「アジャシャンティ」(3)―輪廻転生2012年04月08日 08時56分35秒

今回は、「輪廻転生」についてである。

実は、「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」本体価格1900円 ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の本の中で、輪廻転生はまったくテーマではないし、アジャシャンティもこの輪廻転生について話すことにほとんど関心がない。にもかかわらず、本の最後に収録されているインタヴューで、インタヴュアー(原書出版社の代表兼編集者で、アジャシャンティの長年の友人かつ生徒)が、何とかこの話題を引き出し、それに対して、アジャシャンティも長年の信頼関係のよしみで、ではまあ、仕方なくという感じで、輪廻転生を思い出したときの話を語っている。

いわゆるスピリチュアルと名のつく教えのどこか――それらがどれほど違う種類と内容の教えであっても――に関わっているほとんどの人たちが共通して関心をもっていることが、この輪廻転生とカルマという話題である。なんとなくの印象でいうと、21世紀になってから、スピリチュアル系タレント(っていうのか)の人たちが、テレビ番組で「過去生(前世)」の話を軽く語りだしてから、「過去生(前世)」はかなり日常語になった感があり、スピリチュアルな業界にいたっては、輪廻転生はもはや常識でさえある。

だから、私が「輪廻転生は真実ではない」と言うと、よく驚かれてしまう。私は、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール、ダグラス・ハーディングなど、輪廻転生を明確に否定するどちらかといえば少数派の教えの系譜にいる。輪廻転生の否定を、ニサルガダッタ・マハラジほど、シンプルに簡単に説明した人はいないので、まずはその説明を最初に紹介してみたい。

ラメッシ・バルセカールの処女作、「The Pointers From Nisargadatta Maharaj――ニサルガダッタ・マハラジの教え」という本の「There Can’t be Re-birth--輪廻転生(生まれ変わり)はありえない」で、マハラジは、輪廻転生はありえないと明言し、伝統的ヒンズー教の修行僧をショックに陥れている。

マハラジの説明を要約すれば、

「生まれたもの、対象的に生まれた肉体は、やがては『死に』、そのあと、分解し、完全に崩壊する。生命力は、肉体を離れ、外側の空気と混じる。感覚のある生き物の対象的部分は破壊され、同じ肉体として生まれ変わることは決してない。そして、対象物ではない意識はまったく『物』ではないので、それゆえ、非対象的な何かとしての意識は、『生まれる』ことも、『死ぬ』ことも、『生まれ変わる』こともできない。これらは、疑う余地のない事実ではないだろうか?」

つまり、マハラジの問いは、「そもそも輪廻転生すべき(生まれ変わるべき)何か実体が、ありますか?」という問いである。

では、アジャシャンティの説明はどうかといえば、彼は自分がある時期、過去生をたくさん思い出した時の話をし、「それは、朝目覚めて、『わお!自分が50もの過去生を同時に思い出した夢を見た』というようなものであり、そういった経験は夢の性質をもち、目覚めとは本質的には無関係である。しかし、もし誰かが私に尋ねれば、過去生と多くの人々が呼ぶようなものを自分が経験したことは事実なので、それを否定はできない」と、そう説明をしている。さらに、彼は、過去生とは実は過去ではなく、自分にとっては同時生のようなものであった、と語っている。

私自身も過去生(と当時はそう思っていた)のようなものをたくさん思い出した時期がある――スピリチュアルな探求を始めてまもない頃の20代の後半のことで、しばらくはこの教義にはまっていた。のちに、ダグラス・ハーディング、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカールなどの教えと出会って、輪廻転生の教義は捨て去ってしまったし、その時期以後はめったにそういう類の映像を見ることもなくなった――アジャシャンティも言うように、そういう映像やイメージは、霊的目覚めとかスピリチュアルな本質とは無関係であるが、それでも、あの映像は何だったのか時々考えたみたことがある。

本当のところ今でもよくはわからないが、なんとなく感じたことを想像的に書くと、それは宇宙映画館で映画を見るようなものではないか、ということである。その映画館には、過去・現在・未来のあらゆる生き物によって見られている(今、目の前で見ている現世映画も含めて)映画が常に「同時」上映されているとしよう。理論的には人はどの映画も見ることができるが、しかし、私たちがDVDレンタルショップで映画のDVDを借りるときのように、実際は膨大な数の映画から、人はほんのわずかな映画にしか心惹かれないし、理解することができない。

