「ありがとう」の種類2010年08月11日 16時44分02秒

猛暑お見舞い申し上げます。(愛用の老体ノート・パソコンも熱中症気味で、たびたび労働拒否(フリーズ)。保冷剤で冷やすと、多少調子がよくなることを発見!)

先日、Y新聞系の投稿サイト(時々、愛読している)に、次のような内容の投稿があった。

要約すると、
「私の友人に、何事につけ『ありがとう』を言う人がいる。『電話してくれてありがとう』、『会ってくれてありがとう』等々。彼女は愚痴も悪口も、好き嫌いも言わず、本当にいい人で私は秘かにプチ聖人と呼んでいるのだが、あまりに頻繁に『ありがとう』を言われて、私は苛立っている。そんな私は性格が悪いのだろうか?」

とまあ、だいたいこういう内容だったと記憶している。それに対して、「あなたは、性格が悪い」とか、「自分のまわりにもプチ聖人みたいな人がいて、自分も同じように感じている」とか、その他数百の様々なコメントが寄せられていた。

スピリチュアルな業界というか世界では、「ありがとう」は、ほとんど「こんにちは」みたいな言葉で、私も含めて皆さんよく使う言葉であるのだが、「ありがとう」には、実際いくつかの種類があるのではないかと、私は思っている。

一番一般的なものは、
1職場、仕事関係、ご近所、家族等の間で社交的に使う「ありがとう・ありがとうございます」は、「おはよう・おはようございます」とか、「お世話になります」とか、「よろしくお願いします」と同様な役割があり、その意味は、どの言葉も共通して、「私たちは知り合いで、ある種の関係があり、お互いの利益を損なわないように努めます」ぐらいの意味であろうと、私は理解している。

それから、
2知人・友人・親族、そして、見知らぬ人に具体的に親切な行為をしてもらった、お中元・お歳暮、プレゼントをもらったときに言う「ありがとう」がある。この場合の「ありがとう」は、「あなたのご好意がうれしい」ぐらいの意味である。

以上の1と2の「ありがとう」に関していえば、言わないよりは、適宜言えば、スムーズな人間関係に役立つことは間違いないことである。

3修行としての「ありがとう」――おそらく、「ありがとう」を常に口にすると運がよくなるという教えの広まりだろうと思われるが、修行や訓練として、一日に何回も「ありがとう」を言うように努めている人たちが、今日本全国にたくさんいるようである。こういう教えは、大まかにくくって言えば、言葉に霊が宿るという「言霊信仰」 の部類に入り、「ありがとう」の他にも、「ついている、うれしい」とか、「愛しています。許してください」などのポジティブな言葉を繰り返すことで、心身の浄化や願望達成、運命の向上に効果があるとされている。

実際、病気が治った、収入が増えた等のたくさんの効能・効果も報告されているということなので、たぶん効果はあるのだろうと思う――どんな修行でも、一生懸命にやれば、それなりの効果はあるものである。

それから、最後に
4言葉にできない「ありがとう」があって、何かや誰か、存在そのものに、突然にわく感謝の念というものがある。こういう感謝の念は、自分の意志でどうにかできるものではないし、修行や運の向上とも無関係である。

で、最初に紹介した投稿者の友人は、愚痴や文句を言わずに、何度も「ありがとう」を言うということなので、たぶん、今説明した、3の「ありがとう」修行を実践中なのだろうと思われる(コメントにもそういう指摘がいくつかあった)。

投稿者の苛立ちを推測するに、たぶん、本当は「ありがとう」の問題ではなく、それは、言葉によるコミュニケーションの問題なのである。一般的に、普通の会話をしているとき、人は、いつも同じ言葉で、反応されるのを好まない傾向がある。もし誰かがこちらが何を言っても、いつも、定型句で反応してきたら、「この人は、自分の言うことをちゃんと聞いていない」というような印象になってしまうのだ。

