「きっと、うまくいく」2014年06月22日 08時31分12秒

きっと、うまくいく」――ある方に、「とても面白い映画です」と熱心に勧められて、先日、見たインド映画のタイトルだ。 見る前は、3時間を超えるインド映画と聞いて、あの歌って踊りまくるボリウッド映画を3時間も見る体力・気力が自分にあるかどうか自信がなかったけれど、見始めたら、これがまた楽しい。あっという間に3時間が終わり、音楽もすごく気に入ったので、翌日にもう一度見たくらいだ。

日本でもヒットしたそうなので、ご存じの方も多いかもしれないが、インドの超難関工科大学の男子学生寮を舞台にそこに学ぶ三バカ(映画の原題は、3 idiots= 三バカ)学生が起こす騒動と彼らの10年後を描いた作品だ。
 
三バカの一人はランチョーという名前の実はハチャメチャな天才で、彼は仲間から「ランチョー導師(グル)」と呼ばれ、知恵とユーモアでいつも難局を切り抜けていく。彼はことあるごとに、「自分の好きなことをすればいい」とAal Izz Wel(=All is well=すべてはうまくいく)  と仲間に説くが、なかなか理解されない。周囲に理解されないばかりか、彼を嫌う保守的な学長に三人一緒に目のかたきにされ、あわや退学寸前まで追い込まれてしまう。

 この映画を見て、若い頃、両親と激しく喧嘩した日々を思い出した。「自分の好きなことをすればいい」VS「子供は親の期待通りに生きるべきだ」の対立は、インドにかぎらず、日本に限らず、今という時代に限らず、あらゆる時代のあらゆる国の若者が抱える普遍的葛藤である。この作品には、大学生の自殺というインドの社会問題も織り交ぜてあるが、日本でも就活がうまくいかなくて自殺する大学生がいるという話をどこかで読んだことがある。どれだけの若者が親や周囲の期待に応えられずに、苦しんでいることだろうか……

私もランチョー導師同様に、今も昔も自分にも他の人にも、「自分の好きなことをすればいい」と気楽に言うが、ただ  「自分の好きなことをすれば」Aal Izz Wel(=All is well=すべてはうまくいく)なのかどうかは、保証のかぎりではない。好きなことをしていても、見た目うまくいかないこともたくさんあるし、お金がまわらない時期もあるし、精神的に苦痛な時期もある。だから、実は、「自分の好きなことをすればいい」は、ものすごくハードルが高いメッセージであることも理解している。

それでもやっぱり「自分の好きなことをすればいい」とあえて言うのは、映画の中で学生の一人が似たようなことを言っていたように、「他人の言うとおりにして失敗すれば、あとで人を憎むけど、自分の好きなことをすれば、人を憎まずにすむ」からだ。 

死に際の「人生の後悔」についての調査によれば、後悔のNo1は、「自分らしく生きなかったこと」で、「何かをやって後悔している」人よりも、「何かをやらずに後悔している」人のほうが、はるかに多いそうである。だから、「自分の好きなことをすれば」、人生への後悔が減り、(人には憎まれるかもしれないが)人を憎まなくてすむという意味では、確かにAal Izz Wel(=All is well=すべてはうまくいく)である。

さて、ラメッシが亡くなってからインドへの思いと熱もすっかり冷めてしまったが、「きっと、うまくいく」を見てヒンズー語の音楽を聴いていたら、インドへの郷愁にひどく駆られてしまった。そして、インドに滞在していたときに「中毒」していたマサラドーサを突然に思い出し、どこかへ食べに行こうと思いたった。インドまで行くのは無理そうだけど……。

[イベント]

*2014年7月21日(月曜日─祝日)午後 「私とは本当に何かを見る会」(東京)
*2014年7月27日(日曜日)午後 「私とは本当に何かを見る会」(東京) 
http://www.simple-dou.com/CCP006.html




広島訪問―平和について2013年04月06日 07時59分28秒

先日、ワークショップのために、広島市を訪れた。広島の街を歩くのは初めてなので、ワークショップのついでに、グルメと観光も楽しんできた。

宿泊ホテルの近くに平和記念公園があり、朝、広大な敷地の中を散歩して、心地よかった。平和記念資料館にも立ち寄り、広島市と原爆投下の歴史もざっと知った。昭和20年とは違って、現代では狂気の沙汰と思えるほどの数の核兵器が、地球上に埋っている。万一どこかの気が狂った政治家かテロリストが、一回でも核兵器のボタンを押せば、それは使った国でさえ滅びる全地球の終りを意味している。ある意味では、核兵器とは、「実際は使えない子供のオモチャ」のようなもので、幼稚なマインドだけが、それを保持していることを誇るんだなあと、記念館をまわりながら、そんな印象をもった。

広島では外国人観光客も非常に目につく。原爆ドーム、宮島などで、各国の観光ツアーや個人で旅行している外国の人たちをたくさん見かけた。「ヒロシマ」は平和国家日本のブランドであり、そのブランドを見ようと、大勢の人たちが訪れるのだ。

広島にかぎらず、日本の地方の街はどこも観光と旅にピッタリである――街は清潔、インフラは整備されている、何を食べてもおいしい、人は親切、そして、安全・平和である――世界の中でも観光と旅にこれほどピッタリの国はないと、私はいつも日本を称賛している。そういう意味において、私も安倍首相と同じくらい愛国的だ。日本政府がお金を出して、世界中の有能な若者たちを大量に日本に留学・遊学させ、日本の素晴らしさを体感してもらえば、防衛力強化よりも、日本の平和にはるかに貢献するのではないかと思っている。

さて、先日のワークショップで、ある方が、「平和というと、何か、事なかれ主義のようなイメージがあって、あまりその言葉にいい印象をもっていないのですが、平和とは本当はどういう意味ですか?」という趣旨のご質問をされた。

平和を、事なかれ主義や何事にも受け身で関わらないと解釈するのは、まったくの誤解だ。現象的な意味で言えば、平和とは、必要なことに関わりながら、起こることに対して、できるかぎり平静でいることである。

