今どきの子供2007年10月03日 11時36分11秒

自分の身近で子供を観察する機会はほとんどないのだが、でも、たまにマンションで出会う子供たちや近所の塾へ通う子供たちを見て、自分の子供時代と違うなあと感じることがある。

あるとき、マンションで次のようなことに遭遇した。

ある日の朝、私がゴミを捨てに階段をおりてゆくと、すれ違いに、女の子が、エレベータに乗り込んでいくのが見えた。私は気にもとめず、ゴミ捨て場に行き、30秒後か40秒後に戻ってきて、階段を上ろうとしたとき、その女の子がまだエレベータの中にいたのに気づいた。

私はハッとして、ひょっとしたら、この子は私を待っていたのかもしれないと思い、「待っててくれたの?」と声をかけたら、首をふってそうだと合図した。

普段、私は、朝はエレベータを使わないことにしているのだけれど、このときは、「感動」して、エレベータに乗り込み、女の子に感謝し、学年を訊いた。小学2年生だという。

私がなぜこの出来事にそんなに驚き、感動したかというと、少々固く言うと、その子が、その年齢で、明確に自分とは違う他者を認識し、その他者が何をする人で、自分はその人に何ができるのかを自分で考えていることだった。

私は、「すごいもんだ。小学2年生で、そこまで他人に気をつかえるとは。自分の幼い頃とは大違い!」とビックリしたのだ。

私の姿を見たとき、その子の心には、次のような考えが浮かんだはずだ。

「このオバサンは、白いゴミ袋をもっているから、外に出かけるんじゃなくて、ゴミ捨て場に行くんだ。でもここに戻ったとき、エレベータが行ってしまったあとだと、カワイソウだから、待っててあげよう」

他者を認識し、その人がどういう人で、どういう行動をするかをちゃんと予想している。何気ないように見えながら、こういう認識行動は、実に高度の心の機能なのである。大人だって、ここまで予想機能が働かない人たちはたくさんいる。

私の子供時代に比べて、はるかに自我の発達が早いし、より感受性があるのだとも思う。でも、それだけ、生きてゆくのが、早くから大変だってことにもなるかもしれない。

その子のやさしさに感動しながらも、ちょうど同じ頃、新聞か何かで、今の子供たちは小学生にして早くも人間関係に疲れているという記事も読んだあとだっただけに、子供たちが置かれている時代のキツサについて考えさせられた朝だった。

お金はあっても、知恵がないと……2007年10月05日 10時51分10秒

お金について、ほとんどの人が身にしみて知らないことの一つは、お金とは、入ったら、出なければいけないということだ。つまり、自分がお金を儲けたら(稼いだら)、それはまた自分から出てゆかなければならない、ということ。

それを、たいていの人は、自分にお金が入るのはうれしいが、あるいは、自分のお金が増えるのはうれしいが、お金が出ていくのはイヤだ、減るのはイヤだと思っている。そして、絶対にお金を損したくない、絶対にお金を減らしたくないという心が、詐欺師たちにつけ込まれるのである。

詐欺師が狙う人たちは、お金を貯める能力はあるが、使う能力がなく、ただそれを増やしたいと思う人たちである。そういう人たちを騙すには、詐欺師たちは、「あなたには決して損はさせません」というイメージを売ればいいのである。

私は以前、お金が欲しいという人たちに、よくこう言ったことがある。「お金を1千万円稼ぐには、1千万円を有効に使う能力、ときには、1千万円を損する能力が必要で、1億円稼ぐには、1億円を有効に使う能力、1億円を損する能力が必要です。使う能力、損をする能力があれば、それと同じだけ、稼ぐこともできるでしょう。お金をもっと欲しいという前に、いったい自分が、いくらお金を使い、損できる能力があるのか、考えたほうがいいのでは?」と。

しかし、こういった話は、ほとんどの人に、理解はされなかった……

実のところ私自身は、お金を使う能力があまりあるほうではない。頑張っても、お金を使うのは、むずかしいなあと、いつも痛感する。そもそも私のように昼寝を趣味としていると、生活にあまりお金がかからない。本だって、今ではたいてい図書館で借りて読み、買うのは非常に少ない。なので、たまにお金を使う機会が生まれると、私はとってもハッピーである。

