関心という愛情2008年05月11日 10時47分14秒

人間的「愛情」ということに関して、私がもっている観念の一つが、「関心は、愛情である」というものがある。

それが何であれ、人が何かや誰かに関心をもつということは、人はそれに対して愛情をもっているのだと、私はそう理解している。たとえ、人がその何かや誰かを嫌っている、憎んでいると公言しているときでも、嫌うことや憎むことは、関心・愛情の一部であるのだ。人は、関心・愛情をもってないものを嫌ったり、憎んだり、さらにいえば、批判したりすることはないのである。

簡単に書けば、
愛情=関心=自分の時間やエネルギーを相手に与えること、という方程式が成り立つ。

そんなことを思いながら、映画「靖国YASUKUNI」をめぐる最近の騒動の記事や報道を読んだり、聞いたりしていた。ネットやマスコミの記事によれば、この騒動の発端は、ある週刊誌が、「文化庁が『反日映画』に助成金を出した」という記事を掲載したことから始まり、そのあと一部の国会議員たちが騒ぎ、それから右翼団体が騒ぎ、映画館が上映中止を決め、マスコミ・文化人たちが騒ぎという具合に、騒動がどんどん膨らんでいったらしい。

現在は、振り子が反対に振れるように、多くの映画館でこれから上映されることが決まったようである。考えようによれば、一般公開される前から、映画「靖国YASUKUNI」を反日的だと批判し、騒いだ人たちの「おかげ」で、この映画に対する国民の関心が盛り上がり、最終的には多くの映画館で上映されることが決まったとも言えるのである。もし騒動がなければ、ほんの一部の人たちしか見ない、たいして話題にもならない、マイナーな文化映画で終わる可能性もあったはずだ。

だから、私は、この映画に多大な関心をいだき、上映に抗議している人たちは、結果的には、(自分たちでも気づかないまま)この映画に愛情をもち、その成功に力を貸しているのだと思っている。

一方、この映画を作った中国人監督、彼がどんな意図でこの映画を作ったのか、また、(映画を見ていないので)、この映画が反日的かどうかは、私には判断できない。ただ一つ私にわかるのは、この映画は、反靖国神社ではないということである。なぜかといえば、この中国人の監督は、10年間の歳月をかけて、靖国神社に通いつめて、この映画を作ったと聞いているからだ。

もし人が10年間もの間、何かに関心を持ち続け、そこに通い続けるとすれば――それは、ある種の「恋愛」である――彼はどういうわけか、自分でも説明できないほど、強烈に、靖国神社とそれを取り巻く人々に心惹かれている。

今回の騒動は、靖国神社に対する中国人監督の情熱と、やはり靖国神社を偏愛する人たちの心が織り成す相思相愛のお祭騒ぎであり、両者から多大な愛情・関心をもらった当の靖国神社は、今回のお祭騒ぎと映画のおかげで、(今でも「戦争神社」として世界的にも有名であるが)、日本だけでなく、世界中にも、ますます鮮明にその名を刻むことになるだろうと私は思っている。

以上のような観点で今回の騒動を鑑賞すれば、この映画を批判する側も、作った側も、上映・配給する側も、すべて三者それなりに、得るところがあり、三方丸く収まって、結局のところメデタイ話なのである。

そして、多くの国民がこの映画を見たあと、やはりこの映画は「反日的」だという意見がたくさん出て、議論が起こるとしたら、それはそれで、日本国および、日本人の精神性の高さ・豊かさを物語っている。なぜなら、日本国家および日本人には、外国人監督が作る「反日的映画」にお金を出して、さらにそれをみんなで鑑賞し、議論する文化的寛容さ、財政的豊かさ、精神的度量があるからである。

今回の映画をめぐる騒動に関しては、(めったに自分と国家とを一体化しない)私も、右翼系の方々に習って、日本および日本人の精神性を礼賛してもいいような気分である。

中国の時代2008年04月23日 18時48分11秒

北京オリンピックの聖火リレーが、世界のあちこちで妨害されている。私がこのニュースを聞いて最初に思ったことは、ああ、いよいよ中国の時代なんだなあということである。20世紀の後半からつい数年前まで、国際的に反〇〇運動が起こるといえば、それは反米国運動ときまっていた。なぜ反米運動かといえば、それは世界中が、アメリカこそが、世界の覇権を握っていて、アメリカが世界の一番の政治経済大国だと信じていたからである。