それから本質的な意味で言えば、太古の昔から、「刀もそれを切ることができず、火もそれを燃やすことができず、水もそれを沈めることができないもの」(現代なら、原爆やピストルもそれを破壊することができない、と付け加えるべきだろう)と言われてきた、私たちの本質の絶対的平和である。

「平和」という言葉は、しばしば、「平和への願い」「平和への祈り」という形で使われ、広島でも時々それを目にした。もちろん、この言葉がこの地で使われる意味合いを私は理解しているが、しかし本当は、平和とは、願ったり、祈ったり、あるいは守ったりするものではなく、一人ひとりがそれを今ここに発見して、生きて・実践するものだ。

賢者の方々が世界(の平和)への貢献について、共通して言うことがある。それは、「自分とは何かを発見すれば、自分は世界であることがわかり、それが世界(の平和)への最大の貢献である」というものである。

私はこの言葉をいつも胸に刻んでいる。

[伝言]
ニサルガダッタ・マハラジのPrior to Consciousness(意識以前)は、出版時期は未定ですが、ナチュラルスピリット社より刊行予定です。Robert Adamsの情報については、下記の公式サイトに出ています。http://www.robertadamsinfinityinstitute.org/

[お知らせ]
*2013年4月28日(日曜日)「私とは本当に何かを見る会」(東京)
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html




お金を使う能力2013年03月03日 08時59分46秒

お金に関する基本的三つの能力、

*お金を稼ぐ能力
*お金を貯める能力
*お金を使う能力

以上の中で、一番重要な能力は、「お金を使う能力」であると、私はそう思っている。特に現在のようなデフレの時代、別の言い方をすれば、金回りの悪い時代には、いっそうその能力が必要とされている。しかし、世の中ではほとんどの人たちが、「お金を稼ぐ能力」が一番大事だと信じているようであり、またお金を使うには能力は必要なく、お金さえあれば、誰でも簡単にお金を使うことができると思っている。

その誤解がどこからくるかといえば、多くの人が「お金を使う」とは、単に「お金を支払う」ことだと思っていることによる。「お金を使う」とは、本当の意味は、「お金を払ったものの価値を理解し、払った金額の対価を受け取る」ということである。だからお金を単に支払っただけでは、本当は、「お金を使った」ことにはなっていない。

たとえば、お金と時間があれば、誰でも値段の高いクラッシックのコンサートに行ったり、高級レストランで食事をしたりすることはできる。しかし、もしその人に十分なクラッシック音楽の鑑賞能力とかグルメ力がなければ、払った金額の半分も対価を受け取れないかもしれない。

反対に、2千円の本を買って、その本を何回も読めば、あるいは百円ショップで買った百円の品が非常に役立てば、それは支払った金額に対して対価をたくさん受け取ったということで、ビジネスの世界では、こういうことを「対費用効果が高い」という言い方をする。

お金を支払ったのに、対価を受け取れなかったものを、私は「不良債権」と呼んでいて、現在はどこの家庭にも不良債権があふれている――食べずに捨てた食品、買ったけど、ほとんど着ていない洋服、使わない食器、読まない本、聞かないCD、高い割りには使えないパソコンソフト等々。あるいは、自分にヒットしなかった映画、コンサート、セミナー、ワークショップ、途中で挫折した講座や学校など。

もちろん、誰の生活においても、以上のような不良債権をゼロにはできないものだし、お金を使うことに関して失敗してみないと、「お金を使う」能力は向上しないので、ある程度の不良債権はいたしかたないものである。

なぜ、私がお金を稼ぐ能力よりも、お金を使う能力のほうが大事かという結論に至ったかといえば、お金をたくさん稼いでも、お金を使う能力がないせいで、貧しい感じの人たちがいたり、反対にお金をたくさん稼がなくても、豊かに暮らしている人たちがいたりすることを、長年の間にたくさん見聞したからだ。世界中には極端な話、お金を稼がず使わず、豊かに暮らしている人さえいる―そういう生活を実験した記録、「ぼくはお金を使わずに生きることにした」マーク・ボイル著 紀伊國屋書店)という本が、数年前に日本でも翻訳出版されている――この本を読んで思ったことは、お金を稼がず使わない生活は、お金を稼ぎ・使う生活よりも、はるかに大変な能力(と体力)がいる、ということである。

それから、お金を稼ぐ・貯める・使うに関して思うことは、稼ぐことは一番個人の自由がない。つまり、それは非常に多くの要素――時代の景気と変化、(会社の)業績、天気、災害、自分の運、縁、そして神様の気まぐれ(笑)などなど――が複雑に絡み合って、必ずしも自分の能力だけでどうにかなるものではない。しかも、現在、日本銀行券をたくさん手に入れている人でも、未来にわたってそれが保障されているわけではない。それに比べれば、お金を使うほうは、今もっている範囲のお金を使うということであれば、どう使うのか、何に使うのかは、かなり個人の自由があり、自分にとって楽しいものに使えば、その瞬間に喜ぶことができる――おいしいものを買って食べるなど。

だから、私がお金を使うときに、いつも問いかけることは、「私はこれを買って(これに支払って)、楽しむことができるだろうか?」「長期的に使えるだろうか?」「対価を受け取ることができるだろうか?」ということである。そう問いかけていくと、私の経験では、不良債権はしだいに少なくなって、使ったお金が有効に生きているという実感がしてくる。

あるいは、漠然と「お金をもっと欲しい」と思うときがあれば、「私はそのお金を使う能力があるだろうか?」「私はそのお金を使う具体的用途をもっているだろうか?」と問いかけてみれば、たいてい、その「欲しい」は、「不安」から出てきていることに気づくかもしれない。

私と同じく金持ちでも貧乏でもない、ごく普通の経済状態の方々のために、誰でも実践できるデフレ時代の楽しいお金との付き合い方をまとめれば、

*自分が使うお金の対費用効果を高めるようにする。また持っている物はなるべく使うようにし、不要なものは、断捨離し、家と心の風通しをよくする。

*家庭内の不良債権を減らす。
*(節約・倹約だけだと、エネルギーが収縮して、ストレスがたまるので)、ときには、自分が本当に好きな物(事)や新しい経験のためにお金を散財して、楽しむ。
*余裕があれば、無償経済にも参加する。
*お金に関しては、迅速、正確、明確を心がける。

