フランスという国2009年08月07日 14時05分39秒

先日、何年かぶりにフランスを訪れた。真夏に行くのは初めてである。今回は、パリは通過するだけで、南仏のマルセイユ、ローヌ・アルプ地方のリヨン、そして、ル・クレストという山あいの村に行ってきた。

パリからフランスが誇るTGVに乗って4時間――そこは、パリとはまったく雰囲気の違う南仏の港町マルセイユである。汽車を降り立つと、駅の構内はバカンスシーズンの到来を待ちかねてヨーロッパ中からやって来た大勢のバカンス客であふれかえっている。高台に立つ駅のバルコニーからマルセイユの街を眺めると、さんさんと降り注ぐ太陽、乾いた空気、どこまでも広がる青空――かなり暑いけれど、湿度がないので心地よく感じる。

私がなぜマルセイユに行こうと思ったかという理由は、たわいもないものだ。フランスのテレビドラマ「モンテ・クリスト伯」のDVD(私が好きなフランス人俳優、ジェラール・ド・バルデューが主演)を見ているうちに、このドラマの背景となった街の一つマルセイユを見に行こうかと思い立ったのである。

マルセイユの街を散策して、最初に私が驚いたことは、フランス人(いや、ヨーロッパ人)は、真夏に帽子をかぶらないということだ。私は日焼けに弱いので、帽子に長袖というほとんど山歩きのような場違いな格好で歩いているのだが、街を見渡すかぎり、男性も女性も誰一人帽子をかぶっていない。このかんかん照りの昼間、紫外線の害も熱中症も「そんなの関係ねえ」とばかりに、人々は許されるかぎりの肌を太陽にさらしている。日本の街中で着たら、ヒンシュクを買いそうな女性の服装も、ここではOKである。そしてサングラス(夏のおしゃれの必須アイテム)に、タバコと、まるでフランス映画の女優を絵に描いたような雰囲気で歩いている人たちも少なくない。

これは何もマルセイユに限ったことではなく、フランス中、そして夏のヨーロッパ中の観光地では、どこでもそうであるらしい。夏を除いては日照時間の短いヨーロッパの人たちは、なんと言えばいいか、この短い夏の間に太陽を「むさぼり食う」、というような表現がピッタリである。

そういった肌もろ出しの人たちといっしょにオープン観光バスに乗って、マルセイユの主だった観光箇所、旧跡をめぐるツアーに参加し、美しい地中海を眺めながら、昔のマルセイユを味わうことができた。

マルセイユでは、街中で寄付を求められたので、5ユーロ(700円相当)を寄付したら、「こんなんじゃ足りない。もっと出せ!」と怒られ、しつこく迫られたり(寄付をもらって怒るか!?と思ったけれど、たぶん寄付の名目、「貧しい子供たちのための活動」というのはウソのようだった)、タクシーの運転手にはぼられたりと、不親切な人たちにも出会った。まあ、数千円で旅の災いを最初に売り払ったと思えば、安い金額だ。そのおかげか、このあとは帰国まですべてが順調で、出会った人たちは、みな親切な人たちばかりだった。

フランスという国を旅して、そしてフランス人と付き合ってみて感じるこの国の最大の魅力は、繊細な美意識、徹底した個人主義、そして人生を優雅に楽しむ人生観である。その美意識のほうは、日本文化と共通するところが多くあり、それがおそらく、フランスで、日本のマンガ、映画、日本食が愛されている理由であろう。

反対に、日本とまったく正反対なものが、個人主義と人生観である。フランス人の人生観、それは一言でいうと、「自分のプライベートの生活を楽しむ」というもので、人生は自分が楽しむためにある、といものだ。自分の人生は、国家のためでもなく、会社、仕事のためでもなく、子供や親や親族のためでもなく、誰のためでもなく、自分のためのもの、という個人主義が徹底している。だから、人々は仕事や会社や義務的な付き合いに必要以上の時間やエネルギーをさかない。ほとんどのフランス人にとって、残業や休日に働くなんてことは、考えられないことなのだ。法律もこういった人々の考えを反映し、正社員の労働時間は、週35時間、休暇は最低でも年に5週間ときちんと決められている。