一方、スピリチュアルな研鑽の場では、教えの言葉をいくつかの定型句にまとめて、少ない観念を徹底して繰り返して叩き込むということがよく見られ、それはスピリチュアルな研鑽の場では、有効なことが多い。たとえば、前回と前々回説明したラメッシの教え、「すべては神の意志」もその一つである。

言葉によるコミュニケーションとは、場所・状況・相手を踏まえないと、どれほどポジティブで、真実で、聖なる波動や言霊が宿るとされる言葉を使っても、コミュニケーションの成果という観点から見れば、まずい場合もあるし、私もたくさん失敗した経験がある。

さて、「ありがとう」の元々の意味は、仏教の教えにその起源があるそうで、それは、「有る」ことが「難い」、つまり、本来は、「あることが困難=めったに起らない貴重な」という意味なのである。

その意味では、(無数の人の中から)縁あって人と人が知り合って、電話であれ、直接であれ、言葉を交わすことは、めったにない貴重な機会で、だから、(言葉で表現するかどうかは別として)、気持ち的には、「お会いできて、ありがとう」「お話できて、ありがとう」なのである。人との出会いは、一期一会で、次はないかもしれず、さらに、人間界で言うところの「死」が、いつどこで誰に起るか、わからないからだ。




ラメッシの教え(3)――「意識が存在するすべて」2010年08月23日 12時16分51秒

本日は、前々回の続きで、ラメッシの教えのもう一つの主要な観念「意識が存在するすべてである」を、ダグラス・ハーディングの実験を交えて解説してみよう。

このブログを今、お読みになっている皆さんは、どこかの場所で、おそらくパソコンか携帯の画面を眺めながら読まれていると思う。今回は、読みながら、時々、画面から目を離して自分がいる空間を見て、確認してもらうことをお勧めする。

まず、パソコンや携帯を操作している人間(一般的に自分だと思っている肉体のことです)、ラメッシの言葉を使えば、肉体精神機構を、仮にここではAと呼ぶことにします。

そして、Aに見える空間の中には、パソコン、携帯、机、椅子、テレビがあり、さらには、他の人間(肉体精神機構)B、C, D等、もし屋外なら、車、木、花とか太陽も見えるかもしれない。さらにはもし鏡があれば、[A](鏡に映ったり、他人から見られたA)もいるかもしれない。

こういうありふれた状況で、人間思考は次のように考えるのが普通だ。

*私はA、および[A]である。
*私であるAが見ている者で、したがって、主体で、その他のものは、見られる対象物である。
*Aとその他の非Aは、まったく別のもので、完全に分離している。

私たちは、幼い頃から、イヤというほど、この人間社会の二元論ルールを教え込まれ、信じさせられ、催眠にかけられ、その結末は、孤独と苦しみである。Aは、他のBやCやその他無数の人間(肉体精神機構)との過酷な競争にさらされ、それに勝ちぬかなければ、人生でのおいしいご馳走や報酬は貰えないと脅されている。

A対非Aの分離、二元論こそ、人間社会の基盤となっている。

いわゆるスピリチュアルな探求とは、たいていは、人間(肉体精神機構)Aがこの孤独、苦しみをなんとかしようと思うときに始まるのである。

そのスピリチュアルな探求のプロセスは、まず最初は、Aを浄化するとか、Aの運命や人間性の向上をめざす(これがたぶん、非常に長く続く)ようなことから始まり、最終的には、もし運と縁があれば、私はAでも[A]でもないという教えにたどりつく。

では、ラメッシ、ダグラス、その他究極の真理を教えている先生たちは、「私とは何か?」についてどう答えているかというと、観念的説明ではあるが、簡単にまとめてみると、

*私は、本質的にはAでもなければ、[A]でもない――つまり、私は肉体でもなければ、思考・感情でも、イメージでもない。

*私たちの本質は、努力して達成すべきものではなく、単純に今ここで気づくべきものでる。

*Aと非Aは、分離しているように見えるが、実際は分離しているわけではなく、両方で一つの運動を形成し、その単一運動が、ラメッシの用語を使えば、「運動中の意識」と言われているものである。A、B、C、D、その他は、人間的観点ではおのおのが独自の意志をもっているように行動しているが、実際は、それぞれがどう行動するかは、神(意識)の意志によるもので、誰もコントールできない。