最後の「お金に関して迅速、正確、明確」は、父から教わったことで、これを実践していれば、人生において金銭トラブルをほとんど免れることができることを理解した。他のことは、父の言うことをほとんど聞かなったにもかかわらず、「金はさっさと払うもの、時間はきちんと守るもの」という父の教えだけはなんとか守るように努力できたのは、遺伝の力であり、父に非常に感謝している。

ビジネスの世界、スピリチャル系の団体や個人でさえ、お金に関して必ずしも「迅速、正確、明確」ではないことを、20年間の出版ビジネスの間によく経験し、ここでもまた驚くことが多くあった。今でも、90年代の初期に取引したあるスピリチュアル系の会社とのやり取りを思い出すことがある。その会社は本をたくさん買ってくれて、それはありがたかったのだが、支払い期日を数カ月すぎても、お金を一円も払ってくれない。いつ督促の電話をしても、「本日、経理はいません」「本日、社長はいません」の対応である。半年が過ぎたとき、さすがに私もブチ切れて、会社に乗り込んで、「お金を払いなさい」と、無理やりお金を出させて、借金を回収したのである。そのときは非常に不愉快な経験であったが、いざとなったら、自分は借金取りの役(笑)もできると、奇妙な自信がついた。

その会社の社長さん(お金をたくさん稼ぐ能力があるのに、お金を使う能力がなく、貧しい印象を与える典型的な人だった)、金銭トラブルとかでその後も週刊誌やネット上で、何度かお名前を見かけたので、何年たっても、まったく体質が変わっていないんだと思ったものだ。

[お知らせ]
*2013年3月23日(土曜日)「楽しいお金ワークショップ」(広島市)
詳細は下記へ
http://www.simple-dou.com/CCP037.html
 
*2013年3月24日(日曜日)「私とは本当に何かを見るワークショップ」(広島市)
詳細は下記へ
http://www.simple-dou.com/CCP038.html
 
 
*「バーソロミュー―大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ」が、ナチュラルスピリットより再刊されました。目次等の詳細は下記へ。
http://www.simple-dou.com/CCP039.html
ナチュラルスピリット
http://www.naturalspirit.co.jp/
*「1994年バーソロミュー・ワークショップ・試聴版MP3ファイル(東京会場)(京都会場)」が、下記のサイトより無料ダウンロードできます(1ファイル140MB録音時間約76分―ダウンロード時間はパソコンの性能にもよりますが、数分くらいです)
http://www.simple-dou.com/CCP010.html






デフレ―成功の代償2013年02月19日 11時24分01秒

今回の自民党政権は、前回病気で首相の座をおりた安倍首相と前回リーマン・ショックのあとの貧乏くじを引いた麻生財務大臣が中心になっているせいか、お二人とも前回の汚名挽回とばかり、特に経済に非常に気合が入っていらっしゃるようだ――「危機突破内閣」などという勇ましい名前までついている。

安倍さんは、まるで「デフレ」が敵であるかのように、「デフレ克服」を経済政策の第一目標にしている。しかし、私はよく思うことがある。そもそもデフレがそんなに悪いことか?と。確かに今はデフレ(つまり、物・サーヴィスの量がたくさん出まわっているので、価格が安い)であることが実感できる日々であり、ありとあらゆる物がかなり安い値段で手に入り、それにはよい面もたくさんあるはずだ。私自身は、無料でソフトや情報を使えたり、物にたくさんのお金を使わずにすんでいることを、いつもありがたく思っている。

それから、お金を上からばら撒けば(こういうお金を「ヘリコプター・マネー」と言うそうである)、それが景気回復に効果があるという考え方にも、疑問をいつも感じている。実際、90年代以後、歴代の政権は大なり小なり、デフレ対策をやってきた。つまり、世の中にお金をばら撒いてきたにもかかわらず、それはほとんど効果がなかったのである。麻生さんだって、前回首相のとき、国民給付金だったかで、国民に「ヘリコプター・マネー」をばら撒いたけど、デフレ克服には何の効果もなかったことは、明らかである。政府が、デフレ克服、景気回復のために(ほとんどが無駄に)ばら撒いたお金が、積り積って膨大な国家の借金となっているわけである。

日本のデフレ状況は、一つの原因だけでなく、1990年代以後の様々な日本社会の複合的状況の結果と必然的潮流であり、デフレの主だった原因を、列挙してみれば、

1生産年齢人口の減少(つまり、日本社会の老化)によって、日本人の物・サーヴィス消費能力(消費体力)が落ちている。

2技術革新によって、物を大量に安く生産することが可能になり、またアジア各国からの安い製品が大量に輸入されている。

3インターネットの普及による無料経済の拡大

4消費能力(体力)のない世代が、一番資産をもっている。

1の話は、以前に紹介した、「デフレの正体」(藻谷浩介著 角川新書)に詳しいが、これが日本社会のデフレの第一原因であることは、経済学者でなくても、誰にでも簡単にわかる話だ。要するに、国家・国民の老化によって、国家・国民全体の消費能力(消費体力)が落ちている。一般に、働いている人たち(若者・中年世代)は、引退した老人たちよりたくさん飲食することができ、物と経験への欲望に満ち、老人たちよりはるかに消費能力(消費体力)をもっている。国家も、発展途上のときは、より豊かな生活をめざして、物を買う意欲と体力に満ち(日本でいえば、1960年代、70年代、80年代の頃)ている。だから、若者が多い発展途上の国々は消費能力(消費体力)が高いといえるわけである。実体経済=国民の消費能力(消費体力)なのである。

しかし、現在の日本はどうかといえば、物や経験を買う消費能力(体力)のない老人たちが増え、しかもその老人世代が一番たくさん資産をもっている。そして、物質的には、ほとんどの国民がすでに豊かに物をもっているし、物は家々の中であふれかえって、その処分に困っているのが実情である。