私が、「日本では夏休みは、平均1週間くらいです」と言うと、夏休みは3週間は当たり前のフランス人は、「1週間なんて信じられない!よくそれで我慢できるね」と言う。さらに、「日本では、失業して、自殺する人もいます」と言うと、やはり、「仕事がないくらいで、死ぬなんて、フランスでは信じられない!」、なのだ。

もちろん、こういった労働者優遇、社会福祉充実の社会には負の面もたくさんある。たとえば、ストライキがよく起きるので、交通関係がマヒする。そして、会社はたくさんの人を雇わないため、失業率は高いのに、どこでも人手不足だ。客を待たせるのは平気で、そもそも、観光立国だというのに、客へのサービス精神も愛想も、ほとんどない。それこそ、日本人に言わせると、「信じられない!」

フランスの旅行書にはたいてい書いてあることだが、フランスでは、どこでもまずお客から挨拶するのが礼儀だ。ホテル、お店、切符売り場等々、まず、お客から最初に、「Bonjour (こんちわ)」と言わないと、たいてい、「あなた、何者?」というような冷たい視線を向けられる。おそらく、お店の人に最初に言うBonjour (こんちわ)とは、「私は、あなたにとって怪しいものではありません」という意味なのであろう。そして、最後も客のほうから、Merci beaucoup(ありがとうございます)を言うのである。

それとは対照的なのが、フランス人が親しい人たちに向ける親愛の情の表現である。出会うと、まず笑顔とビズ (フランス語では「bise」と書き、頬と頬を軽く触れる挨拶)、別れるときも、笑顔とビズ、大勢の人が集まる会では、始めと終わりにビズと笑顔と別れを惜しむ言葉がえんえんと続く。

親しい人たちが集まって、ワインを飲みながら、美味しいものを食べ、人生について語り合う、これが一般的フランス人の最大の楽しみなのである。とにかくしゃべるのが大好きで、そこは日本人に似ているが、似ていないところは、人々はプライベートでも公の場でも、自分の意見、Yes/Noをはっきりと言い、意見の違う人と議論することも好きだということだ。

私は、「お金よりも自分の時間」というフランス人の考え方とは気が合うのだが、どちらの国も極端ではあるような気がする。できるだけ働かず、客へのサービス精神のなさすぎるフランス人と、働きすぎで、客へのサービスが時には過剰な日本人、(たくさん働いているにもかかわらず、生産性に関しては、日本は、フランスよりも下で、先進国の中でも最低である)、中庸の道は困難なのかもしれない。

そんなこんなを感じながら、帰路につき、成田空港に降り立ち、宅急便カウンターに行ったら、そこのスタッフの人たちがなんとサービス精神と笑顔にあふれていたことか(!)、ああ、ここは日本だ、と実感したことである。

La Vision sans Tete (頭がないヴィジョン・方法)2009年08月28日 13時20分16秒

前回に続き、フランスの旅の話を書いてみよう。

ル・クレスト(Le Crestet)という自然豊かな山あいの村に、ご夫婦で経営しているいわゆるスピリチュアル・ペンションがあって、そこでは様々なスピリチュアル系、文科系の団体、サークルが主催するワークショップが、一年中開かれている。

そこで開かれたLa Vision sans Tete (日本語に訳せば、「頭がないヴィジョン」)の1週間のサマー・ワークショップに、観光と観光の合間に参加してきた。

「頭がないヴィジョン」は、イギリスの哲学者・神秘家(という呼び方は、ほとんどふさわしくないが、適当なものがないので、一般的にそう呼ばれている)のダグラス・ハーディング(1909—2007)が始めた教えを、フランスではこう呼ばれ、本国イギリスではThe Headless Way(頭がない方法)と呼ばれている。

なぜ「頭がない」、なのか? それは、ハーディングが33歳のときに、ヒマラヤで、「ここには、頭がない」というシンプルな事実に気づいたことに由来している。彼は、そのあまりに単純な事実がどれほど深遠なのかの研究(ハーディング自身はそれを「第一人称の科学」と呼んだ)とそのヴィジョンを分かち合うことに、自分の人生を捧げた。

