「わかる・わからない」ということ ― 2008年06月06日 10時53分28秒
もうかなり前に、テレビである短いドキュメンタリー番組を見たことがある。それは、日本での恵まれた地位と名誉と収入を捨てて、東南アジアのある国で無料の医療奉仕をしている、ある日本人医師を追ったドキュメンタリーであった。その医師は本当に楽しそうにその国で無料の医療奉仕をやっていて、時々、お金と医療器具が必要なときだけ、日本に帰国して、短期的にあちこちの病院で働くという生活を送っていた。
彼にとっては、日本での恵まれた境遇を捨てて、東南アジアで無料奉仕をするのは、人生の非常に自然な流れ(私の観念でいえば、「進化」)なのであるが、ところが、その彼を取材し、ドキュメンタリーを作っている人たちは、「なぜ彼のような恵まれた境遇にいた人が、それを捨てて東南アジアで医療奉仕をやっているのか、理解できない」というような主旨のコメントや質問を発するのだ。その医師のほうも、そういう質問をされても、相手に納得させる言葉を言うことができない。
つい先日は、今度は、有名な元サッカー選手が世界中を旅したドキュメンタリー番組を少し見ていたが、ここでもまた多くの人たちが、なぜ彼のような名声のあるサッカー選手が、それを捨てて、地球の旅人になったのか、不思議がり、彼のことを「謎の男」みたいにとらえている。
名声や富のある一流の医者やサッカー選手になりたいといえば、ほとんどの人がそれを理解し、賞賛する。でも、それらを達成したあと、その恵まれた(と思われている)生活を捨てて、もっと楽しくワクワクする人生を送っている人たちのことは、不思議で理解できないという。
でも言葉を越えてわかる人たちには、わかるのだ。少なくとも私には、この二人の生き方や言葉は不思議でもなんでもなく、非常にわかりやすかった。
人間同士における理解・わかる・わからないの問題――それは別の言葉でいえば、コミュニケーション・ギャップということである。子供の頃からそれをよく実感してきた私は、大人になってからは、人と人とが、「言葉が通じない、理解できない」とは、おそらく言葉以前の問題なのかもしれないと、なんとなくぼんやりと感じ、その答えを求めて20代から、精神世界、宗教、心理学の本を読みあさった。
20代のときに読んだ本で、そういったコミュニケーション・ギャップの理解について一番役に立った本は、このブログで何度か紹介している「なまけ者のさとり方](タデウス・ゴラス著)と、もう一冊「奇蹟を求めて」(P.D.ウスペンスキー著)という本の2冊で、この2冊のおかげで、人々がお互いの言葉や生き方、考え方を理解できないのは、お互いのエネルギーの質量の違いによるものなので、それは仕方のないことなのだと、私はおおまかに理解した。
それから私は、実際に様々な精神世界や宗教関係の教えや先生たちに接したり、そういう世界に関心をもつ人たちともたくさん出会ったが、こちらは、世俗の世界よりも、「理解」に関しては、もっと混乱が多いように感じている。
精神世界や宗教に興味をもつ人たちは、本やセミナー等を通じて、様々な教えや観念を知り、もし気に入れば信じる。ところが、また別の観念や別の先生・教えに出会うと、そちらのほうが気に入り、また信じる。人はある観念を知り、信じ、疑い、また別の観念を知り、信じ、疑いといったふうに、様々に矛盾している観念に対して、そういうことを繰り返していくうちに、何が正しいのか、何を信じるべきなのか、何をすべきなのか、だんだんわけがわからなくなってくる場合が起こる。極端な場合は、その混乱から、うつ病のようになってしまう人たちもいる。
私自身がそういったことで極度に混乱した時期があり、10年ほど前、その自分自身の混乱を救うために書かれた本が、「人をめぐる冒険」という本である。
この本の中で、展開した、「動物・人間・神」という観念と、それに基づく霊的(精神的)進化論は、霊的世界におけるコミュニケーション・ギャップや現象世界を理解するうえで、私自身にとっては非常に役に立ち、なかなかの傑作だと、書いた本人は満足していたのだが、当初の私の予想に反して(!?)、この本は超絶的に売れない本となった。それでも中には、すごく面白いと言ってくださった超少数の人たちもいて、私の中の「作家魂」(なんか、わけのわからないものですが)を喜ばせた。
まあ本は売れなかったとはいえ、そこはどんなときにも、「転んでもタダでは起きない」私は、この本が売れなかったおかげで、本(言葉・観念)を、読む・知る・信じる・理解することをめぐるコミュニケーション・ギャップに関して、また新たに研究する機会に恵まれた。「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論を、もっと自分に役立つように、もっと詳細に検討しては、それをいろいろなことに当てはめて考えてみた。いや、本当は、研究というより、本を書いたあとの「修行の日々」というほうがふさわしい。