一方、怠け者ゆえに私もまた、できるだけ、省エネで金を稼ぐこともたくさん研究した。私の研究の結論をいえば、お金に関して快適シンプルな人生を送りたいと思うなら、

1.お金に関する約束を守ること。

2.あんまり欲をこかず、何事においても、利益を他人と5分5分か、4分(自分の分)六分(相手の分)で分けること。

3.できるだけ自分が楽しいと思うことにお金をつかうこと。また、お金を使うときは、楽しい気分で使うこと。

4.自分の金銭管理能力を知り、無理をしないこと。

5.万一、他人の犯罪めいた行為、不正な行為で、不当にお金を失う経験をしたら(私も何度か経験がある)、自分の不運が、命でなくて、お金で払えてよかったと不幸中の幸いを喜ぶ。(よく世の中の人たちが、「厄落とし」と言うようなことです)

まあ、以上のことを守れば、お金には困らない人生が送れるということだ。(ただし、世間の定義でいうような金持ちにはなれない、です)

それでも万一お金に困る(お金が足りない)ときがあれば、私の最後の切り札は、「神へのお願い」だ。今では、私は、「神の意志=宇宙の意志」があれば、必要なら、空から万札がふってくると信頼している。実際昔、25万円ほど、道の真ん中で拾った経験があるので、あながち荒唐無稽な信仰というわけでもないと、私自身は思っている。

が、こういう話は、聞きようによれば、近頃話題の「円天」さんよりあやしい、か。

本日は、お金の話題なので、終わりに、そのあやしいシンプル堂のもう一つの人格が、昔、翻訳したり、自分の研究をまとめて書いたりした本をご紹介しておきます。

「楽しいお金」(マホロバアート)
「楽しいお金3」(マホロバアート)
「クリエイティング・マネー」(マホロバアート)

(よけいなご注意)
(上記の本は、お金に関して学ぶには、とても参考になる本だとは思いますが、決して本に書いてあることを鵜呑みに信じないで、疑って読むほうが、いいです。信じるよりは、疑うほうが、知恵がつきます。たぶん)

本の情報&注文先
マホロバアート
http://www.mahoroba-art.co.jp

スピリチュアルブック専門書店 ブッククラブ回
http://www.bookclubkai.jp/

お笑いの癒しと暴力2007年10月08日 10時52分36秒

最近時々テレビでお笑い系の番組を見ることがある。以前は、「よーくこんなもん見て、笑えるなあ」と思っていたのが、最近奇妙に中毒することがある。もっとも、今でもお笑い芸人の言葉に全然笑えないのは同じなのだが。

ただひたすら笑いもせず、まじめに言葉を聞いて、彼らのパフォーマンスを見ている。そしてやっぱり思うのだ。「よーくこんなもんで笑えるなあ」と。それなのに、なぜか「エンタの神様」を時々見ている自分がいる。

すごく小心で、いい人である(私が受ける印象でいうと)、にしおかすみこが、「あたしだよ」とゴーマンに叫ぶその落差が楽しかったり、小島よしおの、「そんなの関係ねえ、オッパッピー」が始まると、自分のやることや言うことや書くことや考えることが間違っても、「そうだ、そうだ、そんなの関係ねえ」と後悔が簡単に消えたり、柳原可奈子の特異な言葉の芸に驚いたりする。

なぜお笑い番組を自分がこんなにもまじめに見ているのか……たぶん、言葉があまりにも「無意味」なのが、いいのかもしれないなあ、と思ってみたりもする。

無意味に癒しあり、というところだ。

一方で、私は、お笑いはある種の暴力も内在しているとも感じる。お笑い芸人が二人組みの場合は、たいてい、片方が相方をバカにしたり、ときにはなぐったり、たたいたりするのが、お笑いの定番である。(たたいたりする行為を、私自身はあまり愉快には感じないが。)

そして、テレビのいわゆるバラエティ番組と称するものも、その多くがお笑い系の司会者が、参加者をネタに笑いをとることで成立している。笑われたほうも、とっても楽しそうだ。

まあ、テレビ番組そのものは、別にたわいもないものだし、どうってことはないが、ただ、テレビというメディアの影響力を考えてみると、見る側に判断力が欠ける場合、笑って他人をバカにすれば(暴力をふるえば)、それは許され、カッコイイことだという、メッセージとして受け取る場合だってある。

