「苦痛について(2)」--苦痛を受容する修行 ― 2012年11月05日 10時44分20秒
前回、タデウス・ゴラスの苦痛に関するいくつかのコメントを紹介した。苦痛についての彼の結論、「どんな人も、人生の苦痛は避けられず、苦痛は霊性とは無関係である」は、非常に心に留めておかれるべきことだと思う。
苦痛に関して私たちにできることは、苦痛についての現実的な情報・理解を得ることによって、無意味に苦痛を拡大しないことだけである。デウス・ゴラスが、苦痛をおして、気がそれほどすすまないにもかかわらず、「Love and Pain」 を書いたのは、そういった情報を特に若い世代の人たちに提供したかったからだ(と本人がそう書いている)
私が経験したことから、特に精神的な苦痛について理解しておけば、役に立つだろうと思うことを書いてみたい。
まず第一に、人間としての喜びや苦痛のポイントは、人それぞれまったく違うということである。友人や家族、恋人などの親しい関係でさえ、喜びと苦痛のポイントはまったく異なるのである。若い頃、自分の喜びや苦痛が、他人が感じるものとは異なり、それが実際、ほとんど分かり合えないと知った時は、ある種の衝撃だった。そして、その事実から一つの教訓を得た。「他人の喜びを邪魔したり、批判してはいけない」。そして、「自分の喜びを、他人に押しつけてはいけない」。これを守るだけでも、人間関係の苦痛をかなり減らせるものである。
それから、スピリチュアルを学んだとき知ったことは、二極性の人間世界においては、喜びと苦痛、愛と憎しみ、幸福と不幸、幸運と不運、成功と失敗、獲得と喪失などなど、相反するものはセットでやって来るということである。このことは多くのスピリチュアルな本に書かれているにもかかわらず、私が見てきたかぎり、むしろスポーツ選手とかビジネス系の人たちのほうが、はるかに二極性人間界のルールを本当に理解し、生きているように感じる。成功したビジネスマンやスポーツ選手はみな、「失敗の苦痛なくして、努力の苦痛なくして、成功の喜びはない」ことをよく知っている。彼らが努力という苦痛を厭わないのは、そのことを本当に理解しているからだ。
逆に言えば、人間界の事柄は、苦痛に耐える覚悟と能力のあることだけ、成功し実現し継続でき、その裏側の喜びも味わう確率が高くなるのである。だから、この人間界で何かを達成したい・実現したいと思うことがあれば、「私はその苦痛(努力)に耐える能力があるのだろうか?」と尋ねてみることは、役に立つかもしれない。
「苦痛に耐える」などというメッセージは、タデウス・ゴラスも言っているように、非常に平凡で、人気のない、ツマラナイ教訓のように聞こえるだろうし、私だって、30年前に聞いたら、耳を傾けなかったことだろう。しかし、人間マシンが中年になる頃には、よく言われるように、「人生の知恵とは高くつく=人生の知恵は、多くの苦痛な出来事を通して得られる」ことを、ため息をもって、人は知るようになるのである。
私たちが何をしても人生の苦痛からは、完全には逃れられないという事実――その事実を正面に見据え、賢者の方々の言葉を聴くときに、苦痛がもしやって来たら、それとともに(イヤイヤではなく)意識的に留まる勇気がでる。
ニサルガダッタ・マハラジは苦痛について、こう発言している。
*状況がいかなるものであろうとも、それを受け入れることが可能なら、それは心地好く、受け入れがたければ、苦しいのだ。
*試してみなさい。そうすれば、苦しみには快楽が生み出すことのできない喜びがあることを見いだすであろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導く純然たる理由があるからだ。
*至福は、その気づきのなかにしりごみせず、苦痛に脊を向けないことにあるのだ。すべての幸福は、気づきからやってくる。私たちが意識的であれば、喜びは深くなる。苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐-それらは、深く永久に枯渇しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。(以上、 「アイ・アム・ザット私は在る」より―ナチュラルスピリット発行)
もちろん、賢者がこう言っているからといって、わざわざ苦痛を求めるのは愚かしいことではあるが、苦痛が起こるたびに、意識的に練習することはよい修行である。苦痛な状況なときに、簡単に思い出せるように、最後に、タデウス・ゴラス、ダグラス・ハーディング、ラメッシ・バルセカールの短い言葉も紹介しよう(三人の言葉は、表現は違うが、同じことを言っている)。
タデウス・ゴラス
*何が起きても、私は意識している。
ダグラス・ハーディング
*どんなときにも、自分とは本当に何かを見なさい。
