ラメッシと親鸞(1)2014年05月14日 11時04分33秒

 私の生家は浄土真宗の檀家で、今でも毎月お坊さんに来てもらってお経をあげてもらっている。私は昔から宗教行事に関心がなく、日本の宗教事情にも疎いので、自分の家の宗教が浄土真宗で、その浄土真宗の開祖が親鸞だと知ったのはそれほど昔のことではない。今は親に代わって、法事などを執り行い、年に数回、お坊さんのところへ挨拶に行く役目であるが、今も昔も誰も親鸞を話題にすることもなく、私の中では宗教行事は文化行事という位置づけである。

一方、親鸞は文化人には人気が高く、親鸞を熱心に読み、心のバイブルにしている方々はたくさんいるようである。先日、図書館に行ったとき、たまたま「芸術新潮」(2014年3月号)という雑誌を見つけ、その特集が「梅原猛が解き明かす親鸞の謎」であった。最近雑誌といえば、通販系の雑誌ぐらいしか読まないので、こんな思想系の高級な雑誌を読むのは本当に久しぶりだった。

雑誌の記事によれば、梅原氏(1925年生まれ。哲学者)は十代の頃から親鸞を愛読し、現在人生の最後を賭けて親鸞に取り組んでいるという。今回の芸術新潮の特集は雑誌の半分を占めるほど大がかりな記事で、梅原氏の意気込みが感じられる。氏は時間をかけて親鸞がたどった足跡を自ら旅し、関係者に話を聞き、親鸞の関係書籍を読みこみ、ずっと心にいだいていた親鸞の謎に迫っている。

私は親鸞の生涯や教えにすごく関心があるわけでもないので、記事は飛ばし読みでざっと読んだだけであるが、引用されている親鸞の言葉で、今作業を進めているConsciousness Speaks(意識が語る)の本の中のラメッシの言葉に主旨がよく似ているものがあったことに驚いた。
  
次のような親鸞と弟子の唯円の対話が紹介されている。

親鸞が「お前は私の命令に背かないか。背かないというなら、人を千人殺してみよ。そうすればおまえは必ず往生できる。どうだ」  と尋ねると、

唯円は「私は一人といえども殺せません」と答える。

それに対して親鸞は「千人殺すのも一人を殺すのもすべては因縁による。一人も殺さないのは人間がよいからではない。殺すべき因縁があって千人殺す人があり、因縁なきものは一人も殺さない」と言う。

Consciousness Speaks(意識が語る)では、 「すべては神の意志で、個人には本当は責任がない」という教えに疑問をもつ質問者がラメッシにこう尋ねる。

質問者もし私が誰かを殺すとして、私は「私には責任がない」とただ言えるでしょうか?
 

ラメッシ言い換えるなら、あなたが言っていることは、あなたが誰かを殺さないのは、あなたが逮捕され、刑を科せられるのがただ恐いという、ただそれだけの理由からだということです。そうなのですか?

質問者たとえば、私が社会的に責任ある態度で行動しないとします。私はただ自分の人生を生きて、私は他の誰のことも気にかけず、そして私はただ……
 

ラメッシ私が尋ねていることはこういうことです、仮に神があなたに、「いいだろう。お前は自分の好きなことを何でもやるがいい。お前は今生でも来生でも罰せられないだろう」と言うとします。そうしたら、あなたは機関銃を持ち出して、外に行き、他の人たちを殺すのですか?
 

