不幸と不運のわけ前 ― 2007年10月25日 10時18分33秒
先日、ご紹介したラメッシ・バルセカール(邦訳図書「人生を心から楽しむ」)とその師、ニサルガダッタ・マハラジ(邦訳図書「アイアムザット」)の本を読んでいて、私にもっとも印象に残ったことの一つが、「人生における不幸と不運の分け前」という観念である。
彼らは、「あらゆる人には人生の一定の不幸と不運の分け前があって、それが来たときには、それを受け取らなければいけない」と言っている。
最初に本の中でそういう文章を読んだときは、私はある種のショックを受けたものだった。
一般に、精神世界や宗教の本は、幸福と幸運の話だけで、不幸と不運の分け前について語っているものを読んだことがなかったからだ。確かに、多くの人が宗教や霊的教えを求める背景には、もうこれ以上不運や不幸がイヤだから、それを何とかしたいと思う動機があるはずであり、私だってその一人であった。
しかし、ショックを受けたあと、改めて、あらゆる人に降りかかるいわゆる不幸や不運というものを、私はもっとまじめに観察してみた。そして、自分も含めて、人生で知り会ったすべての人には、不幸と不運が(そして、幸福と幸運も)平等に配分されていることに、気づいた。誰一人、幸福と幸運だけが配分されている人はいないということが、人生の事実として、理解できたのである。
そして、悟ったら、幸福と幸運と至福だけというような、宗教界や精神世界に流布しているよくあるうわさとは違って、世の中で言うところのいわゆる「悟った」先生たちにも同じだけ、人生の不幸と不運が配分されていた。
こういう事実を見て、私は、神というのは、映画の名監督で、人が人生映画に退屈しないように、あらゆる人にうまく、不幸と不運を、そして幸福と幸運を配分するものだなあと、変に感心してしまったのである。
そしてあとで人生を振り返ってみると、不運や不幸の中には、幸福や幸運が与えてくれないようなある種の驚きや冒険があったように思えてくる。
たとえばあるとき、私は海外で人生ではじめて、スリの被害に会い、貴重品(現金5万円ほど、パスポート、航空券)を盗まれるという経験をした。しかも、それに気づいたのが、搭乗手続きをするために空港のカウンター前に並んでいたときで、本当にしばらく、パニックになり、どうしたらいいか見当もつかなかった。
が、1分ほどでパニックがおさまり、これは「神の意志」であり、「不運の分け前」なのだと思い起こし、積極的にあきらめて、かつ猛スピードで行動を開始した。まだ数時間の時間があったので、ひょっとしたら見つかるかもしれないと思ったからだ。でも同時に、楽しかったこの町(アムステルダム――スリの多い町として有名なのだそうである)で、新しいパスポートができるまで、もう1週間くらい遊んでもいいなあとも思い始めていた。
まあ結果は奇跡的に、飛行機の出発30分前くらいに、パスポートと航空券だけが出てきて、無事予定通り飛行機に乗れたのだった。ほっとしながら、飛行機の座席に坐って私が最初に思ったことは、5万円程度のお金で不運が支払えてよかったということである。
それ以前なら、私は、自分に不運や不幸が起こると、自分の考えや行動が何か間違っていたのかと分析する習慣があったのが、そのときはそれをやめて、ただ「神の意志による不運の配達」だと受け入れたおかげで、楽しい旅の冒険としてその事件を記憶することができた。
先日もまた、思いもよらない不運、人生ではじめての新種の不運を経験した。
日中の街中、大勢の人前で、私は見知らぬ人にぶたれてしまったのだ。近頃、よくいる突然キレルというタイプの人のターゲットになってしまったのである。私は人生ではじめて、人が暴力をふるうときの目を直視し、その怒りの中に愛情を懇願する切なさを感じた。が、そんな愛情の懇願へどう応えたらいいか見当もつかず、私はぶたれたまま呆然とするばかりであった……神が配達した新種の不運に、私は心から驚いてしまった。
彼らは、「あらゆる人には人生の一定の不幸と不運の分け前があって、それが来たときには、それを受け取らなければいけない」と言っている。
最初に本の中でそういう文章を読んだときは、私はある種のショックを受けたものだった。
一般に、精神世界や宗教の本は、幸福と幸運の話だけで、不幸と不運の分け前について語っているものを読んだことがなかったからだ。確かに、多くの人が宗教や霊的教えを求める背景には、もうこれ以上不運や不幸がイヤだから、それを何とかしたいと思う動機があるはずであり、私だってその一人であった。
しかし、ショックを受けたあと、改めて、あらゆる人に降りかかるいわゆる不幸や不運というものを、私はもっとまじめに観察してみた。そして、自分も含めて、人生で知り会ったすべての人には、不幸と不運が(そして、幸福と幸運も)平等に配分されていることに、気づいた。誰一人、幸福と幸運だけが配分されている人はいないということが、人生の事実として、理解できたのである。
そして、悟ったら、幸福と幸運と至福だけというような、宗教界や精神世界に流布しているよくあるうわさとは違って、世の中で言うところのいわゆる「悟った」先生たちにも同じだけ、人生の不幸と不運が配分されていた。
こういう事実を見て、私は、神というのは、映画の名監督で、人が人生映画に退屈しないように、あらゆる人にうまく、不幸と不運を、そして幸福と幸運を配分するものだなあと、変に感心してしまったのである。
そしてあとで人生を振り返ってみると、不運や不幸の中には、幸福や幸運が与えてくれないようなある種の驚きや冒険があったように思えてくる。
たとえばあるとき、私は海外で人生ではじめて、スリの被害に会い、貴重品(現金5万円ほど、パスポート、航空券)を盗まれるという経験をした。しかも、それに気づいたのが、搭乗手続きをするために空港のカウンター前に並んでいたときで、本当にしばらく、パニックになり、どうしたらいいか見当もつかなかった。
が、1分ほどでパニックがおさまり、これは「神の意志」であり、「不運の分け前」なのだと思い起こし、積極的にあきらめて、かつ猛スピードで行動を開始した。まだ数時間の時間があったので、ひょっとしたら見つかるかもしれないと思ったからだ。でも同時に、楽しかったこの町(アムステルダム――スリの多い町として有名なのだそうである)で、新しいパスポートができるまで、もう1週間くらい遊んでもいいなあとも思い始めていた。
まあ結果は奇跡的に、飛行機の出発30分前くらいに、パスポートと航空券だけが出てきて、無事予定通り飛行機に乗れたのだった。ほっとしながら、飛行機の座席に坐って私が最初に思ったことは、5万円程度のお金で不運が支払えてよかったということである。
それ以前なら、私は、自分に不運や不幸が起こると、自分の考えや行動が何か間違っていたのかと分析する習慣があったのが、そのときはそれをやめて、ただ「神の意志による不運の配達」だと受け入れたおかげで、楽しい旅の冒険としてその事件を記憶することができた。
先日もまた、思いもよらない不運、人生ではじめての新種の不運を経験した。
日中の街中、大勢の人前で、私は見知らぬ人にぶたれてしまったのだ。近頃、よくいる突然キレルというタイプの人のターゲットになってしまったのである。私は人生ではじめて、人が暴力をふるうときの目を直視し、その怒りの中に愛情を懇願する切なさを感じた。が、そんな愛情の懇願へどう応えたらいいか見当もつかず、私はぶたれたまま呆然とするばかりであった……神が配達した新種の不運に、私は心から驚いてしまった。
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