人々が過去生とか未来生とか呼んでいる映像は、たとえて言えば、シリーズで続いている映画のようなものだ。自分は、今見ている現世映画であれこれのセリフや感情・思考を与えられた主役をやっている。で、現世映画の主役である自分が宇宙映画館で別の映画を見て、なぜかその物語にとても親近感を感じ、その主役や登場人物、物語のあらすじをとてもよく知っている気がしたとしよう。それも当然で、自分が見たその映画は、自分が出ている現世映画のシリーズの前作(次回作という場合もある)だったのである。

シリーズの前作なので、当然内容にも詳しいというわけである。しかし、自分とシリーズ前作の映画の主役やその他登場人物はまったく無関係で、別人であり、映画は一回一回、全部俳優を入れ替えて新たに作られている。つまり、自分が前作に出演したわけではないのである。ただ同じシリーズなので、似たような場面があり、似たようなセリフや感情・思考が自分に割り振られているというわけだ。がそれは、「過去生の自分」でも、「自分の過去生」でもないし、以上私が書いた想像話も、映画の中でまた映画を見るというような話である。

もちろん、輪廻転生を真実なものとする教えや意見もたくさんあり、現在では科学的に調査・研究もされているそうである。なので、もしこのテーマにご興味がある人たちがいれば、最終的には誰の意見も考えも(私がここで書いた考えも含めて)も鵜呑みに信じず、自分で探求し考え抜くことをお勧めする。

輪廻転生――スピリチュアル系の人々がこの教義を好きなのは、たぶんそれを信じることがロマンチックに感じられるからなんだろうと思う。私の愛聴歌手の一人、サラエボ出身のヤドランカという歌手が日本語で歌った「信じているの」という歌は、まさに「生まれ変わり」を「信じる」ことをロマンチックに唄った歌で、その中にこういうフレーズがある。

「今度 生まれ変わるときにも あなたと会いたい どこかの街で たとえ姿変わっていても わかるのよ 二人の愛は永久(とわ)のもの♪♪♪♪」

すでに亡くなった親しい縁のあった人たちを思い出す感傷的な夜に、このフレーズを聴くと、私でも涙がでる。最近では、(1、2月は忙しくてほとんど悲しむ余裕がなかった)父のことを思い出して(つまり、完全映画モードの変性状態になって)、時々この歌を聴いている。

[関連サイト]

「アジャシャンティ」公式ホームページ
http://www.adyashanti.org

ナチュラルスピリットのサイト
http://www.naturalspirit.co.jp/

ブッククラブ回(スピリチュアルブック専門書店)
http://www.bookclubkai.jp/index.html

(下記サイトに本の目次が掲載されています
シンプル堂サイト
http://www.simple-dou.com/CCP035.html

[イベント]
2012年4月15日(日)午後
2012年4月29日(日)午後

「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html

*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html





ワンネスへの希求と挫折2012年04月20日 10時47分24秒

最近、スピリチュアル系の本で、非常によく使われる言葉にワンネス(oneness)という英語がある。――ピッタリな日本語訳がなかなか見つからないのだが、「一つであること」という訳はよく使われている。「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」(本体価格1900円――発売されました――ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の中にも何度か出てきている。

人という種は、スピリチュアルな探求をしている人たちでもしてない人たちでも、いつも切ないほどにこのワンネスを希求し、そういったワンネスの希求が様々な人間ドラマを生み出している。

先日、ある投稿サイトに次のような話が出ていた。二人の若い女友達の間で起こったちょっとした事件である。

投稿した女性は、もうすぐ結婚予定で、そんなある日、友人が遊びに来たので、婚約者から買ってもらった結婚指輪をはめてその友人に見せていた。たまたま彼女がその指輪をはずしてテーブルに置いたとき、その友人が何気なくそれを手にとって自分の指にはめるという事件というかハプニングが起こってしまった。友人が自分の結婚指輪をはめているのを見たその女性は驚愕しパニックに陥り、あとでそれを思い出すと怒りと悲しみでいっぱいになり、ついには友人に怒りのメールを送り、結婚式も近いというのに、その事件のせいで、非常に憂鬱になっている――とまあ、だいたいそんなような話だったと記憶している。