あれから10年、その研究・修行のほうは、大筋では終わり、あとは本にまとめるだけなのだが、これがどういうわけか、完成のめどがたたない。本という形にするだけのエネルギーがなかなか、天から降りてこないのだ。いつ本が出るか出ないかは、天のみぞ知るという感じ……である。
さて、あらゆることに関する「わかる・わからない」という問題――そもそも、多くの人たちにとっては、「わからない」ことは、まったく問題ではない。また最高の叡智も、「わからない」ことなので、そこまで進化した人たちも、「わからない」ことは、まったく問題ではない。「わからないこと」が気になる、その途上にいる私のような者たちだけが、愚かにも「わからない」ことと格闘しているのである。
よって、思考を紡いだり、言葉・観念を表現したり、本を書いたりする行為、また、それらを読んだり・理解したりする行為とは、「半分知っている者」たちのリーラ(宇宙の戯れ)、ときには、もっと多くの誤解・無知・混乱を生む可能性のあるリーラなのだと、私自身はいつもその限界をかみしめる。
半分知った者が、全知であろうと奮闘する愚者のリーラ……神以外の誰も止められないリーラ
それでも、願わくば……
半分知っている者同士の出会いから、創造的な理解が生まれますように……
[イベント]
そんなこんなの状態で、「人をめぐる冒険」の続編の本は、当分出そうにはありませんが、「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論の最新版を、ご興味ある方にご報告してもいいかと思いたち、下記の会を企画しました。
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
参考図書
「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著 平河出版社発行
20世紀前半に活躍したロシアの神秘思想家、グルジェフの教えと言葉を、彼の高弟だったウスペンスキーがまとめた本。他のどんな本にも書いてない興味深い観念が記述されてあるが、読んで理解するだけでも、相当な努力が必要。グルジェフ自身が書いた本としては、「ベルゼバブの孫への話」(平河出版社発行)があり、こちらはさらに読むのがもっと困難な本で、「超超超努力」を要する本。
「バカの壁」養老孟司著 新潮社発行
5年ほど前の大ベストセラーであり、本書の中で、著者は、人は自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまう(=「バカの壁」を作る)というテーマで、自らの様々な体験と観察から、「わかることの困難」を語っている。
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著 地湧社発行
「人をめぐる冒険」高木悠鼓著 マホロバアート発行
彼にとっては、日本での恵まれた境遇を捨てて、東南アジアで無料奉仕をするのは、人生の非常に自然な流れ(私の観念でいえば、「進化」)なのであるが、ところが、その彼を取材し、ドキュメンタリーを作っている人たちは、「なぜ彼のような恵まれた境遇にいた人が、それを捨てて東南アジアで医療奉仕をやっているのか、理解できない」というような主旨のコメントや質問を発するのだ。その医師のほうも、そういう質問をされても、相手に納得させる言葉を言うことができない。
つい先日は、今度は、有名な元サッカー選手が世界中を旅したドキュメンタリー番組を少し見ていたが、ここでもまた多くの人たちが、なぜ彼のような名声のあるサッカー選手が、それを捨てて、地球の旅人になったのか、不思議がり、彼のことを「謎の男」みたいにとらえている。
名声や富のある一流の医者やサッカー選手になりたいといえば、ほとんどの人がそれを理解し、賞賛する。でも、それらを達成したあと、その恵まれた(と思われている)生活を捨てて、もっと楽しくワクワクする人生を送っている人たちのことは、不思議で理解できないという。
でも言葉を越えてわかる人たちには、わかるのだ。少なくとも私には、この二人の生き方や言葉は不思議でもなんでもなく、非常にわかりやすかった。
人間同士における理解・わかる・わからないの問題――それは別の言葉でいえば、コミュニケーション・ギャップということである。子供の頃からそれをよく実感してきた私は、大人になってからは、人と人とが、「言葉が通じない、理解できない」とは、おそらく言葉以前の問題なのかもしれないと、なんとなくぼんやりと感じ、その答えを求めて20代から、精神世界、宗教、心理学の本を読みあさった。