以上の1、2、3は日本社会の止められない流れであり、4の問題もお金を使うことに対する個人の考え方の問題なので、節約・倹約世代にお金を使わせることは至難である。総合的にいえば、日本のデフレとは、戦後日本の経済と技術と医学が「あまりに成功しすぎた」代償ということであり、だから、自分たちの成功を認め・喜び、その代償を受け入れるしかないのでは、と思うのである。政府が何かをやればやるほど、「泥沼」、そんな感じである。

そんな日本の状況の中で、安倍さんは歴代の政権がやって失敗したことを、もっと制限なくやろうとしているわけである。(安倍さんが提言している政策は、安倍=アベとeconomics=経済学をかけた「アベノミックス」と呼ばれている)。

「アベノミックス」とは何をすることかといえば、世の中に出まわる通貨(円)の量を増やして、通貨(円)の価値を下げ、インフレ(アベノミックスでは2%の物価高が目標)を起こすことである。そして、どうやって通貨の量を増やすかといえば、日本銀行に日本銀行券を印刷させて、それで国債を買わせ、政府は公共事業などを通じて、国民と企業に金をばら撒くという方法である。

「贋金」を作って(安倍さんがやろうとしていることは、いわば、そういうことである)ばら撒き、円の価値を薄めて、偽景気回復をやろうとすることは、体力がない老人を薬でかろうじて元気にするようなもので、その薬の効果が切れたときの反動が恐ろしい。

たぶん、短期的には、「アベノミックス」のおかげで、円安、株高にはなるだろうし、公共事業関係は潤うだろうから、そういう世界に関わっている一部の頭のいい人たちはお金を儲けることができるだろう。しかし、大多数の国民にとっては、円安と消費税増税による物価高と実質所得の減少で、景気の悪化をもっと実感する時代が予想される。危機突破どころか、さらなる危機突入の可能性も大である――とはいえ、前回紹介した坂口さんのいう「革命」(ゼロ円革命)にとっては、さらにふさわしい時代となるだろうけれど。

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「バーソロミュー―大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ」が、ナチュラルスピリットより再刊されました。目次等の詳細は下記へ。
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人間は「貨幣」という考え方2013年02月05日 09時35分35秒

(2013年は最初何回か、経済から話題を拾っていく予定です)

先月の新聞に、今非常に先鋭的な活動をしている建築家、坂口恭平さんへのインタヴュー記事が掲載されていて、それを興味深く読んだ。(朝日新聞1月10日号記事――才能の交易こそ新しい経済 総理大臣としてゼロ円革命)

彼は、熊本に「新政府」を作って首相になり、そこに東日本大震災の被災者の人たちを無料で泊めたり、自分の携帯電話番号を公開し、「死にたくなったら『いのちの電話』へ」という活動をやったりしているそうである。

「無償の活動って、大変でしょう?」と言う人たちに対して、彼は、「これは金稼ぎだから、金がチャリチャリ自分のところに来ると思えば、うれしいし、無償の贈与って、豊さの象徴でしょう。だから、自分がやっていることは相互扶助とか社会貢献とか善意ではなく、ただ自分が楽しいからやっている創造行為です」という主旨の返答をしている。

彼の主張は、「人間は貨幣であり、次の経済は、人が円に代わり、人集めとお互いの才能の交易こそが、経済の主流になる」というものだ。

彼の主張、「人間は貨幣」は、突飛に聞こえるが、実はテレビ業界、広告業界では大昔から使われている考え方であり、現代ではネット広告・検索企業も大々的に使っている手法である。つまり、テレビ業界・広告業界、ネット広告・検索企業は、たくさんの人の気(エネルギー)を集めることで成り立っている商売である。「人間は貨幣」はまた、私が「楽しいお金」の中で述べた「お金の本質は人間のエネルギー」を、言い換えた表現でもある。

私たちがテレビを見ているとき、たとえ無料のテレビ番組でも、私たちはテレビという「集金機」を通じて、自分のエネルギーをテレビに出演している人たち、広告を出している企業、広告産業に差し上げている。テレビ業界の人たちが視聴率に一喜一憂するのは、たくさんの人が番組を見れば見るほど、人の気(エネルギー)が「集金機」を通じて集まる、つまり、金が儲かるからだ。(ついでに言えば、こういった無料のブログも同じことである――読んでいただいている皆さんには、「関心」というマネーを払っていただいて、感謝である)

だから、坂口さんの主張は昔から一部の業界で使われている考え方を、新たな発想で提出しているというわけである。どこが新しいかというと、今までの社会は、才能がたいしてない(と思っている)大多数の人たちが、才能のある(と思われている)ほんの一部の人たちを賞賛する(=「関心」という名のマネーを過剰に支払う)という一方的アイドル化が行われてきたが、これからの社会では、あらゆる人が自分のもっている才能をお互いに交易しましょう、というものである。彼の呼びかけは、「そこにいる死にたい気分のやつよ、死にたくなったら、まず俺のところへ電話して。そして少し元気になったら、お前も何かできることをやれよ。お前にだって、何か一つくらい好きなことややりたいことがあるだろう」という感じだ。

彼は自分の活動を「ゼロ円革命」と名づけ、日本銀行券という種類のお金に支配され、マインド・コントールされてきた今までの枠組みからの脱出を過激に呼びかける。しかし、坂口さんも別に日本銀行券を否定しているわけではなく、日本銀行券という目に見えるお金は、お金の形態のone of them でしかなく、その日本銀行券をたくさん集める(つまり、金儲けがうまい)のも才能の一つであるが、その才能もone of them でしかないということを言いたいわけである。one of themでしかないのに、お金を稼げるかどうかで、社会のヒエラルキー(階級)を作ることを否定しているのだ。

念のために言えば、私自身も日本銀行券は嫌いではないし、その魅力と魔力を十分に知っている――私は、買い物するとき、あんな20円の紙切れ一枚(一万円札の製造コストは20円くらいだそうである)で、山ほどの物が買えるのを見るとき、その日本銀行券を眺めて驚くことがある―いやいや、これはマジックだなと。

