字でもあろう。なぜなら、308議席はもはや上限であり、これからの4年間、仮にどれほど自分たちがミスなく政権を運営できたとしても、次回は今回よりも減ると考えるほうが常識的だからだ。
そして、これからの民主党の見どころは、小沢さんがどこまでゴリラぶりを発揮して、裏から民主党をひっかきまわすか、である。自分が創造したものを、いつのまにか破壊する――これが彼の人生ゲーム(国民の生活とも日本の経済状況ともまったく無関係なゲーム)なのである。民主党は衆議院でこれ以上拡大するという希望がないばかりか、へたをしたら、小沢さんの人生ゲームに巻き込まれて、今回の自民党と同じく、次回は、308議席が100議席ちかくまで落ち込むかも……
以上、今回の政治スポーツを見た感想でした。
事前の予想どおり、衆議院選挙は民主党圧勝に終わり、民主党小沢代表代行の「長年の夢(政治権力の頂点に立つこと)がかなった」(祝)、選挙結果となった。
今回の選挙をスポーツとしてみた場合、自民党は、まったく運と戦略に恵まれなかった。どれほど運と戦略が悪かったかを思いつくままに列挙してみると、
*4年前の衆院選挙で小泉さんが圧勝したとき、彼が作った政権は自民党政権ではなく、「郵政民営化政権」で、彼は自分の人生ゲームに勝利する(郵政民営化を実現する)ために、自民党の組織を実質的に崩壊させてしまった。で、郵政民営化を実現したあとは、もはやその「郵政民営化党」の役割も終わり、「自民党・郵政民営化党」はそれ以後は求心力と中味のない党になってしまった。つまり、「自民党をぶっつぶす!」と常々言っていた小泉さんは、自分の人生ゲームのために、自民党をとことん利用したあげく、本当に4年前に自民党をぶっ壊してしまったのである。
*「選挙の風」というのはバブルのようなもので、4年前の自民党の300議席のうち、100議席くらいは小泉さんの人気が引き起こしたバブルな議席で、それはバブルが終われば、当然はじけてしまうものである。バブルというのは、はじけるときは、たいてい以前よりもずっと収縮してしまう傾向がある。つまり、バブルで獲得した100議席は、減るときはそれよりももっとずっと多く減ってしまうということである。
*以上のような4年前の遠因に加え、麻生首相自身にも運がなく(就任早々、世界的経済危機が襲い)、何兆円のお金を全国民にばらまく(定額給付金)という愚策で、国民の人気を得ようとして失敗し(長年多種多様なマンガを愛読しているという麻生首相は、マンガから大衆の本音の感情や時代の風を読むことを学ばなかったのだろうか)、国民の支持率はあがらす、党内の支持も分裂していた。
*そしてきわめつけは、選挙中に、自民党は、民主党に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、自ら民主党に力を与えてしまった。(批判とは常に相手に力を与えることを、政治家の方々はほとんど知らないようである)
だから、今回の民主党の圧勝は、民主党が支持されたというより、自民党が戦う前からすでに負けていたというほうが近い。それでもあえて、今回の選挙に関して、民主党の強運を一つあげれば、献金問題で小沢さんの秘書が逮捕され、民主党にピンチが襲ったとき、小沢さんが代表を退いて、裏に引っ込んだことで、最大のピンチが最高のチャンスになったことであろうか。
前にも書いたことがあるが、小沢さんという人は、表にでると力が出ない人なのだ。命令言語(ゴリラ言語)は得意でも、マスコミ向けに丁寧にしゃべったり、対等の議論をするのが、この人は得意ではない。作り笑いを浮かべ、精一杯、ていねいにしゃべろうとするが、自分にふさわしくない人を演じているので、どこかきごちない。
でも、裏に回った小沢さんは、水を得た魚のように、自分の大好きな得意分野(選挙と人事)に集中し、思い切り力をふるうことができたはずだ。そして。表の仕事は、従順な鳩山代表にまわし、要するに、民主党は、小沢さんが奥へ引っ込んで以後、適所適材に人材を配置し、組織力が格段によくなったのである。
ということで、かつての自民党のライバルたちを苦しめ、夢がかなった小沢さんにとってはおめでたい選挙結果となったが、しかし、民主党にとっては、308議席という圧勝は内心少々憂鬱な数字でもあろう。なぜなら、308議席はもはや上限であり、これからの4年間、仮にどれほど自分たちがミスなく政権を運営できたとしても、次回は今回よりも減ると考えるほうが常識的だからだ。
そして、これからの民主党の見どころは、小沢さんがどこまでゴリラぶりを発揮して、裏から民主党をひっかきまわすか、である。自分が創造したものを、いつのまにか破壊する――これが彼の人生ゲーム(国民の生活とも日本の経済状況ともまったく無関係なゲーム)なのである。民主党は衆議院でこれ以上拡大するという希望がないばかりか、へたをしたら、小沢さんの人生ゲームに巻き込まれて、今回の自民党と同じく、次回は、308議席が100議席ちかくまで落ち込むかも……