テレビに出る人、そしてお笑い芸人は、今、多くの子供たち、若者の憧れでもある。子供にかぎらず、人は自分が憧れるものの、マネをしたくなるものだ。

子供同士で、ふざけて、「このバカ」となぐるのが、カッコイイと思う子供たちがいても不思議ではない。が、それが、イジメと紙一重だったりもする。

そして、もしぶたれた側の子供が、「何するんだよ」と抗議でもすれば、「お前は、お笑い(=冗談=遊び)も通じないバカなのか」とさらにバカにされ、揶揄され、イジメられる可能性もあるだろう。

大人の世界にも、自分の意地悪やストレスを笑いの中に入れて、特定の他人にぶつける人たちは、たくさんいるし、私だってやったことがある。言葉と笑いによるビミョウな暴力。

子供たちの場合でも、大人たちの場合でも、からかうこと、相手をバカにして笑うことには、ある種の人間的愛情がからんだりする場合もあるので、ややこしいのだと思う。


さて、笑いに関していえば、私の脳は、言葉の言い間違え、書き間違え、聞き間違いの笑い話が一番反応する。

今年ネットや雑誌で読んで私が笑ったものは、

「回答案です」(正)を、「怪盗アンデス」(誤)と変換ミスのまま送信されたメールの話。

「これからも頑張って、趣味の[お琴=オコト]をたしなんでください」(正)と読むべき、新婦宛の祝電を、結婚披露宴で、司会者が、「これからも頑張って、趣味の[男=オトコ]をたしなんでください」(誤)と読み間違えた話(オコトとオトコは、カタカナでは確かにまぎらわしい。)

「私、おち[こん]でる」(正)を、校正ミスで、「私、おち[んこ]でる」(誤)と印刷された少女漫画のセリフなど。
 
以上、一人で爆笑しました。

いつか、「地球温暖化の『おかげ』で」という日がくる、かもしれない2007年10月13日 10時20分00秒

進化や変化というのは、生き物の進化も、社会の変化も、科学文明の進化も、個人の霊的進化も、生物が喜んで、進化や変化したいと意図したからではなく、すべて、その生き物や社会が生き延びるために「イヤイヤ」「仕方なく」起きてきた、というのが、長年進化論を学んで得た、私の結論である。

一つ例をあげると、類人猿から進化したといわれるヒト……

なぜ、われわれの祖先が、四足歩行から二足歩行へ進化したかといえば、それは、今から5百万年前頃のアフリカ大陸で、大規模の地殻変動が起こったせいで、広範囲で、山脈が焼けて草原となったからというのが、一つの大きな要因であったとされている。

つまり、山でのライフスタイルが維持できなくなった結果、類人猿は草原で生き抜くために、「イヤイヤ」二足歩行をせざるをえなくなった、というのが、人類学の一つの定説となっている。

類人猿たちは、「二足歩行のほうが、楽しそうだ。みんなで二足歩行を練習しよう」とか、「進化・成長するために、二足歩行をしよう」ということでは、決してなく、

「今までのように四足で歩いていては、オレたち、死に絶えてしまう、ヤバイ!」という状況だったのである。

だから、類人猿からヒトへの進化をよいことだとするなら(チンパンジーやボノボのままでも、よかったような気もするが)、「アフリカ大陸の地殻変動のおかげで」、類人猿はイヤイヤながら二足歩行へと進化を促されたと言えるのである。

さて、そういう観点で現在人類が共通に抱えている「地球温暖化問題」を考えてみると、ひょっとしたら、今から数百年後に、「地球温暖化のおかげで」と、人類が言う日がくるかもしれないのである。

私が想像する一つの悲観的(かつ楽観的)シナリオとは、

このまま地球温暖化が進み、地球上の氷がどんどん溶けていき、そのせいで地球の半分くらいが住めないような環境になってしまったら……

そのとき初めて、人類は、地球以外に生きる場所を探さなければいけないと、種として、決断し、その決断と危機感のおかげで、光速を越えて移動できる乗り物が発明されたり、ワープ(空間の歪みを利用して、瞬時に目的地へ移動すること)の方法が発見されたりする。

そして、そういった乗り物に乗って、広大な宇宙を探索し、地球と似た環境の星を見つけて、地球より文明が劣っている場合は、そこの生き物を殺すか、食べるか、従属させるかして、そこに地球の植民地を築く。まあ、規模は、違うが、15世紀末のコロンブスの新大陸発見に似ているかもしれない。