*だから、私たちが何かを見ているとき、「Aが対象を見ている」というのは事実ではなく(人間クラブの言語では正解であるが)、実際は、「見ること」がただ起っているだけなのである。「見る者」という主体と「見られもの」という対象という二つの分離したものがあるわけではなく、その二つが融合して、ただ「見ること」だけがある。

それを一番簡単にわかる方法が、ダグラス・ハーディングの開発した実験で、一番簡単なものを一つご紹介しよう。

1まず、自分が、目の前に自分の顔というか頭を「見ていない」ことを確認します。

2それから、人指し指を1本、目の前に立てて(自分の顔があると想定されている場所の前)、向こうに指(物)が見えていることを確認します。それから指の先端を自分側に向けて、もう一度向こうには指(物)を見ていることを確認します。それから、その指が何を指さしているか見てください。別の言い方をすれば、「私は何から、向こうの指を見ているのか?」を見てください。あなたは自分側に「何かの物」を見るでしょうか?

3ここで注意すべきことは、記憶や知識からではなく、現在のあるがままの現実・事実にもとづいて、見るということです。

4しばらく、そのままの状態で、自分側と目の前にある様々な物(Aや、もし鏡があれば[A]も含む)、つまり、主体と対象を同時にしばらく見てください。ここで重要なポイントは、Aという人間、肉体精神機構も、見る主体ではなく、見られている対象であるという点です。

5見ているもの(主体)は、一人の者(物)でしょうか?(私の経験では)自分から見た自分(つまり、主体)は、一個の物体ではなく、広く開かれた透明な空間で、その中に様々な物が動きまわっているように見えます。

6これを一番うまく人間クラブの言葉で表せば、巨大なスクリーン上に映画が上映されているという感じです。私たちの本質である静止している巨大なスクリーン上に様々な映像が映し出され、私たちが普通、自分だと思って一体化しているAや[A]もその映像の一つです。

7さらに、うまくいけば、主体(スクリーン)と対象(映像)が分離しているわけではなく、ただ「見る」ことだけが進行しているという感覚もつかめると思います。

8以上、一番簡単にどこでもできる実験をご紹介しましたが、今回うまく感覚をつかめなかった方は、また次回、気が向いたときに試してください。(下記に紹介しているサイト・本に色々な実験とその解説が掲載されています)

もちろん人間クラブで私たちが日常生活を送るときは、テレビとパソコンと太陽と花と人間はそれぞれ違うものであり、A、B、Cはそれぞれ違う一人の人間であり、A、B、Cはまるで自由意志があるかのように振舞っているという知識・区別、そういった「ふり」は必要であるが、本質的にはすべて一つの意識である。

マハラジ、ラメッシの教え、ダグラスの教え(と実験)はものすごくシンプルではあるが、だからこそ、「意識が存在するすべてである」というそのシンプルさがいわゆる「腑に落ちる」まで、盲目的に信じることなく、彼らが言っていることが真実・事実なのかどうかを探究し、練習すること(修行というより練習という感じ)が必要なのである。

参考サイト

ダグラス・ハーディングの長年の友人であるリチャード・ラングが、下記youtubeで、
「私たちの本質を見る」実験の動画(英語)を提供しています。ぜひアクセスして、いっしょに実験を楽しんでください。パート1Bに今回ご紹介した「指さし実験」が紹介されています。(日本語字幕つき)
http://www.youtube.com/user/FacelessJapanFilms

「頭がない方法」サイト
ダグラス・ハーディングの教え・哲学、実験の方法が日本語で掲載されています。
参考図書
「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング著 (マホロバアート)
「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング著 (マホロバアート)