反〇〇運動というのは、運動する人たちが、敵(アメリカとか中国)の力を認めないかぎり、起こりえないことなのである。相手が、反対運動する価値があるだけ、巨大で強力であると認識しているからこそ、反対運動は盛り上がるわけである。だから、たいてい、反〇〇運動は、運動者の意図とは反対に、敵にエネルギーを与える結果となる。

現在、聖火リレーの行く先々で、反中国運動が起きているのは、それは世界が、これからの世界の覇権は中国が握り、中国こそ21世紀の政治経済大国だと信じ始めているからである。

かつての日本がそうであったように、アジアでのオリンピック開催というのは、その国の経済がこれから急激に上昇しますよ、というような合図のようなものだ。15億の中国国民が、60年代、70年代の日本の10倍くらいの熱気で、豊かになる希望と願望をいだいて、がむしゃらに走り始めているのである。

今、15億の民のその熱気に勝てる国は、世界のどこにもない。

そして、経済政治帝国は、必ず領土や支配領域を異常に拡大したがる習性があり、騒動をあちこちで引き起こす。帝国は、ほんの少しでも自分の支配領土が減るのがイヤなのであり、常に拡大しないと気がすまない。

これからの世界の政治経済映画では、世界の覇権を手放したくない沈みつつある旧帝国船(アメリカ)と、国民一丸となって上昇しようという新帝国中国とが、日本という国をはさんで、米中政治経済戦争を繰り広げるのである(現在のアメリカの頭の中では、まだ、日本、韓国、台湾までが、自分たちの支配領域となっている)。

例のごとく優柔不断な日本は、両国に利用されつつ、しかし、まあ、最終的には、中国と仲良くして、なんとかこれからの経済的苦境を乗り切ってゆくだろうと、私はそんなふうに予想している。

We can change(私たちは変わることができる)という信仰2008年03月26日 09時06分51秒

先日、インターネットラジオを聴いていたら、アメリカ大統領選挙の民主党の候補者、オバマ氏の演説が流れていた。その演説の中で彼は、We can change We can change We can change We can change………と何度絶叫したことか(!)そしてそのたびに、聴いている人たちも、熱狂して反応する。We can change We can change We can change We can change………We can change(私たちは変わることができる)は、今、オバマ氏を支持する人たちの、ある種宗教的信仰になっている。

こういった誰にでもわかる短いフレーズを多用して、人の心を熱狂させるオバマ氏は、ケネディ大統領以来の演説の名手だと言われているが………しかし、アメリカ国民が、We can change(私たちは変わることができる)と熱狂して信じているかぎり、たぶん、アメリカは変わらないのだ。少なくとも自分たちの考えるようには(かつてのように豊かで経済的に繁栄する国へは)変わらない。


人は、「変わる」という言葉に弱い。その証拠が、本のタイトルである。特に英語の本のタイトルを見ていると、「change=変化、変わる」という言葉をタイトルに使う本が非常に目につく。出版社は、「change=変化、変わる」という言葉が、人の心に強くアピールすることを、よく知っている。

そして私たちはそういう本のタイトルに山ほど、騙される――いやいや、正確に言えば、本のタイトルが人を騙すわけではなく、自分の心が自分を騙すのである――「私は変わりたい、だから自分が変われる方法を知ろう」と自分の表面的エゴはささやく。「私は変わりたい・変わるべき」とささやくエゴを私たちは信じる。そして、次から次へ「変わる」ことを謳い文句にする本を買いに走る。そんなパターンに多くの人たちははまる。そして多くの場合、何十冊か何百冊かそういう本を読んでも、多少のワークをやってみても、自分がほとんど変っていないことに気づく。(たくさんの本が必要なのは、たぶん、自分が変わる必要がないことに気づくためである)

なぜ、人が信じるほど、あるいは、信じるようには、人間の心身、そして規模は違うが、家庭、企業、国家等、あらゆる組織は変わらないのだろうか?

