ポジティブ・シンキング――その表と裏(1)2010年12月01日 10時55分19秒

前回、バーバラ・エーレンライクの本の中に引用してあったある著名な「ポジティブ・シンキング」の伝道師の方の言葉、「ネガティブな人たちは、有害である。彼らはポジティブな人たちからエネルギーを奪うからだ。だから、できるだけネガティブな人たちを避けよう」をご紹介したが、この方だけでなく、成功哲学、ニューエイジ・スピリチュアル、ビジネス・モーティベーション系の本の中に時々、これと似た意見を拝見することがある。

そういった著名で成功した先生たちがこう書いたり、言ったりするものだから、スピリチュアルな業界でも、非常に多くの人たちが「ネガティブな人は、有害である。だから、ネガティブな人を避けよう」という考えを信じているように感じる。いや、私自身、かつてぼんやりとそう感じていた頃があったのだ。

しかし、あるとき、この考え・感じが誤解であることを理解した。自分をポジティブ派だと信じている人が、ネガティブな言動をする人たちを嫌う場合、そのほとんどが次の単純な理由によるのだ。

それは、自分の中にそれに影響される部分があるということである。つまり、自分の中にも自分で認めていない無意識なネガティブな部分があって、それが他人のネガティブな言動によって、刺激されてしまうのである。

たとえば、ポジティブ派の人が、「私はこんな夢があって、それを絶対にかなえる」と信じているとしよう。それをまわりのネガティブ派の人が聞きつけて、「そんなこと、あんたにできるわけない。自分の現実と能力を考えなよ」みたいなことを言う。すると、ポジティブ派の人は思うのだ。「なんて否定的でイヤなやつ! こういうやつが私のエネルギーを奪うんだよね」、といったようなプロセスが心の中で進行する。

しかし、もしポジティブ派の人の中に無意識の疑い、否定がなければ、他人は引き金を引くことができないし、もしエネルギーが奪われたように感じるなら、それは、ネガティブな人の言動がエネルギーを奪ったわけではなく、自分の中のポジティブ対ネガティブの葛藤によって、そしてネガティブな言動への自分自身の抵抗によって、そう感じられるのである。

だから、もし私たちが誰かのネガティブな言動に気分を害したら、そのときは、自分の内部を見る絶好の機会であり、その意味で、そういった人たちは、「ほら、あなたの中にだって、こういうネガティブな部分があるでしょう」と教えに来ている先生なのである。それを、「ネガティブな人は、有害である」と思い込むとき、それこそ本当に「ネガティブな人は、自分にとって有害な存在になり」、さらに人生が提供したせっかくの教育の機会も失って、人生はまた次の教育の機会を送ってこざるをえない。

私の経験ではネガティブな言動に、心の中で抵抗したり、ネガティブな反応をしなくなると、その人がネガティブな言動をやめるか、自分の人生の風景から消えるか、たいていこんなことが起こる。そもそもポジティブな人対ネガティブな人というのは、多くの人が考えているほど、明確なわけではない。ポジティブに見えた人がネガティブになり、ネガティブに見えた人がポジティブになる――それはあまりによくある話なのだ。

ただし、以上書いたことは、決して「ネガティブな人と無理に付き合うべき」という意味ではない。見かけの選択があるときは(主に、プライベートな人間関係)、自分に対してネガティブな人、自分と合わない人と無理に付き合う必要もない。が、何かや誰かと関わって(職場や親族関係、また見知らぬ人たちと関わらざるをえないときに)、自分の気分が落ち込んだときに(いや、気分が落ち込まないときでも)、「私はポジティブで正しい(高い)側」、「相手はネガティブで間違った(低い)側」というように、分離の線引きをすると、その分離思考こそ、高い代償を払うことになるかもしれない。