お金(貨幣)とは、元来は、人々が自分の労働で生み出したものを、お互いに交換するための媒体として創造されたものである。だから、本当は、お金よりも、人間の労働とその労働が生み出したもののほうが、お金(貨幣)よりはるかに価値があるのだ。それを忘れて、媒体のほうが、人間よりも偉くなり、人間はその奴隷のようになっていることが、現代世界がかかえるみじめさの一つである。

そのみじめさから抜け出せるかどうかが、坂口さんのいう「革命」でもあると思う。日本銀行券にひれ伏さず、同時に日本銀行券とは現実的につき合い、日本銀行券をたくさんもっている人は、楽しく自分と他人のために使い、日本銀行券をたくさんもっていない人でも、自分の才能・能力や労働を提供することができる。仮に無職で無一文だとしても、その人にはまだ一番貴重なもの、「意識」と「呼吸」が与えられている。彼の言う「革命」は、決してハードルは低くはないが、実行できないほど困難ではない。

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石原さんのトラウマ2012年12月18日 13時56分55秒

いつだったか日本維新の会代表の石原さん(前東京都知事)が外国人記者クラブかどこかでインタヴューを受けている映像を見たことがある。そのとき彼は、「日本が、国際的な発言力をもっていないのは、核兵器をもっていないからだ」と自分の持論というか本音を述べていた。

石原さんを見ると、父を思い出すことがある。父が生きていたころ、世の中の事件や国際政治について、父が言うコメントや意見は、ほとんどいつも石原さんとそっくりだったからだ。生き方も人生も人格もまったく違う二人のコメントが似ていることに気づいて、その思考ルーツがどこにあるのか興味をもったことがある。そして、なぜ父が、自分の故郷を空爆で焼け野原にし、広島・長崎に原爆を落としたアメリカを嫌ったり、憎んだりしないのか、それがずっと不思議で、あるとき父にそのことを尋ねたことがあった。

すると父は、単純にこう答えた。

「日本がアメリカに負けたのは、日本が弱かったから仕方なかったのだ」

愛国青年だった父が青春をかけて戦った戦争が無に帰した昭和20年の敗戦は、生涯消えることのないトラウマを父の心に残し、父はそれ以後世の中の現象、特に政治的事柄を「アメリカは強い・中国(と韓国とその他共産国家すべて)は悪い」「強いことはよい・弱いことは悪い」という思考パターンを通してしか見ることができなくなった。非常に読書家で物知りであったにもかかわらず、物事には別の見方もあることを断固受け入れなかった。

石原さんは私の父より8歳くらい年下なので、戦争には行かなかったはずであるが、それでもかなりの愛国少年であっただろうことは想像できる。彼のコメントのはしばしにあらわれる「中国(と韓国とその他共産国家すべて)が嫌い」「強いことがよい」のニュアンスから察するに、彼もまた昭和20年の敗戦のトラウマを引きずって生きてきた人のように感じられる。

それから、先月読んだどこかの新聞に、石原さんの人生の最後の夢というか野心について書かれてあった。それは、「自分が生きている間に石原家から総理大臣を出すこと」なのだそうである。息子が自民党総裁レースで負けて、息子にその夢を託す可能性がなくなったと見るやいなや、都知事の職を放棄してでも、「夢をもう一度」で、国政に打って出たというのがホンネのホンネらしい。石原さんにとっては、個人的野心や夢をもつことは長生きするためにはいいことだろうけど、原則脱原発の橋下さんと、核兵器・原発大好きな石原さんが組んだ先にあるものは、今の民主党の姿、つまり、いずれ分裂か崩壊であろう。

さて、今年読んだ数少ない本の中で、「NYPDNo1ネゴシエータ最強の交渉術」(ドミニック・J・ミシーノ著 フォレスト出版)という本がある。NYPDとはニューヨーク市警のことで、著者はここで長年人質事件のプロフェショナルとして活躍した人だ。アメリカの人質交渉人の世界というとハリウッド映画のように派手なドンパチの世界というイメージがあるが、しかし、超一流の交渉人の世界はまったく別なのである。つまり、超一流の交渉人とは、武器をできるだけ使わずに、言葉で犯人を説得して、しかも死人やけが人をできるだけ出さないで事件を解決する人のことなのだ。

数々の難事件を解決してきた著者は、その極意を本書の中で語っていて、それをいくつか紹介すると、

*言葉こそ銃にまさる最高の武器
*(犯人に対する)誠実さと共感―礼儀と敬意が重要
*自尊心に囚われると失敗する

という、普通の人たちが考えるものとはまったく異なるもので、決して石原さん流の「そこの悪いやつ、こっちは大量・強力の武器をもっているから、さっさと降参しろ。さもないと攻撃するぞ」ではないのである。これをやるのは三流動物交渉人で、その結果はたいてい、(ハリウッド映画のように)たくさんの死体が転がることとなる。

日本を三流動物交渉人国家にしようと、80歳を超えて、トラウマに駆り立てられ暴走している石原さんは少々痛ましい。自らを日本国と一体化している石原さんはまた、誰よりも日本の老いと弱体化を自らの老いとリンクさせて感じていらっしゃるのだろうが、しかし、誰が叫ぼうがわめこうが、政権が変わろうが、自衛隊を国防軍にしようが、憲法を変えようが、(人口比に対する老人の割合が増え続けるかぎり)、国家の老いから来る弱体化は誰にも止められない。

で、「わけのわからない多くの党から選ぶのが面倒」「不安定がイヤ」で、「安定している自民党にイヤイヤながら回帰」した今回の選挙は、日本国の選挙民の高齢化がすすんでいることを物語っている。

[お知らせ]

「瞬間ヒーリングの秘密-QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し」(フランク・キンズロー著 ナチュラルスピリット発行)が、発行されました。目次等は下記サイトをご参照ください。

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☆「1994年バーソロミュー・ワークショップ・試聴版MP3ファイル(東京会場)(京都会場)」が、
下記のサイトより無料ダウンロードできます(1ファイル140MB録音時間約76分―ダウンロード時間はパソコンの性能にもよりますが、数分くらいです)

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「結婚」40年目の日中夫婦関係2012年09月25日 13時27分30秒