最近私は、「私(たち)は変わることができる」と信じるより、むしろ「なぜ人、家庭、企業、国家等は、あらゆる努力にもかかわらず、ほとんど変わらないか?」を研究するほうが、役に立つのではないかと思っている。

私が到達した一つの答えは、「私(たち)は変わることができる」と信じるときというのは、実際は、自分の心身システムのほうは、「自分は変わる必要がない」とまだ十分な余裕があるときなのである。まだ、このままでも、十分やっていけると知っている。だから、人の心身システムは行動を変えることはない。あるいは、一時的に変わっても、ダイエットのリバウンドのようにまた元に戻ってしまうものである。「私(たち)は変わることができる」と信じている余裕があるかぎり、「私(たち)は決して変わることができない」

反対に、まわりの状況のほうが勝手に変わってしまうときは、「私(たち)は変わることができる」などと信じる余裕がないまま、人は、生き延びていくために、仕方なくというか自然に変わってゆく可能性がある。


で、冒頭に述べたアメリカの話。アメリカ人が、We can change(私たちは変わることができる)と絶叫している間は、アメリカ国家のシステムそのものは、「今のままのシステムで通用する。これからも、アメリカは世界の軍事経済大国として君臨できる」と、どこかでまだ余裕がある。

しかし、アメリカ人が、We can change(私たちは変わることができる)と絶叫する元気さえなくなるとき、そのときアメリカ人は、自分たちの国が軍事・経済大国から、「宗教大国」へ「変わってしまった」ことに気づくだろうと思う。

以前のインドのように、宗教大国になる条件が見事なまでにアメリカの中で整いつつある――巨大な貧富の差(つまり、巨大な貧富の差とは、国そのものが貧困という意味である)、勤労嫌いな怠惰な国民性、暴力に荒れる社会、ありとあらゆるスピリチュアルな教え、宗教の存在、インドの導師たちのアメリカへの移動等々。すでにアメリカは、かつて世界の中でインドが占めていた役割を果たしつつあり、世界中の人たちが、宗教的救いを求めて、インドではなく、アメリカへ出かけ始めている。

「売る」派VS「理解する」派のバトル2008年03月03日 09時50分18秒

最近、珍しく気の合う本に出会った。

「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」(太田直子著 光文社新書)

著者の文章の書き方、物事へのこだわり、価値観、仕事への情熱が、私好みである。実に、軽くて深い、達者な文章を書かれる方である。

本の内容は、映画の字幕翻訳者の日々の雑感、字幕翻訳という観点からの文字と言葉へのこだわりといった話題、人気映画「ロードオブザリング」の字幕問題等、言葉や言葉の翻訳に関心がある人には、なかなか考えさせられる話題が多い。私も数年前、DVDに字幕翻訳を付けるという仕事をやったおかげで、字幕翻訳という仕事の大変さ、苦労、そして、楽しさがどれほどのものか、今では多少理解している。字幕翻訳、あれは、けっこう中毒する仕事なのだ。

さらに本書には、映画産業の中で、優秀な字幕翻訳者が置かれている苦境というか愚痴も、あちこちに書かれてある。(本書は、おそらく著者のストレス発散の本でもある)

著者が語っている苦境というか愚痴というのは、要約すれば、「売る」派VS「理解する」派のバトルのようなものだ。優秀な字幕翻訳者の著者としては、できるだけ、映画を理解し、その雰囲気を伝えようと、七転八倒しながら、最適な字幕を作ろうとする。ところが、映画を売る会社は、映画を「売る」ために、できるだけお客を安直に「感動させる」ような字幕を早急に求める。そのため、字幕翻訳者対映画の本質を理解していないらしい販売会社の社員との間に、壮絶なバトルが展開するというわけだ。そのへんを、著者はさらりと書いていて、笑えるが、しかし、そのバトルはかなり深刻だろうと想像できる。

著者は力をこめてこう叫ぶ。
「自分たちが売ろうとする作品をきちんと理解し、評価することが前提ではないだろうか。なにかを売るというのは、その商品を大切に扱うということのはずだ。商品の価値や意義をろくに知らぬまま、うそやごまかしだらけの売り文句を駆使し、とにかくたくさん売れれば、オッケーという姿勢はおかしい。」(P171――P172)

実に実に、おっしゃるとおり……が、現世現実は、おかしいことが、たくさんまかり通るのだ。もし誰かが企業や会社の中で、「とにかくたくさん売れれば、オッケーという姿勢はおかしい。」などと、意見を言おうものなら、それこそ、「おまえこそ、おかしい」と批判されてしまうだろう。

