ラメッシの教え(3)教えを誤解する可能性 ― 2014年11月03日 17時20分18秒
本や言葉はいつも誤解の可能性を秘めている。そのことは、私がたくさんな本を読んでいつも感じてきたことだ。そして、それが特にスピリチュアル系の本であれば、なおさら誤解の可能性が高まり、さらにスピリチュアル系の翻訳本となると、もっと誤解の可能性が高まる。
誤解にはいくつかの理由があり、その理由の一つをConsciousness Speaksの中でラメッシが、師であるニサルガダッタ・マハラジの言葉として紹介している――(Consciousness Speaksは12月には出る予定、とのことです。定価等が決まりましたら、目次をシンプル堂のサイトで公開します)
マハラジが生きていた頃、「アイ・アム・ザット私は在る」の本を読んでやって来た訪問者に、「あなたが言うことと、本の中に書いてあることは矛盾がある」と指摘されて、マハラジはこう答えたという。
「私が『アイ・アム・ザット 私は在る』を書いたわけじゃなくて、モーリス・フリードマンが書いたんだ。だから、何らかの見かけの食い違いと矛盾があるはずだ―その本が最終的に印刷されるまでに通過した様々な段階を想像してみなさい。まず最初に、『私は知る』がある。つまり、私がもっているその知識は直観的な確信であり、私がそれを表現するのは、ただ人々が質問をもってやって来るからだ。私が言うことはマラーティー語の私の語彙によって制限され、それがさらに制限されているのは私に教育が欠けているからだ。それから、私が言ったことはモーリス・フリードマンによって理解されねばならないが、彼のマラーティー語の知識は必然的に制限されているだろう。そのあとで、モーリスは彼が理解したことが何であれ、それを英語に翻訳しなければならない。それから、その原稿が最終的に出版されるまでに、編集されなければならない。だから、私が知っていることと、『アイ・アム・ザット 私は在る』の本に現れていることの間には、かなりの距離があるだろうことは、当然ありえることではないだろうか?」
つまり、ある瞬間に直観的に出てきた言葉を時間をかけて編集・翻訳する過程で、いたしかたなく誤解が生じるという物理的な問題―それに関わったすべての出版関係者の最善の努力にもかかわらず、ということである。
それから、二番目の理由として、本来言葉にはできないことを、言葉で表現するとき、特にConsciousness Speaksのようにライブの対話の場合、対話する相手によって、言葉上ではまったく矛盾しているように見えることを言っている箇所が生じることがある。読者がそれに気づき、深く気にし出すと、ひどい混乱が起こる場合がある。
それから、三番目に、二番目と似た理由であるが、賢者たちの文化や個人的背景と表現が非常に異なるせいで、同じことを言っているのに、まったく違うことを言っているかのように見えることが多々ある。現在ではたくさんの翻訳本が出まわり、その本の著者(や発言者)である先生の文化的背景も、インド、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本を含むアジアと多岐にわたっているので、読者がたくさんの本を読むと、表現の多様性によって混乱と誤解が起こる可能性があるということだ。
それから、最後にエゴによる教えの曲解も起こりうる。前に親鸞の話を書いたときに、「悪人こそ救われる」という親鸞の教えを曲解して、「それならば、積極的に悪を為して救われよう」という邪教が親鸞の時代に出現した(五木寛之氏の小説ではそう書かれている)という話を書いたが、それがまさにエゴによる曲解である。親鸞の教えを正しく理解すれば、「積極的に悪を為そう」 などという理解が出てくるわけがないのだが、エゴは自分のためなら、何だってねじ曲げるものである。
以上の1から4の誤解、曲解が起こることに対しては、起こるときは起こるもので、それを誰もどうにもできるわけではない。
ラメッシの教えについて一番起こりそうな誤解は、「個人には何の責任もない」という彼の言葉を、「無責任を助長する」ように受け取ることである。「ラメッシは、個人には責任がまったくないと言っている。だったら、私が無責任に行動したってかまわないじゃないか」と 。それは、親鸞の「悪人こそが救われる」を「だったら、積極的に悪を為そう」 と受け取るのと同じ種類の曲解・誤解だ。
ラメッシ自身は非常に責任感が強い人だったような気がするし、特に銀行頭取時代は責任感から来るストレスがかなりあったのではないかと、想像する。そして、昔の自分だけじゃなくて、多くの人が責任感と個人的意志から来るストレスと罪悪感に苦しんでいるのを見て、「すべては神の意志」という観念を自分の教えの根幹にしたのだろうと、私はそう理解している。