今、地球の宇宙開発は始まったばかりで、まだ人類の大半は、本気ではない。それを本気にさせるのは、地球に残っていては、生き延びられないという危機感である。

そのとき、未知の宇宙へ出かける勇気が「イヤイヤ」「仕方なく」わくというわけである。

そして、地球の植民地が宇宙のあちこちにできる頃、人類の歴史書には、「2xxx年に起きた地球規模の大洪水の『おかげ』で、地球の科学文明は、飛躍的に進化し、われわれは宇宙へ飛び出すことができた」と書かれている、かも、です……

参考資料:NHKビデオ「生命40億年はるかなる旅」8集「ヒトがサルと別れた日」(NHKプロモーション)

ほとんど「どん底」2007年10月18日 14時04分50秒

数年前の大ベストセラーに、「下流社会」(三浦展著 光文社新書)という本がある。格差が拡大していく日本社会を巧みに分析したその本の冒頭で、著者は、「下流社会の人々」を次のように定義してみせた。

1.年収が年齢の10倍未満
2.その日その日を気楽に生きたいと思う
3.自分らしく生きるのがよいと思う
4.好きなことだけをして生きたい
5.面倒くさがり、だらしない、出不精
6.一人でいるのが好きだ
7.地味で目立たない性格だ
8.ファッションは自分流である
9.食べることを面倒くさいと思うことがある
10.お菓子やファーストフードをよく食べる
11.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがある
12.独身である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)

これらの定義を読みながら、私は、自分がその中の多くに当てはまることを見て、「おお、私って、世の中の定義でいうと、負け組み下流階級なんだ!」とビックリする。

実は、私は今紹介した定義のように生きることが、人生の快適勝ち組だとずっとひそかに信じてきたわけで(苦笑)……だから、こういう識者の方の話を読んだり、聞いたりするたびに、いかに自分が世間とずれているのかを、思い知らされる。

20代の頃、いわゆる世でいうところの「自分探し」を開始した頃、私は、大人たちや社会の言うことや教えることには多くのウソや欺瞞があると感じていた。その頃感じたウソの一つが、人は社会の中を上昇すれば、するほどほど幸せになる、というものだった。

社会での上昇ゲームとは、おもにお金の量(年収や売り上げ)と高さ(役職と地位)の上昇を意味した。

上昇に成功した人たちも、上昇に失敗した人たちも、そう説いていたが、まわりに本当に幸せな大人なんて見たことがなかったから、上昇が幸福だなどと、私は信じることができなかった。

一方、世の中の価値観を否定しているような宗教や精神世界の団体に関わっても、その中にも、非常に奇妙なことに、世俗の世界の階級と同じような階級というものが存在した。修行やお布施や奉仕や導師の寵愛を通じて、その階級を上っていくのが、その団体での人々の生きがいとなっていた。

私は、つくづく、思ったものだ。人間の志向と嗜好と思考は、世俗にあっても、スピリチュアルにあっても、ほとんど変らないんだと。

怠け者の私は、社会においても、スピチュアルにおいても、努力の必要な上昇ゲームをあきらめ、代わりに怠け者であること許してくれる教えを探すことにした。

長い探求ののちに、ようやく私は、幸いなことに、上昇を志向しない例外的な教えを見つけ、その教えに今は、心から平和を感じている。

その教えを説いたハーディングという哲学者&第一人称の科学者は、「どん底にこそ私たちの本質と平和がある」といい、どこを見れば、その平和などん底があるのか簡単わかる実験を開発した。彼はまた「どん底と頂点は一致する」ことも教えてくれた。

世俗の中の階段を上ることも、スピリチュアルな階段を上ることも多大なお金と時間とエネルギーがかかるものであり、仮に努力の末に頂上にたどりついても、頂上の椅子に坐れる人たちは少数のエリートである。

しかし、ハーディングが言うように、存在のどん底へ落ちるのは、地上の物が重力の力で、努力なく下へ落ちるように、誰でも簡単にどんな努力もいらずに、落ちていけるところがよいところである。存在のどん底とは、実はあらゆる人に広く開かれているのである。

そして、どん底にいながら、平和ボケしない程度に、時々は自分に合った活動で、多少の背伸びをすること=自分にストレスを与ること=人間的個人的上昇ゲームをするのが、まあ、私にとっては一番シンプル快適ライフだと確信している。