質問者もちろん、違います。
 

ラメッシ私が本当に言わんとしていることは、人は自分の通常の性質、つまり、人の肉体精神機構の中の特徴によって制限され、環境の条件づけに制限され、人はある行為はするように、ある行為はしないように、いやおうなしに強制されることでしょう。ですから私は、たとえあなたが罰せられないと聞かされたとしても、あなたは外に出かけて何かひどいことはしないだろうと言うのです。それは不可能です。
 

つまり、親鸞もラメッシも共通して言っていることは、人が悪いことをするのは、ただ因縁(ラメッシの言葉で言えば、生まれつきの条件づけとかカルマ)によるもので、また人がよい行いをするのも因縁(条件づけ)  による、ということだ。人がよいことをするにしろ、悪いことをするにしろ、人自身が本質的に良かったり、悪かったりするわけではないということである。

このことがわかるとき、仮に自分を通じてよい行為が起こったとしたとしても、自分のおかげではなく、また誰かを通じて悪い行為が起こっても、その人が本質的に悪人というわけでもなく、ただ因縁(インド風に言えばカルマ)によって、そう起こっているだけという理解が生まれる。そこに悪に対する親鸞とラメッシの根本的理解がある。

梅原氏は記事の中で、親鸞がなぜ悪人にそれほど思い入れ、自分の中に悪を強烈に自覚し、自分と悪人を同一視するのかの理由として、親鸞の先祖に親を殺した人がいて、その血脈に罪悪感をもっていたせいではないかという解釈をされているが、もちろん、それもあるかもしれないが、親鸞が痛いまでに見ているのは、過去の先祖の悪ではく、現在の自分の心にある「悪」のはずだ。自分の心を正直に誠実に見る人たちにとっては、悪に対する親鸞の理解は難しくはないと思う。

人は誰でも程度の差はあれ、「悪人」である。生涯で他人を一度でも憎んだり、嫌ったり、嫉妬したり、人の不幸を願ったり、出し抜こうとしたりしたことのない人がいるだろうか? あるいは、「この人がいなくなればいい」とか「あんなやつ死ねばいいのに」「あなたはそんなふうではダメだ」と一瞬でも思ったことがない人がいるだろか? (人の心の暗さをテーマにした「死ねばいいのに」(京極夏彦著 講談社)というミステリーがあり、ミステリーが好きな人にはお勧めする)

宗教的な意味では、「殺す」とは「存在の否定」である。すでに神(仏)によって存在が許されているもののありのままの存在を否定することが、「殺」である、と私はそう理解している。
 
親鸞は自分の心のどうしようもない暗さを見て、しかもその自分の煩悩、欲望をどれほど修行しても、自力でなくすことができないことを悟ったゆえに、厳しい修行の道をあきらめて、ただ念仏だけを唱える教えに入門したのである。そのときに、自分はこのように「悪」を抱えているにもかかわらず、因縁によって実際は悪を犯さないですんでいることに対して、ある種の感謝の念と不思議感があったのではないかと、私は想像するのだ。

 梅原氏同様に親鸞に傾倒している作家の五木寛之氏の小説「親鸞」では、親鸞の実像がよりリアルに感じられ、偉大な宗教家でありながら、同時に常に悩みをかかえる普通の男としての 親鸞が生き生き描かれている。養女の恋愛に反対し、妻に念仏を否定されると、かっとなって思わず妻を殴ってしまう凡夫、親鸞。 一方自分の敵や暗殺者からの迫害、脅迫に対しては、臆することなく、たじろぐことなく、憎むことなく、静かに状況を受け入れる偉大な聖者、親鸞。そのどちらも本当の親鸞であり、その両方があって親鸞なのだ。

親鸞の名声を聞きつけ、多くの人たちが法話にやって来て、こう尋ねる。
 
念仏で、病気が治りますか?
念仏で、作物がよく実りますか?
念仏で、浄土に救われますか?

それに対して、親鸞はキッパリと正直に「念仏はそういうためのものではない」と答える。(五木氏が描く)親鸞によれば、「浄土に救われるために念仏をするのはなく、すでに救われていることへの感謝の気持、ありがたいという気持ちで念仏を唱える」  のが本当の念仏なのだ。