ラメッシ・バルセカール
*起こることはすべて、神の意志である。
苦痛について(3)―ダブルバインド ― 2012年11月28日 16時50分27秒
心理学系の用語で、ダブルバインド(二重拘束)という言葉がある。元々はイギリスの人類学者、グレゴリー・ベイトソンが最初に提唱した概念で、その一般的意味とは、異なる矛盾したメッセージの間で身動きが取れなくなり、行動不能な状態に陥る心理状態のことをさしている。
ダブルバインドという言葉はそれほど日常用語ではないかもしれないが、実は、私たちは無意識のうちにしばしばこの状況に陥ることがある。
たとえば、よくある例をあげてみよう。
*今の仕事もイヤ(苦痛)であるが、仕事をやめるのもイヤ(苦痛)である。
*結婚生活もイヤ(苦痛)であるが、離婚もイヤ(苦痛)である。
*太っているのもイヤ(苦痛)であるが、ダイエットもイヤ(苦痛)である。
*今の人間関係もイヤ(苦痛)であるが、それを失うもイヤ(苦痛)である。
*失業しているのもイヤ(苦痛)であるが、就職するのもイヤ(苦痛)である。
*生きているのもイヤ(苦痛)であるが、死ぬのもイヤ(苦痛)である。
*一人でいるのもイヤ(苦痛)だが、人と一緒もイヤ(苦痛)である。
つまり、何かに関して、今ある現実も辛いが、代わりの現実ももっと辛そうな感じがしたり、Bad(悪い)かWorse(より悪い)の選択しか見えないようなときのことだ。
何かがイヤだという悩みを他の人が言うのを聞くとき、たいていまわりは、次のように思ったり、アドバイスしたりするものだ。
*結婚生活がイヤ(苦痛)→→だったら、離婚すれば?
*今の仕事がイヤ(苦痛)→→だったら、仕事やめれば?
*太っているのがイヤ(苦痛)→→だったら、ダイエットすれば? みたいな。
ところが、こういうアドバイスや意見そのものが、本人には苦痛だ。なぜなら、別の選択が簡単にできないからこそ、悩み苦しむわけで、簡単に離婚できたり、仕事をやめることができたり、ダイエットができたら、そもそも悩む必要もないのである。
そういった状態にいる人をイメージで表すと、A(今いる現実)という場所に片足を接着剤で張り付けて、もう片足で、かなり離れているB(新しい選択)という場所に飛ぼうとしているような感じである。当然、それは不可能なわけで、不可能なことをやろうとしているから、悩み苦しむのである。新しい選択へ飛ぶためには、片足の接着剤がはがれて、足が自由にならなければならない。接着剤とは、A(今いる現実)の中にある何かへの自分の執着を象徴している。
ダブルバインドは、どっちにも落ち着かない宙ぶらりんな苦痛状態で、深刻になると、うつ病的になる場合もあり、さらにもっと深刻になると、悲劇的破壊的な結末になることがある。それは、その苦痛から逃れるために、ダブルバインドを無理やり強制的に解消するときである。
今年よくマスコミで話題となった、いじめが原因とされる子供の自殺は、「今の人間関係もイヤ(苦痛)、それを失って孤独になるのもイヤ(苦痛)」の二重苦で身動きとれない状態の強制的解消であろうし、たまに起こるストーカー殺人・自殺も、「相手が生きているのもイヤ(苦痛)、生きていないのもイヤ(苦痛)」の二重苦からの強行逃避である。
経験から言えることは、ダブルバインドの苦痛を最小にして、静かに穏やかにそれを解消していくには、まず自分が今いる現実からどんな「利益」(物質的利益、自己イメージ、プライドなど)を得ているのか、そして自分がどれほどその「利益」に執着しているのかをていねいに調べ、それを理解し、受容することが重要である。執着(接着剤)と闘ったり、執着している自分や新しい選択ができない勇気のない自分を叱ったり、否定すれば、接着剤なので、もっとグチャグチャになり、もっと苦痛なだけである。
執着を受容すると、接着剤のパワーが少しずつ落ちてきて、時機がくれば、足が自由になる。足が自由になったときは、新しい場所(選択)へ飛ぶことが可能になる――実際は、飛ぶのではなく、新しい場所が自然に近づいてきて、歩いて静かに渡るだけの状態になる。そのときの新しい場所は、ひょっとしたらBではなく、CとかDというまったく考えてみたこともない場所が寄ってくるかもしれないし、あるいは、今いるAという現実がそれほどイヤでもなくなり、そこに新たな気持ちでとどまるという可能性もある。
最終的には、選択する「人」は誰もいず、答えや選択は奥深き自分の本質から出てくるものである。それがいつどのような形で出てくるのかは、予測もコントロールもできないが、(まわりにはどう見えようとも)自分にとって「正しい」答え・選択がやって来たときは、迷いがないというのがその特徴である。
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