日本と中国の国交化40周年の節目の時期に、両国の関係が大荒れしている。人間に例えれば、結婚40周年に、夫婦が大ゲンカをしているようなものだ。

日中夫婦は価値観や文化・感性が非常に異なる者同士の「結婚」で、普段もとりわけ仲がいいわけではないが、それでも過去40年間、経済的にはお互いを支え合い、お互いの経済的繁栄に寄与し、今では相手なくしてはほとんど生活できないほど密接な夫婦となっている。

その証拠が日本にあふれる中国製品と中国にあふれる日本製品である。つまり、経済的には非常に深くお互いが相手国へ浸透してしまったということである。

ところが、それ自身一つのシステムである国家は、本当は他国の文化や製品が自国システムに侵入というか浸透することは、システムの独自性を維持するという観点から見れば、あまり好ましいことではない。過度に影響を受け続けると、自国システムが分解・崩壊する危機があり、だから、国家間は親しくなりすぎないように、時々、問題が起きるようになっているのである。

問題が起きると両国の国家主義的意識が目覚め、「私たちは本当は、絶対的に違う存在であり、私たちは絶対にあなた色には染まりませんから」と、お互いの分離と独自性を相手に宣言せざるをえないのである。

これは恋人や夫婦、親子のような人間関係にもよくある話で、お互いが親しくなって、もっと親しくなろうとするときに、何かの問題や不和や諍いが起きて、「自分と相手は本当は全然違う存在であり、お互いに理解しがたい」ということをイヤというほど知らされることがよくある。それも人間システムが自己システムを守るためのある種の免疫機能のようなもので、だから親しい関係には「苦痛」がともなうのである。

システムは絶対に他のシステムとは一つにならないというか、なれないのであり、私たちのまわりにある机、椅子、パソコン、プリンターなどの物システムや様々な人間システムが決して現象的には一つにはなれず、一つになれないゆえに、システムとして独自に機能しているように、人間システムも国家システムも他人や他国とは決して一つにはなれないのである。

それを無理やりやろうとすれれば、その時に起こるのは「衝突」であり、人間マシンが机にぶつかれば、苦痛を感じるように、国家間システムもあまりに近づきすぎ、浸透しすぎれば、それは「苦痛」となる。

二国間の関係においては、経済的に貧しく不自由な国のほうが、経済的に豊かで自由な国の影響をより大きく受けるのが原則である。日本と中国の場合、中国が日本に与えてきた影響よりも、日本が中国に与えてきた影響のほうがはるかに大きいゆえに、二国間に何か問題が起きれば、中国の人たちのほうがその苦痛に過剰に反応するのは当然のことである。今回の中国での反日暴動は、「まだ日本が中国よりも経済的にはるかに豊かで有利な立場にいる」ことを、はからずも証明したというわけである(今から数十年後には、立場逆転ということもありえるかもしれないが)。

そしてパソコンのシステム同様に、国家システムは何らかの脆弱性を抱えるのが常である。現在の中国システムの脆弱さは、システム内部に経済的繁栄に見合う活動・表現の自由がないことと、途方もない経済的格差が存在することであり、日本システムの脆弱さは、システムの老朽化、つまり「老い」である。

日本と中国の軋轢は、「相手のシステムが浸透しすぎました」という免疫機能からの警告のようなものであり、お互いのシステムが自らの脆弱さを認識したということである。しかしどれだけケンカしても、日中夫婦は、離婚は無理だろうから、「仲良し」の時期と免疫機能による疑似「戦争」期を繰り返しながら、これからも末永く経済的結婚を続けることであろう。

日本ではまた政治スポーツの季節が始まろうとしているが、こういう時期にふさわしい指導者は、軍人系で日本の国家免疫部長のような石破さん(自民党総裁候補)あたりだろうか……




テストステロン(オス・ホルモン)中毒2012年07月23日 09時21分43秒

皆様、暑中お見舞い申し上げます。(8月は都合でブログをお休みします)

どこかの県の中学校で昨年起こった、イジメが原因とされる自殺が、今頃マスコミで大きく報道されている。

私は、学校でのイジメ問題が起こるたびに、その当の学校の校長や教育委員会の人たちの発言、「イジメはなかったと認識している」みたいな発言にいつも驚く。人が集団で毎日集まる場所(学校、職場、家庭等)では、どこでもイジメが起こる可能性があるし、特に中学校では、ほぼすべての学校で、私が子供だった頃も、現在も、大なり小なりイジメが起こっている。

ほとんどの場合は、たぶん、暴力ざたにならない程度ですんでいるか、イジメられている子供が孤独に必死に耐えているか、耐えられない場合は、他の学校へ転校するかして、表ざたにならないだけである。

イジメはめったに起こらない特殊なことだと学校関係者が思っているかぎり、毎回毎回、「イジメはなかったと認識している」と馬鹿の一つ覚えの発言を繰り返して、自分たちの無能さをさらけ出す羽目となっている。

なぜ教育関係者そして親たちががイジメに対して無知無能かといえば、彼らがヒトという生き物が子供から大人まで、どれほど本当は闘争的か、他者をコントロールして優位な立場に立ちたいという願望にどれほど駆り立てられて生きているか、知らないからだ。学校の教師はいつも生徒をコントロールして、自分のパワーを感じたいと思っている。親はいつも自分の子供をコントロールして、パワーを感じたいと思っている。そしてまた、教師同士、親同士も、コントロール・ゲームをしている。こういった自分たちの中にもある闘争本能を理解しないかぎり、子供同士のイジメのメカニズムも理解できないはずであろう。

「闘争本能」それ自体は、ヒトの肉体に生まれつき備わっているもので、それそのものが悪いわけではないが、それがヒトの自我(エゴ)とタイアップして、他人を踏み台にして、自己存在感を高めようとするとき、他者へのイジメという形でしばしば現れる。

その闘争本能をつかさどるホルモンが、テストステロンと呼ばれているオス・ホルモン(男性ホルモン)で、小学生高学年から中学生頃の思春期に、特に男の子の体の中で大量にそのホルモンが出始めることが知られている。