以上、今回の政治スポーツを見た感想でした。
哲学の本と宗教の本 ― 2009年09月16日 11時55分38秒
先日、コメントを寄せていただいた方から、チャールズ・サンダース・パースをご紹介してもらった(どうもありがとうございました)。
今まで名前を聞いたことも、本を読んだこともない著者で、図書館に本があった(「現象学1」勁草書房)ので、借りて読んでみた。(正確に言うと、「読んだ」というより「見た」に近い)
せっかくご紹介いただいたパースであるが、非常に正直な話、私はこういう哲学系の本を読むのを苦手にしている。若いとき、ニーチェ、サルトルなどをよく理解できないまま愛読していたこともあるし、ここ10年間でもカント、ヘーゲルの本にも挑戦してみた。しかし、ほとんどまともに読めたことがない。
どうして自分は哲学の本が苦手なのか……
それは実は私の読書方法と関係があるようなのである。若いときから、私は本をたくさん読んできたのだが、実は、飛ばし読みの名人なのである。難解なところ、わからないところは、飛ばして読む。たいていの本は、それで問題ないし、もしその本が再読の価値があると思えば、二度目、三度目に今度は時間をかけて、わからないところをていねいに読む。
そもそも本を最初から順序だって読まないことも多い。たいてい、まず、目次、それから前書き、それから、後書き、それから、一番面白そうな章から読み、退屈な章は、時間がないときは、読まないこともよくある。私はこんなふうに自由きままに、好き勝手に本を読んできた。
ところが、こういう本の読み方は、哲学の本を読むにはまったく向かないのである。
私の感じによると、哲学の本は、1行目を理解しないと、2行目以後は理解できないし、1ぺージ目を理解しないと、それ以後のページはほとんど理解できない。1行目から4行目が理解できなくて、5行目が理解できるとか、1章から4章まで、理解できなくて、5章が理解できるとか、そういうことはほとんど起こらないのである。
そのため、哲学の本を読むには、1行1行を順にていねいに考えぬく根気と忍耐力が必要で、わからないからといって、飛ばして読んではいけないのだ。たとえていえば、富士山の頂上へふもとから歩いて登るようなもので、哲学の本を読むことは、哲学者が真理の頂上へ歩いて登った思考の道を自分も同じように考えて歩くことなのである。
哲学にとっては、考えることと言葉は最大に価値のあるもので、だから、哲学者は毎日、山の頂上をめざして、考えぬき、その思考の痕跡を価値あるものとして、文章に書き残す。
それとは対照的なのが宗教の本である。宗教(ここでいう宗教とは、神を信じる宗教でも、現世利益を約束する宗教でもなく、私とは何か、真理とは何かを探求する科学としての宗教である)にとっては、考えることと言葉は、真理を示すための単なる指標にすぎないので、考えることと言葉に究極の価値をおかない。おそらくそのためだろうと思うが、宗教系の本は、論理的に構成されていないものや適当に言葉が散らばっている感じの本が多い。
だからこそ、1行目から4行目が理解できなくても、5行目はわかる、1ページから10ページまでは理解できなくても、20ページ目、100ページ目はわかる、どこから読んでもいい、というようなことが可能になるのである。哲学の本と違って、宗教の本を読むのには、思考力より、直観力や好き・嫌いみたいなもののほうが大事となる。
このように哲学も宗教もどちらも真理の頂上を目指しているが、まったく方法論を異にしている。
哲学系の人が言葉や考えることをどう思っているのか、少し長いが、池田晶子さん(哲学系の文章を書く異色の作家だったが、昨年亡くなられた)の文章を引用してみよう。
「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値あることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉が人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるものは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている」(「君自身に還れ」池田晶子・大嶺顕著 本願寺出版社発行ページ40)
と、池田さんは嘆いているが、哲学の言葉が好きなのか、宗教の言葉が好きなのか、はたまた携帯電話から流れる言葉が好きなのか、それはもって生まれた脳の志向(つまり、遺伝)によるもので、ほとんど訓練でどうにかなるものではないだろうと、私は思うのだ。私が見るに、哲学遺伝子が入っていないほとんどの日本人の脳は、哲学の本や言葉を楽しく感じられるようにはできていない。
それでも、難解だった本、さっぱりわからなかった本が、ある日突然わかったという読書体験も色々とあったので、私もまだ哲学の本を完全にあきらめたわけではない。死ぬまでのいつか、哲学言語を理解する遺伝子が突然どこからか飛んでくるかもしれないと思い、カントやヘーゲルの本を今でもちゃんと本棚の隅に保管してある。