非二元系の教え――「一つであること」については、本や教えや先生がたくさん出現すればするほど、誤解・曲解の可能性も増えるわけではあるが、しかし、その一方で、表現、先生の多様性のおかげで、自分にピッタリと合うものに巡り合う可能性も増えるわけである。たとえば、ある本やある先生の言葉にはピンとこないが、同じことを別の本や別の先生が言っているのを読んだら、わかったという経験がある人は多くいるはずである。
私にしても、「ラメッシが語る神の意志」だったから、ピンときたのかもしれず、彼の説くような表現でなかったら、たぶんそれほどハートに響かなかったかもしれないとも思う。そして、本を読んで感じたラメッシと実際に会ったときのご本人がまったく違わなかったのも、感激したことだ――普通で上品で気さくで、インドのグル風ではない人。彼の教えと人柄が合体して、私にピッタリとヒットしたというわけである。19年前にConsciousness Speaksの本に出会って導かれてきたことを考えると、本や教えとの出会いと縁とは不思議なものである……。
[ご質問への回答]
*「意識」、「神」という言葉は、あらゆるものの本質であるただ一つなるものを表す様々な言葉の一つで、同様に仏性、アラー、ブラフマン等と言っても同じです。しかし、何と言葉で表現されても、それは観念でしかなく、「それ」ではないわけですが、言葉を使ってコミュニケーションするときには、状況に応じて、神、意識、仏性、アラーなど、何かの言葉を使う必要があります。ラメッシは意識と神を同義として使っていて、西洋人は「神」という言葉よりも、「意識」という言葉のほうをより受け入れると言っています。
*マハラジの次の本が遅れている特殊な事情はわかりませんが、一般に海外の本を日本で翻訳出版する場合、海外の出版社と日本の出版社の間で契約が正式に交わされるまでに、非常に複雑で時間のかかるプロセスがあります。なぜかはわかりませんが、日本人の感覚では一ヶ月で終わるはずの仕事が、海外では半年も一年もかかるなどということもよく聞くことです。過去には、海外の出版社の担当者が、長い間、仕事をほったらかしにしておいたなどという、笑えない話もありました。 私も待ちくたびれてはいますが、誰もそのプロセスをコントロールすることはできないので、ご理解いただければ幸いです。
[イベント]
*2014年11月29日(土曜日)午後「私とは本当に何かを見る会」(東京)
*2014年11月30日(日曜日)午後
「ラメッシの教えと、非二元探求で起りうる問題について考える会」(東京)
もう一人のクリシュナムルティ―U.G.クリシュナムルティ ― 2014年11月23日 15時25分26秒
ラメッシの教えについて書いてきたついでに、本日は、マハラジ、ラメッシと並んで、もう一人、私が好きなインドの賢者(賢者という呼称は、彼にはふさわしくないが)、U.G.クリシュナムルティ(U.G.Krishnamurti 1918 - 2007)について書いてみよう。名前が似ているので、有名なほうのJ.クリシュナムルティとよく間違えられるが、まったく別人である――ただし、二人には浅からぬ縁がある。
名前だけは1970年代から知っていたU.G.クリシュナムルティの本を、私が初めて読んだのは90年代の中頃(たぶん)だ。海外の書店の店頭で本を見つけ、本のカバーの彼の顔写真を見たときの私の最初の反応は、「ワオー、超ハンサム!」というもの(笑)だった。たぶん、60代か70代の頃の写真で、その端正な顔立ちは映画俳優としても通るほどだ。
だいたいの彼の生い立ち、略歴は――南インドの、神智学系の教えを信仰する由緒ある家庭に生まれ、子供の頃から瞑想その他、厳格な宗教教育を受ける。二十代で結婚し、四人の子供の父親となり、世界各国を講演してまわり、それと平行して、独自に探求するようになり、ラマナ・マハルシを訪問したり、J.クリシュナムルティと親しく付き合うようになる。何年間かJ.クリシュナムルティのところへ通ったが、J.クリシュナムルティが、「あなたはそれを自分自身で知ることはできない」 と言ったことで、J.クリシュナムルティに疑問をもち、二人の関係は終わる。具体的には二人の間に下記のような会話があったことが記されている。
"You have no way of knowing it for yourself". Finish – that was the end of our relationship, you see – "If I have no way of knowing it, you have no way of communicating it. What the hell are we doing?