ポジティブ・シンキング--その表と裏(2)2010年12月08日 11時58分22秒

今回は、そもそも、「ポジティブ・シンキング」とは何で、どういうメカニズムで、その効能はどうなのかという話について触れてみたい。

「ポジティブ・シンキング」――その言葉どおり、それは物事を肯定的に考える・見ることの推奨であり、特に「自分自身について肯定的に考える」の推奨である。では、なぜ自分自身を肯定的に考えることがよいのかといえば、自分自身を肯定的に考える人には、そうでない人に比べて、人生でよいことに恵まれる、とされているからである。

で、これは事実か?といえば、これは概ね事実である――ただし、同じくくらい悪いことにも恵まれるだろうけど。

「ポジティブ・シンキング」がどうやって効果をもたらすのかの、私がなんとかなく(目に見えるわけではないから、あくまでも推測であるが)理解したメカニズムを簡単に説明しみると、

* 人は、自分についてポジティブな観念を立てる。「私は成功している」とか、「私は金持ちだ」とか、「私は美しい」とか、「私は頭がいい」とか、まあ何でもいい。

* それから、その観念を自分が信じる。それを強固に信じたりイメージしたりすればするほど、つまり、そのポジティブな観念、ポジティブ・エゴに、自分のエネルギーを投資すればするほど、そのポジティブ・エゴはエネルギー的に拡大していく。

* それがかなり強固になって拡大すると、それはある種の磁石となり、外から似たようなエネルギーを引き寄せることになる。これは、他者からの「肯定的投影」と呼ばれるもので、つまり、他人もまた、その人に対して、「あなたは成功している」、「あなたは金持ちである」「あなたは美しい」「あなたは頭がいい」というイメージをいだき、そう思う人たちが多数になると、実際にそれが現実になる。

以上のような話は、「ポジティブ・シンキング」系の本によく書かれている話であり、もし人が本気で熱心に「ポジティブ・シンキング」を実践すれば、おそらく多くの現世的成功――お金、名声、人気等々を手に入れることができるだろう。

問題は、「ポジティブ・シンキング」系の本にはほとんど書かれていない、その裏側である。

まず第一の問題は――

そもそも人はどういう状況のときに、意識的に「ポジティブ・シンキング」を試そうと思うのかといえば、それは人が自分の現実に満足していないときにそれを試そうと思うのではないかと思う。つまり、その人が自分の中にそういった肯定的観念の正反対である否定的観念を見つけたり、自分の人生の状況を否定的に見たりするとき、「ポジティブ・シンキング」のメソッドに心惹かれることが多いのではないかということだ。そして、自分の中に否定的観念をもったまま、肯定的観念を積み上げようとすると、その人の心の中で大きな対立・葛藤が生じる可能性がある。

それから、もう一つの問題として――

人が仮に「ポジティブ・シンキング」によって、ポジティブ・エゴを膨らませ、他人からの肯定的投影を引き寄せることに成功し、さらには積極的に求めさえするとき、それはある種のエネルギー的な借金となることである。つまり、他人からエネルギーを借りて膨らんでいる状態となっている。本人がそれを十分に自覚していればいいが、それを自分の実力だと勘違いして、ポジティブな自分、成功した自分に酔いしれていると、いずれバブルは崩壊するものである。そのバブル崩壊の被害は、必ずしも本人ではなく、まわりに及ぶこともある。

その例を見たいと思うなら、芸能界が一番わかりやすい例を提供してくれる。あのテレビというスクリーンを通じて、大多数の人から肯定的投影を集中してかき集め、(たいした才能がなくても)スターになっていく人たちの人生は、必然的に浮き沈みが激しいものとなる。

だから、浮き沈みが激しい人生をお好みなら、そして世の中から多大な報酬と殴打の両方を得たいと思うなら、そして、打たれ強い人(=沈没したとき、自分は絶対に困難に負けないと、自分の意志の力で頑張れる人)なら、「ポジティブ・シンキング」はお勧めである――最近目についた有名人では、市川海老蔵さん(沈没)、そしてホリエモン(堀江貴文)さん(沈没→復活)あたりか。