「売れる」=「多くの人たちにアピールする」=「金が儲かる」=資本主義的善である。だから、最終的には作り手や売り手ではなく、一般の大多数の消費者というか購買者が、世の中に出回る商品や文化的作品の最終的質を決定する責任者であると、私は思っている。残念ながら、私も、記憶をたどるかぎり、映画を見て、映画字幕の質を理解したり、気にしたりしたことは、今まで一度もなかった(本書を読んだおかげで、これからは気になるかもしれないが)。

それでも、あえて(一応仕事に関しては理解派を自認している)私は思うのである。もし商品や作品に本当の質や理解、作り手の情熱がこめられてあれば、それは資本主義的善に反しても、生き残るであろうし、質や理解のために仕事ができる人たちは、幸福(プラス多大な苦痛)である、と。

著者の健康と健闘を心からお祈りする。

環境対策の矛盾2008年01月22日 13時06分05秒

リサイクル――今の時代では、それを考慮して生活するのは、常識となっている。怠惰な私だってやっている。ゴミは分別し、ペットボトルはリサイクルのため近くのスーパーへもっていき、お風呂の水は洗濯に使い、紙は、広告のチラシ1枚残らず、資源ゴミに出し、古着は海外の難民キャンプに送料を支払って送ってもらっている。トイレットペーパーやコピー用紙は、多少高くても、古紙混入のものを買う。よいことをしているという意識よりも、大量生産・大量消費の先進国に生活している者の罪滅ぼし、自己満足のようなものだと思っている。

でも、リサイクルを意識すると、色々時間がかかり、なんだか時々面倒になるときもある。

そんなときこの間、ペットボトルのリサイクルは、環境により悪いというデータを発表している学者のインタヴュー記事を読んだ。その方の研究によれば、ペットボトル1本をリサイクルするのに必要な石油は、約150グラムで、ペットボトル1本作るのに必要な石油は、約40グラム、つまり、リサイクルするほうが、3・5倍の石油を必要とするという。

その学者によれば、ペットボトルは可燃ゴミといっしょに燃やしたほうが、ずっと費用もかからず、環境にいいということである。つまり、ペットボトルのリサイクルは、多額の税金を使って、より大量の石油を消費するだけ、という、ちょっとショックな話だった。彼が言うには、コストを度外視したリサイクルは、大量生産・大量消費の免罪符でしかないという。その日以来、ペットボトルをどうするか、私は考えこんでいる。

大量生産・大量消費の免罪符――多くのいわゆる環境対策には、そんな面があるのは否めないような感じがする。先日は、製紙業界で、次から次へと古紙混入率の擬装が報道されていたが、紙の場合もたぶん、再生紙を作るのは、コストがかかりすぎるのかもしれない。

自分でもいくつか環境対策の失敗がある――待機電力を消費しないために、電気のコンセントをよく抜いていた頃、たびたびコンセントを抜いていたら、コンセントを壊わしてしまって(!)、かえって、お金がかかってしまった。それから、長持ちするというとても値段の高い電球を買ったら、普通のものより、早く切れてしまった、などなど。

結局のところ、一番の環境対策は、大量生産・大量消費しないことなんだと思うけど、それが実に今の先進国では難しいのである。「なるべく生産・消費しないようにしましょう」ということは、資本主義の価値そのものを否定することになり、生産高の減少=売り上げの減少=個々の人の収入の減少へと、導くからだ。だから、先進国の社会が、自らの意志で、「大量生産・大量消費」を止めることは、ほとんど不可能に近い。

最終的には、物を作る資源そのものが足りなくなり、物の値段が上がり、自然に「大量生産・大量消費」できなくなり、物が昔のように貴重になり、人々に本当に「もったいないの精神」が普及する――それが、これからの地球の意志ではないかと、私はそう感じている。

怠け者の世紀2008年01月12日 14時35分39秒

あけましておめでとうございます。本年も、「シンプル、平和、快適、楽しい」をコンセプトに、気ままに気楽に適当に、ブログを書いていきたいと思います。お時間が許せば、お付き合いください。


お正月――母が作った料理をむしゃむしゃ食べながら、テレビを見たり、本を読んだりして、いつもよりもっと怠けてごろごろと過ごした。働き者の母と怠け者の私――私はやることがないかぎり、坐って本を読むか、ぼーと半眠りをしている。母はというと、疲れるまで、あれこれ忙しく働いている。昔から変わらぬお正月の光景であり、母といっしょにいると、私の怠け者ぶりはいっそう際立ってしまう。が、それである意味では関係の調和がとれているような感じもあり、神が家族の中のそれぞれの人間に与えるプログラミング(役割)は、よくできているものだと、つくづく感心する。