20代のときに読んだ本で、そういったコミュニケーション・ギャップの理解について一番役に立った本は、このブログで何度か紹介している「なまけ者のさとり方](タデウス・ゴラス著)と、もう一冊「奇蹟を求めて」(P.D.ウスペンスキー著)という本の2冊で、この2冊のおかげで、人々がお互いの言葉や生き方、考え方を理解できないのは、お互いのエネルギーの質量の違いによるものなので、それは仕方のないことなのだと、私はおおまかに理解した。
それから私は、実際に様々な精神世界や宗教関係の教えや先生たちに接したり、そういう世界に関心をもつ人たちともたくさん出会ったが、こちらは、世俗の世界よりも、「理解」に関しては、もっと混乱が多いように感じている。
精神世界や宗教に興味をもつ人たちは、本やセミナー等を通じて、様々な教えや観念を知り、もし気に入れば信じる。ところが、また別の観念や別の先生・教えに出会うと、そちらのほうが気に入り、また信じる。人はある観念を知り、信じ、疑い、また別の観念を知り、信じ、疑いといったふうに、様々に矛盾している観念に対して、そういうことを繰り返していくうちに、何が正しいのか、何を信じるべきなのか、何をすべきなのか、だんだんわけがわからなくなってくる場合が起こる。極端な場合は、その混乱から、うつ病のようになってしまう人たちもいる。
私自身がそういったことで極度に混乱した時期があり、10年ほど前、その自分自身の混乱を救うために書かれた本が、「人をめぐる冒険」という本である。
この本の中で、展開した、「動物・人間・神」という観念と、それに基づく霊的(精神的)進化論は、霊的世界におけるコミュニケーション・ギャップや現象世界を理解するうえで、私自身にとっては非常に役に立ち、なかなかの傑作だと、書いた本人は満足していたのだが、当初の私の予想に反して(!?)、この本は超絶的に売れない本となった。それでも中には、すごく面白いと言ってくださった超少数の人たちもいて、私の中の「作家魂」(なんか、わけのわからないものですが)を喜ばせた。
まあ本は売れなかったとはいえ、そこはどんなときにも、「転んでもタダでは起きない」私は、この本が売れなかったおかげで、本(言葉・観念)を、読む・知る・信じる・理解することをめぐるコミュニケーション・ギャップに関して、また新たに研究する機会に恵まれた。「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論を、もっと自分に役立つように、もっと詳細に検討しては、それをいろいろなことに当てはめて考えてみた。いや、本当は、研究というより、本を書いたあとの「修行の日々」というほうがふさわしい。
あれから10年、その研究・修行のほうは、大筋では終わり、あとは本にまとめるだけなのだが、これがどういうわけか、完成のめどがたたない。本という形にするだけのエネルギーがなかなか、天から降りてこないのだ。いつ本が出るか出ないかは、天のみぞ知るという感じ……である。
さて、あらゆることに関する「わかる・わからない」という問題――そもそも、多くの人たちにとっては、「わからない」ことは、まったく問題ではない。また最高の叡智も、「わからない」ことなので、そこまで進化した人たちも、「わからない」ことは、まったく問題ではない。「わからないこと」が気になる、その途上にいる私のような者たちだけが、愚かにも「わからない」ことと格闘しているのである。
よって、思考を紡いだり、言葉・観念を表現したり、本を書いたりする行為、また、それらを読んだり・理解したりする行為とは、「半分知っている者」たちのリーラ(宇宙の戯れ)、ときには、もっと多くの誤解・無知・混乱を生む可能性のあるリーラなのだと、私自身はいつもその限界をかみしめる。
半分知った者が、全知であろうと奮闘する愚者のリーラ……神以外の誰も止められないリーラ
それでも、願わくば……
半分知っている者同士の出会いから、創造的な理解が生まれますように……
[イベント]
そんなこんなの状態で、「人をめぐる冒険」の続編の本は、当分出そうにはありませんが、「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論の最新版を、ご興味ある方にご報告してもいいかと思いたち、下記の会を企画しました。
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
参考図書
「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著 平河出版社発行
