スピリチュアルな探求――自分にとっての最後の教え2010年03月10日 15時38分05秒

ラメッシ・バルセカール「誰がかまうもんか!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」の本を、ようやく皆様にお届けすることができてホッとしている今日この頃である。すでに読まれた方、感想をお寄せいただいた方、どうもありがとうございました。

私がラメッシの教えと本に最初に出会ったのが、今から15年前ほどで、そしてダグラス・ハーディングの教えと本に出会ったのが、今から20数年前である。私はスピリチュアルな本に関してはわりにいい直感があるというか、この二人の先生の教え関して、最初に出会ったときに、自分にとって最後の教えになるかもしれないというかすかな予感がなんとなくあった。

とはいえ、私の中には、ある種の信じやすさと極度の疑い深さが同居しているので、まあ、スピリチュアルに限らないが、何事に関しても、信じたものを一つ一つ疑っていく、そして、その疑いをさらに検証していく、そんな作業をせずにはいられない性分である。

だから、何事に関しても、結論がでるのに数年以上、長くなれば数十年の時間がかかってしまうのである。こういう私のプログラミング・性格は、本当は、スピリチュアルな探求より、科学的探究のほうがずっと向いているようにも思え、そのためか時々、スピリチュアルな世界に関わっている自分にある種の場違いな感じを感じてしまうことがある。

で、ダグラスとラメッシの教えに関しても、その言葉を読み込み、考え、実験をし、直接ご本人たちにお会いし、それが自分にとっての最後の教えだと確信するまでに、出会ってから10年くらいの時間が必要だった。

スピリチュアルな探求をする人は、最初はいろいろな教えや本を読み、色々なサークルや先生を見学に行ったりするわけであるが、たくさんある教えの中で何が自分にとっての最後の教えかどうか、どうやって確信するにいたるのだろうか?

その「確信」とは言葉ではうまく説明できないものだが、言ってみれば、疑いと信じることが両方終わるときに、「確信」が生まれるような気がする。

「確信」が生まれるとどうなるかといえば、仮に自分以外に誰もその教えに賛成しなくても理解しなくても、かまわないという気持ちになるということである。同じ道を歩く同胞がいれば楽しくもあるけれど、自分一人しかいなくても全然問題ではないのだ。

この間読んでいた「私訳 歎異抄」(五木寛之著 東京書籍発行(「歎異抄」は鎌倉時代の仏教の師、親鸞の言葉をまとめた名高い古典)の中で、親鸞は、たとえ法然聖人(親鸞の師)に騙されて、念仏を唱えて地獄に落ちても、それでもかまわないと言っている。こういう心境が、本当の宗教的確信である。世俗的ご利益があるからとか、たくさんの人がいっしょに信じるから、それに従うというのは、本当の意味では、スピリチュアルではないだろうと私は思うのである。

実際、親鸞は、法然とともに、時の権力者に嫌われ、流罪となり、僧籍を剥奪され、でも、一般人になれたおかげで、結婚できて、子供を作ることができた。しかし、その息子のせいで、また親として師として、のちのち苦しむことになる、といった、「万事塞翁が馬」の人生が展開してゆく。

私が「歎異抄」を今回はじめて読んで興味深く感じたことは、親鸞の教えとラメッシ・バルセカールの教えには、共通している点が多くあるということである。

ラメッシの教えの中心、「すべては神の意志」は、親鸞のいう「南無阿弥陀仏の念仏」を唱えて、すべてを阿弥陀仏におまかせして、善悪を判断しないというのと同じなのだ。

「すべては神の意志」として、日々起ることに逆らわず、できるかぎりエゴ的人間的善悪の判断をしないで流れていくと、何と物事はシンプルなのかと、神の恩寵、アメージング・グレースに対して感謝の念がわき起らざるをえない。

このように私自身にとっては、スピリチュアルな探求はよい場所(天国)に落ち着くことになったので、実りあったと言えるが、それでも、私はスピリチュアルな探求を、それに関心のない人に決して勧めたりはしないし、勧めるものでもないと思っている。多くのリスク、横道を孕んでいるからだ。スピリチュアルな探求者たちがその人にとっての最後の教えにたどり着いて、その探求が実りあるものになるかどうか――それこそ、それは神の意志、運命によるのであろう。

[お知らせ]
「誰がかまうもんか!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」(ナチュラルスピリット発行)は、全国の一般書店、ネット書店、スピリチュアルブック専門書店ブッククラブ回等で購入できます。定価:本体価格2500円プラス税 

*ナチュラルスピリット社のご好意により、「誰がかまうもんか!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」の本の目次を次のサイトで公開しています。http://www.simple-dou.com/CCP024.html

関連サイト
 
ラメッシのアメリカ人の弟子、Wayne Liquormanのサイト(英語)
http://www.advaita.org

ナチュラルスピリット

ブッククラブ回
http://www.bookclubkai.jp






コメント

_ るな ― 2010年03月11日 00時19分56秒

シンプル道とは、そういうこと(「すべては神の意思」として~~)なのですね!