私が怠けることのよさを確信したのは、20代半ば頃で、その頃私はインドの導師、和尚(有名な精神世界の導師なので、ご存知の方も多いと思うが)の本をたくさん読んでいた。彼の教えのほうは、ほとんど忘れてしまったが、いくつか今でも印象に残っている彼の言葉があり、その一つが、「21世紀は怠け者の世紀になる」という言葉だった。

彼が言わんとしたことは、「21世紀は機械やロボットが人間の労働を肩代わりしてくれるので、人間はあまり働く必要がなくなる。そのため、何もしないでいることができる人、怠けることができる人たちだけが、快適に人生を生きることができる」というような主旨だったと思う。

その頃は、まだ21世紀になる数十年前の日本が高度成長している時代であり、日本全国、誰もがまじめに働くことを賞賛し、それに希望を見出していた頃だった。そんな中で私はただ一人、和尚の「21世紀は怠け者の時代になる」の言葉を喜び、「私は怠け者でOKであり、未来型の人間なんだ」と勝手に思いこむことにした。

そしてあれから数十年の日々が過ぎ去り、21世紀の日本は低成長時代になり、国中にニートの若者があふれてる。ニートは問題だと、識者の方々は、よく言うけど、ひょっとしたら、彼らは、和尚の言うように、「何もしないでいることができる能力、怠けることができる能力」をもった21世紀型の人たちかもしれないのだ。

「生産しすぎること=働きすぎること」が、地球環境の悪化に影響を与えていることを考え合わせてみると、ニートの人たちは自分ではほとんど生産活動をせず、親の財産(親の過去の生産活動)で生活して、案外、地球環境のためにはなっているのかもしれない。

つまり、地球という一個の生き物全体の立場から考えてみれば、先進国で生産活動の意欲に乏しい人たちが増えていること、そして、少子化は、地球が健康に生き延びるためには、よいことかもしれないのである。

究極的にいえば、いつの時代であれ、頑張って働くようにプログラムされている人たちは頑張って働き、頑張って働かないようにプログラムされている人たちは、頑張って働かない――そして、今はおそらく時代の必要によって、頑張って働かないようにプログラムされている人たちが増えている――それで、ちょうど全体の調和がとれているのである――ちょうど私と母のように。

働けど働けど……2007年11月23日 13時57分11秒

原油、とうもろこし、大豆等、生活必需品の価格が高騰している。

経済関係のニュースによれば、その理由は、現在の需要と供給という実体経済上のものではない。

普通、物の需要に対して供給が足りないとき、物の価格が上がるというのが、経済の法則である。が、今回の急騰は、ギャンブル・マネー(私は金融市場を動き回るマネーをそう呼んでいる)が商品市場に大量に入って、ギャンブル遊びをし始めたから、というのがその理由らしい。

なぜギャンブル・マネーは、商品市場に入ってきたかといえば、
ギャンブル・マネーは、アメリカ経済の減速等の理由から、その通常の遊び場である株式市場や債券市場よりも、商品市場のほうが、今、ギャンブルをやる遊び場にふさわしいと決めたようなのである。

大量のギャンブル・マネーが商品市場に入ってきたとなると、その影響(普通の人たちにとっては、ほとんどの場合、悪影響)は計り知れないほど大きくなる。

当然、原料、燃料が上がると、商品価格も上がらざるをえない。が、普通、企業は、原料の値上げの全部を価格に上乗せするのは、ためらうものだ。なぜなら、商品価格が高くなると、人々は買い控えするようになり、売れなくなるからである。

そこで、仮に原料が20%上がったら、10%だけ価格に上乗せして、残りは、「コスト削減などの企業努力」で頑張りますと、たいていはそういう話をする。

企業がいう、「コスト削減などの企業努力」というのは、ほんとんどの場合、人件費の削減(=給料の据え置き、ボーナスのカット、正社員をリストラし、派遣、アルバイトを増やす)から始める企業が多い。