ポジティブ・シンキング--その表と裏(3)2010年12月16日 17時15分16秒

今回は、「ポジティブ・シンキング」がスピリチュアルと絡むと、どういう危険性があるのかに触れてみたい。

たとえば、誰かが「私は悟った人である」とか、「私には特別な霊的能力がある」というポジティブ・エゴを作り、そこに多大な投資をし、また多くの人から積極的に肯定的投影をかき集めるとき、それはかなり危険なことになる可能性がある。

宗教では、こういった肯定的投影を、偶像(アイドル)禁止として戒めてきたにもかかわらず、伝統宗教から現代の各種宗教・スピリチュアルな世界で、その戒めが守られたことはまずほとんどない。信者や生徒の信仰が、霊的教師に与える危険な影響について、前にもご紹介したアメリカの禅(系)の先生、Adayashantiは、こう述べている。

「今こうして、私は霊的教師で、それは、人々が大きなパワーを与えてくれる役割です。しかしながら、私がそれをどう見るかと言えば、真実は、他人が私に与えてくれるパワー以外、私はまったくパワーをもっていないということです。すべてのパワーは、生徒たちの手の中にあります。そして、人々がそのことを知ることはよいことです。私がずっと経験してきたことは、人々が私にあまりにパワーや権威を与えすぎたりするとき、私は自分が超現実的泡の中に住んでいるように感じ始めるということです。人々が他人にパワーを与えることに内在するものは、投影です。誰かが私にあまりにたくさんのパワーを与えるとき、彼らは、『私が彼らとは違う何かである』ということを投影したのです。そして、私は、それが超現実的環境だと気づくのです。だから私は、それをできるだけ避けることにしています。なぜならそれには、非現実的感覚があるからです」(The End of Your World より)

Adayashantiのこれらの言葉の中で、 「私はまったくパワーをもっていない」、「誰かが私にあまりにたくさんのパワーを与えるとき、彼らは、『私が彼らとは違う何かである』ということを投影したのです」という部分は、特に注目に値する。

私たちが誰かをアイドル化するとき、それが芸能人であれスピリチュアルな教師であれ、それが意味することは、「分離の線引き」ということである。つまり、

「あなたは悟っているけど、私は悟っていない」
「あなたはスゴイけど、私はスゴくない」
「あなたはかっこいいけど、私はかっこよくない」
「あなたは美しいけど、私は美しくない」
「あなたは金持ちだけど、私は貧しい」
「あなたには霊能力があるけど、私にはない」
「あなたは才能があるけれど、私にはない」等々。

肯定的投影とは、一見すると、誰かに愛情を与える肯定的行為のように思えるが、実は「私」と「あなた」の間の「分離の線引き」であることがほとんどである――「崇拝と過剰な賞賛=分離と否定」であることを、特にスピリチュアルな道にいる人は、心に深く深く留めておくべきであろうと思う。

スピリチュアルが本当に目指すところは、「ポジティブ・シンキング」を超えたところ、人間的成功を超えたところにある。私たちの本質は、ポジティブでもネガティブでもなく、あるがままで普通で自然だ。固定的な「ポジティブ・シンキング」に(もちろん、固定的「ネガティブ・シンキング」にも)縛られなければ、私たちは必要に応じて、ポジティブにもネガティブにも、自由になることができる――現実に対して、ネガティブな見方(これ、何か変かも、ダメかも、みたいな直感、あるいは、自分の言動が間違っていたかもしれないという理解)が、ときに必要なことだってある。

そして、自分をあるがまで普通に見なせば、スピリチュアルな先生も含めて、自分以外のあらゆる人もあるがままで普通で、「あらゆる人を本質的に自分と平等の存在(それがキリスト教でいうところの、brother=同胞の概念)であると見なし、かつお互いの人間的違いや才能の違いを楽しむ」ことができるようになるのである。

[お礼]

一年間、当ブログをお読みいただいた皆様、またコメントを送ってくださった皆様、ご縁があってお会いした皆様、ありがとうございました。 本年は、今回でブログを終了いたします。来年は1月中旬頃に再開します。それでは、皆様、楽しいクリスマス&年末年始をお過ごしください。