ワンネスへの希求と挫折 ― 2012年04月20日 10時47分24秒
最近、スピリチュアル系の本で、非常によく使われる言葉にワンネス(oneness)という英語がある。――ピッタリな日本語訳がなかなか見つからないのだが、「一つであること」という訳はよく使われている。「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」(本体価格1900円――発売されました――ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の中にも何度か出てきている。
人という種は、スピリチュアルな探求をしている人たちでもしてない人たちでも、いつも切ないほどにこのワンネスを希求し、そういったワンネスの希求が様々な人間ドラマを生み出している。
先日、ある投稿サイトに次のような話が出ていた。二人の若い女友達の間で起こったちょっとした事件である。
投稿した女性は、もうすぐ結婚予定で、そんなある日、友人が遊びに来たので、婚約者から買ってもらった結婚指輪をはめてその友人に見せていた。たまたま彼女がその指輪をはずしてテーブルに置いたとき、その友人が何気なくそれを手にとって自分の指にはめるという事件というかハプニングが起こってしまった。友人が自分の結婚指輪をはめているのを見たその女性は驚愕しパニックに陥り、あとでそれを思い出すと怒りと悲しみでいっぱいになり、ついには友人に怒りのメールを送り、結婚式も近いというのに、その事件のせいで、非常に憂鬱になっている――とまあ、だいたいそんなような話だったと記憶している。
言ってみれば、女友達の間のたわいもない諍い(いさかい)なのだが、深く読めば、彼女は若い女性特有のワンネス(oneness)の希求とその挫折を語っているのである。
その女性は指輪を友人に見せた時点でおそらく、指輪の素晴らしさと自分の幸福を友人にも同意してほしかった、つまりワンネスへの希求が無意識にあったはずだ。「ねえねえ、この指輪どう、素敵でしょう? 今、わたし、すっごく幸せなの。あなたもそう思うでしょう?」みたいな。
ところが、彼女のそのワンネスへの希求の結末は、彼女の望むようにではなく、まったく予想外に展開して彼女を驚愕させることになった。しかし、少し賢明に状況を見てみれば、別の形では彼女のワンネスへの希求は実現したことがわかる――その友人が指輪をはめたという事実によって。
人、特に女性、特に若い女性には、「自分が美しいと感じるものに触れたい」という無意識の本能的願望がある。だから、その友人が投稿者の女性の結婚指輪に手を伸ばして、それをはめてみたということは、「わあ、素敵な指輪、こんな指輪を買ってもらって、もうすぐ結婚だなんて、あなた、幸せね」という同意を彼女なりに表現したわけだ。
だから、もしその投稿女性がそういうふうに状況を見ることができれば、ワンネスへの希求が実現して、本当は喜ぶべきで、何も悲しむべき話でもないのだが、エゴが物事を解釈すると、状況はどんどん悪化し、この女性のエゴは、結婚の喜びも人間関係も自分自身でぶち壊しているというわけである。
世の中の人たちが、特に親しい人間関係に対してもっている愚痴・不満・不平とは、ワンネスを希求したあげく、その結末をエゴが解釈することによるものである。ちなみに、私たちのエゴは常にワンネスを希求しながら、実際はワンネスを嫌悪しているという奇妙な絶対矛盾に陥っている。
では、スピリチュアルな探求をしている人たちはどうかといえば、やはり多くの人たちはワンネスの理想的状態を希求することで、ある種のストレスに陥っている。なぜストレスかといえば、ワンネスとは根源的な「既成事実」であるゆえに、その状態に「なろう」と頑張ることは、いわば、蛇足であり、かえってワンネスの事実から離れることになるからである。そして、私たちが肉体、思考・感情といった現象的次元で、誰かや何かとのワンネスを求めて、仮に一体感のようなものが得られたとしても、それは一時的なものにしかすぎない。反対に、一時的に否定的感情や思考がわこうが、それこそ喧嘩や対立があろうが、それさえも、根源的なワンネスを壊わすわけでもなく、時と場合によっては必要なことかもしれないのである――先ほど例にあげた投稿者の話でいえば、ひょっとしたら、二人の人間関係は終わるほうが、双方にとってよりよいために、そういう事件が起こったのかもしれないのである。
そのことを理解したなら、現象次元でのワンネスの積極的追求をやめることができ、ワンネスを象徴する喜びなどの感情が自然に来たらそれもOK、否定的感情がわいてもそれもOKとなり、他人も自分自身もあるがままにしておくという贅沢を味わうことができるのである。
ワンネスへの激しい希求がどれほどストレスで暴力的になるかの具体的証拠を見たければ、究極のワンネス希求国家、お隣の北朝鮮の状況がそれを物語っている。国民全員を金(キム)一族への崇拝という「たった一つ」の思想に無理やり統一しようとする不可能をやろうとするゆえに、約700億円ものお金(8割の北朝鮮国民の一年分の食費に相当)を愚行につぎ込んで、そのストレスを外に向かって発散せざるをえないのである――今回はそのストレス発散(ミサイル打ち上げ)さえ失敗に終わり、さあ、これからお隣さんはどういう暴走に走っていくのだろうか……
[イベント]
2012年4月29日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。
コメント
_ 深海魚 ― 2012年05月09日 08時26分49秒
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エックハルト・トールさんが時々、「この世の終わり」とおっしゃることがあり、終末論なのかと思っていましたが、アジャシャンティの言っている、この現象世界へのこだわりを手放すということだったのでしょうかね。