となると、給料生活者たちにとっては、生活物価は上がるにもかかわらず、給与は増えず、しかも職場は忙しい、しかも中小企業には常に倒産のリスクがあるという、3重苦、4重苦の苦しみとなる。

「働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る」――100年ほど前、石川啄木は、自らの貧困生活を歌の中で、こう嘆いたが、それと同じような閉塞感、失望感、貧困感が先進国の社会全体に急速に広がっている。

世界にはお金(というよりマネー)が腐るほどあり余っている。それにもかかわらず、多くの国が貧困にあえぎ、先進国の多数の国民の経済環境さえ、どんどん悪化する現状――私に言わせれば、それはとても奇妙な事態である。


参考図書
*「楽しいお金3」(高木悠鼓著 マホロバアート発行)
マネーあまりなのに、なぜ世界は貧困化するのか、この奇妙な事態を解明した本。

*「ニッケルアンドダイド」(バーバラ・エーレンライク著 東洋経済新報社)
ジャーナリストの著者が、アメリカの下流社会の労働環境を調べるために、みずからその世界に飛び込んで、書いた渾身のルポルタージュ。2つも3つも仕事をかけもちしながら、最低の生活を支えている人たちの現状を、ユーモアをもって記録している。アメリカのこの現状は、日本の未来(すでにそうなりつつある)でもある。

サル化する脳2007年11月17日 14時30分14秒

以前、チンパンジーがどれくらいお預けを我慢できるかを実験している映像を見たことがあった。

チンパンジーの前に、バナナなどの好物がずらり並んでいる。しかし、彼は、自分の主人(人間)が戻って来て、食べてもいいと言うまで、食べないように命令されている。その様子をカメラが写している。彼は食べたそうにじっと食べ物を眺めて、ときどき、誘惑にかられて、手を出しては食べ物に触ってみるのだが、またあたりを見回しては、我慢して手をひっこめる。主人が戻って来るまで、彼はこれを何回も繰り返していた。

私はこの映像を見ながら、このチンパンジーの脳は、かなり人間化しているなあと思ったものである。彼は、主人の命令という大儀のために、本能を抑制しているからだ。

もしこれが訓練を受けていない野性状態のサル、チンパンジーであれば、目の前にごちそうがあるとき、決して本能を抑制することがない。ただ飛びついて食べるだけ。

ところが、訓練を受けて脳が人間化するとき、チンパンジーの世界に主人の命令という大儀が入ってきて、彼はその大儀のために、本能を抑制することができるようになる。

同様に、盲導犬のように高度に訓練を受けた犬も、仕事中は、食べ物などの匂いに反応しないように、しつけられている。盲導犬もまた主人の命令という大儀のために、本能を抑制することで、仕事をすることができる。

話はとんで、防衛省前事務次官の守屋さんのゴルフ接待三昧の日々―――私は、「官僚サルにお預けは、無理なんだろうなあ」と思いながら、守屋さんの脳のサル度をニュースで読んでいた。彼は、目の前においしい好物(ゴルフや高級料亭での接待や天下りのお約束)が差し出されたら、「迷わず、躊躇なく」とびつく日々だったようです。

ほとんどの人たちが知っているように、国家官僚も含む公務員には、公務員規定というもの(大儀)があり、本当は彼らにはやってはいけないことがやまほどある―――特定の業者からの接待やプレゼントを受けてはいけない、倫理に反するような知人や親戚や業者の頼みを受けてはいけない、裏金を作ってはいけない等々。

ところが、公務員にはたくさんの権限(権力)があり、その権限(権力)は出世するほど大きくなる。そして、その権限(権力)ゆえに、彼らのところには、たくさんの人たちが、好物のお土産(ゴルフや高級料亭での接待、天下りのお約束等)をたずさえてやって来る。

公務員規定という大儀を守るために、本能を抑制して好物のお土産を断れるような人は、人間の脳が機能している立派な公務員と呼べるが、おそらく立派すぎて、まわりにはあまり好かれず、出世コースからもはずされてしまうだろうと、想像できる。

公務員・官僚業界で出世するために、多くの官僚たちの脳は歳をとるにつれてサル化し、トップに上りつめる頃には完全なサル状態―――守屋さんの状態―――自分のお金と他人のお金と、公のお金(税金)の区別がまったくできない状態。