20世紀前半に活躍したロシアの神秘思想家、グルジェフの教えと言葉を、彼の高弟だったウスペンスキーがまとめた本。他のどんな本にも書いてない興味深い観念が記述されてあるが、読んで理解するだけでも、相当な努力が必要。グルジェフ自身が書いた本としては、「ベルゼバブの孫への話」(平河出版社発行)があり、こちらはさらに読むのがもっと困難な本で、「超超超努力」を要する本。
「バカの壁」養老孟司著 新潮社発行
5年ほど前の大ベストセラーであり、本書の中で、著者は、人は自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまう(=「バカの壁」を作る)というテーマで、自らの様々な体験と観察から、「わかることの困難」を語っている。
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著 地湧社発行
「人をめぐる冒険」高木悠鼓著 マホロバアート発行
運の振り子 ― 2008年06月20日 07時51分43秒
運――それは、誰もが、よくしたいと願うものであり、それゆえ、運をよくするための本(「願望達成法」の本も含めて)が書店の店頭やネット上にあふれている。最近、特に出版件数が増えたような感じがする。
私も、運をよくするための本を、昔は読むだけはよく読んだものだが、最近は自分にとって、目新しい本もなくなり、ほとんどこの分野の本を読まなくなっていた。
そんななか、珍しく、オリジナルな考察と表現の本に出会った。
「振り子の法則・リアリティ・トランサーフィン」ヴァジム・ゼランド著(徳間書店)
ロシアの元量子物理学者が書いたという本書は、その説明と切り口がなかなか斬新で、最近、物理学にはまっている私には、非常におもしろく読めた。ちょうど、タデウスおじさん(「なまけ者のさとり方」の著者)が、もし怠け者でなく、物理学に詳しければ、書いたであろうような本になっている。理系的言葉に抵抗のある人には、あまり向きではないかもしれないが(といって、別に言葉は難しくはない)、理論的に考えることが好きな人には向く本である。
著者が、最初に説明しているポイント、「現実の現れ方には無限の可能性がある」(ページ41)は、著者の説明は少々難解であるが、それを日常用語で、私流に解釈すれば、自分の目の前のあらゆる状況(仕事、人間関係、社会の状況、その他等)には、最高の波動から最低の波動まで無限の現実が重ね合わさっているということだ。
運をよくするとは、自分が出会うあらゆる状況の中で、ただ単純に、その中によいものを認める(著者の言葉でいえば、「選択する」)ということであり、運を悪くするとは、悪いものばかり見る(「選択する」)ということだ。つまり、どんな状況でも、不満を言おうと思えば、きりがなく、反対によいところを探せば、何かしらあるものなのだ。
運が悪いと自称する人たちは、あらゆるところで、ゴミばかり見る(「選択する」)傾向がある。ゴミばかり見ると、どこへ行ってもゴミばかり見ることになる。
それから、本書のすべてにわたって、著者が説明している、人々の様々なエネルギーを吸収して生きている「エネルギー情報体=振り子」という概念――これを理解すると、あらゆるところに、私たちは様々な「振り子」の存在を認めることができる。「振り子」とは、日常用語でいえば、「同じ感情・思考傾向のエゴが、たくさん集まってできた集合体」のようなものである。そして、この様々な「振り子」たちの間の競争が、人間の世界に無限のドラマを創造しているのも、しだいに見えてくる――ちょうど、演劇の舞台裏を見るような感じだ。
その他、本書を読むと
なぜ、罪悪感、不安、心配、非難等が、自分の運を悪くするのか、
なぜ罪悪感も羞恥心もないような悪党のような人たちが、世俗的に成功するのか、
なぜ他人のことを思いやる心優しい人たちが、不運に遭遇するのか、
なぜ(法律以外は)犯罪人・極悪人を非難しないほうがいいのか、
なぜ、あらゆる人や存在を、自分と同等にみなさなければいけないのか、
さらに、
なぜ、強く願うことが「かなわないのか」、
なぜ、仕事、自分の達成したこと、物、成功、失敗、お金、人間関係等に、過度の重要性を与えてはいけないのか、
なぜ、繁栄していた企業や人やお店が、突然、ころがるように業績が悪化して、倒産してしまうのか、
なぜ、過労労働している人たちが、そのまま過労自殺へと突入してしまうのか、など
そういうことが理論的に理解できる。その説明に納得できるかどうかは、人それぞれであろうけど、私には、「なるほど」と、ふに落ちることが多かった。
本書より
「自分の信念に従って生きることを、ただ容認するだけで十分なのだ。あなたを裁く権利を誰ももっていない。あなたはあなたでいる権利をもっている。もし自分でいることを自分に容認できるなら、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると驚くべきことが本当に起こる」(204ページ「罪悪感」より)