テストステロン(男性ホルモン)の作用というのは、日常用語的に言うと、「自分の中のエネルギーを外側に発散して、自分のパワーを感じたい」という衝動であり、sexはその衝動の一番有名な表現である。


学校という場で許されるテストステロン(ちなみに、このホルモンは女性の体の中にもある)の表現は普通、勉強、スポーツ、芸術とほぼ三つの分野に限られていて、この分野でテストステロンの衝動をうまく昇華できる子供たちは、学校という場で、それなりの居場所を見つけて、自分の存在にある程度自信をもつことができる。

しかし、すべての子供たちがテストステロンを無害に昇華できるわけではなく、学校の方針や教師の教え方が自分に合わないなどの理由で、不安や退屈や苦痛を感じている子供たち、あるいは、何らかの事情でひどい心理的ストレスをかかえている子供たちは、ほとんどの場合、人間関係の中で、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとする。

イジメている子供たちには、自分たちが悪いことをしているとか、自分たちがイジメているという認識はほとんどないはずであり、ただあるのは、「どうだ、オレがどれほど強いか、わかったか」みたいなテストステロンの衝動による自己存在の確認だけである。

そしてイジメられている子供も、多くの場合、イジメられていることを否定するのは、「イジメられている」ことを認めると、「自分は弱い存在である」ことを自分でも認めることになるからだ。子供の自殺というのは、自分のパワーの最後の証明とある種の「復讐」の意味合いがあるのではないかと、私には感じられる。小学中学生の頃のすべての子供たちは、切ないほど、自分の存在(パワー)を他者に認めさせたいと思っている。

学校でのイジメの問題に対しては、大人が考える解決法よりも、子供たち全員に問題を考えさせ、解決法を自分たちで創造させるのが本当は一番効果があるだろうと私はそう思っているが、学校関係者が自分たちの保身や無能さのために隠し続けると、いつのまにか大人の世界の(動物的)政治問題になってしまい、問題がスパイラルに膨れ上がって、もう誰も止めることができない状態になる(以前紹介した「ハインリッヒの法則」が当てはまる)

さて、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとするのは子供だけでなく、一生この動物的闘争に中毒する人たちもいる。「国民の生活が第一」党(という冗談のような党名――本当は、「オレの権力闘争が第一」党にすべきであろうと思うけど)の党首にこのたび就任された民主党元代表の小沢一郎氏はその典型である。誰かとの権力争い、選挙などの戦いになるときだけ、テストステロンが最高潮に盛り上がる方なのだ。小沢氏は、「昨年の原発事故のあと、放射能の影響が怖くて、地元へお見舞いにも行かなかった」とか、「塩を買い占めるように命じた」とか、自分の妻からその臆病ぶりが暴露されたという話がネットに出ていたけれど、集団でイジメる子供たちも、集団で動物的権力闘争する大人たちも、みな本当は臆病である。

というよりも、人はみな臆病なのだ。私の観念によれば、それを認めることができる人は人間で、それを認めることができない人はサル脳状態である。それを認められるとき、テストステロンの衝動が動物的闘争から人間的闘争へと進化する可能性が開かれるのである。

で、もうすぐロンドン・オリンピック――テストステロンが一番美しく無害に昇華され、お金も稼げて、人々からの称賛も得られるのが、スポーツという分野である。オリンピックのメダルとは、孤独と苦痛に耐えて、(イジメとは違って、より弱いところへ向かうのではなく)、より高くより強いところに向かった人たちに与えられる称号である。

お勧めの本
「政治をするサル――チンパンジーの権力と性」フランス・ドゥ・ヴァール著(平凡社)
チンパンジーの世界とヒトの世界がどれほど似ているかを教えてくれる本

死にたい気分という病気2012年06月14日 10時44分36秒

毎年、この時期になると、昨年の「自殺者数」が発表される。多少少なくなっているとはいえ、昨年も3万人を超え、特に20代、30代の若い人たちの自殺が増えているそうである。調査によれば、大人の3人に一人だったか4人に一人に自殺願望があるとされている。

「死にたい気分」――それは誰もがかかりうるある種の精神の病気である。私がその病気にかかったのは、二十代前半の大学卒業前後の数年間のことである。今と同じく、大学生の就職が非常に厳しい時代で、私は黒い雲に覆われた世界に住んで、何とかその世界から出ようと窮屈な世界でもがいていた。今でいうある種の「うつ病」状態だったのだと思う。どうもがいてもその世界からの出口を見つけられず、私はたびたび死ぬことを考えたものだ。

大学を卒業していわゆる今でいうフリーターをやっていたある日、まったく意図せず、まったく偶然、その黒い雲が一晩で消え去るという事件が起きた。何が起こったかというと、あることで私が怒り始めたら、怒りと悲しみが止めようもなく、どんどんわきあがってきて、100%の悲しみと怒りの言わばガソリンの海の中で全身が炎上してしまったのだ。私を取り囲んでいた黒い雲は実は自分の悲しみと怒りの雲で、そのとき幸運なことに、その黒い雲が全部燃え去ってしまったのである。一晩たったら、なんということか、気分がものすごく軽くなり、ある種の多幸感に包まれた。このとき、私はスピリチュアルな探求を始める前で、スピリチュアルや心理学について何も知らなかったので、この出来事をスピリチュアルな経験として考えなかったが、あとで考えてみたら、生涯の最大の「神秘体験」だったかもしれない。たまにスピリチュアルな本に言及されている、「意図されない変容」、まさにそういうことが起きたのだ。もちろん、そうした多幸感は長くは続かず、数ヶ月で静まったし、それ以来憂鬱な気分にならないというわけでもなかったが、重苦しい窒息しそうな憂鬱感からは解放された。

物事が自分の思うようにうまくいかなくて、分離感、敵対感、孤独感、不安、怒り、憎しみ、プライド、罪悪感等が、黒い雲のように自分のまわりにどんどん蓄積されて飽和状態になるとき、(おそらく自分でも止めようもなく)人は、自殺、あるいは自殺願望が反転して外側に出て、他者への暴力行為の方向へ向かってしまうのではないか、と私はそう理解している。私の若い頃の場合は、どういう偶然だったのか恩寵だったのか、その飽和状態が全然別の展開となって、世界と自分を遮断していた分離の黒い雲が相当抜け落ちてしまったのだ。