言ってみれば、女友達の間のたわいもない諍い(いさかい)なのだが、深く読めば、彼女は若い女性特有のワンネス(oneness)の希求とその挫折を語っているのである。

その女性は指輪を友人に見せた時点でおそらく、指輪の素晴らしさと自分の幸福を友人にも同意してほしかった、つまりワンネスへの希求が無意識にあったはずだ。「ねえねえ、この指輪どう、素敵でしょう? 今、わたし、すっごく幸せなの。あなたもそう思うでしょう?」みたいな。

ところが、彼女のそのワンネスへの希求の結末は、彼女の望むようにではなく、まったく予想外に展開して彼女を驚愕させることになった。しかし、少し賢明に状況を見てみれば、別の形では彼女のワンネスへの希求は実現したことがわかる――その友人が指輪をはめたという事実によって。

人、特に女性、特に若い女性には、「自分が美しいと感じるものに触れたい」という無意識の本能的願望がある。だから、その友人が投稿者の女性の結婚指輪に手を伸ばして、それをはめてみたということは、「わあ、素敵な指輪、こんな指輪を買ってもらって、もうすぐ結婚だなんて、あなた、幸せね」という同意を彼女なりに表現したわけだ。

だから、もしその投稿女性がそういうふうに状況を見ることができれば、ワンネスへの希求が実現して、本当は喜ぶべきで、何も悲しむべき話でもないのだが、エゴが物事を解釈すると、状況はどんどん悪化し、この女性のエゴは、結婚の喜びも人間関係も自分自身でぶち壊しているというわけである。

世の中の人たちが、特に親しい人間関係に対してもっている愚痴・不満・不平とは、ワンネスを希求したあげく、その結末をエゴが解釈することによるものである。ちなみに、私たちのエゴは常にワンネスを希求しながら、実際はワンネスを嫌悪しているという奇妙な絶対矛盾に陥っている。

では、スピリチュアルな探求をしている人たちはどうかといえば、やはり多くの人たちはワンネスの理想的状態を希求することで、ある種のストレスに陥っている。なぜストレスかといえば、ワンネスとは根源的な「既成事実」であるゆえに、その状態に「なろう」と頑張ることは、いわば、蛇足であり、かえってワンネスの事実から離れることになるからである。そして、私たちが肉体、思考・感情といった現象的次元で、誰かや何かとのワンネスを求めて、仮に一体感のようなものが得られたとしても、それは一時的なものにしかすぎない。反対に、一時的に否定的感情や思考がわこうが、それこそ喧嘩や対立があろうが、それさえも、根源的なワンネスを壊わすわけでもなく、時と場合によっては必要なことかもしれないのである――先ほど例にあげた投稿者の話でいえば、ひょっとしたら、二人の人間関係は終わるほうが、双方にとってよりよいために、そういう事件が起こったのかもしれないのである。

そのことを理解したなら、現象次元でのワンネスの積極的追求をやめることができ、ワンネスを象徴する喜びなどの感情が自然に来たらそれもOK、否定的感情がわいてもそれもOKとなり、他人も自分自身もあるがままにしておくという贅沢を味わうことができるのである。

ワンネスへの激しい希求がどれほどストレスで暴力的になるかの具体的証拠を見たければ、究極のワンネス希求国家、お隣の北朝鮮の状況がそれを物語っている。国民全員を金(キム)一族への崇拝という「たった一つ」の思想に無理やり統一しようとする不可能をやろうとするゆえに、約700億円ものお金(8割の北朝鮮国民の一年分の食費に相当)を愚行につぎ込んで、そのストレスを外に向かって発散せざるをえないのである――今回はそのストレス発散(ミサイル打ち上げ)さえ失敗に終わり、さあ、これからお隣さんはどういう暴走に走っていくのだろうか……

[関連サイト]

「アジャシャンティ」公式ホームページ
http://www.adyashanti.org

ナチュラルスピリットのサイト
http://www.naturalspirit.co.jp/

ブッククラブ回(スピリチュアルブック専門書店)
http://www.bookclubkai.jp/index.html

 「あなたの世界の終わり」 の 本の目次が下記サイトに掲載されています
シンプル堂サイト
http://www.simple-dou.com/CCP035.html

[イベント]

2012年4月29日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)
詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html

*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html