今度の話はわかりやすく、私にとってとてもためになりました(^^)/

_ るな ― 2010年03月11日 16時40分25秒

たびたび失礼します♪

「すべては神の意志」であるとしても、エゴ的な善悪の判断をしない、というのは、私にはとても難しく思われます。
湧き起こる善悪の判断も、神の意志なんでしょうけど・・(^^;)

_ Madame Butterfly ― 2010年03月12日 00時02分43秒

高木悠鼓様

お元気ですか?
以前東京でのイベントに何度か参加させて頂いた者です。
早速「誰がかまうもんか?!」読ませて頂きました。
最初っから最後まで感動と開放感で一杯で「この本が読めて本当に生きてて良かった!」と大泣きと大笑いの連続でした。そしてまるでバルセカー先生が目の前でお話してくれるような臨場感と温もりがほんわり伝わってきて、読み終わりたくないなとちびちびと味わって読みました。これからも一生大切に読み続けていこうと思います。

それから以前お会いした時に、高木さんにお伝えしたかもしれませんが、本を訳すというのはやはり語学と母国語に長けてるだけじゃなく、エネルギーレベルで、語り手のエッセンスを言葉にのっける、ある意味霊媒のような作業でもあるんだなと高木さんの職人技に圧巻しました。こんな素晴らしい翻訳を実現する為に、神様が高木さんという「肉体精神機構」をお選びになった事、深く深く感謝しています!本当にどうもありがとうございました!

_ シンプル堂 ― 2010年03月16日 12時56分32秒

るな様

「エゴ的な善悪の判断をしない」--はい、とても難しいことです。シンプルな教えは、本当は難しいものだと思います。

しかも、こういったアドバイタ系、ラメッシ、ダグラスの教え、気づき系非二元論の唯一の報酬は「平和」ということだけで、だから、「平和」に価値を見出さなければ、こういう教えは退屈なものかもしれません。

でも、もし「平和」に価値をおくなら、ラメッシ、ダグラスの提案する方法は、継続的にやってみる価値があるだろうと思います。

_ るな ― 2010年03月23日 11時43分45秒

シンプル堂さま、コメントありがとうございました。

教えがシンプルでも、実践は難しいことなんですね。なんだかほっと一安心です♪

_ マサカズ ― 2010年04月02日 00時16分59秒

世の中には様々な教えがあります。
その中で自分の好きな(信じている)教えがあります。
これは時間と共に変化したりします。
その自分の好きな教えを並べると、
中に矛盾するものがありました。
でも自分ではどちらか片方を捨てるわけにはいかない。
スピリチュアルな探求やっていると
必ず出くわす出来事だと思います。
それは物理世界に生きてるから、脳を所有しているから
生じるでしょうか。
2次元で丸くて四角いものは矛盾するけど
3次元では成り立ちます(円錐)。
肉体脱ぎ捨てれば矛盾せずに理解できる
ような気もします。
文字や言語は直感に比べるととてもあいまいな気がしますが
ここ(現実世界)で生活してる以上、それらを最大限活用します。
「すべては神の意志」はぼくの好きな教えと多少矛盾しますが
「すべては神の意志」はぼくの好きな教えの一つです。
言語を逸している感じです。
言葉にしたとたん小さくなってしまうような
なのでスピリチュアルは人に勧められるものではありません。
本の内容は読み手によって180度変わりそうだからです。
それでたまにここへ書き込んでストレス解消してます。
失礼しました。
ナハハ

_ シンプル堂 ― 2010年04月03日 10時08分28秒

マサカズ様
お書きになったことはよくわかります。

私は「超」がつくほど、自己責任と自由意志を信じていましたし、今でも人間的次元はラメッシの教え「すべては神の意志」を知る前と同じくらい、「見かけの」自由意志と自己責任を信じています。ですから、私の中でもかなり矛盾していますが、それは肉体精神機構のプログラミングで、全然問題とは感じません。

思考し、言葉にすると、すべては小さくまとまってしまい、矛盾になり、それが思考・言語表現の限界ですが、それを理解したうえで、言語表現、思考活動を楽しむしかないだろうと思います。

思考、言語表現、本は、読み手の数だけ、様々な解釈と意見、理解が可能だと思います。

_ マサカズ ― 2010年04月04日 16時04分24秒

この世界は不完璧(思考・言語表現の限界)なところまで
完璧に創造されているような気がします。
誰が物理世界をデザインし設計しプログラミングしたのか謎ですが
(その質問自体が無意味?)
不自然すぎるほどすべてがうまく出来過ぎてます。

「思考・言語表現の限界ですが、それを理解したうえで、言語表現、思考活動を楽しむ」

本気で考えすぎると疲れますし
笑いやユーモアも何かに行き詰ったり
関係がギクシャクした時の助けになります。

物理世界で理解できない「矛盾」は真実に意外と近いかもしれません。


*誤「円錐」→「円柱」

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