「私たちは何か新しいものを学ぶか、またはすでに知っているお馴染みのことを行うか、どちらかをおこなわなければならない。ここで、問題。両方最も効果的に行うにはどうするべきか? 答えは、単純すぎて、その有効性が信じ難いくらいである。流れに沿って進むという原則に従って、最も単純な方法ですべてが行われるようにする、というものだ」(ページ305)
[イベント]
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
私も、運をよくするための本を、昔は読むだけはよく読んだものだが、最近は自分にとって、目新しい本もなくなり、ほとんどこの分野の本を読まなくなっていた。
そんななか、珍しく、オリジナルな考察と表現の本に出会った。
「振り子の法則・リアリティ・トランサーフィン」ヴァジム・ゼランド著(徳間書店)
ロシアの元量子物理学者が書いたという本書は、その説明と切り口がなかなか斬新で、最近、物理学にはまっている私には、非常におもしろく読めた。ちょうど、タデウスおじさん(「なまけ者のさとり方」の著者)が、もし怠け者でなく、物理学に詳しければ、書いたであろうような本になっている。理系的言葉に抵抗のある人には、あまり向きではないかもしれないが(といって、別に言葉は難しくはない)、理論的に考えることが好きな人には向く本である。
著者が、最初に説明しているポイント、「現実の現れ方には無限の可能性がある」(ページ41)は、著者の説明は少々難解であるが、それを日常用語で、私流に解釈すれば、自分の目の前のあらゆる状況(仕事、人間関係、社会の状況、その他等)には、最高の波動から最低の波動まで無限の現実が重ね合わさっているということだ。
運をよくするとは、自分が出会うあらゆる状況の中で、ただ単純に、その中によいものを認める(著者の言葉でいえば、「選択する」)ということであり、運を悪くするとは、悪いものばかり見る(「選択する」)ということだ。つまり、どんな状況でも、不満を言おうと思えば、きりがなく、反対によいところを探せば、何かしらあるものなのだ。
運が悪いと自称する人たちは、あらゆるところで、ゴミばかり見る(「選択する」)傾向がある。ゴミばかり見ると、どこへ行ってもゴミばかり見ることになる。
それから、本書のすべてにわたって、著者が説明している、人々の様々なエネルギーを吸収して生きている「エネルギー情報体=振り子」という概念――これを理解すると、あらゆるところに、私たちは様々な「振り子」の存在を認めることができる。「振り子」とは、日常用語でいえば、「同じ感情・思考傾向のエゴが、たくさん集まってできた集合体」のようなものである。そして、この様々な「振り子」たちの間の競争が、人間の世界に無限のドラマを創造しているのも、しだいに見えてくる――ちょうど、演劇の舞台裏を見るような感じだ。
その他、本書を読むと
なぜ、罪悪感、不安、心配、非難等が、自分の運を悪くするのか、
なぜ罪悪感も羞恥心もないような悪党のような人たちが、世俗的に成功するのか、
なぜ他人のことを思いやる心優しい人たちが、不運に遭遇するのか、
なぜ(法律以外は)犯罪人・極悪人を非難しないほうがいいのか、
なぜ、あらゆる人や存在を、自分と同等にみなさなければいけないのか、
さらに、
なぜ、強く願うことが「かなわないのか」、
なぜ、仕事、自分の達成したこと、物、成功、失敗、お金、人間関係等に、過度の重要性を与えてはいけないのか、
なぜ、繁栄していた企業や人やお店が、突然、ころがるように業績が悪化して、倒産してしまうのか、
なぜ、過労労働している人たちが、そのまま過労自殺へと突入してしまうのか、など
そういうことが理論的に理解できる。その説明に納得できるかどうかは、人それぞれであろうけど、私には、「なるほど」と、ふに落ちることが多かった。
本書より
「自分の信念に従って生きることを、ただ容認するだけで十分なのだ。あなたを裁く権利を誰ももっていない。あなたはあなたでいる権利をもっている。もし自分でいることを自分に容認できるなら、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると驚くべきことが本当に起こる」(204ページ「罪悪感」より)
「私たちは何か新しいものを学ぶか、またはすでに知っているお馴染みのことを行うか、どちらかをおこなわなければならない。ここで、問題。両方最も効果的に行うにはどうするべきか? 答えは、単純すぎて、その有効性が信じ難いくらいである。流れに沿って進むという原則に従って、最も単純な方法ですべてが行われるようにする、というものだ」(ページ305)