深刻なほどの自殺願望のある人たちを救う決定的な方法があるのかどうかはわからないが、たぶん、誰かがそういった人たちの黒い雲の中に愛情深い手を差し伸べて、風穴を開けて、世界とのつがなりを回復するのを助けてあげれば、一部の人たちには自殺を思い留まらせる効果があるだろうし、現在日本各地で様々な団体が各種の自殺対策をおこなっていると聞く。

私自身は、「死にたい」という人たちへの対応があまり優しくない。昔、私の本の読者の人が電話で「死にたい」と言ったとき、話の成り行きで、私が最後になんと言ったかというと、「死ぬのも悪くないかもしれない」みたいな言葉だった。そのやり取りを隣でたまたま聞いていた人に、「どうしてそんな冷たい言い方をするの?」と、私はひどく叱られた。私は、人がしたいということに基本、反対しない主義だし、自殺・安楽死の自由を認めている。「死にたい」と言う人に、「死んではいけない」と説得する一体どんな権威を他人がもっているというのか、生が苦痛か死が苦痛かを決めるのは、他人でなく、本人である、とその当時はそんなふうに考えていた。

やはり昔、半ボケしていた祖母が、「川に飛び込んで、死にたい」と子供のように駄々をこねたときも、私はこう言った。「それなら、死ねばいいよ」。すると祖母は、「川まで歩いて行けない」と言い、私は、「それなら、タクシーで川まで行けばいいよ」と言った。今度は、「タクシーに乗るお金がない」と言うので、私は、「だったら、私がおばあちゃんを川まで背負っていってあげる」と言った。そのあと、祖母は、「孫から、死ねと言われた! そんなこと孫に言われるようじゃ、もうおしまいだ」とヨヨヨと泣いた。そのやり取りはまるでお笑いのコントのようだった、と見ていた家族には言われたものだ。祖母はそのあとも数年以上生き、天寿をまっとうした。

今なら、特にスピリチュアル系の人で、「死にたい」という人には、たいてい一言、「自殺しても、ムダ!」。その「自殺しても、ムダ!」の根拠を私はうまく説明できないが、とにかく「自殺しても、ムダ!」。



スピリチュアルは社会を変えない2011年10月23日 09時27分35秒

(出版予定の本が、諸般の事情で遅れていますので、本の紹介を延期します)

この間亡くなったスティーヴ・ジョブズ氏のことは、アップル社のカリスマ的経営者というぐらいにしか知らなかったが、亡くなったあと、サイトに出ていた様々な記事を読んでみた。(私がパソコンを使い始めた最初の10年間はマック愛用者だったので、アップル社にはとてもお世話になった。90年代は、まだのんびりしていて、アップル社のサポート・センターに電話して、パソコンの使い方でわからないところを尋ねると、無料で何時間も付き合って、答えてくれたものだ)。

あるサイトに以下の内容の記事が掲載されていた。

スティーヴ・ジョブズ氏は若い頃、ヒッピー文化やインド哲学に惹かれ、ラム・ダス(「ビ・ヒア・ナウ」の著者)のグルであるニーム・カロリ・ババに会いに、実際にインドまで出かけたが、ニーム・カロリ・ババは彼がインドへ到着する一ヶ月前に亡くなり、会えなかった。インドに滞在して、彼はインドの貧困に衝撃を受け、またインドの霊性の伝統にもある種の失望を感じ、「ニーム・カロリ・ババとカール・マルクスを二人足したよりも、エジソンのほうが社会を変えた」ことに気づいた。それで、自分の情熱を、画期的な製品を生み出すことで社会を変えることに方向転換し、それ以後、生涯にわったってその情熱を追求した―まあ、だいたい以上のような話だったと思う。

「宗教やスピリチュアルよりも、物のほうが社会を変える」というスティーヴ・ジョブズ氏の若き日の洞察は、まったく正しいものだ。その証拠は、仏陀やキリストの教えだ。数千年前、彼らが出現して、神の王国や涅槃への道を教えたが、彼らの教えが社会や人類を変えたとは言い難い。人類社会は今も、数千年前と同じ苦しみ―戦争、暴力、貧困、飢餓、不安、孤独――に苦しんでいる。

社会を変えるには、物のほうがはるかにインパクトがある。それは、宗教やスピリチュアルの価値を理解するのは、大多数の人にとって困難であるが、物の価値を理解するほうがはるかに簡単だからだ。

たとえば、100人の人を、ニーム・カロリ・ババやラマナ・マハルシのようなインドの賢者のところへ連れて行って会わせたとしても、その100人の人の中で、ニーム・カロリ・ババやラマナ・マハルシの存在や教えに影響を受けることができる人はせいぜい一人いるかいないか程度であろう。しかし、100人にスティーヴ・ジョブズ氏の発明品であるiPodやiPadを与えて使い方を教えれば、ほとんどの人がその便利さの虜となり、おそらくは自分のライフスタイルさえ変えてしまうかもしれない。

物は人のライフスタイルや社会の外側の形態を変えるが、しかし、物の限界は人を根本的には幸福にも平和にもしないということである。たとえそれがどれほど画期的な製品で、一時的には人を興奮させ、喜ばせるとしても。そのことに気づいた少数の人たちは、情熱の方向を自分の内側に転換して、スピリチュアルな探求を開始するというわけである。

とはいえ、私自身も便利な物(iPodも愛好している)を嫌いではないし、最高の科学と最高の宗教(スピリチュアル)は究極的には一致すると確信もしているので、科学技術の発展にもそれなりには関心をもっている。だから、第二、第三の天才スティーヴ・ジョブズ氏が出現して、もっと衝撃的画期的な商品(たとえば、すべての家電に取り付けられる超小型超強力太陽光発電機とか)を発明してくれたら、いいなあと思っている。

お勧めの本
「愛という奇跡――ニーム・カロリ・ババ物語」ラム・ダス編(パワナスタ出版)