他人を見れば、頭があるのに、自分から自分を見れば、自分の頭はここにはない――では、頭の代わりに何があるかといえば……(それを見たい方は、下記サイトへアクセスし、実験をやってください)

ハーディングが言っていることは、普通の人間思考から見れば、まったくの非常識であるが、しかし、彼の教えは、主要宗教の教えと現代科学(相対性理論や量子力学は、常識から見ればとんでもない非常識を主張している)の主張と大筋で一致していると、私はそう理解している。

ワークショップでは、ハーディングやその他多くの人たちが開発したシンプルな実験をやりながら、「ここには、頭がない」事実を深く探求し、それをどう日常生活に生かすかのか、みんなで話し合っていく。

私はフランス語は片言しかできないので、実験の指示以外、話合われた内容はほとんど理解できなかったが、このワークのいいところは、実験を忠実にやって、自分の本質を見ることができれば、言葉はあまり重要ではないということである。さらに、このワークショップではいわゆる先生もいなければ、新しい人と古くからやっている人の区別もなく、「階級」や「達成」という概念もない。だた、みんなで、今ここにあるものを、単純に見るだけである。

だから、参加者はみんな超くつろぎモードで、ちょうどバカンスシーズンなので、みなバカンスに来て遊んでいる感じである。

ワークショップは1日5時間程度で、あとの時間は、のんびり食事(自家製野菜を使ったおいしいベジタリアン料理が出て、飲みたい人たちのために赤ワインも用意されている)を食べて、長々談笑し、散歩をし、昼寝をし、読書をし、ドライブをし、またミニ講座のような会を開く人もいる。夜は、ダンスや音楽の会やみんなが自分の芸を披露するパーティも開かれた。

前回も書いたように、こういうときのフランス人は本当に楽しそうで、誰も彼もが話術の達人で、言葉や表現で他人を楽しませる能力に長けていることに、私は心から感心した。

フランスでは、この「頭がないヴィジョン・方法」のワークは、すでに30年近くの歴史があり、本もたくさん出版され、ハーディングの本国イギリスと並んで、このワークを熱心にやっている人たちが世界で一番多い。

それでも、「フランスで人気ある他のスピリチュアルな教えに比べれば、全然少ないですよ」と、私が質問した人たちはみなこう答えた。「では、フランスではどんな教えが人気があるのですか?」と尋ねたら、ヨガ、チベット仏教、禅、レイキなど東洋系の教えが人気があるそうである。今回参加した人の中にも別の教えと平行して、「頭がないヴィジョン・方法」を実践している人たちも多く、瞑想やヨガを教えている先生たちも参加していた。

さて、現在、フランスでも日本でも世界中でも、スピリチュアルな教えは、それこそ星の数ほどあり、先進国ではどこでもある種のスピリチャル・ブームである。私自身は30年近くスピリチュアルな周辺を出たり入ったりと関わり、本もたくさん読んできたが、実はワークというものを熱心にやったことがほとんどない。その理由は、私が怠惰で、飽きっぽいからであり、たいていのことは本を読むだけで満足してしまうからである。

だからこそ、自分が、「頭がないヴィジョン・方法」に長い間関心を持ち続けて、ワークを続けていることに、自分でも説明ができない宇宙的「縁」と「運」(この二つをあわせて、「神の意志」と私は呼んでいる)を感じるのである。

シンプルで、時間がかからず、先生がいらず、一人でもできるワーではあるが、こうやって、同じような「縁」と「運」に導かれた人たちとたまにいっしょに実験し、旧交をあたため、語り合うのはとても楽しかった。


「頭がない方法」日本語版サイト

http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/index.html

「神の実験室通信」(バックナンバー)

http://merumaga.yahoo.co.jp/Detail/13595/

「頭がない方法」英語版サイト

http://www.headless.org/douglas-harding.htm


「頭がないヴィジョン」フランス語版サイト

http://www.visionsanstete.com/