[イベント]
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
橋下大阪府知事の奮闘 ― 2008年06月26日 09時45分54秒
大阪府政を大改革しようと奮闘している橋下大阪府知事は、世論の圧倒的支持を得ている(80%以上)そうである。
世論が、彼を支持するのは、それは、彼が自分の職場や組織のトップではないからだ。利害関係なく傍観しているだけなら、彼は面白いし、楽しい。しかし、そう彼を好ましく思っている世間の人たちも、もし彼が自分の勤めている会社の社長になって、「これから、みんなの給料やボーナスを大幅カットするけど、それにもめげず、これからも頑張って会社のために働いてくれ」と言ったら、ほとんどの人たちが、「誰が一生懸命に働いてやるもんか」と思い、彼を大嫌いになるはずである。
橋下氏は、自分の能力に自信がある。そして、知事としても、自分の能力をどうしても証明したいと思っている。彼のように自分の能力と腕一本で、成功してきた人間には、公務員のように、組織で働く人たちの行動や脳のパターンをほとんど理解できない。そして、そこにある種の落とし穴があるのだ。
私がいつも思っていること――「Aの場所での成功法則は、Bの場所での成功法則ではない」からみると、彼の自分の能力への過信が、彼が望むことの実現を阻む可能性が高い。知事として彼が言っていること(府政の借金を減らす)が、正論であればあるほど、府庁の職員たちの反発を買い、士気は下がり、仕事の能率も落ちるだろうと、予想できる。
先日、ご紹介した「リアリティ・トランサーフィン」(徳間書店)の本に、こういう話が書かれてある。
「あなたは仕事で猛烈ぶりを発揮していて、そのことでこれまで培われてきた物事の秩序を乱しているとしよう。職場で改善すべきことが数多く見受けられ、自分は正しく行動しているという絶対的なまでの確信をあなたは持っている。しかしながら、あなたの新しいやり方が、同僚たちの人生で馴染んだやり方と相容れないのであれば、良いことは何も期待できない。これはまさに「言いだしっぺは罰せられる」という諺通りのケースである。あなたは、ゆっくりではあるが、穏やかで順調な流れに乗っているのに、もっと速く泳ごうとして両手を水面に全力でたたきつけているのである」(331ページ)
かくして、改革派知事の熱意というものは、挫折の憂き目を見るという結果になることが多い。
世論が、彼を支持するのは、それは、彼が自分の職場や組織のトップではないからだ。利害関係なく傍観しているだけなら、彼は面白いし、楽しい。しかし、そう彼を好ましく思っている世間の人たちも、もし彼が自分の勤めている会社の社長になって、「これから、みんなの給料やボーナスを大幅カットするけど、それにもめげず、これからも頑張って会社のために働いてくれ」と言ったら、ほとんどの人たちが、「誰が一生懸命に働いてやるもんか」と思い、彼を大嫌いになるはずである。
橋下氏は、自分の能力に自信がある。そして、知事としても、自分の能力をどうしても証明したいと思っている。彼のように自分の能力と腕一本で、成功してきた人間には、公務員のように、組織で働く人たちの行動や脳のパターンをほとんど理解できない。そして、そこにある種の落とし穴があるのだ。
私がいつも思っていること――「Aの場所での成功法則は、Bの場所での成功法則ではない」からみると、彼の自分の能力への過信が、彼が望むことの実現を阻む可能性が高い。知事として彼が言っていること(府政の借金を減らす)が、正論であればあるほど、府庁の職員たちの反発を買い、士気は下がり、仕事の能率も落ちるだろうと、予想できる。
先日、ご紹介した「リアリティ・トランサーフィン」(徳間書店)の本に、こういう話が書かれてある。
「あなたは仕事で猛烈ぶりを発揮していて、そのことでこれまで培われてきた物事の秩序を乱しているとしよう。職場で改善すべきことが数多く見受けられ、自分は正しく行動しているという絶対的なまでの確信をあなたは持っている。しかしながら、あなたの新しいやり方が、同僚たちの人生で馴染んだやり方と相容れないのであれば、良いことは何も期待できない。これはまさに「言いだしっぺは罰せられる」という諺通りのケースである。あなたは、ゆっくりではあるが、穏やかで順調な流れに乗っているのに、もっと速く泳ごうとして両手を水面に全力でたたきつけているのである」(331ページ)
かくして、改革派知事の熱意というものは、挫折の憂き目を見るという結果になることが多い。
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