「あなたはそれを自分自身では知ることができない」。それで終わりだった―それは私たちの関係の終わりだった―「もし私が自分自身でそれを知ることができないなら、あなただって、それを伝えることはできないわけです。だったら、私たちは一体何をやっているのでしょうか?」
三十代の後半、彼は家族と仕事を捨て、ヨーロッパを放浪、ほとんどホームレスになったところで、ある女性と出会い、彼女と暮らし始める。50歳頃いわゆる覚醒体験(彼自身はその経験を「災難」と呼んでいる)があったということになっている。
晩年はスーツケース一つで、一カ所に定住せず、気ままに世界を放浪し(日本にも来たことがあるらしい)、行く先々で人々がやって来るので、仕方なく話す羽目になり、最後は2007年、イタリアで亡くなる。
以上の話は次のサイトに詳しく出ている。http://en.wikipedia.org/wiki/U._G._Krishnamurti
私が、ハンサムな顔立ちの次に彼の本を読み始めて驚いたことは、彼が本当にものすごくイヤそうにしゃべっていることだ――イヤイヤ仕方なくしゃべっている、その雰囲気が全面に本に出ている。彼のため息が聞こえてくるほどである。彼はしゃべりたくないのに、彼が行く先々に人々が質問をもってやって来るので、仕方なくしゃべり、誰かがそれを録音し、記録して、本が生まれたというわけだ――彼は自分の本を作って売る人たちに対して、こう言ったそうである。「教えを広めるためではなく、金儲けのために売りなさい」
なぜ彼はしゃべりたくないのか―その理由は、彼の言葉によれば、「私には何のメッセージも教えもないし、他人の体験や言葉を聞いてもまったく役立たないし、そもそもそれを伝えることはできない」。
私が、ハンサムな顔立ちの次に彼の本を読み始めて驚いたことは、彼が本当にものすごくイヤそうにしゃべっていることだ――イヤイヤ仕方なくしゃべっている、その雰囲気が全面に本に出ている。彼のため息が聞こえてくるほどである。彼はしゃべりたくないのに、彼が行く先々に人々が質問をもってやって来るので、仕方なくしゃべり、誰かがそれを録音し、記録して、本が生まれたというわけだ――彼は自分の本を作って売る人たちに対して、こう言ったそうである。「教えを広めるためではなく、金儲けのために売りなさい」
なぜ彼はしゃべりたくないのか―その理由は、彼の言葉によれば、「私には何のメッセージも教えもないし、他人の体験や言葉を聞いてもまったく役立たないし、そもそもそれを伝えることはできない」。
それともう一つ、彼がグルという立場を嫌悪する理由は、インドの伝統的霊性とインド文化への彼の嫌悪感から来ている。その嫌悪感の激しさから想像するに、彼が子供の頃に受けた宗教教育がある種のトラウマになっているような感じだ。
私は彼の本に影響を受けたとまでは言えないが、興味深く読んたことは確かだ。霊性についてより、どちらかといえば、文化や宗教、社会、人類、人間一般に対する鋭い洞察のほうが、私にとっては面白かった。
彼のすべての本の最初には、必ず次の言葉が入っている。
「私の教え、もしあなた方がその言葉を使いたければだが、それには著作権がない。あなたは、私の許可や他の誰の許可もなく、自由にそれを再生産し、配布し、解釈し、誤解釈し、ゆがめ、歪曲し、自分が好きなことを何でもやっていいし、自分が著者だと主張したってかまわない」。
ということで、翻訳も勝手にやってよいらしく、彼の本を日本語へ翻訳しているサイトを見かけたことがあるので、ご興味ある方はネットで検索してみてください。
「イベント」
*2014年11月30日(日曜日)午後
「ラメッシの教えと、非二元探求で起りうる問題について考える会」(東京)
[お知らせ]
「意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話」 (ラメッシ・バルセカール著 ナチュラルスピリット)
2014年12月下旬発売予定。目次等は下記のサイトに掲載してあります。
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