最近は、ボケ防止のために、世の中の流行と同じく、脳力上昇ゲームにはまっている。今年は、漢字検定4級までの漢字を全部書けるようにしようとか、フランス語単語を何語まで覚えようとか、本は最低何冊まで読もうとか、ブログを毎週書こうとか、そんなたわいもないゲームである。

で、本日も、少々背伸びをして、このようにブログを書いているというわけであります。

お知らせ
2007年10月21日(日)午後1時より4時30分
ハーディングの実験の会「私とは何かを見る」会 
お申し込み・詳細は下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

不幸と不運のわけ前2007年10月25日 10時18分33秒

先日、ご紹介したラメッシ・バルセカール(邦訳図書「人生を心から楽しむ」)とその師、ニサルガダッタ・マハラジ(邦訳図書「アイアムザット」)の本を読んでいて、私にもっとも印象に残ったことの一つが、「人生における不幸と不運の分け前」という観念である。

彼らは、「あらゆる人には人生の一定の不幸と不運の分け前があって、それが来たときには、それを受け取らなければいけない」と言っている。

最初に本の中でそういう文章を読んだときは、私はある種のショックを受けたものだった。

一般に、精神世界や宗教の本は、幸福と幸運の話だけで、不幸と不運の分け前について語っているものを読んだことがなかったからだ。確かに、多くの人が宗教や霊的教えを求める背景には、もうこれ以上不運や不幸がイヤだから、それを何とかしたいと思う動機があるはずであり、私だってその一人であった。

しかし、ショックを受けたあと、改めて、あらゆる人に降りかかるいわゆる不幸や不運というものを、私はもっとまじめに観察してみた。そして、自分も含めて、人生で知り会ったすべての人には、不幸と不運が(そして、幸福と幸運も)平等に配分されていることに、気づいた。誰一人、幸福と幸運だけが配分されている人はいないということが、人生の事実として、理解できたのである。

そして、悟ったら、幸福と幸運と至福だけというような、宗教界や精神世界に流布しているよくあるうわさとは違って、世の中で言うところのいわゆる「悟った」先生たちにも同じだけ、人生の不幸と不運が配分されていた。

こういう事実を見て、私は、神というのは、映画の名監督で、人が人生映画に退屈しないように、あらゆる人にうまく、不幸と不運を、そして幸福と幸運を配分するものだなあと、変に感心してしまったのである。

そしてあとで人生を振り返ってみると、不運や不幸の中には、幸福や幸運が与えてくれないようなある種の驚きや冒険があったように思えてくる。

たとえばあるとき、私は海外で人生ではじめて、スリの被害に会い、貴重品(現金5万円ほど、パスポート、航空券)を盗まれるという経験をした。しかも、それに気づいたのが、搭乗手続きをするために空港のカウンター前に並んでいたときで、本当にしばらく、パニックになり、どうしたらいいか見当もつかなかった。

が、1分ほどでパニックがおさまり、これは「神の意志」であり、「不運の分け前」なのだと思い起こし、積極的にあきらめて、かつ猛スピードで行動を開始した。まだ数時間の時間があったので、ひょっとしたら見つかるかもしれないと思ったからだ。でも同時に、楽しかったこの町(アムステルダム――スリの多い町として有名なのだそうである)で、新しいパスポートができるまで、もう1週間くらい遊んでもいいなあとも思い始めていた。

まあ結果は奇跡的に、飛行機の出発30分前くらいに、パスポートと航空券だけが出てきて、無事予定通り飛行機に乗れたのだった。ほっとしながら、飛行機の座席に坐って私が最初に思ったことは、5万円程度のお金で不運が支払えてよかったということである。

それ以前なら、私は、自分に不運や不幸が起こると、自分の考えや行動が何か間違っていたのかと分析する習慣があったのが、そのときはそれをやめて、ただ「神の意志による不運の配達」だと受け入れたおかげで、楽しい旅の冒険としてその事件を記憶することができた。

先日もまた、思いもよらない不運、人生ではじめての新種の不運を経験した。

日中の街中、大勢の人前で、私は見知らぬ人にぶたれてしまったのだ。近頃、よくいる突然キレルというタイプの人のターゲットになってしまったのである。私は人生ではじめて、人が暴力をふるうときの目を直視し、その怒りの中に愛情を懇願する切なさを感じた。が、そんな愛情の懇願へどう応えたらいいか見当もつかず、私はぶたれたまま呆然とするばかりであった……神が配達した新種の不運に、私は心から驚いてしまった。