では、民間のほうが、公務員・官僚業界よりましかと思えば、最近の様々な企業の不祥事は、民間のトップも脳がサル化している人が多いことを露呈している。

最近、食品の期日擬装が発覚したある有名会社―――トップが責任をとらずに、現場のパート社員に責任を押し付けている―――サル役員は、会社の信頼回復という大儀よりも、自分が傷つきたくないという本能を最優先している。さらに自分が、パート社員よりもはるかに高給をもらっているのは、その中に責任料が入っているからだということも理解できない。

大組織は、脳がサル化しやすい(?)―――組織に入ったばかりの若い頃は、すぐれた立派な人が、何十年もたつと、立派なサル―――進化論から考えると、興味深い問題です。


お勧めの本(サル化している組織で快適に過ごすヒントが、得られるかもしれません)

「ピーターの法則」L・J・ピーター著 ダイヤモンド社
大組織では、人は出世するほど無能化(サル化)するという法則を明らかにして、
世界的ベストセラーになった本。

「愚か者ほど出世する」ピーノ・アプリーレ著 中央公論新社
「ピーターの法則」をさらに1歩すすめて、大組織に有能な人は必要なく、大組織は無能な人たちで機能することを分析した本。

ほとんど「どん底」2007年10月18日 14時04分50秒

数年前の大ベストセラーに、「下流社会」(三浦展著 光文社新書)という本がある。格差が拡大していく日本社会を巧みに分析したその本の冒頭で、著者は、「下流社会の人々」を次のように定義してみせた。

1.年収が年齢の10倍未満
2.その日その日を気楽に生きたいと思う
3.自分らしく生きるのがよいと思う
4.好きなことだけをして生きたい
5.面倒くさがり、だらしない、出不精
6.一人でいるのが好きだ
7.地味で目立たない性格だ
8.ファッションは自分流である
9.食べることを面倒くさいと思うことがある
10.お菓子やファーストフードをよく食べる
11.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがある
12.独身である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)

これらの定義を読みながら、私は、自分がその中の多くに当てはまることを見て、「おお、私って、世の中の定義でいうと、負け組み下流階級なんだ!」とビックリする。

実は、私は今紹介した定義のように生きることが、人生の快適勝ち組だとずっとひそかに信じてきたわけで(苦笑)……だから、こういう識者の方の話を読んだり、聞いたりするたびに、いかに自分が世間とずれているのかを、思い知らされる。

20代の頃、いわゆる世でいうところの「自分探し」を開始した頃、私は、大人たちや社会の言うことや教えることには多くのウソや欺瞞があると感じていた。その頃感じたウソの一つが、人は社会の中を上昇すれば、するほどほど幸せになる、というものだった。

社会での上昇ゲームとは、おもにお金の量(年収や売り上げ)と高さ(役職と地位)の上昇を意味した。

上昇に成功した人たちも、上昇に失敗した人たちも、そう説いていたが、まわりに本当に幸せな大人なんて見たことがなかったから、上昇が幸福だなどと、私は信じることができなかった。

一方、世の中の価値観を否定しているような宗教や精神世界の団体に関わっても、その中にも、非常に奇妙なことに、世俗の世界の階級と同じような階級というものが存在した。修行やお布施や奉仕や導師の寵愛を通じて、その階級を上っていくのが、その団体での人々の生きがいとなっていた。

私は、つくづく、思ったものだ。人間の志向と嗜好と思考は、世俗にあっても、スピリチュアルにあっても、ほとんど変らないんだと。

怠け者の私は、社会においても、スピチュアルにおいても、努力の必要な上昇ゲームをあきらめ、代わりに怠け者であること許してくれる教えを探すことにした。

長い探求ののちに、ようやく私は、幸いなことに、上昇を志向しない例外的な教えを見つけ、その教えに今は、心から平和を感じている。

その教えを説いたハーディングという哲学者&第一人称の科学者は、「どん底にこそ私たちの本質と平和がある」といい、どこを見れば、その平和などん底があるのか簡単わかる実験を開発した。彼はまた「どん底と頂点は一致する」ことも教えてくれた。

世俗の中の階段を上ることも、スピリチュアルな階段を上ることも多大なお金と時間とエネルギーがかかるものであり、仮に努力の末に頂上にたどりついても、頂上の椅子に坐れる人たちは少数のエリートである。