「凡夫のままですでに救われている」、「念仏で誰でも浄土に行ける 」こういった親鸞の根本的平等思想のせいで、親鸞はその時代(鎌倉時代)の修行系の宗教家たち、そして世俗世界の権力者階級である武士階級の激しい反感をかい、また親鸞の教えを曲解して、「悪人ほど救われるのだったら、悪いことをすればするほど救われるはずだから、積極的に悪をなそう」 というような邪教が出現し、親鸞を困惑させる。そういった状況は、西洋東洋を問わず、時代を問わず、人のマインドが本当の意味での宗教の本質を理解できないことに起因している。

宗教の本質は、あらゆる存在の根本的平等と「何であれあるがままが神の意志」である。凡夫も聖人も、ホームレスもサイコパスも普通の人も、修行系も怠け者系も、各種の快楽に中毒している人たちも、神(意識)の観点から見れば、みな同じなのである。しかしそのことは、人のマインドにとっては心地よいことではない。人のマインドは、世俗世界で、平社員→課長→部長→取締役→社長というような出世を思い描くように、スピリチュアルな世界でも、初級(新参弟子)→中級→上級(古参弟子)→マスター(導師)という階級制を本当は好み、常に「上」に行くことが生きがいで、他人とは違う自分のユニークさを愛し、根本的平等を観念として以外に理解できない。

私たちが、自分のマインドがどれほど本当は平等を嫌っているかを見るとき、それでいて、他人から平等に扱われないと感じるとき、どれほど気分が悪くなるかを見るとき、その正直さによって、(観念としての平等ではなく)事実としての平等が目覚める可能性が出てくるのである。

ラメッシのConsciousness Speaks(意識が語る)では、どういうわけかヒットラーの話題が多くて、それはおそらく欧米人は、「神=(人間が判断する)善」という観念に非常に縛られているので、20世紀の悪の象徴であるヒットラーの出現も神の意志であるというラメッシの言葉にかなりの抵抗があるせいだ。もちろんラメッシの教えに立てば、ヒットラーもラマナマ・マハルシもマザー・テレサも、誰も彼も、みな同じ意識の現れである。

最後にまた「梅原猛が解き明かす親鸞の謎」の記事に話を戻すと、この中で親鸞の師である法然の言葉も紹介されていて、それは親鸞の最初の結婚のいきさつについてである。

九条兼実という法然の帰依者が法然にこう尋ねる。「私のように日夜女性と戯れ、酒を飲み、肉を食べるような在家者の念仏が、清僧の念仏と同じであるはずがありません

すると法然は、
女性と戯れている在家の念仏に功徳がなく、清僧の念仏が功徳があるというのは、自力の道です。浄土門は念仏を唱えれば、在家・出家の区別なく阿弥陀仏がすべての人を極楽往生させるという仏教です」と答える。

それでも納得できない九条兼実は
もしあなたの言うように在家の念仏が清僧の念仏と同じなら、あなたの弟子の中から一生不犯を誓った僧を選んで私の娘と結婚させて、在家の者も、男も女も見事に往生できる模範を示してください」  と言う。

この無理難題に、法然は「わかりました。そうしましょう」と言い、親鸞を名指し、「九条の娘と今日結婚しなさい」と命令する。

こうして親鸞は師の命令に従ってイヤイヤながら最初の結婚をすることになり(有名な恵信尼は親鸞の二番目の妻である)、仏教に伝統的にあった「独身の男が厳しい修行をして極楽浄土へ救われる(悟る)」という考えに革命を起こす役割を担ったとされている。
 
[イベント]
 
2014年5月24日(土曜日)(広島市)
  「あらゆる感情と向き合う」ワークショップ
  http://www.simple-dou.com/CCP037.html

2014年5月25日(日曜日)(広島市)
 「私とは本当に何かを見る」ワークショップ
   http://www.simple-dou.com/CCP037.html
 
*シンプル道コンサルティング(広島市)
5月23日(金)と5月26日(月)に席の空きがまだあります。
上記のワークショップに参加されない方でも申し込み可能です。

料金・時間枠は下記へ。
  http://www.simple-dou.com/CCP037.html

[お知らせ]

*「1994年バーソロミュー・ワークショップ・MP3ファイル」有料版のダウンロードを再開 しました。