今まで名前を聞いたことも、本を読んだこともない著者で、図書館に本があった(「現象学1」勁草書房)ので、借りて読んでみた。(正確に言うと、「読んだ」というより「見た」に近い)
せっかくご紹介いただいたパースであるが、非常に正直な話、私はこういう哲学系の本を読むのを苦手にしている。若いとき、ニーチェ、サルトルなどをよく理解できないまま愛読していたこともあるし、ここ10年間でもカント、ヘーゲルの本にも挑戦してみた。しかし、ほとんどまともに読めたことがない。
どうして自分は哲学の本が苦手なのか……
それは実は私の読書方法と関係があるようなのである。若いときから、私は本をたくさん読んできたのだが、実は、飛ばし読みの名人なのである。難解なところ、わからないところは、飛ばして読む。たいていの本は、それで問題ないし、もしその本が再読の価値があると思えば、二度目、三度目に今度は時間をかけて、わからないところをていねいに読む。
そもそも本を最初から順序だって読まないことも多い。たいてい、まず、目次、それから前書き、それから、後書き、それから、一番面白そうな章から読み、退屈な章は、時間がないときは、読まないこともよくある。私はこんなふうに自由きままに、好き勝手に本を読んできた。
ところが、こういう本の読み方は、哲学の本を読むにはまったく向かないのである。
私の感じによると、哲学の本は、1行目を理解しないと、2行目以後は理解できないし、1ぺージ目を理解しないと、それ以後のページはほとんど理解できない。1行目から4行目が理解できなくて、5行目が理解できるとか、1章から4章まで、理解できなくて、5章が理解できるとか、そういうことはほとんど起こらないのである。
そのため、哲学の本を読むには、1行1行を順にていねいに考えぬく根気と忍耐力が必要で、わからないからといって、飛ばして読んではいけないのだ。たとえていえば、富士山の頂上へふもとから歩いて登るようなもので、哲学の本を読むことは、哲学者が真理の頂上へ歩いて登った思考の道を自分も同じように考えて歩くことなのである。
哲学にとっては、考えることと言葉は最大に価値のあるもので、だから、哲学者は毎日、山の頂上をめざして、考えぬき、その思考の痕跡を価値あるものとして、文章に書き残す。
それとは対照的なのが宗教の本である。宗教(ここでいう宗教とは、神を信じる宗教でも、現世利益を約束する宗教でもなく、私とは何か、真理とは何かを探求する科学としての宗教である)にとっては、考えることと言葉は、真理を示すための単なる指標にすぎないので、考えることと言葉に究極の価値をおかない。おそらくそのためだろうと思うが、宗教系の本は、論理的に構成されていないものや適当に言葉が散らばっている感じの本が多い。
だからこそ、1行目から4行目が理解できなくても、5行目はわかる、1ページから10ページまでは理解できなくても、20ページ目、100ページ目はわかる、どこから読んでもいい、というようなことが可能になるのである。哲学の本と違って、宗教の本を読むのには、思考力より、直観力や好き・嫌いみたいなもののほうが大事となる。
このように哲学も宗教もどちらも真理の頂上を目指しているが、まったく方法論を異にしている。
哲学系の人が言葉や考えることをどう思っているのか、少し長いが、池田晶子さん(哲学系の文章を書く異色の作家だったが、昨年亡くなられた)の文章を引用してみよう。
「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値あることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉が人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるものは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている」(「君自身に還れ」池田晶子・大嶺顕著 本願寺出版社発行ページ40)
と、池田さんは嘆いているが、哲学の言葉が好きなのか、宗教の言葉が好きなのか、はたまた携帯電話から流れる言葉が好きなのか、それはもって生まれた脳の志向(つまり、遺伝)によるもので、ほとんど訓練でどうにかなるものではないだろうと、私は思うのだ。私が見るに、哲学遺伝子が入っていないほとんどの日本人の脳は、哲学の本や言葉を楽しく感じられるようにはできていない。
それでも、難解だった本、さっぱりわからなかった本が、ある日突然わかったという読書体験も色々とあったので、私もまだ哲学の本を完全にあきらめたわけではない。死ぬまでのいつか、哲学言語を理解する遺伝子が突然どこからか飛んでくるかもしれないと思い、カントやヘーゲルの本を今でもちゃんと本棚の隅に保管してある。
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