しかし、ハーディングが言うように、存在のどん底へ落ちるのは、地上の物が重力の力で、努力なく下へ落ちるように、誰でも簡単にどんな努力もいらずに、落ちていけるところがよいところである。存在のどん底とは、実はあらゆる人に広く開かれているのである。

そして、どん底にいながら、平和ボケしない程度に、時々は自分に合った活動で、多少の背伸びをすること=自分にストレスを与ること=人間的個人的上昇ゲームをするのが、まあ、私にとっては一番シンプル快適ライフだと確信している。

最近は、ボケ防止のために、世の中の流行と同じく、脳力上昇ゲームにはまっている。今年は、漢字検定4級までの漢字を全部書けるようにしようとか、フランス語単語を何語まで覚えようとか、本は最低何冊まで読もうとか、ブログを毎週書こうとか、そんなたわいもないゲームである。

で、本日も、少々背伸びをして、このようにブログを書いているというわけであります。

お知らせ
2007年10月21日(日)午後1時より4時30分
ハーディングの実験の会「私とは何かを見る」会 
お申し込み・詳細は下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

いつか、「地球温暖化の『おかげ』で」という日がくる、かもしれない2007年10月13日 10時20分00秒

進化や変化というのは、生き物の進化も、社会の変化も、科学文明の進化も、個人の霊的進化も、生物が喜んで、進化や変化したいと意図したからではなく、すべて、その生き物や社会が生き延びるために「イヤイヤ」「仕方なく」起きてきた、というのが、長年進化論を学んで得た、私の結論である。

一つ例をあげると、類人猿から進化したといわれるヒト……

なぜ、われわれの祖先が、四足歩行から二足歩行へ進化したかといえば、それは、今から5百万年前頃のアフリカ大陸で、大規模の地殻変動が起こったせいで、広範囲で、山脈が焼けて草原となったからというのが、一つの大きな要因であったとされている。

つまり、山でのライフスタイルが維持できなくなった結果、類人猿は草原で生き抜くために、「イヤイヤ」二足歩行をせざるをえなくなった、というのが、人類学の一つの定説となっている。

類人猿たちは、「二足歩行のほうが、楽しそうだ。みんなで二足歩行を練習しよう」とか、「進化・成長するために、二足歩行をしよう」ということでは、決してなく、

「今までのように四足で歩いていては、オレたち、死に絶えてしまう、ヤバイ!」という状況だったのである。

だから、類人猿からヒトへの進化をよいことだとするなら(チンパンジーやボノボのままでも、よかったような気もするが)、「アフリカ大陸の地殻変動のおかげで」、類人猿はイヤイヤながら二足歩行へと進化を促されたと言えるのである。

さて、そういう観点で現在人類が共通に抱えている「地球温暖化問題」を考えてみると、ひょっとしたら、今から数百年後に、「地球温暖化のおかげで」と、人類が言う日がくるかもしれないのである。

私が想像する一つの悲観的(かつ楽観的)シナリオとは、

このまま地球温暖化が進み、地球上の氷がどんどん溶けていき、そのせいで地球の半分くらいが住めないような環境になってしまったら……

そのとき初めて、人類は、地球以外に生きる場所を探さなければいけないと、種として、決断し、その決断と危機感のおかげで、光速を越えて移動できる乗り物が発明されたり、ワープ(空間の歪みを利用して、瞬時に目的地へ移動すること)の方法が発見されたりする。

そして、そういった乗り物に乗って、広大な宇宙を探索し、地球と似た環境の星を見つけて、地球より文明が劣っている場合は、そこの生き物を殺すか、食べるか、従属させるかして、そこに地球の植民地を築く。まあ、規模は、違うが、15世紀末のコロンブスの新大陸発見に似ているかもしれない。


今、地球の宇宙開発は始まったばかりで、まだ人類の大半は、本気ではない。それを本気にさせるのは、地球に残っていては、生き延びられないという危機感である。

そのとき、未知の宇宙へ出かける勇気が「イヤイヤ」「仕方なく」わくというわけである。

そして、地球の植民地が宇宙のあちこちにできる頃、人類の歴史書には、「2xxx年に起きた地球規模の大洪水の『おかげ』で、地球の科学文明は、飛躍的に進化し、われわれは宇宙へ飛び出すことができた」と書かれている、かも、です……

参考資料:NHKビデオ「生命40億年はるかなる旅」8集「ヒトがサルと別れた日」(NHKプロモーション)